第18話:四分間の熱狂
エンターキーが沈み込んだ乾いたプラスチックの音が、事務所の冷え切った空気に吸い込まれて消えた。
ほんの数秒間、部屋の中には完全な真空のような静寂が横たわっていた。
古い壁掛け時計の秒針がチッ、チッ、と冷酷なリズムを刻み、蛍光灯の微かなジーという電子音だけが耳朶を打つ。
佐伯朋香は息を止め、祈るように両手を胸の前で固く組み合わせていた。
長谷川慎司はテーブルに両手を突き、前屈みになってモニターを睨みつける。その額には、秋の夜気の中であるにもかかわらず、大粒の汗が滲み出していた。
詩織はただ、机の脇に置かれた庄三郎の裁ちバサミの冷たい柄に触れたまま、琥珀色の光を放つモニターを見つめていた。
――そして、五秒後。
沈黙は、暴力的とすら言える光の奔流によって叩き割られた。
ピピッ、と甲高い電子音が鳴った。
同時に、レオンの持ち込んだ高性能ノートパソコンの冷却ファンが、ジェットエンジンのような唸りを上げて一気に最高回転数へと跳ね上がる。
暗号化通信を中継しているチューリッヒとルクセンブルクのデータセンターの負荷を示すインジケーターが、青から黄色、そして瞬く間に危険域を示す鮮血のような赤へと染まり、狂ったように点滅を始めた。
「……トラフィック、垂直上昇!」
レオンの指先が、目にも留まらぬ速さでキートップを叩く。
「同時アクセス数、八千……一万二千……二万五千を突破! キャッシュサーバーが悲鳴を上げている。だが耐えろ、多重ロードバランサー、全回線を開放しろ!」
世界地図を表示したサブモニターの上で、青い光点が爆発していた。
北米東海岸、西海岸、西ヨーロッパ、スカンジナビア半島、東アジア、中東――。
地球上のありとあらゆるタイムゾーンから、数万本の通信の束が一斉にこの小さな墨田区の町工場のサーバーへと集中していた。
画面の左隅、黒地に緑の文字で刻まれるログが、人間の動体視力では判読不可能なスピードで下から上へと流れていく。
『Checkout initiated — IP: New York, USA』
『Checkout initiated — IP: Paris, France』
『Checkout initiated — IP: London, UK』
『Checkout initiated — IP: Tokyo, Japan』
『Payment approved — ¥280,000』
『Payment approved — ¥190,000』
『Payment approved — ¥90,000』
決済承認を知らせる電子音が、最初は小刻みな雨垂れのようだった。
それが二秒後には土砂降りの豪雨となり、十秒後には鼓膜を震わせる連続音へと化していた。
ピッ、ピピピッ、ピピピピピピッ――!!
「う、嘘でしょ……!?」
朋香が悲鳴を上げて頭を抱えた。
「コートが一着二十八万よ!? ジャケットが十九万、パンツが九万よ!? なんで誰も迷わないの!? サイズ表を確認してる時間すらないじゃない! カートに入った瞬間にそのまま決済ボタンが叩かれてる……!」
「迷っている暇などないからだ!」
長谷川が吼えるように言った。その目は血走り、唾が飛ぶのも構わずに画面に食い入っている。
「世界中のバイヤーやコレクターが、この瞬間を待っていたんだ! 一秒躊躇えば、隣の国の誰かに奪われる! 彼らは服の写真を眺めているんじゃない、この三百着という極限の『枠』をもぎ取り合っているんだ!」
画面中央に並んだ三つのアイテムの在庫カウンター。
コート『100』、ジャケット『100』、トラウザーズ『100』。
その三つの三桁の数字が、まるで砂時計の底が抜けたかのように、恐ろしい勢いで削り取られていく。
――開始一分。
「い、一分経過……! 総注文数、百着を突破!!」
朋香の叫び声が、工場のコンクリート壁に反響した。
