第21話:破綻のカウントダウン
南青山の一等地にそびえるアトリエ・アルカのミーティングルームは、重苦しい焦燥と、鳴り止まない電子音の嵐に包まれていた。
――プルルルル、プルルルル。
――プルルルル、ガチャ。
「はい、アトリエ・アルカでございます……あ、三ツ星百貨店の大和田様! い、いえ、社長の神代はただいま他社様との最終調整に入っておりまして……はい、秋の展示会用サンプルでございますね? 進行は順調と伺っております! ええ、ええ、ご期待を裏切るようなことは決して……はい、折り返しお電話を差し上げさせますので……!」
受話器を置いた女性アシスタントが、真っ青な顔でその場にへたり込んだ。
ここ数日、オフィスの固定電話はまるで故障した警報機のように鳴り続けている。相手はすべて、三ツ星百貨店の本館フロア長、大手セレクトショップの統括バイヤー、そして先日のジャパン・モード・クリエイション大賞を見て巨額の先行発注枠を押さえたアパレル商社だった。
誰一人として、呑気な世間話などしてくれない。
『一次サンプルの納品期限は昨日だったはずだ。どうなっている?』
『プレス向けの内覧会まであと二週間を切っているんだぞ。現物も確認できないブランドに、一等地を空けて待てというのか?』
矢の如く降り注ぐ督促の言葉は、日を追うごとに冷徹さを増し、最後通牒の色彩を帯び始めていた。
ガラス張りのミーティングルームの奥、長大なウォールナットの会議テーブルの真ん中で、神代俊樹は頭を抱え、脂汗の浮いた額を両手で強く押さえつけていた。
上質なイタリア製スーツの襟元は乱れ、ネクタイは無様に緩められている。
テーブルの上には、昨夜遅くに外部のフリーランスパタンナーからバイク便で納品されたばかりの、ロール状の型紙用紙が何本も散乱していた。
「……おい。これは何かの冗談か?」
俊樹の喉から、掠れた怒声が絞り出された。
テーブルの反対側に立つアシスタントパタンナーの青年が、怯えたように肩をすくめる。
「じ、冗談ではありません……。長谷川さんが辞められた後、クラウドソーシングと業界のツテで急遽かき集めた外注パタンナー三名に、莉乃さんのデザイン指示書を渡して引いてもらったパターンです。ですが……」
「ですが、何だ! 言いたいことがあるならハッキリ言え!」
俊樹が机を拳で叩いた。
ドォン、と重たい衝撃音が響き、広げられた型紙がバサバサと跳ねる。
「……組み立てられないんです」
アシスタントは消え入りそうな声で、しかし残酷な事実を口にした。
「前身頃と後身頃の脇線の長さが、左右で三センチも違っています。襟ぐりのカーブと襟腰の寸法がまったく合っていなくて、布を無理やり引き伸ばして縫い合わせなければ襟が立ちません。それに、この袖……アームホールの底の位置が下がりすぎていて、仮縫いのシーチングをトルソーに着せただけで、肩口がひきつれて裂けてしまいました」
「修正させろ! 外注に電話して、今すぐ図面を引き直させれば済む話だろうが!」
「無理です! その外注パタンナーたちからも、今朝方、契約解除のメールが届きました……! 『いただいたデザイン画はただの海外コレクションのコラージュで、立体としての寸法指定が何一つない。こんな落書きから服の構造をゼロから作り直すのはパタンナーの仕事ではない。これ以上付き合えばこちらの信用に関わる』と……!」
「落書きだと……!?」
俊樹の視界が、怒りと屈辱で真っ赤に染まった。
落書き。
それは、長谷川が辞表を叩きつける寸前に吐き捨てた言葉と、まったく同じだった。
俊樹の視線が、テーブルの隅に放り出された一枚のボードへと突き刺さる。
立花莉乃が『ネオ・ゴシック・フェアリー』と名付けた、秋のコレクションのメインピースの企画書だ。
そこには、ピンタレストから無断で印刷した海外セレブのドレスの写真、パリコレのランウェイの切り抜き、そしてラメ入りのピンクのカラーペンで殴り書きされた意味不明な指示が並んでいた。
