第24話:失われたミリメートル
南青山の骨董通りから一本裏手に入った、アトリエ・アルカ本社の地下倉庫。
普段ならば、次のシーズンを待つ厳選された上質なイタリア製シルクや尾州のウール反物が湿度管理された空気の中で整然と眠っているはずのその場所は、今や冷たいコンクリートの底冷えと、神経を削るような沈黙に支配されていた。
地上へと続く非常階段の踊り場で、神代俊樹は爪を噛みながら、何十回目とも知れないスマートフォンの画面更新を繰り返していた。
展示会の開幕まで、あと四十八時間――二日を切っていた。
日曜日のテレビ特番がもたらした反響は、まさに社会現象と言える規模にまで膨れ上がっていた。
立花莉乃のSNSアカウントは、熱狂的な十代・二十代の女性たちからの賛美コメントで埋め尽くされ、三ツ星百貨店の外商部には「立花莉乃の新作を先行で手に入れたい」という富裕層の顧客からの問い合わせが殺到している。
外部から見れば、アトリエ・アルカは今まさに時代の頂点へと駆け上がろうとしている、飛ぶ鳥を落とす勢いの新進気鋭ブランドだった。
だが、その華やかな虚飾の真下で、俊樹の胃の腑は鉛を飲み込んだかのような激痛に苛まれていた。
――服が、ないのだ。
三ツ星百貨店のイベントスペース、さらには全国の主要セレクトショップのバイヤーやファッション誌のエディターたちを招く大規模な秋の新作展示会。
メインステージを飾るべき全十型、初期ロット計五百着の衣服が、開催二日前になっても、このアトリエには一着たりとも存在していなかった。
間宮健二が手配した広州の格安工場からの航空便は、成田空港の税関での書類不備と現地空港の貨物混雑に巻き込まれ、到着予定時刻を丸一日以上オーバーしていた。
「……来いよ。早く来いよ、クソッ……!」
俊樹の震える指先が、三ツ星百貨店の統括バイヤーからのメールをスクロールする。
『明日の朝十時より、品質管理室(QTEC)の担当官を同伴の上、展示サンプルの事前実査に伺います。事前検品証のない商品の展示は、本館規定により一切認められませんのでご留意ください』
冷徹な最後通牒。
もし服が届かなければ、その瞬間にすべてが終わる。
虚飾の城は白日の下に晒され、数千万円の違約金と、詐欺師としての汚名とともに破滅の奈落へ叩き落とされるのだ。
――ブババババッ、ズズズズ……。
その時、倉庫の外の搬入口から、重たいディーゼルエンジンのアイドリング音が響いてきた。
続いて、大型トラックのエアーブレーキが抜ける、けたたましいプシューという音がコンクリートの壁を震わせる。
「……来た!」
俊樹は階段を転げるように駆け下り、搬入口の重い鉄扉を力任せに跳ね上げた。
外の搬入用スロープには、泥に汚れた十トントラックが横付けされていた。
荷台の観音開きドアが乱暴に開け放たれると、中から作業着姿の屈強な男たちが、茶色の分厚い梱包用テープが何重にも巻かれた巨大な段ボール箱を、次から次へとフォークリフトのパレットの上へ放り出していく。
箱の側面には、中国語の簡体字で『特急服装出口・広州白雲区』と印字された送り状が雑に貼り付けられていた。
「おい、傷をつけるな! 丁寧に運べ!」
俊樹が怒鳴り声を上げるが、配送作業員たちは日本語の分からない外国人労働者ばかりで、俊樹を一瞥もせず、ドサリ、ドサリと埃の舞うコンクリート床の上へ段ボールを積み上げていく。
やがて、トラックが黒煙を吹き上げて走り去り、倉庫の搬入口が再び閉じられた。
フロアの中央にそびえ立つ、五十個を超える巨大な段ボールの山。
「……はぁ、はぁ……」
俊樹は膝に手をつき、荒い呼吸を整えながら、ポケットからカッターナイフを引き抜いた。
刃をカチカチと押し出す。
これさえ届けば、すべては解決するはずだった。
間宮の言う通り、多少の縫製の粗さがあろうとも、あの欧州のトップメゾンや人気ファストファッションのデザインを完璧にトレースした美しいシルエットさえ保たれていれば、三ツ星のバイヤーも、集まったメディアも丸め込める。
莉乃の顔と、テレビの熱狂があれば、すべては金に変わるのだ。
俊樹は一番手前の箱のテープに刃を突き立て、一気に引き裂いた。
――ビッ、ビリリリリッ!
