第29話:砂上の楼閣
みずほらしい秋雨が、重厚な御影石のファサードを鉛色に濡らしていた。
都心屈指のメガバンク――東都中央銀行・青山支店の特別応接室。
厚さ五センチを超える防音扉で外界と遮断されたその部屋には、分厚い絨毯が敷き詰められ、冷房の微かな機械音だけが低く唸りを上げていた。壁に掛けられた抽象画の額縁すら、訪れる者を無言で見下ろす監視者のように冷淡な光を放っている。
神代俊樹は、深く沈み込む革張りのアームチェアの端に浅く腰掛け、膝の上に置いた両拳を白くなるほど握りしめていた。
着用しているのは、かつてアルカの絶頂期に誂えたオーダーメイドのスリーピース・スーツ。だが、数日前から続く不眠と極度のストレスにより、襟元は締まりを失い、上等なウール地には細かなシワが無数に刻まれていた。無精髭を剃る時間すら惜しんで駆けつけた俊樹の顔には、生気のない土気が張り付いている。
テーブルを挟んだ向かい側。
無機質なスチールデスクの前に座る二人の男――融資課長の佐山と、支店長代理の黒木は、整然と並べられた書類の束から一度も目を上げようとしなかった。
佐山の手元にある分厚いクリアファイルには、ネットニュースの魚拓、X(旧Twitter)上で炎上している告発投稿のプリントアウト、そして三ツ星百貨店から銀行側へ極秘裏に共有された「契約解除通知書」の写しが、時系列順にファイリングされていた。
「……神代社長」
佐山が眼鏡のブリッジを押し上げ、静かに口を開いた。
その声には、かつてアルカが国内最大級のアワードを受賞した際に浴びせかけてきた、あの慇懃な追従の色は微塵も残っていなかった。乾ききった紙やすりで皮膚を擦るような、冷徹な事務的トーン。
「当行の調査部、ならびに審査部において、貴社の直近の経営状況、および今週発生した一連の事案について、緊急の資産査定を実施いたしました」
「さ、佐山課長……! ネットの騒ぎについては、先ほどもご説明申し上げた通りです!」
俊樹は身を乗り出し、乾ききった唇から唾を飛ばしながら捲し立てた。
「あれは、悪質な同業他社によるネガティブキャンペーンです! 折れ針の混入だの、破れだのといった話は、極めて一部のクレーマーが大げさに騒ぎ立てているに過ぎません! 立花莉乃の知名度とタレント性は本物です! テレビ特番の視聴率だって同時間帯トップでした! ネットの返金要求など、法務を通じて毅然と突っぱねれば、売上はそのまま会社の利益として残るんです!」
「神代社長」
佐山は俊樹の必死の弁明を、片手をわずかに上げるだけで遮った。
冷え切った視線が、俊樹の焦燥しきった瞳を真正面から射抜く。
「客観的な事実のみをお話しください。……三ツ星百貨店からの全館ポップアップ中止、およびカプセルコレクションの契約解除。これにより、今期見込まれていた約一億二千万円の売掛金が完全に消滅いたしました。違いますか?」
「そ、それは……一時的な見合わせでして、先方の担当役員と現在も再交渉を――」
「大和田フロア長から、当行の支店長宛てに直接連絡が入っております」
隣に座っていた黒木代理が、冷酷な補足を差し挟んだ。
「『アトリエ・アルカとの取引は永久に停止する。すでに納入されたサンプルの廃棄費用、および売場に穴を開けた損害に対する賠償請求として、違約金四千五百万円の請求書を発送した』と。……再交渉の余地など、一ミリも存在していませんよ」
「うっ……、あ……」
俊樹の喉から、空気が漏れるような異音が上がった。
「さらに」佐山がクリアファイルをめくった。「ネット通販における先行予約分五百着についてです。全量出荷されたとのことですが、現在、配送業者において受取拒否、および返品処理された個数が、すでに出荷総数の七割を超えています。クレジットカード決済のチャージバック(不正・欠陥による強制返金手続き)申請がカード会社から相次いでおり、貴社のオンライン決済代行アカウントは、今朝方、規約違反として口座凍結されました」
「こ、口座凍結……!?」
俊樹の背筋を、凍りつくような悪寒が駆け抜けた。
売上金が入金されない。
手形を落とすための唯一の現金収入源が、完全に断たれたのだ。
「ええ。売掛金の焦げ付きどころの話ではありません。発生しているのは純粋な『負債』です」