『もっとフワッと! 雲の上にいるみたいにボリューム出して!』
『肩はギリギリまで落として華奢見え♡』
『歩くとキラキラ光って、絶対にインスタでリール映えするやつ!』
寸法はない。
生地の厚みに対する考慮もない。
地の目(織り糸の方向)の指定も、芯地の貼り分けも、ボタンホールの位置すら書かれていない。
ただの、欲望を切り貼りしただけの紙屑。
かつて――神代詩織がこのアトリエにいた頃は、こんな事態など一度たりとも起きなかった。
莉乃がどれほど無茶苦茶な切り抜きを持ってこようとも、どれほど我儘なニュアンスを喚き散らそうとも、翌朝には寸分の狂いもない立体裁断のトワルが組み上がり、職人が一目で理解できる完璧な縫製仕様書がデスクの上に整然と積まれていたのだ。
詩織は、人体の筋肉の動きを知り尽くしていた。
重力と布の摩擦を計算し尽くしていた。
だからこそ、俊樹は何の苦労もなくその完成品を持ち出し、自分の手柄として大手百貨店に売り込み、業界で「気鋭のプロデューサー」としてチヤホヤされることができたのだ。
だが、その心臓部を担っていた女を、自分自身の言葉で追い出した。
『お前はただ言われた通りにミシンを踏んでいただけの作業員だ』
『誰のおかげで今まで飯が食えたと思ってる? 能無しの寄生虫が』
あの雨の夜に投げつけた言葉が、冷たい鉛の塊となって、俊樹の胃の腑をじくじくと焼き焦がしていた。
代わりなど、いくらでもいるはずだった。
金を払えば、外注の職人などいくらでも手足のように使えるはずだった。
だが、現実は違った。
詩織の引いていた線は、替えの利く歯車などではない。世界中を探しても一握りの人間しか到達できない、神業の領域だったのだ。
その事実を認めることは、神代俊樹という男のこれまでの人生、そしてプライドのすべてを否定することに他ならなかった。
「……チッ、使えない奴らばかりだ! 型紙の辻褄くらい、現場の縫製工場で縫いながら合わせさせろ! 秋田の提携工場はどうした!? 新潟のニット工場は!?」
俊樹が怒鳴りつけると、アシスタントは今にも泣き出しそうな顔で首を横に振った。
「そ、それも……全滅です。先ほど、秋田の縫製工場の工場長から直談判の電話がありまして……」
「何だと? 何て言ってきた!?」
「『送られてきたパターンと仕様書を見たが、前後の寸法が合っておらず、無理にミシンを通せば針が折れる。ウールとシフォンの縫い合わせも、縮率の計算が狂っているため、一度スチームアイロンを当てただけで縫い目が引きつれて波打ってしまう。こんな粗悪な仕様書で縫えば、うちの工場の看板に傷がつく。全量返品するから、他を当たってくれ』と……」
「契約違反だろうがッ!! 工賃は払うと言ってあるはずだ!」
「先方は『違約金を払ってでも受けられない』と頑なで……! 長谷川さんが辞められたという噂が業界内に広まっていて、国内の優良な縫製ラインは、どこもアルカの仕事を受けるのを露骨に嫌がっているんです……!」
「くそっ……! どいつもこいつも、長谷川、長谷川と……! あの老害め、辞めてからも俺の足を引っ張りやがって!」
俊樹はテーブルの上の灰皿を薙ぎ払った。
ガシャァン! と甲高いガラスの破片が飛び散り、吸い殻が絨毯の上に散乱する。
アシスタントが悲鳴を上げて後退る。
その修羅場の空気を切り裂くように、ミーティングルームの引き戸が勢いよく開け放たれた。
「ちょっとぉ! 俊樹さん! どういうことよこれ!!」
甲高いヒステリックな金切り声。
入ってきたのは、全身をハイブランドの新作で固めた立花莉乃だった。
サングラスを額に押し上げ、怒りで顔を真っ赤にした彼女は、手にしたスマートフォンを俊樹の鼻先へと突きつけた。
