第20話:Who is L'OMBRE?
その雑誌が書店の平台とラグジュアリーホテルのラウンジ、そして世界中のエディターたちのデスクに並んだ瞬間、日本のファッション界が長年守ってきた予定調和の秩序は、音を立てて粉々に砕け散った。
モード誌『VOGUEIL』日本版、十一月号。
普段ならば名だたる欧州メガメゾンの専属モデルが独占するはずの表紙を飾ったのは、モデルの顔ですらなかった。
深海の闇を切り取ったかのような、青みがかった漆黒のウールジャケット。
木製の人台に着せ付けられたその一着は、一切の装飾を削ぎ落としながらも、まるで生き物が静かに息を潜めているかのような異様な気品を放っていた。
そして、表紙の中央に刻まれた銀色の箔押しタイポグラフィ。
――『布と人体の完全な調和――突如現れた覆面ブランド「L'OMBRE」が示す、失われた服飾の神髄』。
巻頭十ページに及ぶ大特集。
執筆者は、辛口批評で世界中のメゾンを震え上がらせてきた女帝・九条志乃その人だった。
志乃が紡ぎ出した文章は、賞賛という生ぬるい言葉を遥かに超え、現代のアパレル産業に対する容赦なき告発文であり、名もなき『影(L'OMBRE)』に対する熱烈な賛美歌だった。
『……我々はこの数十年、何を纏ってきたのか。記号化されたロゴ、インフルエンサーの作り笑顔、そしてワンシーズンでゴミ箱へと消える脆弱な化学繊維。流行という名の集団催眠に踊らされ、服というものが本来持っていた「人体の尊厳を支える建築物」としての神髄を、完全に忘却していたのではないか。
だが、ここに奇跡がある。
突如として現れた覆面ブランド「L'OMBRE」のテーラードジャケットに腕を通した瞬間、私は己の皮膚が、重力から解放される戦慄を覚えた。
人体の骨格をミリ単位で捉えた立体裁断。呼吸に合わせて開閉する幾何学的なダーツ。日本の伝統的なションヘル織機で空気を含ませて織り上げられた極上の二重織りウール。そして、手縫いの毛芯据え付けに代表される、失われしクチュール技術の極致。
この服は、誰が着ているかを誇示するための道具ではない。着る者の魂を、孤高の光へと昇華させるための漆黒の鎧である。
デザイナーの素性は一切明かされていない。だが、私は断言する。この「影」こそが、偽物の跋扈する現代のファッション界に引導を渡す、真の巨星であると――』
雑誌の発売と同時に、インターネットの海は未曾有の津波に飲み込まれた。
前回のファーストコレクション三百着がわずか四分間で完売したという怪情報と、九条志乃による異例の巻頭大絶賛。二つの起爆剤が同時に投下された結果、熱狂は国境を越えて爆発した。
X(旧Twitter)では、ハッシュタグ『#WhoisLOMBRE』が、ロンドン、パリ、ニューヨーク、そして東京で同時にトレンド世界第一位を叩き出した。
『VOGUEIL読んだ。あの九条志乃がここまで手放しで絶賛するなんて、過去三十年間で一度もないぞ』
『表紙のジャケットの袖付けを見ろ。アームホールのイセ込みが異常な精度だ。本当に現代の既製服なのか?』
『サックス・フィフス・アベニューの友人が言ってた。L'OMBREのジャケットを着たバイヤーが歩いた瞬間、展示会場の空気が凍りついたって』
『デザイナーは一体誰なんだ? パリコレを引退した伝説のクチュリエが極秘裏に立ち上げたのか?』
『いや、日本の人間国宝級の仕立て屋が、海外の巨大資本と組んで仕掛けたプロジェクトに違いない』
『頼むから再販してくれ。定価の倍を払うから一着譲ってくれ』
顔も出さない。
素性も明かさない。
ただ服の構造美だけで世界をねじ伏せた『L'OMBRE』の存在は、神話の領域へと駆け上がっていた。
その狂乱の震源地から遠く離れた墨田区の町工場――佐伯縫製では、相変わらず穏やかで、しかし研ぎ澄まされた日常が続いていた。
作業台の上で、神代詩織は愛用の「庄三郎」の裁ちバサミを手に、静かに布地を裁ち進めていた。
ジャキッ、ジャキッ、と鋼が繊維を断ち切る心地よい音だけが響く。
手元には、九条志乃が執筆した『VOGUEIL』の最新号が一冊、作業台の隅に無造作に置かれていた。
朋香が「家宝にする!」と叫んでコンビニで五冊買い込んできたものの一冊だ。
「……詩織、本当にいいの? インタビューの回答、あんなに淡々としてて」
隣でアイロンを握っていた朋香が、心配そうに尋ねてきた。
志乃から送られてきた熱烈な質問状に対し、詩織がレオンを通じて返したのは、わずか数行の無機質なテキストだけだった。
