第28話:影の包囲網
地上数十階、都心の夜空を切り裂くようにそびえ立つ溜池山王の高層ビル。その最上層の一角に位置するL&Vジャパンの極秘法務フロアには、外界の狂騒とは完全に切り離された、凍てつくような静寂が横たわっていた。
防音性能を極限まで高めた強化複層ガラスの向こうには、東京タワーの赤い光芒と、首都高速を流れる車のテールランプが、まるで音のない光の河のように広がっている。
南青山の骨董通りで今まさに吹き荒れているであろう、怒号と電話のベル、そして積み上がる返品段ボールの異臭――あの泥沼の地獄絵図が嘘のように、この部屋に流れているのは、ただ冷涼な空調の微かな風音と、サーバーラックの冷却ファンが刻む規則的なハミングだけだった。
部屋の中央に据えられた、長さ五メートルを超えるスモークガラスの長大なミーティングテーブル。
その奥に、寸分の乱れもなく仕立てられたミッドナイトブルーのスリーピース・スーツを纏った男――L&V専属の知財専門弁護士・倉田拓海が、背筋を完璧な角度で伸ばして座っていた。
銀フレームのスクエア眼鏡の奥で、感情を一切交えない細い瞳が、卓上に並べられた三台の薄型モニターのログを高速で追っている。
「……南青山のアトリエ・アルカ本社、および彼らの物流拠点となっている地下倉庫の状況です」
倉田は手元のワイヤレスプレゼンターを操作した。
壁面の巨大なマルチスクリーンに、リアルタイムで集約された情報が次々とマッピングされていく。
X(旧Twitter)上で爆発的に拡散される告発写真の数々。折れたミシン針、裂けた脇下の縫い代、石油臭を訴える購入者たちの怒りの投稿。さらには、三ツ星百貨店の法務部がアルカ社宛てに発送した内容証明郵便の配達完了通知の控えまでが、克明にタイムライン上に並べられていた。
「炎上開始から約四十八時間。SNS上での関連言及数は三十五万件を超えました。購入者による返金請求の殺到、ならびに消費者庁および国民生活センターへの通報件数はすでに三桁に達しています。三ツ星百貨店からの損害賠償請求の事前通知書も、先ほど神代俊樹氏の手元に到達した模様です。……絵に描いたような、初動対応の完全な失敗ですね」
倉田の淡々とした報告を聞きながら、テーブルの右手に腰掛けていたレオン・城崎・ヴァランタンが、手元のクリスタルグラスを静かに傾けた。
琥珀色のウィスキーの中で、丸く削り出された氷がカランと澄んだ音を立てる。
彫りの深い端正な顔立ちに、愉悦を含んだ薄い笑みが浮かんでいた。
「自ら撒いた毒に、自ら溺れているわけだ。……粗悪な中国の地下工場に丸投げしたコピー商品を、検品すら通さずにファンへ送りつけるとはね。ビジネスの倫理以前に、あまりにも知性が欠落している。自滅のスピードとしては、私の予測よりも三日は早い」
「ええ。ですが、これは彼らの浅ましさが招いた当然の帰結です」
倉田は眼鏡のブリッジを中指でわずかに押し上げ、視線をテーブルの正面へと向けた。
そこには、神代詩織が静かに座っていた。
仕立ての良い黒のタートルネックに、チャコールグレーのスラックス。
無駄な装飾を一切削ぎ落としたその佇まいは、夜の静寂そのもののように深い落ち着きを湛えている。
彼女の前には、墨田区の工房から持参した革のペンケースと、長年愛用している「庄三郎」の裁ちバサミが、黒いネル生地の上に恭しく横たえられていた。
詩織はモニターに映し出される元夫の会社の無残な炎上劇を見つめながらも、その眉をピクリとも動かさなかった。
哀れみも、嘲笑も、激情すらもない。ただ、冷え切った職人の眼差しで、その崩壊のプロセスを冷徹に観察していた。
「詩織さん」
倉田が声を落とし、テーブルの上に整然と並べられていた数冊の分厚い黒革バインダーへと手を伸ばした。
分厚い表紙には、金色の箔押しで『CONFIDENTIAL / KAMISHIRO SHIORI vs ATELIER ARCA』と印字されている。
「本題に入りましょう。アルカ社がネットの自爆劇で騒いでいる間に、私とL&Vのフォレンジック(電磁的証拠保全)調査チームが水面下で進めていた『本丸の作業』が、本日すべて完了いたしました」
バサリ、とバインダーが開かれた。
そこに綴じられていたのは、膨大な量の図面、手書きの仕様書、そして幾何学的な数値がびっしりと並んだ型紙の縮小コピーだった。
