第27話:ネットの火薬庫
南青山の「アトリエ・アルカ」本社ビルは、秋の陽光に照らされながらも、まるで外界から遮断された霊廟のように薄暗く、澱んだ空気に沈んでいた。
三階のデザインルームの床には、先日の展示会場から慌ただしく撤収された看板や、引きちぎられた垂れ幕が無残に転がっている。
ガラス張りのオフィスを飛び交っていたはずの華やかな歓談の声は消え去り、残された若手アシスタントたちは、誰もが顔色を失い、パソコンのモニターの陰で息を殺していた。
三ツ星百貨店からの即時契約解除。
展示会会場で九条志乃が放った「布地の目を無視して裁断した、ただのゴミ」という死刑宣告は、瞬く間に業界関係者の間で共有され、名だたるセレクトショップや商社が、アルカとの取引を蜘蛛の子を散らすように凍結し始めていた。
「……まだだ。まだ終わっちゃいない」
社長室のデスクで、神代俊樹は爪をギリギリと噛みながら、血走った目で画面を睨みつけていた。
目の下に張り付いた隈は濃く、無精髭が顎を覆っている。
三ツ星からの違約金請求、生地の仕入れ代、そして間宮に支払った手付金――今月末までに決済しなければならない手形の額は、すでに会社の預金残高を遥かに超過していた。
だが、俊樹の濁った瞳の奥には、狂信的なまでの最後の執念が燃え盛っていた。
「展示会の悪評なんてものは、業界の気取った連中が内輪で騒いでいるだけに過ぎん。……一般の消費者は、そんな細かい縫製や生地の質なんて知るはずがないんだ。テレビの密着特番は大成功だった。莉乃のファンは何十万人もいる。……あの熱狂が冷めないうちに、ネットの先行予約分をすべて売り切って現金を回収すればいいんだ」
俊樹が縋り付いたのは、展示会前に開設していた公式オンラインショップでの「先行予約枠」だった。
テレビ特番の熱気によって、莉乃の『ネオ・ゴシック・フェアリー』コレクション――広州の格安工場から届いた全十型、計五百着のサンプルおよび初期ロットは、一着あたり三万円から五万円という強気の価格設定にもかかわらず、ネット上でほぼ全量が予約完売していたのだ。
「俊樹さん! 早く発送しちゃいなよ!」
ソファの上で、立花莉乃が苛立たしげにスマートフォンの爪先を鳴らした。
展示会でドレスが破れて失態を演じたことなど、彼女の都合の良い記憶からはすでに都合よく消去されていた。
莉乃が見つめているのは、自らのインスタグラムのコメント欄だった。
「ほら見てよ! 『莉乃ちゃんのドレス、いつ届きますか?』『早く着てお出かけしたいです!』って、ファンのみんながこんなに待ってるのよ! 三ツ星のバイヤーだか九条志乃だか知らないけど、あんな頭の固いオバサンたちに服を売る必要なんて最初からなかったのよ! 私のフォロワーに直接届けて、みんなに『莉乃ちゃん最高!』って着画をアップさせれば、展示会の噂なんて一瞬でかき消せるわ!」
「ああ……そうだ。その通りだ、莉乃」
俊樹は自分自身に言い聞かせるように頷いた。
検品? 品質検査? そんなものを通している時間はない。
地下倉庫に積み上げられた五十個の巨大な段ボール。あの石油臭を放ち、糸が飛び出し、地の目の狂った安物ポリエステルの衣服たち。
本来であれば全量産業廃棄物として処分されるべき粗悪品を、俊樹は「ファンへの熱烈な先行配送」という美名のもとに、そのまま宅配用のオリジナルショッパーへと詰め込ませたのだ。
「全品、本日付で出荷しろ!」
俊樹は倉庫スタッフに向かって怒鳴り散らした。
「納品書だけ放り込んで、検品伝票は省略だ! 運送会社のトラックを全部チャーターしろ! 今夜中にすべて集荷させろ!!」
それが、破滅の火薬庫へ向けて、自らの手で巨大な導火線に火を放った瞬間だった。
発送から二日後。
冷たい秋雨が、南青山の街路樹を濡らす火曜日の午後。
嵐は、一本の短い投稿から始まった。
X(旧Twitter)上に、フォロワー数わずか数百人の、ごく一般的な女子大生のアカウントが投稿した写真つきのポスト。
テレビ特番を見て感動し、アルバイト代を貯めて三万八千円の『ネオ・ゴシック・フェアリー』のティアードワンピースを購入したというその少女のアカウントに、一枚の写真が添えられていた。
