第26話:女帝の断罪
静寂が、南青山のイベントホール「スパイラル・ガーデン」の広大なフロアを完全に支配していた。
先ほどまで耳を打っていた洗練されたラウンジ・ミュージックは、音響スタッフの手によって完全に絞られ、無数の照明が反射するシャンパンタワーの氷がカランと音を立てて溶ける音すら、鼓膜を劈くほど明瞭に響いていた。
会場中央、一段高い円形ステージ。
スポットライトの光を浴びて立つ木製人台の前に、九条志乃は微動だにせず佇んでいた。
黒のスタンドカラーコートの裾は足元までまっすぐに落ち、背筋は一本の鋼の棒を通したかのように寸分の揺らぎもない。
白いシルクの手袋に包まれた志乃の右手の指先が、スポットライトに照らされた黒いジャケットのラペル(下襟)の裏側を、ゆっくりと、しかし容赦のない確実さでめくり上げていた。
「……お粗末ね」
志乃の唇から放たれた低く鋭い呟きは、決して大声ではなかった。
だが、その声に含まれた絶対零度の冷気は、周囲を取り囲む三ツ星百貨店の役員たち、大手セレクトショップのバイヤー、そしてカメラを構えた取材陣の背筋を一瞬にして凍りつかせるのに十分だった。
「え……?」
神代俊樹の喉から、間の抜けた掠れ声が漏れた。
作り笑いのまま固まった頬の筋肉が、ピクピクと痙攣を始める。
「きゅ、九条編集長……? 今、何と……」
志乃は俊樹の方へ視線すら向けなかった。
その鋭角的なチタンフレームの眼鏡の奥にある瞳は、まるで解剖台の上の検体を観察する病理医のように、ジャケットの襟元から胸元、そして肩先へと冷徹に走っていた。
「聞こえなかったかしら、神代社長。……お粗末極まりないと言ったのよ」
志乃の手袋をした指先が、ラペルの表面を滑る。
カサ、カサ、と安っぽい摩擦音が静まり返ったフロアに小さく響いた。
「まず、この芯地の据え方。……あなた方、接着芯の選定とプレス機の温度管理すらまともにできない工場に発注したのかしらね。表地の安物ポリエステルと芯地の熱収縮率がまったく噛み合っていないせいで、生地の裏側で接着樹脂がダマになり、表面に無数の気泡が浮き出ているわ。まるで、熱湯をかけられて火傷した皮膚のようね」
「ひ、皮膚……!?」
俊樹の顔から、急速に血の気が引いていく。
昨晩、地下倉庫で広州から届いた箱を開けた瞬間に感じたあの絶望的な違和感。それを、志乃は指先で一度触れただけで、専門用語とともに完膚なきまでに言語化してみせたのだ。
「それだけじゃないわ」
志乃の指先が無慈悲に移動する。
人台の右肩、そしてアームホール(袖ぐり)の接合部へ。
「この袖付けを見てごらんなさい。前身頃と後身頃の寸法がまったく合っていない。前肩のカーブに対して袖山のイセ込み量が足りないから、布が引っ張られ、胸元に向かって無残な引きつれジワが斜めに何本も走っている。縫製ピッチもバラバラ。一インチ間に十針を切るような大雑把な粗ミシンで、縫い糸のテンションが強すぎるせいで、縫い目全体がミミズ腫れのように波打っているわ」
「な……っ!」
俊樹の額から、ツッと大粒の冷や汗が伝い落ちた。
周囲のバイヤーたちのざわめきが、急速に色を変えていく。
先ほどまで「素晴らしい世界観」「さすが気鋭のアルカ」と持ち上げていた仕入れ担当者たちが、志乃の指摘に合わせ、目を凝らして人台のジャケットを凝視し始めていたのだ。
「チェックの柄合わせすらされていない」
志乃の追撃の手は緩まない。
彼女はジャケットの前合わせのボタン部分を指し示した。
「左右の前身頃で、格子柄のラインが上下に七ミリもズレている。背中心の縫い合わせに至っては、布の地の目(縦糸と横糸の直角)を無視して無理やり斜めに裁断しているから、布地が重力に耐えきれず、右の裾だけが雑巾のようにねじれ上がっているわ。……服の骨格に対する基礎的な知識が、一ミリたりとも存在していない」