段ボールの蓋が左右に開かれた、その瞬間だった。
「……ッ!?」
俊樹は激しくむせ返り、思わず両手で鼻と口を押さえて数歩後退った。
箱の中から噴き出してきたのは、服飾のアトリエでは到底あり得ない、暴力的な悪臭だった。
鼻腔の粘膜をチクチクと刺す、強烈な石油系のケミカル臭。
揮発性の粗悪な接着剤と、ホルムアルデヒドのツンとした刺激臭が、湿った埃の匂いとともに立ち込めてくる。まるで、閉め切ったプラスチック成型工場の排気ダクトの中に顔を突っ込んだかのようだった。
「な……何だ、この臭いは……!?」
俊樹は喉を押さえ、涙目になりながら箱の中を覗き込んだ。
箱の中には、薄いビニール袋に乱雑に詰め込まれた衣服が、まるで圧縮ゴミのようにぎゅうぎゅうに押し込められていた。
高級ブランドの納品で使われるような、型崩れを防ぐ薄紙も、不織布のカバーも何一つない。ただ、皺くちゃになったポリエステルの塊が、幾重にも折り畳まれて押し込まれているだけだった。
俊樹は震える手で、一番上のビニール袋を引き裂き、中から一枚のドレスを引っ張り出した。
立花莉乃が「私の世界観そのもの!」と絶賛し、欧州メゾンの最新作から丸ごとコピーさせた、コレクションの目玉であるアシンメトリーなドレープドレス。
――バサリ。
照明の下に広げられたその一着を目にした瞬間、俊樹の全身から、スウッと血の気が引いていった。
「……嘘だろ……?」
俊樹の手から、カッターナイフがポロリと床に落ちた。
カシャン、と乾いた金属音が響く。
そこに現れたのは、写真で見た優美なコレクションピースとは、似ても似つかない「何か」だった。
まず、生地が完全に狂っていた。
元となった欧州メゾンのドレスは、目付の重い最高級のシルクデシンが使われ、重力に従って息を呑むような優美なドレープを描く設計になっていたはずだった。
だが、俊樹の指先に触れたそれは、カサカサと耳障りな乾いた音を立てる、ペラペラの安物ポリエステルだった。
指でつまむと、安価なビニール傘の生地のように薄く、指紋が透けて見える。化学繊維特有の不自然なギラつきを放ち、蛍光灯の光を安っぽく反射していた。
「な、何なんだよこれ……! 生地が……生地の厚みが全然違うじゃないか……!」
俊樹は狂ったように、ドレスのディテールを確かめにかかった。
だが、目を凝らせば凝らすほど、現れるのは絶望的な欠陥の嵐だった。
縫製が、完全に破綻していた。
ミシンの送り歯の圧力が強すぎたのか、すべての縫い目が引きつれ、生地がミミズ腫れのように激しく波打っている(パッカリング)。
アームホールの底や、ウエストの切り替え部分からは、始末されていないポリエステルの縫製糸が、まるで蜘蛛の巣のようにあちこちからボロボロと飛び出していた。
左右の肩線の長さは目視でわかるほど非対称で、左の肩幅が右より二センチ以上も広い。
そして何より――致命的だったのは、「布の地の目(織り糸の方向)」だった。
服作りにおいて、布の縦糸と横糸が交差する「地の目」を正しく通すことは、建築における基礎工事と同じ絶対の掟である。
特にアシンメトリーなドレープドレスの場合、バイアス(斜め四十五度)の角度を正確に維持しなければ、重力によって布がねじれ、人間の身体に沿うことは絶対にない。
だが、このドレスは、コスト削減のために生地の用尺(使用量)を極限までケチり、型入れ(マーキング)を無視して適当な角度でレーザーカットされていた。
俊樹がハンガーに吊るした瞬間――ドレスの裾は、優美な螺旋を描くどころか、雑巾を絞ったかのように不気味にねじれ上がり、右前身頃が不自然に浮き上がって裏地が丸見えになってしまった。
「……失われている」
俊樹の唇が、ガタガタと震えた。
「ミリ単位の……計算が、全部……何一つ合っていない……!」
脳裏に、かつてアトリエの裁断台で作業していた神代詩織の姿が、鮮烈なフラッシュバックとなって突き刺さった。
詩織は、わずか零点五ミリの狂いすら許さなかった。
反物が入荷すれば、まず三日間かけて室温と湿度を馴染ませ、バキュームアイロンの高圧スチームで完全に地の目を正す「地直し」を行っていた。
方眼紙に引かれた鉛筆の線は、硬度2Hの芯を削り直し、髪の毛一本分のズレもなくハサミを滑らせていた。
なぜそこまで神経質になるのかと俊樹が問い詰めた時、詩織は静かに、こう答えていたのだ。