『服に語らせるべきことは、すべて縫い目の中にあります。作り手の個人的な感情や人生を付加価値にするつもりはありません』――それだけ。
「いいのよ、朋香」
詩織はハサミを止めず、穏やかな声で答えた。
「九条編集長は本物の審美眼を持っているわ。だからこそ、余計な感傷やドラマを語れば、服の純度が濁ってしまう。沈黙を貫くことこそが、あの人に対する最大の誠意よ」
「それにしてもさあ……」
型紙の整理をしていた長谷川が、眼鏡の奥の目を細めて笑った。
「ネットじゃ『引退したフランスの巨匠』だの『下町の老テーラー』だの、好き勝手な噂が飛び交ってるよ。まさか、二十代の女性が、墨田区の町工場で長谷川のオッサンとミシン踏んで作ってるとは、世界中の誰も夢にも思っちゃいないだろうね」
「ふふっ、そうね」
詩織の唇に、静かな笑みが浮かんだ。
だが、その眼差しは、裁断台の向こう――遠い南青山の空を、冷徹に見据えていた。
(……騒ぎなさい、世界。そして、目を眩ませていなさい、神代俊樹)
詩織は裁ちバサミを握り直した。
自らの放った巨大な影が、今まさに、かつて自分を踏みにじった者たちの頭上を覆い尽くそうとしていることを、詩織は誰よりも正確に把握していた。
同じ夜。
六本木ヒルズの最上層に位置する、完全会員制のシガーバー。
重厚なマホガニーのカウンターの奥、夜景を一望できるVIPルームのソファで、三人の男女が豪奢なグラスを掲げていた。
「いやあ、素晴らしい! 神代社長、莉乃ちゃん、秋の新作展示会への出展準備、順調そのものじゃないですか!」
甲高い声でシャンパングラスを鳴らしたのは、間宮健二だった。
三十代後半。テカテカと油の浮いた肌に、短く整えられた顎髭。イタリア製の派手な柄シャツの胸元を第3ボタンまで開け、ゴールドの極太チェーンをギラつかせている。
バズと炎上を巧みに操り、数々のインフルエンサーを「若手起業家」や「天才クリエイター」に仕立て上げては広告代理店から法外なマージンを抜いてきた、業界きっての悪徳プロデューサーだ。
「間宮さんのおかげですよ」
神代俊樹は上機嫌でバカラのグラスを傾け、深紅のロマネ・コンティを喉へと流し込んだ。
その顔はワインの赤みと、自らが手に入れた(と思い込んでいる)成功の美酒に酔いしれ、だらしなく緩んでいた。
「長谷川とかいう頑固な老害パタンナーが急に辞めちまって一時はどうなるかと思ったが、詩織の残していった過去のスケッチストックを適当に組み合わせて、間宮さんの息のかかった外注に投げたら、あっという間にサンプルが上がってきた。……技術なんてものはね、金を出せばいくらでも買えるんですよ」
「そうよ、俊樹さん!」
俊樹の隣にぴったりと身体を密着させ、甘えた声を上げたのは立花莉乃だった。
胸元が限界まで露出したスパンコールのドレスを纏い、首元には俊樹に買わせたばかりのカルティエのダイヤモンドネックレスが光っている。
彼女は手元のスマートフォンで、自らのインスタグラムのフォロワー数が五十万人を突破した画面を誇らしげに見せびらかした。
「長谷川のオッサンがいなくなって、かえってスッキリしたわ! 可動域だの何だのうるさい理屈ばっかり言って、私の『ネオ・ゴシック・フェアリー』の世界観を全然理解してなかったんだもん。外注のパタンナーさんは、私の言う通りに肩をグッと落として、ウエストをキュッと細くしてくれたし! やっぱりセンスのある若い子と仕事する方が何百倍も楽しい〜!」
「ハハハ! 莉乃ちゃん、最高だね!」
間宮は手を叩いて下品に笑った。
「服なんてものはね、理屈じゃないのよ。莉乃ちゃんみたいな圧倒的な美少女が『これ、私がインスピレーションで作りました♡』ってSNSに自撮りを一枚上げる。それだけで、中身がペラペラの安物ポリエステルだろうが、若い女どもは群がって三万円、五万円と金を落とすんだ。今回の秋の展示会、三ツ星百貨店のバイヤーだけじゃなく、テレビのキー局の密着カメラも三台入る手はずになってるからね」
「テレビ密着……! 本当ですか、間宮さん!」
俊樹の目が卑しく輝いた。
「ああ。『新進気鋭の若手女性デザイナー、大手百貨店との大型コラボに挑む!』って特番の枠を一本押さえてある。展示会の初日に莉乃ちゃんが涙ぐみながらスピーチすれば、それだけでSNSは爆発、ネット通販のサーバーはパンク確定だよ。……長谷川みたいな時代遅れの職人を抱えて、ちまちまミリ単位の型紙を引いてた先代のやり方なんて、ビジネスとしては落第点なのさ」
「その通りだ! 乾杯しよう!」