志乃は人台の前に立ち尽くしたまま、ゆっくりと、首だけを俊樹と莉乃の方へと巡らせた。
その眼鏡の奥に宿る眼光は、もはや侮蔑すら通り越し、汚物を見るかのような冷徹な断罪の光だった。
「そして――何よりも悪質なのは、このカッティングよ」
志乃の低く澄んだ声が、会場の隅々まで響き渡る。
「肩先を極端に落とし、ウエストをシェイプさせた位置から裾に向かってアシンメトリーに螺旋を描くこのヘムライン。……先月、ミラノ・コレクションで某トップメゾンが発表したファーストルックの、完全な焼き直しじゃないの」
――ドサリ。
俊樹の頭の中で、巨大な鐘が乱打されたかのような衝撃が走った。
心臓が早鐘を打ち、喉の奥がカラカラに干からびる。
隠したはずだった。
会場の照明を落とし、スポットライトを暖色系にし、香水を振りまいて遠目から見せることで、細部の破綻も、元ネタとなった海外メゾンの影も、すべて煙に巻けるはずだったのだ。
間宮もそう言っていた。
莉乃の華やかな笑顔と、テレビ特番の熱狂があれば、誰も生地の裏側やデザインの出どころなど詮索しないと。
だが、この女帝の前には、いかなる小細工も通用しなかった。
三十年にわたり世界のモードの頂点を見続け、本物のオートクチュールから前衛的なプレタポルテまでを骨の髄まで知り尽くした九条志乃の審美眼は、アルカが張り巡らせたペテンの薄皮を、最初の一瞥で無残に切り裂いてみせたのだ。
「い、いえ……! 九条編集長、それは誤解です!」
俊樹は膝の震えを必死に抑え込み、両手を前に突き出して叫んだ。
その声は、自分でも情けないほど上擦り、裏返っていた。
「焼き直しなどではありません! オマージュです! 現代のモードが過去のアーカイブや同時代の空気を共有するのは当然のことでして……! ここにいる立花莉乃の瑞々しい感性、彼女独自のオリジナリティを融合させた、まったく新しい解釈なんです! 決して盗作などでは――」
「黙りなさい」
志乃の静かな一喝が、俊樹の弁明を粉々に打ち砕いた。
怒鳴り声ではなかった。
だが、その一言には、抗うことを許さない絶対的な権威と、底知れぬ怒りが込められていた。
「盗作をオマージュと言い換えるその浅ましさこそが、三流の証拠よ」
志乃は一歩、莉乃の前へと歩み寄った。
ヒールの音が、処刑人の足音のように大理石を叩く。
莉乃は反射的に後ずさりしようとしたが、背後にあったシャンパンタワーのテーブルに腰が当たり、グラスがチリンと乾いた音を立てて揺れた。
「立花莉乃」
志乃の視線が、莉乃の全身を頭から爪先まで舐めるように走る。
「テレビの特番、拝見したわよ。『寝ている間にインスピレーションが降りてくる』? 『服はキャンバス』? ……笑わせないでちょうだい」
「な……っ!」
莉乃の唇が、屈辱で小刻みに震えた。
テレビカメラの赤いランプが、今もなおこの惨状を記録しようと回っている。
何十万人ものフォロワーに崇拝され、時代のミューズとしてちやほやされていた自分が、公衆の面前で、まるで万引きを見咎められた小娘のように問い詰められているのだ。
「あなたのその滑らかな指先のどこに、布と格闘した痕跡があるの?」
志乃の言葉は、容赦なく莉乃の急所を抉り抜いた。
「針ダコひとつない柔らかい皮膚、ラインストーンで飾られた長い爪。……型紙の一枚も引いたことがなく、糸のテンションに指を擦りむいたこともない素人が、他人のコレクションの写真を切り貼りして、カメラの前で愛想を振りまくことのどこが『デザイナー』なのかしら」
「九条さんかなんだか知らないけど……!」
莉乃のプライドが激しく軋みを上げ、彼女は耐えかねてヒステリックな金切り声を張り上げた。
「偉そうに言わないでよ! 私の世界観は、大賞を取った時だって審査員全員に絶賛されたのよ! ファンのみんなだって、可愛いって、莉乃ちゃんみたいになりたいって言ってくれてるのに! 古臭い理屈ばっかり並べて、私の才能に嫉妬してるだけでしょ!?」