「三ツ星百貨店の公式アプリ見た!? 来週のポップアップの告知ページ、うちの『ネオ・ゴシック・フェアリー』のメイン画像がグレーアウトされて『画像準備中』になってるんだけど! フォロワーから『莉乃ちゃんの新作、本当に出るんですか?』ってDMが何百件も来てるのよ! 恥かかせないでよ!」
「莉乃、お前……少しは静かにしろ! 今、こっちはそれどころじゃないんだ!」
「それどころじゃないって何よ!? 私のコレクションでしょ!? 私の展示会でしょ!?」
莉乃はドカドカとハイヒールを踏み鳴らし、俊樹の胸元に人差し指を突き立てた。
「キー局のテレビ密着だって決まってるのよ!? 私がアトリエで優雅に指示を出して、出来上がった最高のドレスを着てランウェイを歩く姿を撮る約束なの! なのに、なんでまだサンプルが一着も上がってきてないわけ!? 縫製工場がどうとか、パタンナーがどうとか、そんなの社長のあんたが土下座してでも解決しなさいよ!」
「土下座して済むならとっくにしてるわ!!」
俊樹もついに怒声を張り上げた。
「工場の連中が『こんな型紙じゃ縫えねえ』ってサジを投げてんだよ! お前が描いてきたあの杜撰な切り抜きコラージュのせいでな!」
「はぁあ!? 私のせいにする気!?」
莉乃の目が吊り上がった。
「私のデザインは完璧よ! ジャパン・モード・クリエイション大賞を取った時だって、同じように指示を出したじゃない! あの時はちゃんと綺麗なドレスになったのに、なんで今回はできないのよ!? あんたの会社のスタッフが無能だからでしょ! 工場の職人どもの腕がヘボいからでしょ! 私の天才的なインスピレーションを形にできない三流どもを雇ってるあんたの責任じゃない!!」
「お前……いい加減にしろよ……!」
「いい加減にするのはあんたよ! もし展示会に服が間に合わなかったら、私のモデルとしてのキャリアはどうなるの!? インスタで大口叩いちゃったのに、嘘つきって叩かれるじゃない! 違約金だって何千万円も発生するんでしょ!? どうするのよ俊樹さん! ねえ、どうするのよ!!」
莉乃は俊樹のスーツのラペルを掴んで激しく揺さぶった。
マニキュアの爪が俊樹の首筋に食い込み、チクリとした痛みが走る。
甘えた声で「俊樹さん大好き♡」と囁いていた女の顔はそこにはなく、自らの虚栄心と保身のためだけに男を貪り食う、浅ましい肉食獣の形相がそこにあった。
俊樹は息が詰まりそうだった。
頭の中で、計算機がけたたましい音を立てて絶望的な数字を弾き出している。
三ツ星百貨店のイベント中止による違約金、三千万円。
生地屋に発注してしまった特注シルクの仕入れ代金、二千五百万円。
テレビのタイアップを仲介した広告代理店へのキャンセル料、一千五百万円。
そして――何よりも、一度でも「納期遅延と欠陥」で百貨店に見限られれば、業界内でのアトリエ・アルカの信用は完全に消滅する。メインバンクからの融資は引き揚げられ、会社は一撃で倒産だ。
「……終わりだ」
俊樹の口から、乾いた呟きが漏れた。
「もう……間に合わない。国内の工場はどこも受けない。今から仕様書を引き直す時間もない。……終わりだ……」
俊樹が力なく椅子にへたり込み、頭を抱えた、その時だった。
「――おやおや。随分とお通夜のような空気ですね、神代社長」
部屋の入り口から、ねっとりとした、嘲笑を含んだ男の声が響いた。
二人がハッと顔を上げる。
そこに立っていたのは、イタリア製のド派手なストライプスーツを着流し、金の腕時計をジャラつかせたプロデューサー――間宮健二だった。
間宮は口元に薄ら笑いを浮かべ、手にした革のクラッチバッグを脇に抱えながら、優雅な足取りで散らかったミーティングルームへと入ってきた。
床に落ちていた型紙用紙を、磨き上げられた革靴の先で無造作に踏みつけながら。
「間宮さん……」
俊樹が縋るような目を向けた。
「聞いての通りです。国内の縫製工場にすべて断られました。型紙も破綻している。……来週の展示会、もう間に合いません。中止にするしか……」
