第30話:奈落の入り口
南青山の高級住宅街に冷たい秋風が吹き抜ける午後、かつてモードの最先端を自負していた「アトリエ・アルカ」の本社ビルは、すでに死後硬直を始めた巨大な亡骸のようだった。
エントランスを飾っていた華やかなガラスのファサードは、埃と雨垂れで薄汚れていた。
かつてジャパン・モード・クリエイション大賞の受賞を誇らしげに告げていた巨大なタペストリーは、何者かによって赤スプレーで「盗作詐欺」「針混入」と下品な落書きをされ、無残に引き裂かれたまま秋風にはためいている。
三階のオフィスへと続く階段を上がるだけで、鼻腔を突くのは、あの地下倉庫から運び込まれたまま放置された数百個の返品段ボールから漏れ出る、揮発性の石油臭と接着剤の刺激臭だった。
フロアの中央には、もはや業務を行う人間など一人も残っていなかった。
事務員も、アシスタントパタンナーも、サンプル縫製を担当していた若手工員たちも、誰一人いない。
給与未払いと会社の倒産を確信した社員たちは、先週のうちに私物をまとめて姿を消していた。残されたのは、無機質に並ぶ電源の落ちたデスクトップパソコンと、引き出しを抜かれたスチールデスク、そして床一面に散乱した支払督促状や未払いの請求書だけだった。
――資金ショートまで、残り三週間。
カレンダーに赤マジックで殴り書きされたその日付が、社長室の壁の上で、冷酷なカウントダウンを刻み続けていた。
メインバンクである東都中央銀行からの融資打ち切り通告。既存融資一億八千万円の一括返済要求。
三ツ星百貨店から届いた、違約金および損害賠償請求書――四千五百万円。
尾州をはじめとする生地問屋、糸屋、副資材業者からの内容証明郵便。
そして、頼みの綱だった悪徳プロデューサー・間宮健二が、当座預金の残金八百五十万円を綺麗さっぱり掠め取って高飛びしたという絶望的な事実。
手元の現金は、千四百二十円。
もはや、銀行口座の維持手数料すら払えない。
あと二十一日が経過すれば、手形は確実に二回連続で不渡りを出し、アトリエ・アルカは銀行取引停止処分――法的な破産へと叩き落とされるのだ。
「……う、ぐ……クソッ……クソッ……!」
社長室のデスクの下、絨毯の上に直接座り込んだ神代俊樹は、血の滲んだ親指の爪を狂ったように噛み続けていた。
着用しているワイシャツの袖口は黒ずみ、胸元には食べこぼしの染みが乾いている。
かつて南青山のサロンで優雅にシャンパングラスを揺らし、自らを「時代の旗手」と信じて疑わなかった男の姿は、そこには影も形もなかった。
無精髭に覆われた頬はこけ、充血した瞳の奥には、出口のない暗闇を彷徨う狂気と、底知れぬ恐怖が澱のように沈んでいた。
その時――静まり返ったオフィスに、ドタドタと乱暴な足音が響き渡った。
バンッ!!
社長室のドアが、蝶番が軋むほどの勢いで蹴破られた。
「神代俊樹ッ!! いるんでしょ! 出てきなさいよッ!!」
鼓膜を劈くような、甲高い絶叫。
飛び込んできたのは、立花莉乃だった。
だが、その姿は、テレビの画面越しに何十万人もの視聴者を魅了した「若き天才女性デザイナー」でも、洗練された読者モデルでもなかった。
身に纏っているのは、かつて俊樹に買わせた高級ブランドのトレンチコート。だが、ボタンは掛け違えられ、足元のピンヒールは片方のヒールが折れて無様に引きずられている。
化粧は涙と汗でドロドロに溶け崩れ、目の下には黒いマスカラの筋が走り、唇は乾燥して血の気を失っていた。
莉乃は手にした大きな紙袋を、俊樹の頭上目掛けて力任せに投げつけた。
バサァッ!