『俊樹さん、服の美しさはね、目に見えないミリ単位の骨格の中にしか宿らないのよ。一ミリの狂いが、着る人の可動域を奪い、重力と喧嘩して、服をただの布屑に変えてしまう。服に命を吹き込むのは、華やかな色やデザイン画じゃない。人体の構造に従順であるための、極限の幾何学なの』
あの時、俊樹はその言葉を「裏方のオタクじみた細かい理屈」と鼻で笑い、聞き流していた。
だが――今、目の前にあるのは、その「ミリ単位の骨格」をすべて失った服の、無残な死骸だった。
写真のシルエットだけを強引に真似て、構造の裏付けを一切欠いた布切れ。
それは、服と呼ぶことすら憚られる、グロテスクな粗大ゴミに過ぎなかった。
「……どうです、神代社長。無事に届いたようですね」
静まり返った地下倉庫に、革靴のコツコツという乾いた足音とともに、間宮健二が姿を現した。
イタリア製の派手なコートを肩に羽織り、指先で金のジッポライターを弄びながら、山積みになった段ボールを見上げて満足そうに目を細めている。
俊樹の全身の血管に、一気に沸騰した怒りの血が逆流した。
「間宮ッ!!」
俊樹は手にしたペラペラのドレスを、間宮の顔面目掛けて叩きつけるように突き出した。
「これを見ろ! これは一体何なんだ!? 写真と生地が全然違うじゃないか! シルクのはずが、ペラペラの安物ポリエステルだ! 縫い目は波打ち、糸は飛び出し、地の目が狂ってハンガーに吊るしただけで全体が歪んでる! おまけに、この鼻を突く異臭は何だ!? こんな石油臭い雑巾、誰が着られるって言うんだ!!」
俊樹の唾が飛び散る。
だが、間宮は眉一つ動かさなかった。
突きつけられたドレスを指先で軽く払い除けると、シガレットケースから煙草を抜き、悠然と火をつけた。
紫色の煙を俊樹の顔へ向けて吐き出す。
「……しょうがないでしょう、神代社長」
間宮の声は、どこまでも平坦で、冷酷な嘲笑に満ちていた。
「格安で、超短納期なんですから」
「な……んだと……!?」
「当たり前でしょう」
間宮は肩をすくめ、吐き捨てるように言った。
「たった八百万円の手付金で、二週間で五百着の服をサンプルから量産まで上げさせたんですよ? 本物のシルクや重厚なウールを使ったら、生地代だけで何千万円飛ぶと思っているんですか。工賃だって日本の十分の一以下だ。現地の工員が寝ずに適当にミシンを走らせて形だけ合わせたんです。糸の始末だの地の目だの、そんな細かいクオリティを求める方がお門違いってもんですよ」
「ふざけるな! 俺は展示会に出すと言ったはずだ!」
俊樹は間宮の胸ぐらに掴みかからんばかりに詰め寄った。
「明日の朝、三ツ星百貨店の品質管理室が事前実査に来るんだぞ! こんな縫製、QTECの検品を一秒たりとも通るはずがない! 一発で全量不合格、展示会は即時中止だ! どうしてくれるんだ!!」
「騒ぐんじゃないですよ、見苦しい」
間宮は俊樹の手を冷たく払いのけると、ネクタイを整え直した。その瞳には、ヤクザめいた獰猛な光が宿っていた。
「検品? 誰がQTECなんかに見せるって言いました? そんなもの、適当に理由をつけて『最終仕上げのプレス作業中につき、実査は当日の朝に会場で行う』とでも言って突っぱねればいいんですよ」
「当日の朝に見られたって同じだろうが!!」
「ごまかせばいいんですよ」
間宮はテーブルの上のアイロンを指差した。
「スチームアイロンをしっかり当てて、引っ張ってシワを伸ばすんです。そして、会場の照明を少し落とす。スポットライトを暖色系のムーディーなやつにして、遠目から見せるように配置すれば、生地の安っぽさなんて誰も気づきやしませんよ。……いいですか、神代社長。客が見に来るのはね、服の縫い目じゃないんです。あのテレビ特番で熱狂した『立花莉乃の世界観』を見に来るんですよ。莉乃ちゃんのネームバリューがあれば、どんなゴミだって飛ぶように売れるんです」
「そ、そんな誤魔化しが通るわけが……!」
「通すんですよ!」
間宮がドスの利いた声で俊樹の言葉を遮った。
「今さら後戻りできるとでも思っているんですか? この服を展示会に出さないなら、どうするんです? 今すぐ三ツ星に土下座して『服が用意できませんでした』って言って違約金払いますか? 明日の朝、手形を不渡りにして会社を潰しますか? ……やるしかないんですよ、神代社長。泥舟に乗った以上、沈むまで漕ぎ続けるしかないんです」
