第25話:冷笑のランウェイ
南青山の骨董通りに面したイベントホール「スパイラル・ガーデン」。
全面ガラス張りのエントランスには、先日のテレビ特番で放映された立花莉乃の巨大なポートレートが掲げられ、そこには金箔文字でこう踊っていた。
『ATELIER ARCA AUTUMN COLLECTION — NEO GOTHIC FAIRY』。
ホールを取り囲むように、大手百貨店、有力セレクトショップ、広告代理店、そしてテレビ各局からのスタンド祝花が幾重にも連なり、秋の爽やかな風に百合と薔薇の甘い香気を漂わせている。
午前十一時の開場とともに、会場の重厚な自動ドアが開かれた。
待ち構えていたかのように押し寄せる、トレンドに敏感なアパレル関係者、ファッション誌のライター、カメラを構えた取材クルー、そして間宮健二が事前に動員した数十名に及ぶ有名インフルエンサーたち。
フロアは一瞬にして華やかな熱狂で満たされ、ピンヒールの硬質な足音と、交わされる社交辞令のさざめきが天井高くまで反響していた。
「皆様、本日はアトリエ・アルカの新たな旅立ちにお越しいただき、誠にありがとうございます!」
会場中央、ウェルカムドリンクのシャンパンタワーの前で、神代俊樹は胸を張り、眩い笑みを振りまいていた。
纏っているのは、仕立て直させたばかりの艶やかなダークネイビースーツ。昨夜、地下倉庫で味わったあの嘔吐感と恐怖を微塵も感じさせない、完全なる「時代の寵児たる若き敏腕経営者」の顔だった。
俊樹の指示により、会場内の照明は全体的に三割ほど落とされ、間接照明と暖色系のピンポイントライトが多用されていた。
広州から届いたあのペラペラの安物ポリエステルと、歪んだカッティングを隠蔽するための演出。
さらに、フロア全体には高級フレグランスが惜しげもなく焚かれ、化学繊維特有のあの鼻を突く石油系の悪臭は、表面的には完全に掻き消されていた。
「神代社長! テレビ見ましたよ! 莉乃ちゃんを前面に出したプロデュース、大正解じゃないですか!」
「三ツ星百貨店の大和田フロア長も、奥のVIPブースで満足そうに頷いておられましたよ。今期の先行受注、億は確実でしょう!」
すり寄ってくるメディアや取引先の言葉に、俊樹の口角がだらしなく吊り上がる。
手にしたバカラのグラスを傾け、自らも冷えたシャンパンを喉へ流し込んだ。
(……見たか。間宮の言う通りだった)
俊樹は心の中で、誰に向けるともなく嘲笑を放った。
職人のプライド? 地の目の正確さ? そんなもの、この薄暗い空間と、シャンパンの酔い、そして熱狂的なブランドイメージの前には何の障壁にもならなかった。
誰も布地の厚みなど確認していない。
誰も縫い目の引きつれなど凝視していない。
大衆が買っているのは、立花莉乃という美しい記号であり、アルカという成功のストーリーなのだ。
「キャハハ! みんな、来てくれてありがとー!」
歓声の渦の中心で、立花莉乃が取材陣のカメラフラッシュを浴びていた。
彼女が纏っているのは、広州から届いたばかりのサンプルの中から、最も見栄えのするアシンメトリーな黒いフリルドレス。
だが、そのドレスは、間宮のアシスタントが裏から無数の安全ピンと両面テープを使い、莉乃の華奢な体型に合わせて強引にシルエットを絞り込んだ「ハリボテ」だった。
少しでも身体を激しく動かせば、ピンが外れて布が裂ける。しかし、莉乃はカメラの前で静止してポーズを取るコツを心得ていた。顎を引き、鎖骨を強調し、儚げな表情を作ってはフラッシュの雨を浴びる。
「莉乃さん、こちらに目線ください!」
「今回の『ネオ・ゴシック・フェアリー』、まさに新時代の幕開けですね! デザインのインスピレーションは、やはり深夜のアトリエで?」
テレビカメラのマイクを向けられ、莉乃は計算され尽くした無垢な微笑みを浮かべた。
「はい! 私、頭で考えるんじゃなくて、心が動いた瞬間のトキメキをそのまま形にするんです。今回のドレスも、女の子が本来持っている強さと、妖精のような儚さを布に託しました。……日本の伝統的な堅苦しいルールにとらわれず、もっと自由に、もっと可愛く! それが私の、新しいモードです♡」
パシャパシャパシャッ!