佐山は机の上に置かれた一枚の書類を、俊樹の目の前へと滑らせた。
そこには、朱色のインクで大きく『融資実行停止通知書』と印字されていた。
「当行としては、今月末に予定していた運転資金の追加融資――五千万円の実行を、正式に見送らせていただきます」
「そ、そんな馬鹿なッ!!」
俊樹は椅子を跳ね飛ばすように立ち上がった。
大理石のテーブルに両手を突き、血走った目で銀行員たちを見下ろす。
「追加融資が出なければ、今月末の手形が落ちないんだぞ! 不渡りを出す! 会社が潰れてしまうんだ! たった五千万だろうが! アルカには過去五年間の実績がある! 俺のプロデュース力で、これまで何億という金を動かしてきたのをあんたたちも見てきたはずだ! 来期になれば、また新しいコレクションで巻き返せる! 頼む、五千万だけでいいんだ、融資を通してくれ!!」
俊樹の絶叫が、静謐な応接室に無様に木霊した。
だが、二人の銀行員の表情は、ピクリとも動かなかった。
佐山は眼鏡を外し、デスクの上の胸ポケットから取り出したセーム革でレンズを拭きながら、心底から哀れむような、そして吐き捨てるようなため息を漏らした。
「……神代社長。あなた、本当に理解していらっしゃらないのですか?」
「な……何がだ!?」
「当行がこれまで、株式会社アトリエ・アルカという中小企業を優良先として評価し、無担保枠を含めて二億円ものプロパー融資を実行してきた理由ですよ」
佐山はレンズを拭き終えると、再び眼鏡をかけ、冷淡な眼光で俊樹を見据えた。
「当行の融資査定部が評価していたのは、あなたの口八丁なプロデュース力などではありませんでしたよ。……アトリエ・アルカの決算書に添付されていた、極めて精緻な『製品仕様書』と『原価管理表』。そして、いかなる短納期であっても寸法狂いを起こさず、返品率をコンマ数パーセントに抑え込んでいた、あの驚異的な『技術的バックボーン』です」
俊樹の心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。
「先代社長が急逝された後、貴社の品質管理と設計を一手に引き受けておられたチーフデザイナー……神代詩織さん。彼女が作成していた仕様書の完成度の高さは、繊維業界専門の調査機関からも『国内屈指の資産価値がある』と太鼓判を押されていた。……だからこそ、当行は彼女の引く型紙を無形の担保として認め、融資を継続していたのです」
「し……詩織……?」
俊樹の唇が、ガタガタと震え出した。
なぜ、ここでその名前が出るのだ。
自分が見下し、能無しの作業員と罵って雨の夜に追い出した、あの地味な元妻の名前が。
「神代詩織さんが数週間前に退職されたという報せを受けた時、当行の審査部は即座に貴社を要注意先へと引き下げました」
佐山は事務的に告げた。
「そして、今回の展示会の崩壊と、ネットでの盗作騒動。……蓋を開けてみれば、詩織さんが抜けた途端、貴社は型紙の一枚も引けず、海外のデザインを丸パクリして中国の粗悪工場に丸投げするような、三流のブローカーへと成り下がっていた。……技術のないアパレル企業に、何の価値がありますか? 看板とインスタグラムのフォロワー数だけで、二億円の借金が返せるとでもお思いですか?」
「う……、ぐ……っ!」
俊樹は喉を締め上げられたように、言葉を失った。
反論できない。
これまでの成功のすべてが、自分が「地味な寄生虫」と呼んでいた女の双肩に乗っかっていたという動かしがたい事実を、第三者であるメインバンクの口から、残酷なまでの数字とともに突きつけられたのだ。
「神代社長。追加融資の見送りだけではありません」
黒木代理が、分厚いファイルをトントンと机に叩いた。
「既存融資残高一億八千万円について、信用収縮に伴う期限の利益の喪失条項に基づき、返済スケジュールの抜本的な前倒しを要求いたします。来週月曜日までに、未返済元利金の全額を担保できる不動産、または有価証券の差し入れをお願いいたします。ご用意いただけない場合は……」
「ご用意いただけない場合は……どうなるんだ……?」
俊樹の声は、蚊の鳴くような震え声になっていた。
「直ちに債権回収部門へ案件を移管し、貴社の売掛金、本社オフィスの保証金、ならびに代表者個人である神代俊樹氏の個人資産――ご自宅のタワーマンションの仮差し押さえ手続きに入ります」