『楽しみに待ってたアルカの新作ワンピース届いたんだけど……これ、不良品かな? 箱を開けた瞬間から、機械油とプラスチックが焦げたみたいな強烈な臭いがして部屋に充満してる。おまけに、袋から出して袖を通そうとしたら、背中のファスナーが一度も上がらないまま根元からバキッて折れた。三万八千円もしたのに、一度も着られないままゴミ箱行きなの……? 悲しすぎて涙止まらない #アトリエアルカ #立花莉乃』
写真に写っていたのは、安物のプラスチック製コンシールファスナーが噛み合わず、スライダーが斜めに歪んでプラスチックの務歯が粉々に砕け散ったドレスの背中だった。
縫い目はミミズ腫れのように引きつれ、布地の端からは未処理の化学繊維の糸が十数本、蜘蛛の巣のように垂れ下がっている。
その投稿が投下された瞬間、まるで堰を切ったように、全国の購入者たちからの阿鼻叫喚がタイムラインへと雪崩れ込んできた。
『待って、うちにも届いたけど同じ!! 石油の臭いがヤバすぎて気分悪くなって吐きそう』
『莉乃ちゃんコラボのシフォンドレス、生地がペラペラすぎてビビった。蛍光灯にかざしたら下着のレースの柄まで完全に透けるんだけど。雑巾の方がまだ厚みがあるレベル』
『腕を通した瞬間に、脇の縫い目が「ビリッ」て裂けた。私の二の腕が太いからかと思ったけど、裏返して見たら縫い代が二ミリしかなくて、ロックミシンの糸が布端にかかってすらいない。縫製ミスどころか、ただ布を重ねて糊で貼っただけじゃないのこれ!?』
『ボタンホールが小さすぎてボタンが通らない。ハサミで切ろうとしたら布がそのまま裂けた』
『届いたジャケットの裏地から、折れたミシン針の先っぽが出てきたんだけど!! 指に刺さって血が出た! 検針すらしてないの!? 警察に通報していいレベルでしょこれ!!』
写真。
動画。
引き裂かれた脇下。
気泡が入ってボコボコに波打った接着芯。
そして、指先に滲む血と、折れたミシン針のアップ。
テレビ特番の甘美な言葉と、手元に届いたグロテスクなゴミ屑とのあまりの落差に、騙された購入者たちの悲鳴は、瞬く間に激しい怒りの業火へと変貌していった。
リツイートが千を超え、五千を超え、一万を超える。
だが――本当の地獄は、そこからだった。
午後三時過ぎ。
フォロワー百万人を超える、ネット界で最も影響力を持つファッション系暴露インフルエンサーのアカウントが、一本のまとめ画像を投下した。
『【悲報】立花莉乃プロデュース「アトリエ・アルカ」の新作、購入者から阿鼻叫喚の欠陥報告が殺到する中、さらに致命的な疑惑が浮上。海外メゾンおよび世界的ファストファッションのルックと「完全一致」。写真からの丸パクリ&安物中国工場での粗製濫造が確定か』
添付されていたのは、四分割された比較検証画像だった。
左上には、ミラノのトップメゾンが先月発表したばかりのアシンメトリードレス。
右上には、アルカ社が「莉乃のインスピレーション」と称して販売したドレス。
左下には、欧州ファストファッションの定番トレンチコート。
右下には、アルカ社のトレンチコート。
カッティングの角度、フリルの段数、ボタンの配置、襟の形状――誰の目にも明らかな、完全なる「丸パクリ」。
画像には、それぞれの元ネタとなった海外サイトのURL、販売価格、発表日時が分単位で記載され、アルカ社が海外の画像をそのまま中国の格安工場へ横流ししてコピーさせたという事実が、逃げ場のない論理で白日の下に晒されていた。
その投稿のリツイート数は、わずか一時間で三万件を突破した。
日本のXのトレンドランキングが、一瞬にしてアルカ社の名前で埋め尽くされる。
1位:#アルカ詐欺
2位:#立花莉乃パクリ
3位:#折れ針混入
4位:#返金運動
5位:九条志乃
『展示会で九条志乃が「布地の目を無視したゴミ」って一喝したの、ガチだったんだな』
『テレビで「寝ている間にインスピレーションが降りてくる」とか抜かしてたの、ただ海外サイトをスクショしてただけじゃん草』
『折れ針混入は傷害罪だろ。消費者庁と経産省に電凸するわ』
『三ツ星百貨店が前日にコラボ全館中止にした理由が完全に分かった。あそこはギリギリで危機管理が機能したんだな』
『立花莉乃、謝罪しろ。金返せ。二度とデザイナー名乗るな』
ネットの火薬庫は、大爆発を起こしていた。
テレビという巨大メディアを利用して一気に膨らませた虚飾の風船は、たった数枚の購入者の告発写真によって、無残にも破裂したのだ。
――ジリリリリリリリリッ!!