激しいシャッター音が鳴り響き、周囲を取り囲むインフルエンサーたちから「莉乃ちゃん可愛い!」「天才すぎる!」と黄色い歓声が飛ぶ。
莉乃は優越感に全身を浸し、シャンパングラスを掲げてウィンクしてみせた。
その光景を、壁際のブースから見つめていた間宮健二が、俊樹の肩をポンと叩いた。
「どうです、神代社長。私の言った通りでしょう? 世間なんてこんなもんですよ。服の中身がポリエステルだろうが、裏で糸がほつれていようが、誰も気にしちゃいない。莉乃ちゃんが笑えば、それだけで全部が金に化けるんです」
「ああ……本当に、間宮さんのおかげだ」
俊樹は安堵の息を漏らした。
「これで三ツ星の本契約も正式に決まる。銀行の追加融資も引き出せる。……アルカは、完全に過去を振り切ったんだ」
過去を振り切った。
つまり、あの神代詩織という、煙たくて地味な元妻の存在を、完全に自らの歴史から抹消できたのだと、俊樹は確信していた。
――だが。
その偽りの宴が、最高潮の熱狂に達した、まさにその瞬間だった。
ガラガラ、と重厚なエントランスの自動ドアが開き、会場内へと一筋の冷たい外気が吹き込んできた。
同時に、入口付近にいたファッションライターたちのざわめきが、まるでドミノ倒しのようにピタリと止まった。
「……え?」
「おい、嘘だろ……」
「まさか、あの人が本当に来るなんて……」
囁き声が波紋のように広がり、フロアの熱狂が急速に凍りついていく。
カメラマンたちが慌ててレンズの向きを変え、歓談していたバイヤーたちがグラスを持つ手を止めて直立した。
人混みが左右へと自然に割れ、一本の道が開く。
その中央を、コツ、コツ、と大理石の床を叩く鋭利な足音を響かせながら、一人の女性が歩み入ってきた。
九条志乃だった。
黒のスタンドカラーのロングコートを纏い、首元には一切のアクセサリーをつけず、ただ研ぎ澄まされた刃物のような美貌と、三十年の歴史を背負う圧倒的な威圧感を全身から放っている。
チタンフレームの眼鏡の奥にある瞳は、氷のように冷たく、会場内のシャンパンタワーも、溢れる祝花も、カメラのフラッシュすらも、まるで道端の塵芥を見るかのように一瞥もしていなかった。
その背後には、二人の屈強なアシスタントと、メモ帳を抱えた『VOGUEIL』のシニアエディターが無言で従っている。
「きゅ……九条編集長……!?」
俊樹の喉から、掠れた声が漏れた。
心臓がドキンと嫌な音を立てて跳ね上がる。
招待状は確かに送っていた。だが、前号で広告タイアップを断られ、アトリエ・アルカの企画を全面ボツにしたと聞いていたあの女帝が、まさか自らこの展示会場に足を運んでくるとは、夢にも思っていなかったのだ。
「俊樹さん! 九条志乃よ!」
莉乃が興奮した様子で駆け寄ってきた。
「やっぱり私のテレビ、見てくれたんだわ! 私の才能を認めざるを得なくなって、直々に取材に来たのよ! 行きましょ、挨拶しなきゃ!」
「あ、ああ……そうだな!」
俊樹は急いで表情を作り直した。
そうだ、怯える必要など何もない。現に会場はこれだけの熱狂に包まれ、三ツ星のバイヤーも絶賛しているのだ。九条志乃とて、この時代の空気を無視できるはずがない。ここで彼女を味方に引き込めば、アルカの地位は名実ともに不動のものとなる。
俊樹は会心の営業スマイルを浮かべ、莉乃を伴って九条志乃の前へと歩み出た。
「九条編集長! 本日はご多忙の中、我がアトリエ・アルカの秋の新作展示会にお越しいただき、心より光栄に存じます!」
俊樹が深々と頭を下げる。
隣で莉乃も、これ以上ないほど甘ったるい笑顔を向けた。
「初めまして、九条編集長! 立花莉乃です! 私、ずっと『VOGUEIL』のファンで、九条さんに私の新しい世界観を見てほしくて……!」
