第5話:骨のない服、魂のある服
南青山の一等地に構える「アトリエ・アルカ」のデザインルームは、朝から甘美な熱狂と、不協和音の混ざり合った異様な空気に包まれていた。
壁一面を埋め尽くすホワイトボードには、国内有数の老舗である三ツ星百貨店をはじめ、名だたるセレクトショップから届いた別注依頼やポップアップ展開のスケジュールが所狭しと書き殴られている。
先日のジャパン・モード・クリエイション大賞での最優秀新人デザイナー賞受賞。その波及効果は絶大だった。
オフィスの電話は鳴り止まず、メディアからの取材依頼とスポンサー企業からの祝花が、エントランスの廊下を埋め尽くしている。
「見たかよ、長谷川さん! 三ツ星百貨店の本館一階イベントスペース、丸ごと一週間アルカでジャックすることになったぞ! 莉乃の受賞作をベースにした秋冬のカプセルコレクション、最低でも三十型、各百着の生産枠だ。億単位の金が動くぞ!」
社長室から出てきた神代俊樹は、上等なリネンシャツの腕をまくり、手にしたシャンパングラスを揺らしながら歓声を上げた。その顔は、自らが時代の寵児となったという全能感で紅潮している。
だが、部屋の隅の作業台で眼鏡を直し、眉根を深く寄せていたチーフパタンナー・長谷川慎司は、手元の書類から視線を上げようともしなかった。
長谷川はこの道二十五年を超えるベテランの型紙職人だ。大手アパレルの過酷な現場を渡り歩き、俊樹の亡き父親の代からアルカの技術面を支えてきた、社内で唯一の良心とも言える存在だった。
「……社長。浮かれるのは結構ですが、肝心のコレクションの設計図はどうなっているんですか。三ツ星の納期まで、あと二ヶ月もありません。量産ラインを抑えるなら、今週中にはすべてのパターンのグレーディング(サイズ展開)を終えて、仕様書を工場へ回さなければ間に合いませんよ」
「そんなもん、もう出来てるに決まってるだろ! おい、莉乃!」
俊樹が甘ったるい声で呼ぶと、奥の応接ソファでハイブランドの紙袋を開けていた立花莉乃が、だるそうに立ち上がった。
莉乃は、手首にジャラジャラとつけられたゴールドのバングルを鳴らしながら、一枚の大きなコルクボードを作業台の上へと無造作に放り出した。
「はいはい、お待たせ〜。これが私の新しい世界観。『ネオ・ゴシック・フェアリー』ってテーマなの。超可愛くない?」
ドサリ、と音を立てて置かれたコルクボードを見て、長谷川の眉間の皺が一気に深くなった。
そこにピン留めされていたのは、デザイン画ですらなかった。
海外の有名メゾンのルックブックの切り抜き、ピンタレストから印刷したモデルのスナップ写真、さらにはビンテージレースの切れ端や羽飾りが、何の脈絡もなく糊で貼り付けられただけの、ただのコラージュだった。
殴り書きされたメモには、『肩はフワッと天使っぽく』『ウエストは限界までキュッとしてインスタ映え』『裾はランウェイで風を孕んでキラキラ光る感じ!』といった、抽象的極まりない言葉が散らばっているだけだ。
「……莉乃さん。これは、何ですか」
長谷川の声が、低く押し殺されたトーンに変わった。
「何ですかって、見れば分かるじゃん! 新作のデザイン案だよ! この写真のジャケットの肩に、こっちのドレスのフリルをつけて、生地はこのシフォンと重たいツイードを組み合わせてさ〜」
「不可能です」
長谷川は即座に、平坦な声で言い切った。
「はあ!? 何が不可能なわけ!?」
「服の構造として成立していません。まず、この肩線の位置。ドロップショルダー(肩落ち)の形状にしておきながら、袖山に極端なパフ(膨らみ)を持たせようとしている。人体の腕の付け根の可動域を完全に無視しています。このまま型紙を引けば、着た人間は腕を前に十度も曲げられなくなります」
「そんなの、細いモデルに着せればいいじゃない!」
「モデルだって人間です、関節があります!」
長谷川は机をバンと叩いて立ち上がった。職人の頑固なプライドが、その瞳に宿っていた。
「それだけじゃありません。極薄のシルクシフォンと、厚手のロービングツイードをこの位置で剥ぎ合わせる指定になっていますが、生地の重みと引張強度が違いすぎる。縫い合わせた瞬間、ツイードの重力にシフォンが負けて、縫い目から布が裂けます。芯地の選定も、地の目(布の織り目)の指定も何一つない。……こんなものはデザイン画ではありません。ただの子供の落書きです」
「落書き……!?」