「これらは、株式会社アトリエ・アルカが過去五年間にわたり自社名義で発表し、国内外のデザイン賞を受賞、あるいは主要百貨店で巨額の売上を記録した、全二十四アイテムの完全な開発記録です」
倉田の細い指先が、一枚の書類をトントンと叩いた。
そこには、先日のジャパン・モード・クリエイション大賞で立花莉乃が「最優秀新人デザイナー賞」をさらった、あのドレスの図面が克明に印刷されていた。
――ドレス『宵闇のプリマ』設計仕様書。
「詩織さんがアルカ社を追放される際、神代俊樹氏はあなたの個人パソコンおよび社内サーバーから、あなた名義の作業データを物理的に消去しました。そして、『在職中に作成された一切の知的財産権は会社に帰属し、著作権法上の著作者人格権も行使しない』という内容の誓約書を偽造。あなたの実印を会社の印鑑登録カードを使って無断で捺印し、過去のすべての成果物が最初から『神代俊樹のプロデュース、および立花莉乃の創作』であったかのように社内書類を改ざんしていました」
「……ええ」
詩織の唇から、冷たい吐息が漏れた。
「あの雨の夜、俊樹は言いました。『お前は言われた通りにミシンを踏んでいただけの作業員だ。お前が引いた退屈な線に価値を与えたのは俺の営業力だ』と。……私の描いたスケッチも、仕様書も、すべてシュレッダーにかけたと嘲笑っていました」
「愚か者の浅知恵ですね」
倉田は冷笑を浮かべ、別のフォルダーをめくった。
「デジタルデータというものは、机の上の紙を破るようには消え去りません。……詩織さんが当時使用していたノートパソコンのローカルストレージ、社内LANのバックアップサーバー、さらにはあなたが個人的に利用していたクラウドストレージの変更履歴を、米国のサイバー調査機関を通じて完全にサルベージいたしました。失われたと思われていた全二十四アイテムのCADデータ、手書きスキャンデータ、そして何よりも決定的な『タイムスタンプ』の復元に成功したのです」
倉田が提示した書類には、詩織が製図用紙に線を引いた正確な日時、スキャナーで読み込んだ秒単位の記録、そして俊樹がデータを上書きして自分の名前に書き換える前の「オリジナルの作成者メタデータ」が、寸分の狂いもなくタイムラインとして可視化されていた。
「これを見てください」
倉田が指し示したのは、大賞作『宵闇のプリマ』のバイアスカッティング計算シートだった。
「立花莉乃氏がテレビや雑誌で『夜アトリエでインスピレーションが降りてきた』と語っていた日付の、実に三週間前――詩織さんが一人でアトリエに残り、シルクサテンの落ち感と人体の可動域を計算して作成した仕様書の最終保存ログです。そこには詩織さんの電子署名が刻まれており、その二週間後に俊樹氏のアカウントがそのデータをコピーし、著作者名を『立花莉乃』へ書き換えたアクセスログが、サーバーのシステム管理ログに不可逆な形で焼き付けられていました」
動かぬ証拠。
客観的、電磁的、法的に、一切の反論を許さない「剽窃と名義冒用」の物的証拠の数々。
「意匠法、著作権法、ならびに不正競争防止法第二条第一項の違反です」
倉田の声は、研ぎ澄まされたメスのように平坦で、冷酷だった。
「さらに、俊樹氏が行った誓約書の偽造は、有印私文書偽造・同行使罪という明白な刑事罰の対象となります。神代俊樹氏、ならびに立花莉乃氏がこれまで享受してきた『若き天才デザイナーと敏腕プロデューサー』という虚飾の看板は、すべて詩織さんの労働と才能を組織的に窃盗した上に成り立っていた。この一冊のファイルだけで、彼らを法廷の引き綱で吊るし上げるには十分すぎます」
「素晴らしい仕事だ、倉田」
レオンが満足そうにグラスを置き、拍手を送る。
「だが、君の調査はこれだけでは終わらないはずだな?」
「無論です」
倉田は薄く口角を吊り上げ、三冊目のバインダーを開いた。
そこには、無数の中小企業の名前と、銀行の取引履歴が並んでいた。
「神代俊樹氏の罪は、詩織さん個人に対する搾取だけに留まりません。……佐伯縫製をはじめとする、国内十数社の中小縫製工場、パタンナー事務所、生地問屋に対する、下請代金支払遅延等防止法(下請法)違反の証拠保全です」
倉田の言葉に、詩織の瞳がわずかに反応した。
墨田区で、心労に倒れた父親を抱えながら、倒産の恐怖に震えていた佐伯朋香の顔が脳裏をよぎる。