だが。
九条志乃は、立ち止まりすらしなかった。
差し出された俊樹の手を一瞥もせず、莉乃の言葉を空気の振動としてすら認識していないかのように、完全に無視して二人の横を通り過ぎた。
冷たい風が、二人の間を吹き抜ける。
「え……?」
莉乃の笑顔が引きつり、俊樹の差し出した右手が空中で固まった。
志乃の足は、会場の中央――一段高いステージの上にスポットライトを浴びて飾られていた、今回のコレクションの象徴たるメインディスプレイへと、真っ直ぐに向かっていた。
そこに展示されていたのは、莉乃が「完全オリジナル」と豪語し、欧州メゾンの最新作から丸ごとコピーさせた、あの黒いセットアップだった。
シルクシフォンとウールサテンを組み合わせたはずの、しかし実際には広州の工場で安物ポリエステルを使って粗製濫造された、アシンメトリーなジャケットとドレープスカート。
志乃は人台の前に立ち止まった。
周囲を取り囲む取材陣やバイヤーたちが、息を呑んでその一挙手一投足を見守る。
会場のBGMすら、音響スタッフが空気を察してボリュームを絞り、完全な静寂がフロアを支配していた。
志乃は無言のまま、コートのポケットから白いシルクの手袋を取り出し、両手にはめた。
一切の妥協を許さない、解剖医のような冷徹な所作。
そして――志乃の細い指先が、スポットライトに照らされたジャケットのラペル(下襟)へと、ゆっくりと伸ばされた。
「……あ」
俊樹の背筋を、氷の刃が撫で上げた。
喉がカラカラに乾き、冷たい汗がシャツの背中を濡らしていく。
照明を落とし、遠目から見せることで誤魔化してきた「布の死骸」。
その真実に、世界で最も肥えた、絶対的な審美眼の指先が、今まさに触れようとしていた。
志乃の指が、ラペルの端を軽く持ち上げ、裏返した。
わずか一秒。
その瞬間、志乃の眉根が、ほんの数ミリ、不快そうに寄った。
静寂の中、志乃の冷え切った声が、静かに落ちてきた。
「……お粗末ね」
その一言が放たれた瞬間、会場の空気が絶対零度まで凍りついた。
「え……?」
俊樹の口から、間抜けな声が漏れる。
志乃は振り返りもせず、手袋をした指先で、ジャケットの襟元から胸元へと流れるラインを無慈悲になぞった。
「芯地が浮いて気泡が入っているわ。接着芯の温度設定を間違えたのかしらね、生地の表面が火傷したように波打っている。……それだけじゃない。このアームホール、前身頃と後身頃の寸法がまったく合っていないわ。無理やりミシンで引っ張りながら縫い合わせたせいで、縫い目が引きつれ、縫い糸が生地の織り目を引き裂いている」
志乃の言葉は、まるで鋭利なメスのように、隠蔽されていた欠陥を次々と白日の下に抉り出していった。
「柄合わせすらされていない。チェックの地の目が、左右で五度も傾いているわ。……おまけに、この独特のアシンメトリーなドレープカッティング」
志乃はゆっくりと振り返り、眼鏡の奥から、俊樹と莉乃を射抜くような眼光を突きつけた。
「先月、ミラノで発表された某メゾンのファーストルックの、完全な焼き直しじゃないの」
「な……っ!?」
俊樹の顔から、完全に血の気が引いた。
心臓が止まるかと思った。
見抜かれた。
生地の粗悪さも、縫製の破綻も、そして何よりも、絶対に知られてはならない「海外メゾンの剽窃」という事実を、この女帝はわずか数秒で、寸分の狂いもなく看破してみせたのだ。
「い、いえ! 九条編集長、それは誤解です!」
俊樹は泡を食って駆け寄り、震える声で弁明を捲し立てた。
「焼き直しなどではありません! オマージュです! 世界の最新トレンドを意識しつつ、ここにいる立花莉乃の瑞々しいオリジナリティを融合させた、まったく新しい解釈でして――!」
