第22話:悪魔の囁き
ミーティングルームのガラス壁の向こうを、怯えた様子のアシスタントたちが足早に行き交っていた。
俊樹は苛立ち紛れにブラインドのコードを乱暴に引き下げ、外からの視線を完全に遮断した。プラスチックの羽根がガチャガチャと耳障りな音を立てて閉ざされ、部屋の中に人工的な薄暗がりが落ちる。
「……場所を変えましょう。ここでは壁に耳があります」
俊樹の掠れた声に、間宮健二は口元を歪めてニヤリと笑った。
「賢明な判断ですね、神代社長。大人のビジネスの話は、鍵のかかる部屋でするのが鉄則だ」
三人は四階の役員室へと移動した。
重厚な防音扉を閉め、内側から電子錠のカンヌキを落とす。カシャリ、という重たい施錠音が、まるで自らを外の世界から切り離す檻の鍵のように、静まり返ったフロアに小さく響いた。
深紅のペルシャ絨毯が敷き詰められた役員室の中央、黒革の応接セットに間宮がどっかりと腰を下ろす。
間宮は胸ポケットから銀色のシガレットケースを取り出し、細身の煙草に火をつけた。立ち上る紫煙が、壁に飾られたアトリエ・アルカの歴代コレクションポスターを霞ませていく。その一番古いポスターの片隅には、まだ学生気分が抜けきらない俊樹と、その影で小さく微笑む詩織の若き日の姿が、小さく写り込んでいた。
「さて」
間宮は煙草を灰皿に押し当て、手元のタブレット端末を大理石のテーブルの真ん中へと滑らせた。
「先ほどの話の続きです。……神代社長、画面をよく見てください」
促され、俊樹は恐る恐る身を乗り出した。
隣では莉乃が、香水の匂いを振り撒きながら画面を覗き込んでいる。
液晶画面にフォルダ分けされて並んでいたのは、数百枚に及ぶ鮮明なスナップ写真と商品カタログのデータだった。
欧州最高峰のラグジュアリーメゾンが先月のミラノ・コレクションで発表したばかりの、アシンメトリーなドレープドレス。
パリの気鋭デザイナーが発表し、セレブリティの間で爆発的な人気を博している構築的なショートジャケット。
さらには、世界的なファストファッションの巨頭が世界中で何百万枚と売り捌いている、流行のシルエットを完璧に捉えたフレアトレンチコートやシアーブラウス。
「これらはすべて、現在進行形で世界のトレンドの最前線を走っている『正解』のデータです」
間宮は指先で画面をタップし、一枚のドレスのバックスタイルを拡大した。
「広州の白雲区にある、私の息のかかったアパレル工場連合……いわば地下サプライチェーンです。敷地面積は東京ドーム二個分、ミシンは三千台、現地工員が三交代制で二十四時間フル稼働している。……ここにこの画像データを一本の光回線で送る。それだけでいい」
「送るだけで……何ができるって言うんだ」
俊樹の喉が、引きつるように鳴った。
「写真からのリバースエンジニアリングですよ」
間宮は何でもないことのように、事も無げに言った。
「あそこの工場にはね、海外コレクションの写真を三方向から見るだけで、わずか四十八時間で完全な型紙を起こす『コピーパタンナー』が数十人常駐しているんです。人体の構造だの、ミリ単位の幾何学だのという面倒な理屈は全部すっ飛ばして、見た目のシルエットだけを完璧にトレースする職人たちですよ」
間宮の指が、机の上をトントンと叩く。
「型紙ができたら、次は生地の選定だ。工場のすぐ隣には、アジア最大の巨大生地市場がある。シルクに見える超極細のポリエステル、ウールに見えるアクリル混紡、本革に見える湿式PUレザー……ありとあらゆる『イミテーション素材』が、日本の十分の一の単価で山積みになっている。それを機械裁断で一気に切り出し、何千人もの工員が一斉にミシンを走らせる」
間宮は身を乗り出し、俊樹の濁った瞳を覗き込んだ。その距離はわずか数十センチ。煙草と安香水の入り混じった生温かい息が、俊樹の頬を撫でる。
「発注から二週間。……たった二週間で、三ツ星百貨店の展示会場を埋め尽くす数百着のサンプルと初期ロットが、コンテナに詰められて成田へ空輸されてきますよ。……もちろん、首元のタグはすべて、これに付け替えられてね」
間宮はクラッチバッグの内ポケットから、小さな透明ビニール袋を取り出し、テーブルの上へ放り出した。
中に入っていたのは、真新しい純白のサテンリボン。
そこには、見慣れたアルカ社のブランドロゴ――『ATELIER ARCA / DESIGNED BY RINO TACHIBANA』の文字が、美しいゴールドの刺繍で鮮明に刻まれていた。
「……タグの、付け替え(ネーム変え)……」
俊樹の指先が、ピクリと痙攣した。
寒気が、背筋を這い上がってくる。
それは――アパレル業界における、最も唾棄すべき禁忌だった。