中から飛び散ったのは、何十枚にも及ぶ書面の束だった。
すべて、大手芸能事務所や広告代理店、出版社から送られてきた「契約解除通知書」と「損害賠償請求書」の原本だった。
「これを見なさいよッ!!」
莉乃は俊樹のデスクを激しく叩き、唾を飛ばしながら喚き散らした。
「今朝、所属事務所の社長に呼び出されたのよ! レギュラーだったファッション誌の専属契約は即日打ち切り! 決まってたコスメブランドのCMも、テレビの特番も全部白紙よ! それだけじゃないわ! 『お前が勝手にアルカのパクリ服に名前を貸して詐欺まがいの商売をしたせいで、事務所の看板に泥が塗られた』って……違約金六千万円を一週間以内に払えって言われたのよ!!」
莉乃の金切り声が、がらんとした社長室に反響する。
彼女はデスクの下に縮こまる俊樹を見下ろすと、そのスーツの胸ぐらを鷲掴みにし、強引に引きずり起こした。
「どうしてくれるのよ俊樹さん!! あんたが社長でしょ!? あんたが『俺のプロデュースに乗れば、莉乃は世界のセレブになれる』って言ったんじゃない!! 私のモデル生命は完全に終わったのよ! 街を歩くだけで指差されて、ネットじゃ本名も実家の住所も晒されて、親の職場にまで抗議の電話が殺到してるのよ!! 六千万なんて払えるわけないでしょ! 早く何とかしなさいよ、この無能!!」
「無能だと……!?」
俊樹の顔筋が、ピクピクと痙攣した。
胸の奥底で、煮え滾っていた黒いマグマが限界を越えて噴き出した。
「誰が無能だッ!! ふざけるな、この疫病神がッ!!」
俊樹は莉乃の手首を力任せに掴み、振りほどいた。
莉乃の身体がよろめき、デスクの角に腰を強打する。
「痛っ……! 何すんのよ!」
「お前が……お前が描いてきたあの幼稚園児の落書きのせいだろうがッ!!」
俊樹は立ち上がり、机の上の書類を莉乃の顔面目掛けて投げつけた。紙吹雪が二人の間で舞い散る。
「ピンタレストで拾った海外の画像を切り貼りして、『インスピレーションが降りてきた♡』だの『服はキャンバス♡』だの、電波を使って調子こいた寝言をほざきやがって! お前がまともな型紙の一枚でも引けていれば、国内の工場にサジを投げられることも、間宮のペテンに引っかかることもなかったんだよ! 全部お前の無知と、肥大化した虚栄心のせいだ!!」
「私のせいにする気ッ!?」
莉乃の目が吊り上がり、獣のように俊樹へと飛びかかった。
「あんたが私を利用したんじゃない!! 詩織とかいう地味で陰気な前妻を『華がないから』って追い出して、私の顔と知名度で一儲けしようと企んだのはあんたでしょ!! 『莉乃ちゃんは天才だ、俺が全部プロデュースしてやる』って甘い言葉で騙して、ベッドの中でいい気になってたくせに!! 服飾の基礎も知らないくせに、偉そうにプロデューサー面して、結局何一つ自分の力じゃ形にできなかったのはあんたじゃないのよ!!」
「黙れッ!! あの寄生虫の名前を出すなッ!!」
「寄生虫はあんたよ!! 詩織の引いた型紙に寄生して、次は私の若さに寄生して、金がなくなったら責任逃れ!? このクズ! ペテン師! 私の人生を返せ!!」
莉乃がマニキュアの尖った爪で、俊樹の頬を激しく引っ掻いた。
ブチッ、と皮膚が裂け、俊樹の右頬から鮮血が吹き出す。
「痛ぇッ! このアマッ!!」
俊樹は激昂し、莉乃の髪を掴んで引き倒した。
二人は床の上に転がり、書類と埃にまみれながら、取っ組み合いの修羅場を演じた。
俊樹が莉乃の肩を突き飛ばせば、莉乃は俊樹のネクタイを絞め上げ、足で腹を蹴りつける。
かつて西麻布のバーでシャンパンを酌み交わし、「私たちは時代の選ばれし者」と甘ったるい言葉を囁き合っていた男女の姿は、そこには微塵もなかった。
互いの肉を食い破り、責任を押し付け合う、泥水に塗れた二匹の野良犬。
他人の才能を奪うことでしか輝けなかった者たちの、あまりにも哀れで、醜悪極まりない共食いだった。
「死ね! あんたなんか破産して野垂れ死ねばいいのよ!!」
「消えろ! お前なんぞ二度と俺の前に顔を見せるなッ!!」
俊樹が莉乃の身体を力任せに突き飛ばすと、莉乃は積み上げられていた返品段ボールの山へと背中から突っ込んだ。
ドサドサドサッ! と崩れ落ちた段ボールの隙間から、あの石油臭いポリエステルのドレスの死骸が、莉乃の全身へと降り注ぐ。