――ジリリリリリリリリッ!!
――ジリリリリリリリリッ!!
南青山のオフィスは、狂ったような電話のベルの音で埋め尽くされていた。
代表電話。
カスタマーサポートの回線。
営業部の直通電話。
壁に並んだ十台以上のビジネスフォンのランプが、赤と緑に激しく明滅し、鳴り止む気配すら見せない。
「はい、アトリエ・アルカでございます……! あ、返金につきましては、現在担当部署にて確認を……ガチャッ!」
「もしもし!? 針の混入につきましては、事実関係を調査中で……痛っ、怒鳴らないでください! ガチャッ!」
電話口に出た事務員たちが、受話器から漏れ出る怒号と罵声に耐えかねて次々と受話器を投げ出し、耳を塞いで泣き崩れている。
オフィスのエントランスからは、ドサリ、ドサリと、鈍く重たい物音が絶え間なく響いていた。
「すいません、アトリエ・アルカさん! 受取拒否と返品の荷物、追加で四十個持ってきました! サインお願いします!」
大手宅配業者の配達員が、台車に山積みにされた茶色い段ボール箱を、オフィスの廊下へと無造作に降ろしていく。
廊下だけではない。
打ち合わせスペース、給湯室の前、果ては社長室へと続く通路に至るまで、全国から送り返されてきた「返品の段ボール」が、天井に届くほどの壁となって積み上がっていた。
段ボールの隙間からは、あの地下倉庫と同じ、鼻を突く石油系の刺激臭が漏れ出し、オフィス全体に吐き気を催すような悪臭が充満している。
「……何なんだよ、これは」
社長室のデスクの前で、神代俊樹は頭を抱え、床にへたり込んでいた。
パソコンの画面には、数秒ごとに数百件単位で増え続ける批判コメントと、炎上を報じるネットニュースの速報。
『アワード受賞の新進気鋭ブランド「アトリエ・アルカ」、新作に折れ針混入か SNSで大規模な不買・返金運動が勃発』
『立花莉乃氏の盗作疑惑、海外メゾンのコピー元が次々と特定 百貨店コラボも白紙撤回の異常事態』
オフィスのドアを叩く音。
電話の鳴動。
段ボールが積み上がる音。
すべてが、俊樹の頭蓋骨の内側を鋭利なドリルで抉るように響く。
「おい、間宮……! 間宮はどうした!? あいつに電話しろ!」
俊樹が這うようにして立ち上がり、震える手でスマートフォンを掴んだ。
間宮健二の携帯番号をプッシュする。
――プルルル……プルルル……。
『おかけになった電話番号は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため――』
「出ろよッ!! 間宮、電話に出ろッ!!」
俊樹はスマートフォンを壁に向かって力任せに投げつけた。
バキィッ! と音を立てて液晶画面が砕け散り、リチウムイオンバッテリーの煙がわずかに立ち上る。
「全部あいつのせいだ……! あいつが中国の工場なら大丈夫だと言ったんだ! あいつが写真を送ればいいと言ったんだ! 俺は騙されたんだ!!」
「騙されたのは私の方よッ!!」
社長室の扉が蹴破られるように開き、立花莉乃が飛び込んできた。
その姿には、かつての「時代のミューズ」の面影など微塵も残っていなかった。
髪は乱れ、マスカラは涙と汗でドロドロに溶け、頬に黒い筋を作っている。