「黙りなさい」
志乃の一喝が、俊樹の言葉を喉の奥へと叩き落とした。
声のトーンは決して高くはなかった。だが、その底に込められた怒りと侮蔑の重圧は、俊樹の膝をガクガクと震わせるのに十分すぎた。
「オリジナリティ? 盗作をオマージュと言い換えるその浅ましさこそが、三流の証拠よ」
志乃は一歩、莉乃の前へと歩み寄った。
莉乃は後ずさりしようとしたが、金縛りに遭ったように足が動かなかった。
「立花莉乃。テレビで拝見したわよ」
志乃の冷たい視線が、莉乃の顔を、そして彼女の「手」へと注がれる。
「『寝ている間にインスピレーションが降りてくる』? 『服はキャンバス』? ……笑わせないで。あなたのその滑らかな指先のどこに、布と格闘した痕跡があるの? 針の一本すら持ったことのない素人が、他人のデザインを切り貼りして、カメラの前で愛想を振りまくことのどこが『デザイナー』なのかしら」
「な……なによ、それ……!」
莉乃の顔が屈辱で真っ赤に染まった。
大勢のカメラと取材陣の前で、自らのプライドを土足で踏みにじられたのだ。
「九条さんかなんだか知らないけど、偉そうに言わないでよ! 私の世界観は、大賞を取った時だって絶賛されたのよ! ファンのみんなだって可愛いって言ってくれてるのに、古臭いオバサンの基準でケチつけないでよ!」
莉乃のヒステリックな叫び声が、ホールに響き渡る。
周囲のバイヤーたちの顔から血の気が引き、間宮が青ざめて後退るのが見えた。
志乃は怒るどころか、底知れぬ哀れみを含んだ冷笑を浮かべた。
「大賞ですって? あの『宵闇のプリマ』のことかしら」
志乃の声が、静かに落ちる。
「あのドレスの構造美を生み出したのが、あなた自身であるはずがないでしょう。……人体の可動域をミリ単位で計算し、重力を味方につけてあの奇跡のようなドレープを引いたのは、あなたのようなお人形さんじゃない。本物の職人よ」
志乃の言葉に、俊樹の喉が「ヒュッ」と息を詰まらせた。
触れてはならない真実。
詩織の名は出さずとも、志乃はすべてを正確に見抜いていたのだ。
「服に対する敬意も、着る人間への誠意もない」
志乃は人台のジャケットから完全に手を離した。
そして、手袋を外すと、ポケットから取り出した清潔なリネンのハンカチで、まるで汚れた油でも触ったかのように、自らの指先を丁寧に、念入りに拭った。
「布地の目を無視して裁断した、ただのゴミね」
残酷なまでの、完全な死刑宣告。
「……こんなものを誌面に載せたら、『VOGUEIL』の歴史に泥を塗るわ。二度と私の視界に、このブランドを入れないで」
志乃は踵を返した。
黒いロングコートの裾を翻し、一度も振り返ることなく、大理石の通路を出口へと向かって歩き出す。
その背中には、一切の迷いも、慈悲もなかった。
「ま、待ってください、九条編集長! お待ちを……!」
俊樹が縋り付くように追いかけようとしたが、志乃の背後に控えていた屈強なアシスタントに無言で遮られ、その場に立ち尽くすしかなかった。
バタン、とエントランスの自動ドアが閉ざされる。
残された展示会場には、死んだような静寂だけが横たわっていた。
メインディスプレイのスポットライトの下で、ポリエステルのジャケットが、安っぽい光を放ちながら不気味に歪んでいる。
取材陣のカメラはすでに下ろされ、大手百貨店のバイヤーたちの視線は、先ほどまでの熱狂から一転し、氷のように冷たい警戒と軽蔑の色へと塗り替えられていた。
女帝が下した断罪の刃。
それは、アトリエ・アルカの偽りの城を支えていた最後の柱を、容赦なくへし折った瞬間だった。