「アルカ社は過去四期にわたり、自社ブランドの利益率を粉飾するため、立場の弱い中小の下請け事業者に対し、組織的な『買いたたき』と『不当な減額』を恒常的に行っていました。発注後に一方的な仕様変更を繰り返し、納期直前になって『予算が合わないから三割引け』と脅迫する。拒否すれば『次のシーズンの発注をすべて引き揚げる』と圧力をかけ、工賃の支払いを不当に先延ばしにする手形を切らせていた」
倉田は佐伯縫製との過去の契約書のコピーを提示した。
「朋香さんの工場が直面していた手形の不渡り危機も、アルカ社が直前で一方的にキャンセルしたコート二百着の生地代と工賃の踏み倒しが原因でした。下請法第四条一項四号の『不当な受領拒否』、ならびに同項三号の『下請代金の減額の禁止』に対する完全な違反です。すでに各工場の担当者から、当時の俊樹氏の脅迫めいたメールの文面、通話録音、そして不当な減額合意書の原本を回収し、公正取引委員会および中小企業庁への告発状のドラフトを完成させました」
倉田は書類をまとめ、机の上にトンと立てて揃えた。
そして、眼鏡の奥の冷たい瞳を、詩織とレオンへ向けた。
「知財侵害に対する損害賠償請求、不法行為に基づく慰謝料請求、そして下請法違反に伴う公正取引委員会への告発。……すべての準備は整いました。今この瞬間、東京地方裁判所に訴状を提出し、公正取引委員会に告発状を受理させれば、明日の朝にはアルカ社に立ち入り検査が入り、俊樹氏の個人口座を含む全資産の仮差し押さえ命令が下ります。……いつでも、引き金は引けますよ」
部屋の中に、張り詰めた沈黙が落ちた。
すべての罠は完成していた。
ネットの炎上で信用を失い、三ツ星百貨店に見限られたアルカ社に対し、この法的な爆弾を投下すれば、神代俊樹と立花莉乃は即座に息の根を止められる。
社会的にも、経済的にも、再起不能の破滅を迎えることは確実だった。
レオンは煙草に火をつけることもせず、琥珀色の瞳を細めて詩織の横顔を見つめた。
「どうする、マダム・影。君の合図一つで、あの男たちの命運は今夜のうちに尽きる。……ここで終わらせるかい?」
問いかけられた詩織は、すぐには答えなかった。
彼女はゆっくりと立ち上がり、ガラスの壁際へと歩み寄った。
地上数十階から見下ろす、東京の夜景。
無数のビルが放つ冷たい光の海の向こうに、かつて自分が暮らしていた港区のタワーマンション、そして南青山のアルカ社のオフィスがあるはずだった。
五年間。
自分はあの男の背中を信じていた。
服飾の名門大を首席で卒業しながら、表舞台に立つことを好まず、夫の夢を自分の夢だと信じ込んで、朝から晩まで狭いアトリエに籠もり続けた。
指先を針で何千回と刺し、布地の摩擦で手のひらの皮膚を擦り減らし、徹夜で目を充血させながら、あの男のブランドの骨格を一人で築き上げてきたのだ。
だが、返ってきたのは何だったか。
『お前みたいな地味で陰気な女が横にいたらブランドの格が落ちる』
『莉乃はインスピレーションの塊だ。お前とは華が違う』
『お前は言われた通りに作業するだけの寄生虫だ。誰のおかげで飯が食えたと思ってる?』
雨の夜。
五拾万円の茶封筒を顔面に投げつけられ、ボストンバッグ一つで泥水のアスファルトへと放り出された、あの冷たさ。
あの時、俊樹は確かに言ったのだ。
自分がいなくても、アルカは輝き続けると。
自分は、いつでも替えの利く使い捨ての作業員に過ぎないと。
(……許さない)
詩織の胸の奥底で、青白い炎が静かに、だが決して消えることのない業火となって渦巻いていた。
だが、その感情は、激情に任せた衝動的な復讐心ではなかった。
長年、布と幾何学の論理の中で生きてきた職人特有の、冷徹なまでの計算に基づいた決意だった。
「……まだよ、倉田さん」
詩織の声が、静寂なフロアに響いた。
低く、澄み渡り、寸分の揺らぎもない声。
倉田がわずかに眉を上げ、レオンの唇が愉悦に歪む。
「まだ、引き金を引いては駄目です」
詩織は振り返り、二人の男を真っ直ぐに見据えた。
「今、裁判を起こして彼らを法的に潰せば、どうなると思いますか? 神代俊樹という男は、絶対に反省などしません。『元妻の逆恨みによって足を引っ張られた』と言い訳をし、自分を被害者に仕立て上げるでしょう。立花莉乃も『悪徳なプロデューサーと元妻の泥沼劇に巻き込まれた可哀想なミューズ』として、SNSで涙を流して同情を買おうとするはずです」
詩織の瞳の奥に、凍りつくような冷笑が浮かんだ。