会場の空気が、さらに凍りついた。
モード界の女帝に対し、名指しで「嫉妬」と言い放ったのだ。
壁際で見ていた間宮が、青ざめた顔で頭を抱え、後ずさりして非常口の方へと身を隠そうとしているのが見えた。
だが――志乃は怒るどころか、底知れぬ哀れみを湛えた冷笑を浮かべただけだった。
「大賞ですって? ……あの『宵闇のプリマ』のことかしら」
志乃の声音が、ふっと温度を失った。
「あれほどの構造美を持ったドレスを、あなたのようなお人形さんが生み出せるはずがないでしょう」
「え……?」
莉乃の喉が詰まった。
「あのドレスの襟元の返り線、重力を完璧に分散させた前肩設計、そして歩行時に布が螺旋を描いて光と影を交錯させる奇跡のようなバイアスカッティング。……あれはね、人体の骨格を知り尽くし、布の命を誰よりも愛する本物の職人にしか引けない線よ。自分の手でハサミを握ったこともないあなたのようなペテン師が、偶然で形にできる代物じゃないの」
志乃の言葉に、俊樹の心臓が凍結した。
神代詩織。
志乃はその名を一度も口にしなかった。
だが、彼女の言葉のすべてが、かつてアトリエ・アルカの暗がりで指から血を流しながら型紙を引き続けていた、あの本妻の存在を正確に捉えていた。
自分たちが「地味な寄生虫」と見下して追い出した女こそが、アルカの栄光の唯一の源泉であったことを、目の前の女帝は最初からすべて見抜いていたのだ。
「服に対する敬意も、着る人間への誠意もない」
志乃は人台のジャケットから完全に手を離した。
支えを失ったジャケットが、ペラペラの安物ポリエステルの軽さゆえに、カサリと情けない音を立てて歪んだまま静止する。
志乃は両手の白いシルク手袋を、左手、右手の順でゆっくりと引き抜いた。
そして、コートの内ポケットから取り出した、純白のリネンのハンカチで、まるで汚らわしい泥水にでも触れてしまったかのように、自らの指先を一本一本、念入りに拭った。
その無言の所作こそが、どんな怒声よりも雄弁に、アトリエ・アルカの服に対する絶対的な拒絶を示していた。
「布地の目を無視して裁断した、ただのゴミね」
静寂を切り裂く、冷徹な死刑宣告。
「……こんなものを誌面に載せたら、『VOGUEIL』の三十年の歴史に泥を塗るわ。二度と私の視界に、このブランドを入れないで」
志乃は手袋とハンカチをアシスタントに手渡すと、踵を返した。
黒いロングコートの裾が優雅に翻り、彼女は一度も振り返ることなく、大理石の通路を出口へと向かって歩み出した。
その背中には、一切の迷いも、弁明を聞く余地すら残されていなかった。
「ま、待ってください、九条編集長! お話を……どうかもう一度お話を!」
俊樹が半狂乱になって追いすがろうとしたが、志乃の背後に控えていた二人の屈強な男性アシスタントが立ち塞がり、俊樹の胸元を無言で押し留めた。
自動ドアが開き、冷たい秋の風が吹き込む。
そして、バタン、と重厚なガラス扉が閉ざされた。
――女帝の退場。
それが、偽りの城の崩壊を告げる、最初の一撃だった。
会場に満ちたのは、針が落ちても聞こえるほどの静寂。
だが、その沈黙はわずか数秒しか持たなかった。
次の瞬間、会場の奥のVIPブースから、ドカドカと激しい足音が響いてきた。
「……神代社長」
現れたのは、三ツ星百貨店本館の統括フロア長・大和田だった。
その顔は、先ほどまでの穏やかな上機嫌さなど微塵もなく、怒りと屈辱で青黒く染まっていた。
大和田の背後には、品質管理室(QTEC)の検査員たちが厳しい表情で控えている。
「大和田様……! あ、あれは九条編集長の個人的な偏見でして、我が社の製品は――」
「言い訳は結構だ!」
大和田の怒声が、静まり返ったホールに雷鳴のように轟いた。