莉乃の顔が屈辱で真っ赤に染まった。彼女は履いていたピンヒールを激しく踏み鳴らし、俊樹の腕に縋り付いてヒステリックに叫んだ。
「ちょっと俊樹さん! 何よこのオッサン! 受賞したばかりの私の感性を落書き呼ばわりするなんて、信じられない! 私のインスピレーションを理解できない時代遅れの老害なんか、今すぐクビにしてよ!」
「おい、長谷川!」
俊樹が血相を変えて割って入ってきた。その顔には、先ほどまでの上機嫌な笑みは微塵もなく、下劣な怒りだけが煮え滾っている。
「四の五の言わずに、言われた通りに線を引くのがパタンナーの仕事だろうが! お前は職人面して理屈ばかり並べ立てるがな、時代は変わったんだよ! 客が買っているのは莉乃の世界観とアルカのブランド力なんだ! 多少腕が上がりにくかろうが、写真映えして売れればそれでいいんだよ!」
「社長、服を何だと思っているんですか!」
長谷川は引き下がらなかった。長年、この会社を支えてきた自負があるからこそ、一線を越えようとする経営者を止めなければならなかった。
「服は人が着て、動いて、生活するためのものです! 骨格のない服は、ただ布を巻きつけただけのゴミ屑にしかならない! ……いいですか、社長。先日のアワードで大賞を取った『宵闇のプリマ』だって、莉乃さんの適当な切り抜きから、人体の骨格をミリ単位で割り出して、バイアスの伸び率を計算して完璧な仕様書を作ったのは――詩織さんだったんですよ!」
その瞬間、デザインルームの空気が完全に凍りついた。
触れてはならないタブーの名が、部屋の中に響き渡ったのだ。
俊樹の顔筋がピクリと痙攣した。
瞳の奥に、暗く湿った殺気が灯る。
「……今、何て言った?」
「詩織さんです」長谷川は視線を逸らさずに繰り返した。「詩織さんがいなければ、アルカの服の型紙は一枚たりとも引けません。彼女が残していった過去の仕様書のストックは、もう底をつきかけている。詩織さんを呼び戻してください。でなければ、この三ツ星の別注は確実に大事故になります」
「黙れッ!!」
俊樹の怒声が、ガラス張りの部屋をビリビリと震わせた。
俊樹は長谷川の胸ぐらに掴みかからんばかりの勢いで詰め寄ると、その鼻先に人差し指を突きつけた。
「あの地味な寄生虫の名前を二度と出すな! あいつはただ、俺が敷いたレールの上で、言われた通りに鉛筆を動かしていただけの作業員だ! あんな奴がいなくても、アルカは賞を取ったし、会社は過去最高益を叩き出してるんだよ! 代わりなんていくらでもいるんだ!」
「代わりなどいません! 詩織さんの技術の凄まじさを、社長は何も分かっていない!」
「お前が俺に指図するな!」
俊樹は唾を飛ばしながら、長谷川を睨みつけた。
「いいか、長谷川。今週末までにそのコラージュ通りのトワル(仮縫いサンプル)を組め。一枚でも寸法を勝手に変えてみろ、即刻クビにして退職金も一円も払わんからな!」
「……っ!」
「フン、ざまあみろ」
俊樹の背後で、莉乃が勝ち誇ったように舌を出した。
長谷川は奥歯をギリリと噛み締め、拳を震わせた。
目の前にいるのは、かつて服作りの情熱を語り合っていた経営者ではない。虚栄心という名の毒に冒され、愛人の耳障りの良い言葉に溺れた、哀れな怪物だった。
この会社は、もう終わりだ。
長谷川の胸の奥底で、何かが決定的に音を立てて崩れ去っていた。
同じ時刻。
秋晴れの澄んだ光が差し込む、東京都墨田区の「佐伯縫製」。
ガラガラと引き戸が開き、肩で息をしながら朋香が工場へと駆け込んできた。
その両腕には、茶色い防湿紙で厳重に包まれた、巨大な反物のロールが二本、抱えられていた。
「はぁ、はぁ……! 詩織、取ってきたわよ! 浅草の問屋の親父に土下座して、倉庫の奥から引っ張り出してきた!」
ドサリ、と裁断台の上に置かれた反物から、独特の乾いたウールの香りと、染料の匂いがふわりと立ち上る。
紙を破ると、中から現れたのは、深い闇をそのまま織り固めたかのような、神秘的な光沢を放つ「漆黒のウールギャバジン」だった。
「これ……愛知県の一宮(尾州)で、十年前にションヘル織機でゆっくり織られた、デッドストックの生機よ」
朋香が誇らしげに胸を張る。
「現代の高速織機で織ったペラペラのウールとは密度が違うわ。経糸と緯糸の打ち込みが極限まで詰まっていて、触っただけで跳ね返るような弾力がある。手切れ金の五十万、一円も値切らずに全額突っ込んでやったわ!」