「それでは、生ぬるいのです。……あの男が本当に大切にしているものは何ですか? 金ですか? 違います。あの男が何よりも執着しているのは、自らの『虚栄心』と、業界でチヤホヤされる『成功者のステータス』です。そして、自分がどれほど無能であるかという現実から目を背け続けるための、アトリエ・アルカという城そのものです」
詩織はテーブルの上の、庄三郎の裁ちバサミへと歩み寄った。
黒光りする重厚な鋼の柄に、そっと指を触れる。
「あの男が一番大切にしている城を、他人の手によってではなく……自分自身の浅ましさと、自分自身の無能さによって、完全に崩壊させなければ意味がありません。客に裏切られ、業界に見限られ、資金がショートし、四面楚歌の暗闇の中で、自らの足元がただの泥舟であったことを骨の髄まで思い知らせるのです」
詩織の言葉には、神代俊樹という人間の本質を知り尽くした者だけが描ける、完璧な処刑のシナリオが宿っていた。
「展示会が破綻し、ネットで炎上した今、アルカ社の資金繰りは完全に限界を迎えます。銀行からの追加融資は打ち切られ、手形の決済期日は容赦なく迫ってくる。……そうなった時、あの男は何をすると思いますか?」
「……何をする、と?」
レオンが目を細めて問い返す。
「縋り付くのよ」
詩織は即答した。
「プライドをかなぐり捨ててでも、生き残るための『藁』を探し回るはずです。自社ブランドが売れないなら、他社の仕事を受けるしかない。かつて自分が『いつでも替えが利く駒だ』と見下していた、下請け(OEM)の仕事を求めて、血眼になって這いずり回るはずです」
詩織の視線が、レオンへと注がれた。
「レオン。……『L'OMBRE』の次のフェーズの準備は、どうなっていますか?」
レオンの琥珀色の瞳が、獲物を狙う猛獣のようにギラリと光った。
男は組んでいた長い脚を解き、深く、低く喉を鳴らして笑った。
「完璧だよ、マダム・影。……ファーストコレクション三百着の完売、そして九条志乃による『VOGUEIL』での大絶賛を受け、世界の主要バイヤーからの受注要請はすでに数万着規模に膨れ上がっている。この需要に応えるため、L&Vホールディングスは来週、日本国内において大規模なプレスリリースを打つ手はずになっている」
レオンは手元のタブレットを操作し、一枚の企画書を宙に映し出した。
――『L'OMBRE、世界展開に伴う国内生産体制の抜本的再編。高品質な縫製ラインを束ねる「国内一次サプライヤー(下請け管理統括会社)」の緊急公募コンペ開催』。
――『年間契約規模:最大五億円』。
「一次サプライヤー……下請けの元締めか」
倉田が眼鏡の奥で納得の笑みを浮かべた。
「ええ」
詩織は頷いた。
「アルカ社は自社工場こそ持たないものの、かつて私が築き上げた地方の小規模工場とのネットワークを、書類上は今も保有しています。負債に押し潰され、破滅の淵に立たされた俊樹にとって、この五億円の案件は、まさに天から垂れ下がってきた『唯一の蜘蛛の糸』に見えるはずです」
詩織の唇が、美しく、そして残酷な弧を描いた。
「自らの手で掴み取ったと思った最後の希望が、最も見下していた元妻の掌の上だったと知った時……人は初めて、本当の絶望を味わうはずです。……倉田さん、その証拠資料の束は、その瞬間まで大切に保管しておいてください。あの男たちが、自ら処刑台の階段を登りきった、まさにその瞬間に……一撃で喉元を断ち切るために」
倉田は深々と一礼した。
「承知いたしました。法的な包囲網は、このまま完全に維持し、いつでも即日発動できるようスタンバイさせておきます。……逃げ道は、一ミリたりとも残しません」
「頼みます」
詩織は窓の外の夜景へと、再び視線を向けた。
雨はいつの間にか上がり、澄み切った秋の夜空に、冷たい月が冴え冴えとした光を投げかけていた。
南青山のオフィスで、今夜も俊樹と莉乃は、互いを罵り合いながら、泥舟の中で足掻いていることだろう。
だが、彼らがどれほど浅ましく足掻こうとも、張り巡らされた影の包囲網からは、もはやネズミ一匹すら逃げ出すことはできない。
元妻の才能を盗み、愛人の虚栄を神輿に担ぎ、職人たちを踏みにじってきた偽りの城。
その最後の審判の日は、刻一刻と、確実に近づいていた。
名もなき影の冷徹な眼差しが、夜の闇の向こうで、獲物の息の根を止める瞬間を静かに見据えていた。