――仮差し押さえ。
その四文字が、俊樹の頭蓋骨を殴りつけた。
「お、お待ちください! 待ってください佐山課長! 黒木代理!」
俊樹はプライドを完全にかなぐり捨て、テーブルを回り込むと、二人の銀行員の足元に崩れ落ちた。
磨き上げられた革靴の前で、両手を床につき、額を絨毯に擦り付ける。
「土下座します! 何でもします! 一ヶ月……いや、二週間待ってください! 必ず金を作ります! スポンサーを探します! 間宮という優秀なプロデューサーがいるんです、あいつが海外の投資ファンドから金を引っ張ってくると約束してくれているんです! だから、それまで待ってください! 頼みます、助けてください!!」
涙と鼻水を垂らし、絨毯に頭を打ち付けて懇願する男。
かつて南青山のサロンで、高級シャンパンを手に「時代を変える」と傲岸不遜に豪語していた気鋭の経営者の姿は、そこには影も形もなかった。
佐山は冷めた目で、足元に這いつくばる俊樹を見下ろした。
そして、一度もその身体に触れることなく、手元の資料をアタッシェケースに収めると、静かに立ち上がった。
「お引き取りください、神代社長。……ここはビジネスの場です。感情論でお貸しできる公金は、一円たりとも存在しません」
ガチャリ、と重厚な防音扉が開き、二人の銀行員は一度も振り返ることなく応接室を出て行った。
残された冷たい絨毯の上で、俊樹はただ一人、自らの荒い呼吸の音だけを聞きながら、突っ伏していた。
南青山の本社オフィスへ戻った俊樹を迎えたのは、死後の世界のような荒涼たる光景だった。
エントランスの自動ドアは電源が切られ、手動で重たいガラス扉をこじ開けて入ると、そこには異様な悪臭が充満していた。
廊下を埋め尽くす、数百個に及ぶ返品の段ボール箱。
その隙間から漏れ出す石油系の化学臭と、誰かがぶちまけたのか、床に散らばったコーヒーの染み。
フロアの照明は半分以上が落とされ、鳴り止まないはずだった固定電話のベルすら、受話器がすべて外されてデスクの上に放置されていたため、不気味なツーツーという発信音だけが虚しく響いていた。
「……おい。誰かいないのか」
俊樹が掠れた声で呼びかけた。
だが、返事はなかった。
アシスタントパタンナーたちのデスクは、綺麗に片付けられていた。私物のマグカップも、筆記用具も消え去り、パソコンの画面には『退職届』と手書きで書かれた白い封筒が、セロハンテープで無造作に貼り付けられているだけだった。
給与の未払いを察知した社員たちが、泥舟から一斉に逃げ出したのだ。
「くそっ……! 逃げやがったな、恩知らずどもが……!」
俊樹は足元に転がっていた段ボールを蹴り飛ばした。
バリッ、と箱が破れ、中から安物ポリエステルのドレスが無残に吐き出される。
だが、今の俊樹にとって、逃げた社員のことなどどうでもよかった。
銀行の差し押さえを回避するための、唯一の希望。
「間宮……! 間宮はどこだ!?」
俊樹は廊下の奥、役員待遇として間宮健二に宛がっていた個室へと、縋るような思いで駆け込んだ。
中国の格安工場を手配し、海外のファンドとのパイプを誇っていたあの悪徳プロデューサー。
あいつなら、何か裏の手を知っているはずだ。香港のペーパーカンパニーから資金を還流させるなり、別の金主を紹介してもらうなり、この地獄から抜け出す抜け道を必ず持っているはずなのだ。
「間宮! 銀行が融資を打ち切ってきやがった! 至急、例の海外ファンドから――」
勢いよくドアを開け放った俊樹の言葉が、途中で凍りついた。
「……え?」
部屋の中は、完全なる「虚無」だった。
イタリア製のガラスデスクの上には、間宮が愛用していた最新型のノートパソコンも、金色のジッポライターも、書類の紙一枚すら残されていなかった。
デスクの引き出しはすべて全開になり、中身は空っぽ。
床には、シュレッダーにかけられた細かな紙屑が雪のように散乱し、壁の金庫の扉は開け放たれ、中に入っていたはずの予備の小切手帳と通帳が綺麗さっぱり消え失せていた。
「な……んだ、これは……?」
俊樹の全身の血が、一瞬にして逆流した。
震える足でデスクへと歩み寄る。
引き出しの奥に、一枚だけ、殴り書きされたメモ用紙が残されていた。