他社が巨額の開発費とデザイナーの魂を削って生み出した意匠を、写真一枚で丸ごと盗用し、安価な粗悪素材で形だけを真似て、自社のブランドタグを縫い付けて高値で売り捌く。
明らかな著作権侵害。
意匠権の侵害。
そして、客に対する詐欺行為。
もしそれが公になればどうなるか。
三ツ星百貨店からの即時取引停止。
損害賠償請求。
業界からの永久追放。
そして、先代が三十年かけて築き上げてきた「アトリエ・アルカ」の看板は、ただの泥棒ブランドとして歴史の汚泥の中に沈むことになる。
「ま、間宮さん……それは、あまりにもリスクが……」
俊樹の額から、ダラダラと脂汗が噴き出した。
「もしパクリだとバレたらどうするんです!? 相手は欧州のメガメゾンや、世界的ファストファッション企業ですよ! 顧問弁護士が動いて訴訟にでもなったら、うちみたいな規模の会社など一撃で吹き飛ぶ……!」
「ハハハ! 神代社長、何を怯えているんですか!」
間宮は嘲笑を隠そうともせず、大理石のテーブルを平手で叩いた。
「訴訟? 誰が訴えるって言うんです? 海外の巨大メゾンが、極東の島国の中小アパレルの一展示会のルックを、わざわざ監視しているとでも思っているんですか? それに、ファストファッションなんてものはね、もともとお互いにパクりパクられで成り立っている業界なんですよ。袖の長さを三センチ変える、ボタンの数を一つ減らす、フリルの位置をわずかにずらす……それだけで『デザインの類似性に関する法的なグレーゾーン』に持ち込める。うちの法務がそのあたりの微修正は完璧に指示しますよ」
「ですが、生地の質が……! ポリエステルやアクリル混紡など、百貨店のバイヤーが一目見れば、安物だと見抜かれるんじゃ……」
「見抜けませんよ」
間宮は冷酷に言い切った。
「今の中国のケミカルテキスタイルの技術を舐めちゃいけません。会場の照明を少し落とし、スポットライトを暖色系にして、しっかりとスチームアイロンを当てておけば、素人どころか大半の仕入れ担当者には本物のシルクやウールとの区別なんてつきやしませんよ。……いいですか、神代社長。今、あなたの会社に『服の質』を気にする余裕なんてあるんですか?」
間宮の低く、鋭利な声が、俊樹の心臓を直接鷲掴みにした。
「国内の縫製工場にはすべて断られた。腕利きのパタンナーは全員逃げ出した。手元には一着のサンプルもない。……このまま来週を迎えれば、どうなります? 三ツ星百貨店のメインステージに穴を開け、億単位の違約金を請求され、銀行の融資枠は即日凍結、手形は不渡り、アトリエ・アルカは今月末で破産だ」
間宮は冷たい笑みを浮かべ、俊樹の胸元を指差した。
「あなたは自己破産し、この青山の一等地から着の身着のままで追い出される。港区のタワーマンションも差し押さえられ、業界の笑い者になりながら、日雇いのバイトでも探して余生を過ごすことになる。……その未来と、ほんの少し『海外のトレンドを参考にした服』を中国で仕立てて展示会を乗り切ること。どちらがあなたにとって致命的ですか?」
「うっ……、く……」
俊樹の喉から、押し殺した呻きが漏れた。
反論できなかった。
間宮の突きつけた現実は、一分の隙もない断頭台だった。
プライド? 職人の倫理? ブランドの誇り?
そんなものは、億単位の借金と自己破産の恐怖の前には、何の役にも立たない紙屑に過ぎなかった。
失いたくない。
この南青山の社長室を、西麻布で豪遊する夜を、業界のセレブとしてもてはやされるこの甘美な地位を、絶対に手放したくない。
その時だった。
「ちょっと俊樹さん! 何をウジウジ悩んでるのよ!」
甲高い、苛立ちに満ちた声が役員室に響いた。
立花莉乃だった。
彼女はテーブルの上のタブレットをひったくるように持ち上げると、欧州メゾンのドレスの写真をスワイプしながら、目をキラキラと輝かせていた。
「これ、めちゃくちゃ可愛いじゃん! 最高じゃない! この袖のボリューム感とか、裾のアシンメトリーなカッティングとか、まさに私が頭の中で思い描いてた『ネオ・ゴシック・フェアリー』の世界観そのものよ!」
「り、莉乃……? お前、何を言って……」
俊樹が唖然として見つめる中、莉乃は屈託のない、罪悪感の一欠片すら存在しない無邪気な笑顔で言い放った。
「何がパクリよ! 『インスパイア』よ! 世界の最先端のトレンドを、立花莉乃のフィルターを通して日本のアパレルに落とし込んであげたの! オマージュって言えばいいじゃない! 海外のデザイナーだって、昔のヴィンテージからインスパイアされて服を作ってるんでしょ!? 私がやったらパクリになるなんて、言いがかりもいいところだわ!」