間宮の冷酷な宣告が、地下倉庫のコンクリート壁に重く反響した。
俊樹の喉が、ヒュッと息を詰まらせた。
逃げ場は、どこにもない。
自ら選んだ悪魔との契約。その代償が、この異臭を放つ粗悪品の山だった。
その時――倉庫の重い鉄扉が開き、甲高い足音が響いた。
「キャハッ! 届いたのね、私の新しいコレクション!」
現れたのは、立花莉乃だった。
白いファーのベストに身を包み、手にはスマートフォンを掲げた莉乃は、俊樹と間宮の凍りついた空気を意に介することもなく、段ボールの山へと駆け寄ってきた。
「莉乃……」
俊樹が掠れた声を漏らす中、莉乃は箱から別のドレス――黒いシフォンとポリエステルサテンを切り替えたロングドレスを無造作に引っ張り出した。
「うわぁ、可愛い〜! 見て俊樹さん、この肩のフリル! 超盛れるじゃん!」
莉乃は鏡の前でドレスを自分の身体に当て、スマートフォンで自撮りのアングルを確認し始めた。
そのドレスの脇下からは、十数センチにわたって縫製糸が飛び出し、左右のフリルの段数が一段狂っていた。生地は安っぽい石油の臭いをプンプンと放っている。
だが――莉乃の瞳には、その致命的な欠陥が何一つ見えていなかった。
「莉乃、お前……臭わないのか? この生地のペラペラさや、縫い目の引きつれが気にならないのか……?」
俊樹が呆然と問いかけると、莉乃は不思議そうに小首を傾げた。
「え? 何が? 全然気にならないけど? ちょっとシワがあるくらい、スチーム当てれば平気でしょ! 匂い? そんなの、私の使ってるディオールの香水をドバドバ振りかけとけば一発で消えるって!」
「香水を……振りかける……?」
「そうよ! 服なんて、写真で可愛く映ればそれで百点満点なの!」
莉乃は屈託のない、罪悪感の欠片もない笑顔で言い放った。
「明日、私がこのドレス着てインスタにリール動画上げるでしょ? 『明日の展示会、みんなに会えるの楽しみにしてるね♡』って。そしたら何万人も展示会に押し寄せてくるわよ! みんな私のセンスを買いに来るんだから、細かい縫い目なんて誰も見ないって! ねえ間宮さん、早くトラックに積み込んで会場に運ぼうよ!」
「さすが莉乃ちゃんだ。肝が据わっている」
間宮が下卑た笑みを浮かべて拍手した。
「聞きましね、神代社長。デザイナー本人がこう言ってるんです。グダグダ悩んでる暇はありませんよ。今夜中にこの五百着全部にスチームアイロンを当てて、南青山の展示会場へ搬入させます」
「検品は……?」
俊樹の唇が、乾ききった音を立てた。
「寸法測定も、針混入の金属探知機検査も、何一つ通していないんだぞ……」
「通すわけないでしょう」
間宮は冷笑した。
「検品ラインに回した瞬間、全量産業廃棄物行きですよ。……検品伝票なんて、私の息のかかった検査会社のハンコを適当に偽造して書類だけ揃えりゃいいんです。さあ、手を動かしてください。社長自らアイロンを踏む時間ですよ」
――検品を、一切通さない。
アパレル企業として、完全に死線を越える行為だった。
もし折れ針が一本でも混入していれば、顧客が怪我をすれば、警察沙汰になり、刑事責任を問われることすらある。
だが。
俊樹にはもう、拒絶する気力すら残っていなかった。
恐怖と、保身と、失いたくない虚栄の地位。
それらが俊樹の首を絞め上げ、理性の息の根を完全に止めていた。
「……分かった」
俊樹の口から、魂の抜けたような掠れ声が漏れた。
「運べ……。アイロンを当てて、展示会場へ搬入しろ……」
「よし、決まりだ!」
間宮が手を叩き、莉乃が歓声を上げた。
地下倉庫の冷え切った空気の中、大型のスチームアイロンから、シューッという耳障りな蒸気の噴射音が響き渡り始めた。
立ち上る熱気とともに、石油系の化学臭と、莉乃が乱暴に吹き付けた甘ったるい香水の匂いが混ざり合い、吐き気を催すような異様な悪臭となって倉庫を満たしていく。
失われたミリメートル。
人体の骨格を無視し、職人の魂を切り捨て、嘘と虚飾だけで固められた五百着の布の死骸。
それが今、時代の女帝・九条志乃が待つ、南青山の審判のランウェイへと向けて、音もなく運び出されようとしていた。
破滅の幕が上がるまで、あと三十六時間。
運命のカウントダウンは、すでに最終局面へと突入していた。