管理画面の売上総額メーターが、目まぐるしく桁を繰り上げていく。
一千万円、二千万円、三千五百万円――。
通常の服飾ブランドが数ヶ月、あるいは半年かけてポップアップや展示会を重ね、百貨店に手数料を引かれながら必死に積み上げる売上が、わずか六十秒の間に、この下町の埃っぽいデスクの上で確定していく。
購入者リストには、信じがたい名前が並んでいた。
ニューヨークの五番街に本店を構える世界最高峰の高級百貨店のシニアディレクター。
パリのルーヴル宮の近隣に拠点を置く、王族や大富豪を顧客に持つプライベートスタイリスト。
さらには、世界的な映画監督、国際的なピアニスト、そして正体を明かさないスイスのファミリーオフィスの代理購入アカウント。
誰一人として値切らない。
誰一人として問い合わせのメールなど送ってこない。
ただ、提示された価格をそのままクレジットカードやプライベートバンクの即時決済で支払い、この名もなき『影(L'OMBRE)』のピースを奪い去っていく。
「……二分経過!」
朋香の声が、興奮と恐怖で完全に上擦っていた。
「ジャケット、全サイズ完売!! 信じられない、MサイズもLサイズも全部消えた! 十九万円のジャケット百着が、二分でゼロになったのよ!!」
画面上のテーラードジャケットの画像の上に、無慈悲な赤い帯が焼き付けられた。
――『SOLD OUT』。
「長谷川さんのパターンだ……」
朋香が涙声で叫んだ。
「長谷川さんが徹夜で引いたあの肩のラインが……世界のトップたちに買われていくのよ……!」
「ああ……ああ……!」
長谷川は眼鏡の奥の目を真っ赤に充血させ、固く握りしめた拳を震わせていた。
老害。
時代遅れの化石。
神代俊樹と立花莉乃にそう吐き捨てられ、業界のブラックリストに入れられて雨の浅草を彷徨っていた男の引いた型紙が、今、パリやニューヨークの最先端の審美眼を持つ者たちに、奪い合われている。
胸の奥底から込み上げてくる熱いものが、喉を詰まらせ、言葉にならなかった。
――開始三分。
「トラウザーズ、残り三本……二本……完売! トラウザーズ全量ソールドアウト!!」
朋香の絶叫が続く。
「残るはコートだけ! コート、残り八着……五着……三着……!」
尾州のションヘル織機で、奥田創が命を削って織り上げた奇跡のウール。
詩織が三十七・五度のバイアスで裁断し、朋香が一針十四針の均一なピッチで縫い上げた、漆黒のトレンチコート。
一着二十八万円。
下請け工場が大手アパレルから請け負う工賃の、実に八十倍近い価格がつけられたその怪物が、瞬きをする間に世界中の顧客のカートへと吸い込まれていく。
画面のカウンターが『1』になった。
最後の一着。
ロンドンからのアクセス。
そして――。
カチリ、と小さな電子決済音が鳴り響いた。
画面が激しくリロードされる。
三つのアイテムすべての画像の上に、太く、鮮烈な漆黒と真紅の文字が刻まれた。
――『ALL ITEMS SOLD OUT』。
管理画面の右上に表示されたストップウォッチの数字。
[00 : 03 : 58]。
四分。
わずか二百三十八秒。
そして、画面の中央に最終確定した総売上金額が表示された。
――『Total Sales : ¥96,000,000 JST』。
(九千六百万円)。
ほぼ一億円。
大手アパレルの旗艦店が一ヶ月の全館セールで必死に叩き出す売上を、事前の広告も打たず、モデルの顔も出さず、ただ名もなき町工場から放たれた三百着の服が、わずか四分間で叩き出したのだ。
静寂が戻ってきた。
パソコンの冷却ファンが、熱を吐き出しながらフシューッと回転数を落としていく。
外の雨音すら聞こえない。
時が止まったかのような、絶対的な沈黙が工場を支配していた。
誰も、動けない。
誰も、声を出せない。
あまりにも巨大で、あまりにも非現実的な現実を前に、人間の脳が処理を拒絶していた。