莉乃は俊樹の腕に抱きつき、上目遣いで甘えるように身体を揺すった。
「ねえ、俊樹さん! 間宮さんの言う通りにしようよ! 長谷川のオッサンが引いたカビの生えた型紙より、こっちの海外の服の方が何百倍もインスタ映えするし! 生地がポリエステルだっていいじゃない、軽くて動きやすいってアピールすればいいんだし! ファンはね、生地の織り目なんて見てないの! 私が『これ超お気に入り♡』ってタグ付けして自撮りを載せれば、それだけで三万円でも五万円でも飛ぶように売れるんだから!」
「莉乃ちゃん、さすがだ。話が早くて助かるよ」
間宮が満足そうに目を細め、パンと手を打った。
「これですよ、神代社長。現代のビジネスに必要なのは、このスピード感と割り切りなんです。古い職人気質に縛られて潰れていったブランドを、私はこれまで何百と見てきました。生き残った者だけが勝者なんですよ。……展示会さえ無事に成功させて、三ツ星の別注枠を予定通り受注し、テレビの特番で莉乃ちゃんを『新世代の旗手』として大々的に売り出せば、売上は数億円に化ける。そうなれば、中国の工場に払う小銭なんて、誤差みたいなものですよ」
間宮の甘い毒を含んだ言葉。
莉乃の欲に塗れた無邪気な後押し。
二つの声が、俊樹の頭の中で激しく反響し、残されていたわずかな理性の防壁を、跡形もなく押し流していく。
(……そうだ)
俊樹の心臓の鼓動が、急速に熱を帯びていく。
(誰も気づき配しない。海外のコレクションの写真を少しアレンジしただけで、展示会を乗り切ればいいんだ。売れてしまえば、金が入ってしまえば、こちらの勝ちだ。……詩織がいなくなったからって、俺の会社が傾いてたまるか。あいつがいなくても、俺には間宮の人脈がある。莉乃の拡散力がある。俺は……俺のやり方で、業界の頂点へ駆け上がってやるんだ!)
俊樹の脳裏を一瞬、あの雨の夜の詩織の冷たい瞳がかすめた。
『私のアイディアがなければ、あなたたちは服の一着も作れない』
かつて無言の背中が語っていたあの呪いを、力づくでへし折ってやりたかった。
どんな手を使おうが、どんな泥を啜ろうが、アルカが巨大な利益を叩き出し続ければ、自分の正しさが証明されるのだ。
「……間宮」
俊樹の声から、震えが消えていた。
濁った瞳の奥に、引き返すことのできない暗い光が宿る。
「広州の工場への手付金は、いくら必要だ」
「全十型のサンプル製作と、初期ロット各五十着の量産ライン確保。……急ぎの特急料金と、私のハンドリング手数料を含めて、現金で八百万円です」
間宮は待っていましたとばかりに、懐から一枚の請求書を取り出した。
「明日の正午までに、香港の私のペーパーカンパニーの口座へ着金させてください。入金を確認し次第、今夜中に広州のラインを全開で動かします」
八百万円。
現在のアトリエ・アルカの当座預金口座に残された、ほぼ全額だった。
これを出せば、来月の社員への給与支払いや、オフィスの賃料の支払いは完全に綱渡りになる。
だが、俊樹の指先に躊躇いはなかった。
「……分かった。明日、朝一番で振り込ませる」
俊樹はテーブルの上に両手を突き、間宮に向かって深く、力強く手を差し出した。
「頼む、間宮。……来週の展示会、何が何でも間に合わせてくれ。アルカの命運を、お前に預ける」
「ええ、任せてください、神代社長」
間宮は下卑た笑みを浮かべ、俊樹の差し出した右手を、ぬめりとした感触で固く握り返した。
その握手は、かつて服飾の美を志した経営者が、魂を悪魔に売り渡した契約の儀式だった。
「キャハハ! やったぁ! これで展示会は大成功間違いなしね!」
莉乃が歓声を上げ、俊樹の頬にキスをした。
「ねえ俊樹さん、今夜はお祝いしなきゃ! 西麻布の寿司屋、予約取ってよ! 間宮さんも一緒に行きましょ!」
「ああ、行こう。今夜はアルカの新しい船出だ」
俊樹は虚ろな万能感に包まれながら、力なく笑った。
窓の外では、南青山の夜空を冷たい秋風が吹き抜けていた。
役員室のテーブルの上には、海外ブランドの切り抜き写真と、中国の格安工場への発注書、そして偽りのブランドタグが無残に散らばっている。
服の骨格を失い、職人の魂を捨て去り、他人の褌で偽りの光を纏おうとする泥舟。
その船底にはすでに、決定的な大穴が開いていた。
彼らが自ら選んだその近道こそが、やがて九条志乃という絶対の審判者の前で、そして何よりも、正体を隠した元妻・神代詩織の前で、自らを完全に処刑するための「一本道」であるとも知らずに。
アトリエ・アルカは、完全に一線を越えた。
破滅への時計の針が、狂ったような速度で、チッ、チッ、と音を立てて進み始めていた。