詩織は裁断台に歩み寄り、指先でそっと生地の表面を撫でた。
指紋の隙間に吸い付くような、きめ細やかな綾織りの凹凸。
手のひらに乗せると、しっかりとした重みがあるのに、持ち上げると重力を忘れたかのようにしなやかにドレープを描く。
「……素晴らしい生地ね」
詩織の瞳が、職人の歓喜で微かに潤んだ。
「糸が生きているわ。織られた後、何年間も倉庫の暗闇で眠っていたことで、糸の内部の応力(歪み)が自然に抜けて、完全に熟成されている。現代のどんなハイテク素材も、この布の気品には敵わない」
「でしょ!? さあ、生地は揃ったわよ。仕様書は見せてもらえるの?」
朋香の問いに、詩織は無言で、壁一面にマスキングテープで留められた巨大な方眼紙を指し示した。
それを見た瞬間、朋香は息を呑み、言葉を失った。
そこに描かれていたのは、一着の「トレンチコート」の原型だった。
だが、朋香がこれまで何千着と縫ってきた既製服の型紙とは、次元がまるで違っていた。
前身頃、後身頃、袖、襟――それらを構成する無数の線が、硬度2Hの鉛筆によって、髪の毛一本分の狂いもなく引かれている。
特筆すべきは、その異様な立体設計だった。
人間の背骨の自然なS字カーブに合わせて削り込まれた背中心のライン。
腕を自然に下ろした際、肘がわずかに前方に曲がる人間の生体構造をトレースした、前振りの二枚袖。
そして、裾に向かって広がるフレアの分量は、布地の織り目に対して正確に三十七・五度のバイアス(斜め)で取られていた。
「……何よ、このパターン」
朋香の手が、無意識に方眼紙の縁に触れた。
「背中のゆとり分(運動量)が、肩甲骨の膨らみに合わせて三次元的に分散されている。襟の返り線も、首の付け根に吸い付くようにミリ単位でカーブが絞られてるわ。……これ、ハンガーに吊るしただけで、まるで透明な人間が中に立っているみたいに自立するんじゃないの!?」
「そうよ」
詩織は淡々とした、しかし絶対の確信に満ちた声で言った。
「服には、骨格が必要なの。人間が骨と筋肉で立っているように、服もまた、人体の力学を支える正確な骨格を持たなければならない。それがない服は、どれほど高価な装飾を施そうと、ただ布を巻きつけただけのゴミ屑だわ」
詩織の脳裏を、アルカのデザインルームがよぎった。
今頃、俊樹と莉乃は、骨格のない「ゴミ屑」の山を前にして、職人を怒鳴り散らしていることだろう。
自分たちの浅ましさが、どれほど服に対する冒涜であるかも知らずに。
「朋香、地直し(じなおし)を始めるわよ」
「了解!」
二人の戦いが始まった。
まず行われたのは、反物全体の歪みを正す「地直し」の作業だった。
大型のバキュームアイロンから噴き出す轟音とともに、超高圧の蒸気がウールギャバジンを貫く。
詩織は定規を当て、縦糸と横糸が完璧な直角(九十度)に交差しているかを、十センチ四方ごとに確認していく。糸の目が一ミリでも歪んでいれば、霧吹きで湿らせ、アイロンの熱と職人の手加減でミリ単位の歪みを補正していく。
この地道で過酷な下準備を怠れば、完成した服は数ヶ月後に必ずねじれを起こす。大手アパレルの量産ラインでは「コストと時間の無駄」として真っ先に切り捨てられる、失われた伝統の手仕事だった。
地直しを終えた漆黒の生地が、広大な裁断台の上に平らげられる。
詩織は愛用の「庄三郎」のハサミを右手にとった。
黒光りする鋼の重みが、手のひらに心地よい緊張感を与える。
スウッ、と息を吸い込み、完全に止める。
ハサミの刃が、布地へと滑り込んだ。
――ジャキッ。
――ジャキ、ジャキ、ジャキッ……。
静まり返った工場に、重厚な鋼が布の繊維を断ち切る、澄み渡った硬質な音がリズミカルに響き渡る。
刃先がブレることは一度もない。
方眼紙に引かれた鉛筆の線の、わずか零点五ミリ外側を、吸い付くような正確さで刃が滑っていく。
布地の目を殺さず、繊維の端を毛羽立たせることもなく、完璧な断面が次々と生み出されていく。
「見事なハサミ捌きね……惚れ惚れするわ」
朋香が感嘆の息を漏らした。
「あんたのミシンに負けないようにね。……裁断完了よ、朋香。縫製に入って!」
「任せなさい!」
朋香が、埃除けのビニールを剥ぎ取ったばかりの工業用本縫いミシンの前に座った。
針は十一番の超極細針。糸は光沢のある最高級のフィラメント糸。
ミシンの送り歯の圧力をダイヤルで微調整し、ペダルを踏み込む。
――タタタタタタタタタッ!!