莉乃は破れたストッキングのまま床を這い、折れたヒールを引きずりながら、血走った目で俊樹を睨みつけた。
「絶対に許さない……! 事務所の弁護士を使って、あんたを詐欺で訴えてやるから! 刑務所にぶち込まれて、一生後悔しなさいよ!!」
莉乃は叫び声を残し、社長室を飛び出して階段を転げるように逃げ去っていった。
バタン! と階下でエントランスの重いガラス扉が閉まる音が響く。
再び、死のような静寂が戻ってきた。
「……ハァ、ハァ……ハァ、ハァ……」
俊樹は破れたシャツを押さえ、血の流れる頬を手の甲で拭った。
呼吸が乱れ、心臓が痛いほど早鐘を打っている。
床に転がる、数千万円の損害賠償請求書の山。
誰もいない。
金もない。
信用も、人脈も、自らを飾るメッキのすべてが剥ぎ取られた。
残されたのは、二億八千万円という天文学的な負債と、あと三週間で訪れる「自己破産」という名の断頭台だけだった。
「終わりだ……」
俊樹の膝から完全に力が抜け、床の書類の海へと突っ伏した。
「本当に……終わりだ。俺の人生は……ここで終わりなのか……」
涙が、床に散らばった督促状の文字を濡らしていく。
かつて父が遺した会社。
詩織が守り続けていたアトリエ。
それを、自分の手で完全に破壊し尽くしたという現実が、冷たい刃となって俊樹の心臓を抉り抜いていた。
――その時だった。
ピロン。
静まり返った社長室のデスクの上で、埃を被っていたパソコンのモニターから、澄んだ電子受信音が鳴り響いた。
俊樹はピクリと肩を跳ね上がらせた。
債権者からの督促メールか、あるいは裁判所からの電子送達通知か。
恐怖に震えながら、俊樹は這うようにしてデスクにしがみつき、モニターの画面を見上げた。
画面の右下にポップアップしていたのは、世界の繊維・ファッションビジネスの動向を配信する国際経済情報サイトの「緊急フラッシュニュース」だった。
発信元――『L&V Holdings S.A.(ルクセンブルク/パリ)』。
「L&V……?」
俊樹の目が、画面に吸い寄せられた。
L&Vホールディングス。欧州屈指の巨大ラグジュアリーコングロマリット。名立たるメガメゾンや老舗機屋を傘下に収め、世界中のアパレル産業の頂点に君臨する、あの巨大資本。
俊樹は震える指先でマウスを握り、ニュースのリンクをクリックした。
ブラウザの画面が開き、そこに表示された太字の見出しが、俊樹の網膜を鮮烈に焼き尽くした。
――『【世界最高峰の覆面ブランド「L'OMBRE」、世界展開に伴う日本国内生産サプライチェーンの全面再編を発表】』。
「……L'OMBRE……!?」
俊樹の喉仏が、ゴクリと音を立てて上下した。
忘れるはずがなかった。
先日の『VOGUEIL』十一月号で、あの辛口の女帝・九条志乃が巻頭十ページを丸ごと使って大絶賛した、謎の覆面ブランド。
ファーストコレクション三百着がわずか四分間で完売し、ネット上で「#WhoisLOMBRE」のハッシュタグが世界トレンド一位を獲得した、あの正体不明の怪物ブランド。
かつて間宮や莉乃とともに「どうせ表に出せないブスか年寄りがやってる時代遅れの職人技アピールだ」と嘲笑っていた、あのブランドの名前だった。
俊樹は息を呑み、画面に並ぶ英文と日本語の対訳テキストを、貪り食うように読み進めた。
『……欧州および北米市場における需要の爆発的急増を受け、L&Vホールディングス傘下の「L'OMBRE」は、プレタポルテラインの本格量産体制を構築するため、日本国内における生産体制の大規模な再編を決定した。
日本国内に点在する高度な技術を持つ優良縫製工場、テキスタイル生産拠点を統括し、納期および品質を徹底管理する「国内一次サプライヤー(下請け管理統括会社)」を、一般公募によるコンペティション形式にて緊急募集する。
選定された一次サプライヤーには、L&Vグループより年間最大五億円規模の生産受託契約、ならびに長期的な設備投資資金のバックアップが提供される予定――』
「……な、年間……五億円……!?」
俊樹の声が、裏返った。
頭の中で、止まっていた思考の歯車が、猛烈なスピードで逆回転を始めた。
「一次サプライヤー……! 下請け工場を束ねて、生産管理をする元締め企業だと……!?」
俊樹の濁っていた瞳の奥に、怪しく、浅ましい希望の光がポッと灯った。
画面に記された応募要件を、俊樹の視線が舐め回すように追っていく。
――応募要件:
一、日本国内におけるハイエンドな婦人服・紳士服の生産管理実績を有すること。
二、国内の熟練縫製工場、ならびにテキスタイル産地との直接的なネットワークを保有していること。
三、短期間での量産立ち上げに対応可能な技術マネジメント体制を備えていること。
「……これだ」
俊樹の口から、乾いた掠れ声が漏れた。
震える指先が、モニターの画面を強く指差した。
「これだ……! これしかない……! これこそが、俺が生き残るための唯一の道だ!!」
俊樹の脳内で、都合の良い計算が電光石火の勢いで組み上げられていく。
アトリエ・アルカは自社工場こそ持たない。
だが、過去五年間にわたり、三ツ星百貨店をはじめとする大手向けに高級服を納品してきた「看板」と「実績」が書類上は残っている。
そして何より――かつて詩織が何年もかけて開拓し、信頼関係を築き上げていた、尾州の機屋や東北・北陸の優良縫製工場の連絡先リストが、会社のデータベースの奥底に保管されているはずだった。
「そうだ……! 自社ブランドの服が売れなくても関係ない! あの世界中が熱狂しているL'OMBREの製造受託(OEM)に入り込めばいいんだ! うちが『元締め』として間に入り、地方の下請け工場に服を縫わせ、それをL&Vに納品する……! それだけで、年間数億円の管理費とマージンがうちの口座に転がり込んでくるんだ!」
俊樹は立ち上がり、狂ったようにデスクの引き出しを漁り始めた。
かつて自分が「下請けなどいつでも替えの利く駒だ」「職人風情が生意気な口を利くな」と見下し、単価を買い叩き、手形を踏み倒してきた、あの地方の工場たちのネットワークリスト。
それを、今度は自らを救うための「資産」として利用しようというのだ。
「年間五億円の契約……! この下請け契約の内定通知さえ手に入れば、東都中央銀行だって融資の打ち切りを撤回する! 『あのL&Vの直轄サプライヤーになった』と発表すれば、銀行は手のひらを返して億単位の追加融資を実行するはずだ! 三ツ星の違約金も、手形の決済も、全部一括でチャラにできる! アルカは……俺の会社は、息を吹き返せるんだ!!」
かつて、自らの名前で時代の頂点に立つと豪語していた男。
下請け工場を虫けらのように扱い、使い捨てにしてきた男が、今や自らの破滅から逃れるために、プライドを完全にかなぐり捨て、自ら「下請けの元締め」という泥船の艪を漕ぎ出そうとしていた。
その浅ましさ。
その節操のなさ。
だが、今の俊樹にとって、生き残るためならどんな恥辱も、どんな泥水も甘露に見えていた。
「L'OMBREのデザイナーは、パリ在住の正体不明の人物……対外的な交渉はすべてL&Vのアジア本社が代行している……」
俊樹は画面の募集要項を食い入るように見つめた。
「相手が海外のファンドなら、話は早い! 数字と実績のプレゼンさえ完璧に仕上げれば、審査を通すことは十分に可能だ! 詩織の残していった過去の仕様書のデータを引っ張り出して、うちの『圧倒的な技術管理力』として粉飾して見せればいい! あいつら外資の投資家に、現場の細かい内情なんかわかるはずがないんだ!」
俊樹は血まみれの顔のまま、ニヤリと下卑た笑みを浮かべた。
自分はまだ終わっていない。
神は俺を見捨てていなかったのだと、男は本気で歓喜に震えていた。
俊樹は急いで洗面所へ向かい、蛇口を全開にして顔の血を乱暴に洗い流した。
鏡に映る自分の顔を睨みつける。
「見ていろよ……。俺は必ず返り咲いてやる。俺をコケにした三ツ星も、逃げ出した間宮も、莉乃の小娘も……全員、俺の足元にひれ伏しさせてやるんだ!」
男は自ら、処刑台へと続く階段の一歩目に、力強く足を踏み出した。
――だが。
神代俊樹は、夢にも思っていなかった。
そのL'OMBREの全権を掌握し、全世界を熱狂させている唯一無二のチーフデザイナー「マダム・影」の正体が。
かつて自分が「無能な寄生虫」と罵り、五拾万円の端金を投げつけて雨の夜に追い出した、元妻・神代詩織その人であるということを。
そして、この「年間五億円の国内サプライヤー公募」という甘美な蜘蛛の糸そのものが。
俊樹の浅ましい欲望と、底知れぬ無能さを完全に見透かした上で、彼を自らの意志で処刑台のど真ん中へと誘い出すために、詩織とレオン、そして倉田弁護士が張り巡らせた――絶対不可避の「死の罠」であったということを。