莉乃は手にしたタブレットを俊樹の顔面に向かって投げつけた。
「見てよこれ!! 私のインスタのコメント欄、全部『人殺し』『泥棒』『ペテン師』で埋まってるのよ!! 所属事務所の社長からも電話があって、『今受けてるCMと雑誌の契約、全部違約金でお前の自己責任だ』って言われたのよ!! どうしてくれるのよ俊樹さん!!」
莉乃は俊樹の胸ぐらに掴みかかり、長い爪を俊樹の首筋に突き立てて激しく揺さぶった。
「あんたが社長でしょ!? あんたが大丈夫だって言ったんじゃない!! 私の可愛い顔と世界観があれば売れるって、あんたが唆したんじゃない!! 私の人生をどうしてくれるのよ!! 早く何とかしなさいよ、この無能!!」
「無能だと……!?」
俊樹の奥歯が、ギリリと音を立てて軋んだ。
胸の奥底で、ドロドロとした黒い怒りが臨界点を突破した。
「誰が無能だッ!! ふざけるな、この寄生虫がッ!!」
俊樹は莉乃の両腕を乱暴に振りほどいた。
莉乃の身体が吹っ飛び、積み上げられていた返品の段ボールの山へと背中から突っ込んだ。
ドサドサドサッ! と段ボールが崩れ落ち、中から石油臭いポリエステルのドレスの死骸が、莉乃の全身へと降り注ぐ。
「あんた……私を突き飛ばしたの……!?」
莉乃が床に這いつくばり、信じられないものを見る目で俊樹を睨み上げた。
「お前が描いてきた落書きのせいだろうがッ!!」
俊樹は唾を飛ばしながら、莉乃を見下ろして怒声を浴びせかけた。
「雑誌の切り抜きを糊で貼っただけのゴミを『インスピレーション』だと!? 寝言を言うのもいい加減にしろ! 人体の構造も知らん、生地の目も知らん、ただちやほやされたいだけの小娘が、デザイナー面して調子に乗るからこんなことになったんだ!! お前なんかいなきゃ、アルカはこんなことにはならなかったんだよ!!」
「何よ……! 何よそれ!!」
莉乃は床の服の死骸を掴んで俊樹に向かって投げつけた。
「あんたが私を利用したんじゃない!! 詩織とかいう地味な前妻を追い出して、私を神輿に担ぎ上げたのはあんたでしょ!! 『莉乃の華があれば億が稼げる』って、甘い言葉で私を騙したくせに!! あんたなんか大っ嫌いよ! 死んじゃえばいいのよ!!」
互いに責任を擦り付け合い、罵詈雑言をぶつけ合う二人。
かつてシャンパンを傾け、西麻布の夜景を見下ろしながら「本物のスター」と讃え合っていた男女の姿はそこにはなかった。
他人の才能を奪い、虚飾で身を飾ることしか知らなかった者たちの、あまりにも浅ましく、醜悪な共食い。
積み上がった返品の段ボールの山が、まるで二人の墓標のように、薄暗いオフィスを圧迫していた。
鳴り止まない電話のベル。
廊下に響く、債権者たちの怒鳴り声。
そして、充満する石油の悪臭。
だが――俊樹はまだ気づいていなかった。
このネットの炎上と返品の嵐すら、彼らを待ち受ける真の地獄の、ほんの序章に過ぎないということを。
港区の超高層タワーの最上階。
冷徹な知財弁護士・倉田拓海と、世界を動かす投資家レオン・城崎・ヴァランタン、そして名もなき影となった神代詩織が、この炎上するアルカ社の姿を、冷たい氷のような瞳で見つめながら、最後の処刑台を組み上げているということを――。