俊樹は再びグラスを掲げ、莉乃の腰を引き寄せて下卑た笑みを浮かべた。
自分は正しかった。
あの地味で陰気な元妻・詩織を追い出し、莉乃という華やかなアイコンを手に入れたことで、アトリエ・アルカは過去最高の絶頂期を迎えている。
かつて詩織が「このデザインでは腕が上がらない」「生地の目が歪む」と鬱陶しく口出ししてきた記憶など、俊樹の脳裏からは綺麗さっぱり消え去っていた。
所詮、あいつは言われた通りに作業するだけの無能な寄生虫だったのだ。自分が外で人脈を作り、こうして金を引っ張ってきているからこそ会社が回っているのだと、俊樹は本気で信じ込んでいた。
その時、間宮がふと思い出したように、テーブルの上のタブレット端末を指先で弾いた。
「そういえばさ、神代社長。莉乃ちゃん。……ネットで今、めちゃくちゃ話題になってる『L'OMBRE』とかいう覆面ブランド、見た?」
「ロンブル……?」
莉乃がグラスを持ったまま小首を傾げた。
「何それ? コスメのブランド?」
「いや、服だよ。今日発売の『VOGUEIL』、見たかい? あの辛口の九条志乃が、巻頭十ページ丸ごと使って大絶賛してるんだよ。『失われた服飾の神髄』だの『人体の骨格を極めた立体裁断』だの、クソ真面目な職人技アピールを書き連ねてさ。ネットじゃ『#WhoisLOMBRE』ってハッシュタグが世界トレンド一位になって、デザイナーの正体探しで大騒ぎになってる」
「ハッ!」
俊樹は鼻を鳴らし、嘲笑混じりにシャンパンを煽った。
「見ましたよ、その記事。……笑わせますよね。今どき『手縫いの毛芯』だの『ションヘル織機の伝統』だの、化石みたいな職人技を売り文句にしてるなんて、時代錯誤もいいところだ。長谷川の老害と同じ匂いがしますよ」
「でしょ?」
間宮はニヤリと下劣な笑みを浮かべ、葉巻に火をつけた。紫色の煙がVIPルームの天井へと漂っていく。
「九条志乃も焼きが回ったね。あのババア、昔から職人技だの構造美だの、オタク臭い理屈が大好きだからさ。覆面ブランドだか何だか知らねえが、どうせどっかの老舗テーラーが死に物狂いで仕掛けた最後の悪あがきだよ。……いいかい、莉乃ちゃん? 職人技アピールなんてものはね、今の時代、完全にオワコンなの。そんな面倒くさいもの、誰も求めてない。これからは莉乃ちゃんの顔と、美貌と、SNSの拡散力で服を売る時代なんだよ」
「うん! 私もそう思う!」
莉乃は間宮の言葉に大きく頷き、得意満面に胸を反らせた。
「顔を出せないってことは、どうせ表に出せないブスか年寄りがやってるんでしょ? みっともな〜い! 服なんて、可愛い子が着て可愛い写真をアップすればそれで十分なのに、難しい理屈つけて煙に巻こうとしてるだけじゃん。本物のスターは、私一人で十分よね、俊樹さん♡」
「ああ、その通りだとも、莉乃」
俊樹は莉乃の肩を抱き寄せ、喉を鳴らして笑った。
「顔を出せない無名の日陰者なんざ、放っておけばいい。ネットのオタクどもが一時的に騒いでるだけの泡沫ブランドだ。……来週の展示会で、お前が本物の『光』を業界に見せつけてやればいいんだよ。アルカの服が三ツ星百貨店をジャックした時、あんな覆面ブランドなんざ、一瞬で誰の記憶からも消し飛ぶさ」
「キャハハ! 俊樹さん、最高〜!」
三人はグラスを打ち鳴らし、下品な歓声を夜景に向かって響かせた。
手に入れた億単位の売上予測。
テレビの密着取材。
SNSの数十万のフォロワー。
華やかな成功の頂点に立っていると確信し、互いの虚栄心を舐め合いながら、甘いシャンパンを浴びるように飲み干していく。
だが。
彼らは何一つ気づいていなかった。
長谷川が去った後、外注のパタンナーが納期とコストに追われて無理やり引いた型紙が、いかに人体の可動域を破綻させているかということに。
詩織の残した過去のアイデアを小手先で切り貼りした新作サンプルの数々が、生地の縮率と重力を完全に無視した「動けば裂ける欠陥品」に成り果てているということに。
そして――何よりも。
彼らが「表に出せないブスか年寄り」「無名の日陰者」と嘲笑ったその覆面ブランドの玉座に座っているのが、他ならぬ、自分たちが雨の夜に五拾万円の手切れ金とともにゴミのように放逐した、あの神代詩織本人であるということに。
足元にぽっかりと口を開けた、再起不能の奈落の底。
虚飾の城の土台はすでに完全に腐り果て、あとは最初の一撃で崩壊する瞬間を待つばかりとなっていた。
夜の帳の向こう側で、名もなき影の冷たい刃が、静かに、そして狂いなく、彼らの喉元へと切っ先を定めていた。