「中止? 冗談でしょう、神代社長」
間宮はソファの背もたれに腰掛け、細い煙草を取り出して火をつけた。
紫色の煙が、静まり返った部屋に漂う。
「三ツ星百貨店の本館一階を押さえるのに、私がどれだけ各方面に頭を下げたと思っているんですか? テレビ局のプロデューサーにも、私の顔で枠を空けてもらったんですよ。今さら『服が間に合わないのでやめます』なんて言ってみなさい。業界のブラックリスト入りどころか、私のメンツを潰した落とし前をつけてもらうことになりますよ?」
間宮の瞳の奥に、ヤクザめいた冷酷な光が走る。
俊樹の背筋を、ツッと冷たい汗が流れ落ちた。
この男は、華やかなインフルエンサービジネスの裏で、グレーな裏社会の資金や海外の怪しげなブローカーと深く繋がっていると噂されていた。敵に回せば、会社が倒産するだけでは済まない。
「で、ですが間宮さん! 服がないんです! 縫ってくれる工場がないのに、展示会など開きようが――」
「だから言ったでしょう?」
間宮は煙草の灰を床にトントンと落とし、ニヤリと口角を吊り上げた。
その笑みは、溺れかけている人間に、毒入りの浮き輪を差し出す悪魔のようだった。
「国内の頑固な町工場なんて、最初から使うのが間違いなんですよ。『職人のプライド』だの『人体の構造』だの、時代遅れの理屈ばかり並べて納期を遅らせるような化石どもは、今すぐ全部切っちゃえばいいんです」
「切る……? 切って、どうするんですか?」
「いい抜け道があるんですよ、神代社長」
間宮はクラッチバッグのジッパーを開け、中から一台の最新型のタブレット端末を取り出した。
そしてそれを、俊樹と莉乃の前のテーブルへと、滑らせるように置いた。
画面に表示されていたのは、中国語と英語が入り混じった、見慣れない海外のチャットアプリの画面だった。
「私の息のかかった、中国・広州にある巨大なアパレルアセンブリ工場です。従業員五千人、二十四時間体制でミシンが稼働している。……ここに頼めば、日本の工場の五分の一のコストで、しかもどんな無茶な短納期でも、一週間で何千着という服を仕立てて空輸してくれますよ」
「広州の……格安工場……?」
俊樹が息を呑んだ。
「そう」
間宮は身を乗り出し、俊樹の耳元で甘く、毒を含んだ声で囁きかけた。
「型紙の狂い? 仕様書の不備? そんなもの、彼らには何の関係もありませんよ。彼らが欲しがっているのは、日本の職人が引いた面倒くさい幾何学の図面なんかじゃない。……もっとシンプルで、確実で、手っ取り早い『素材』ですよ」
間宮の指先が、タブレットの画面をスワイプした。
そこに映し出された画像を見た瞬間、俊樹の呼吸が止まった。
それは――先月ミラノやパリのプレタポルテで発表されたばかりの、欧州トップメゾンの最新作コレクションのルック写真、そして海外の有名ファストファッションブランドが世界中で爆発的に売り上げているトレンチコートやワンピースの、高解像度の製品画像だった。
「間宮さん、これは……」
「簡単ですよ、神代社長」
間宮の唇が、歪んだ三日月を描いた。
「この画像を、そのまま広州の工場に送るんです。あそこには、写真を見るだけで二日でそっくりのコピーパターンを型起こしする専門の部隊がいる。……あとは、出来上がった服の首元に、『アトリエ・アルカ』のブランドタグを縫い付けるだけだ」
部屋の空気が、凍りついた。
それは――正真正銘の、完全なる剽窃。
ファッションデザイナーとして、そして服を作る企業として、決して踏み越えてはならない最後の一線だった。
俊樹の喉仏が、ゴクリと音を立てて上下した。
破滅への入り口。
だが、その向こうには、今まさに自分を押し潰そうとしている違約金と倒産の危機から逃れられる、唯一の蜘蛛の糸が垂れ下がっていた。
悪魔の囁きが、絶望の淵に立つ男の理性を、急速に麻痺させていく。