「九条編集長が仰ったことは、すべて事実なのか!? このサンプルは、本当に接着芯のバブリングを起こし、地の目が狂った欠陥品なのか!? おまけに、海外メゾンの剽窃だと……!? 三ツ星百貨店の一等地に、そんな海賊版まがいのゴミを並べろというのか!!」
「い、いえ、決してそのようなことは――」
「おい、実査しろ!」
大和田の合図で、QTECの検査員たちがメインディスプレイへと駆け寄った。
拡大鏡とノギスを取り出し、ジャケットの縫い目、生地の裏側、芯地の接着面を次々とチェックしていく。
わずか一分後、検査員の一人が青ざめた顔で大和田に耳打ちした。
『……全量、基準外です。引張強度のテスト以前の問題です。地の目が狂っており、縫い糸のほつれが十箇所以上。接着芯の剥離も確認されました。……三ツ星の品質基準に照らせば、即時全量廃棄レベルの粗悪品です』
その報告を聞いた瞬間、大和田の瞳から一切の慈悲が消え去った。
「神代社長。三ツ星百貨店本館での秋のカプセルコレクション展開、ならびにポップアップの全日程は、たった今を以て『白紙撤回』とさせていただきます」
「な……っ!? 大和田様、それだけは! 違約金が……生産枠を押さえてしまっているんです!」
「違約金を払うべきは貴社の方だ!」
大和田は懐から手帳を取り出し、冷淡に言い放った。
「虚偽の品質申告、ならびに重大な契約違反による損害賠償について、弊社の法務部より追って正式な通知を送付します。……行きましょう」
大和田が踵を返し、三ツ星百貨店の関係者たちが怒りの足取りで会場を去っていく。
それは、巨大なドミノ倒しの始まりに過ぎなかった。
「おい、カメラ止めろ! 撤収だ!」
「テレビの特番枠、差し替えの手配をしろ! こんなパクリ疑惑のブランド、放送できるわけがないだろ!」
テレビクルーたちが機材を慌ただしく片付け始め、ファッション誌のライターたちもメモ帳をポケットにねじ込んで蜘蛛の子を散らすように出口へと急ぐ。
セレクトショップのバイヤーたちも、誰一人俊樹に声をかけることなく、冷ややかな視線を投げ捨てて会場を去っていった。
「ちょっと! 待ちなさいよ! 私のドレスよ!? 私のコレクションよ!?」
莉乃が髪を振り乱し、逃げ出していくバイヤーたちに向かって叫んだ。
「誰のおかげでテレビに出られたと思ってんのよ! 帰らないでよ! 私の服を買いなさいよぉぉぉっ!!」
叫んだ拍子に、莉乃が身に纏っていたドレスの脇下から――ビリリッ! と鈍い破壊音が響いた。
裏から安全ピンと両面テープで無理やり留められていた縫い代が、激しい動きの張力に耐えきれず、一気に引き裂かれたのだ。
肩のフリルが無残に垂れ下がり、中から白い接着芯のカスがポロポロと床に零れ落ちる。
「あ……」
莉乃はその場に立ち尽くし、破れた自分の脇下を見下ろした。
動けば裂ける。
呼吸をすれば破れる。
長谷川が警告し、詩織がかつて完璧に防いでいたはずの、人体の物理法則。
その残酷な現実が、今まさに、自らの身体の上で証明されたのだ。
「う……うわあああああああっ!!」
莉乃はその場にへたり込み、破れたドレスを両手で引き裂きながら、狂ったように泣き叫び始めた。
フロアに残されたのは、散乱するシャンパングラスと、無残に歪んだ安物ポリエステルのジャケット。
そして――膝から崩れ落ち、自らの手のひらを見つめたまま、ガタガタと震え続ける神代俊樹だけだった。
「終わりだ……」
俊樹の唇から、血の気の引いた呟きが零れ落ちる。
「三ツ星が飛んだ……違約金……融資の凍結……。俺の会社が……俺のアルカが……」
背後で、非常口のドアがバタンと静かに閉まる音がした。
間宮健二が、一切の責任を取ることなく、姿を消した音だった。
南青山の華やかな秋の光の下、偽りの城は、たった一人の女帝の言葉によって、音を立てて瓦解していた。