鋭く乾いたミシンの駆動音が、工場のコンクリート壁に反響した。
止まっていた機械の心臓に、再び血が通い始めた瞬間だった。
朋香の指先が、目にも留まらぬ速さで布地を導いていく。
直線のステッチは一筋の光のように真っ直ぐに走り、アームホールの複雑な曲線部では、ミシンの速度を落とし、一針ごとにプーリーを手で回しながら、ミリ単位のイセ込み(布地を縮めて立体感を出す技法)を入れていく。
詩織は隣で、縫い上がったパーツを即座に受け取り、中間アイロンを当てて縫い代を割っていく。
縫ってはアイロンで形を整え、また縫い合わせる。
言葉を交わす必要はなかった。
学生時代から培ってきた互いの技術への絶対的な信頼が、阿吽の呼吸となって二人の手を動かし続けていた。
作業は、昼を過ぎ、夕闇が墨田区の街を包み込み、深夜を回っても終わらなかった。
指先には針の擦れ跡が赤く残り、アイロンの熱気で汗が顎から滴り落ちる。
だが、二人には疲労の色はなかった。
ただ、自らの魂が、布という形をとってこの世に具現化していく奇跡に、陶酔していた。
そして――東の空が白み始めた午前五時。
「……できた」
朋香が最後のかんぬき止めを終え、糸切りバサミでカチリと糸を落とした。
ミシンのモーター音が止まり、工場に再び静寂が訪れる。
詩織は両手で、完成したばかりの服を持ち上げた。
そして、作業台の脇に置かれていた、人体の骨格を忠実に再現したアンティークの木製トルソーへと、ゆっくりと袖を通した。
――カサリ。
布地が擦れ合う微かな音が響き、トルソーの上に、その服が「着地」した。
その瞬間、朋香が息を呑んだ。
まだ朝の薄明かりしか届かない薄暗い工場の中で、その一着は、まるでそれ自体が冷たい光を放っているかのような、圧倒的な存在感を放っていた。
無駄な装飾を極限まで削ぎ落とした、漆黒のトレンチコート。
だが、一般的なトレンチコートのような野暮ったさは微塵もない。
肩のラインは凛として鋭く、胸元からウエストにかけては吸い付くように絞り込まれ、そこから腰、裾へと向かって、息を呑むほど優美なドレープが幾重にも重なって流れ落ちている。
光の当たる角度によって、尾州ウールの深い綾織りが青みがかった陰影を浮かび上がらせ、ただ静止しているだけなのに、今にも歩き出しそうなほどの躍動感を宿していた。
「……嘘でしょ」
朋香の唇が震えていた。
「何これ……私、本当に自分の手でこれを縫ったの……? まるで、生き物じゃない……!」
詩織はトルソーの前に立ち、完成したコートの襟元にそっと指を触れた。
寸分の狂いもない、完璧な骨格。
重力と布が完全に調和し、着る人間の尊厳を極限まで押し上げる、魂の結晶。
「そうよ、朋香。これが服よ」
詩織の瞳に、朝日の光が鋭く反射した。
かつて自分を「無能な作業員」と見下し、五拾万円で追い出した男たちへの、宣戦布告の狼煙。
世界を覆すための「影の鎧」が、今、ここに完成したのだ。