間宮のサインペンによる、下劣な筆跡。
『神代社長へ。潮時ですね。今回の広州ラインのトラブル、誠に遺憾です。手付金の残額および仲介手数料として、当座口座の残余資金(八百五十万円)は私の会社で精算処理させていただきました。悪く思わないでください、これがビジネスです。では、お元気で』
「八百……五十万……?」
俊樹は狂ったように、自分のポケットからスマートフォンを取り出し、銀行の法人インターネットバンキングへアクセスした。
ログインパスワードを打ち込む指先が、激しく震えて何度もエラーを吐く。
ようやく開かれた当座預金の残高照会画面。
――『普通預金残高:¥1,420』。
――『当座預金残高:¥0』。
「う……あ……ああああああっ!!」
俊樹の口から、獣のような絶叫が迸った。
昨日の午後、間宮が「中国工場への追加違約金の支払いが必要だ」と言って、俊樹から会社の代表印とネットバンキングのワンタイムパスワードを預かっていったのだ。
その金を、あいつはそのまま自分の香港の隠し口座へ送金し、高飛びしたのだ。
「間宮ァァァッ!! 殺してやる! 絶対に殺してやるぞッ!!」
俊樹は間宮の携帯電話へ発信ボタンを連打した。
だが、スピーカーから流れてくるのは、機械的な無機質な音声だけだった。
『おかけになった電話番号は、現在使われておりません――』
解約されていた。
最初から、最初からこの男は、アルカが破綻することを見越して、最後の残余資金を掠め取って逃走する計画だったのだ。
「クソッ……! クソッ! クソッ!!」
俊樹は狂乱し、間宮のデスクの上の椅子を蹴り倒し、観葉植物の鉢を壁に向かって投げつけた。
陶器が粉々に砕け散り、黒い土が白い壁を汚す。
呼吸が荒く乱れ、心臓が肋骨を突き破らんばかりに激しく脈打つ。
「どいつもこいつも……! どいつもこいつも俺を裏切りやがって!!」
床に崩れ落ちた俊樹の視界に、エントランスの郵便受けから溢れ出し、廊下に散乱していた無数の封筒が飛び込んできた。
赤と黄色の警告色が印刷された、督促状の山。
『至急・生地代金未払いに関する催告書(尾州毛織連合)』
『最終通告・三ツ星百貨店イベント違約金請求(四千五百万円)』
『下請代金未払い通知書(秋田縫製加工)』
『店舗賃料滞納による契約解除予告(南青山ビル管理)』
『東都中央銀行・期限の利益喪失予告通知』
負債総額――二億八千万円。
手元の現金――千四百二十円。
頼れる仲間はゼロ。社員は全員逃亡。愛人の莉乃は責任を擦り付け合って行方不明。
そして、命綱だった融資と間宮の資金は完全に消失した。
砂上の楼閣。
他人の才能を奪い、虚飾のメッキを塗り固め、自分は特別な人間だと信じ込んできた男の城は、今や完全に音を立てて崩壊していた。
「……ひ、ヒッ……ヒヒッ……」
静まり返った社長室で、俊樹の口から、壊れたおもちゃのような歪な笑い声が漏れた。
男は床に這いつくばったまま、自らの親指の爪を、狂気じみた力でギリギリと噛み砕いた。
皮膚が裂け、赤黒い血が爪の隙間から滲み出し、唇を血生臭く染めていく。
だが、その激痛すら、脳髄を焼き尽くす恐怖の前には麻痺していた。
「俺が……この神代俊樹が、破産だと……? 自己破産して、路頭に迷うだと……? そんなこと、認められるか……! 俺は選ばれた人間なんだ……! 俺が業界の笑い者になってたまるかァァッ!!」
血まみれの指先で、俊樹は床を激しく引っ掻いた。
爪の間に絨毯の繊維が食い込む。
金が要る。
今すぐ、億単位の金が要る。
会社を延命させ、手形を決済し、銀行の差し押さえを跳ね除けるための、巨大な資金源が。
その時――死の静寂に包まれた社長室のデスクの上で、電源の入ったままだったパソコンのモニターが、ピロンと無機質な受信音を響かせた。
俊樹は血走った目を上げ、這うようにしてデスクにしがみついた。
画面にポップアップしていたのは、業界向けの国際経済ニュースサイトが配信した、一本の緊急プレスリリースだった。
発信元――『L&Vホールディングス(欧州巨大ラグジュアリーコングロマリット)』。
俊樹の濁った瞳が、その見出しの一行を捉えた瞬間、男の呼吸が完全に止まった。
奈落の底で蠢く男の頭上に、運命の蜘蛛の糸が、音もなく垂れ下がろうとしていた。