そして――最初に動いたのは、朋香だった。
「……あ」
朋香の口から、小さな息が漏れた。
その瞳から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出し、頬を伝って作業着のエプロンへとボロボロと零れ落ちていく。
「……あ……ああああああっ!!」
朋香はその場に膝から崩れ落ち、両手で顔を覆って絶叫した。
歓声ではなかった。
父親が脳梗塞で倒れ、大手アパレルに一方的に切られ、手形の期日に怯え、機械を競売にかけられる恐怖に押し潰されそうになっていた数ヶ月間の絶望が、一気に決壊した号泣だった。
「売れた……! 全部、全部売れたのよ……! 一億円よ……! 親父の工場が……うちのミシンが……世界に勝ったのよ、詩織ぃぃぃっ!!」
朋香は立ち上がると、隣にいた長谷川の腕にしがみついた。
長谷川もまた、大柄な身体を丸め、眼鏡を外して袖口で顔を覆っていた。
肩が激しく波打っている。五十歳を手前にして職を失い、雨の中で路頭に迷いかけた頑固一徹の職人が、子供のように声を上げて泣いていた。
「……勝った……勝ったんだ……!」
長谷川は朋香の背中を力一杯抱きしめ、掠れた声で咆哮した。
「俺たちの引いた線は間違っていなかった! 現場の技術をゴミ扱いしたあの連中に……俺たちの魂が、勝ったんだ!!」
二人は互いの肩を叩き合い、涙と鼻水に塗れながら抱き合っていた。
下町の片隅で、使い捨ての駒としてすり潰されかけていた者たちが、自らの技術の力だけで、世界の頂点に風穴を開けた瞬間だった。
その騒乱の傍らで、レオン・城崎・ヴァランタンは静かに立ち上がった。
男の端正な唇には、極上のワインを味わったかのような、深く、優雅な笑みが浮かんでいた。
レオンは手にしたタブレットをポケットに収めると、一人、作業台の前に立ち尽くしている詩織へと歩み寄った。
「見事だ、マダム・影」
レオンの低く澄んだ声が、詩織の耳朶を揺らした。
「四分で一億円。……L&Vの傘下にある老舗メゾンのゲリラローンチですら、これほどの成約率とスピードを記録した前例はない。君の創り出した『影』は、今夜、世界のファッション界の歴史を完全に塗り替えたよ」
だが――詩織は、泣いていなかった。
歓声を上げることも、朋香たちのように飛び跳ねることもしていなかった。
詩織はただ、画面の中央に赤く点滅する『ALL ITEMS SOLD OUT』の文字を、見つめ続けていた。
その瞳の奥には、深海の底のように静かで、恐ろしいほどに研ぎ澄まされた冷徹な光が宿っていた。
右手は、机の上の「庄三郎」のハサミを、白くなるほど強く握りしめられていた。
鋼の冷たさが、手のひらの皮膚を通して、心臓の鼓動と完全に同期している。
(……届いた)
胸の奥底で、固く冷たい岩盤が、音を立てて砕け散るのを感じていた。
脳裏に、鮮明に蘇る記憶。
雨の夜のタワーマンション。
高価なワインを揺らしながら、自分を見下ろしていた元夫・神代俊樹の歪んだ嘲笑。
『お前はただ言われた通りにミシンを踏んでいただけの作業員だろ?』
『勘違いするな。俺の営業力と莉乃の華があるから服が売れたんだ』
『お前みたいな地味で陰気な女が横にいたらブランドの格が落ちるんだよ』
『誰のおかげで今まで飯が食えたと思ってる? 能無しの寄生虫が』
投げつけられた五拾万円の茶封筒。
泥水に濡れたボストンバッグ。
寒さに震えながら、歯を食いしばって歩いた深夜の国道。
あの時、俊樹は確かに言ったのだ。
詩織の引く線には価値がないと。
立花莉乃の華と、自らのプロデュースという名のメッキがなければ、一円にもなりはしないと。
(……見ていなさい、神代俊樹)
詩織の爪が、手のひらに食い込んだ。
激しい怒りではない。
自らの存在のすべてを否定された人間が、自らの腕一本で世界の審判を覆した瞬間にだけ得られる、冷え切った、絶対的な万能感。
(あなたのプロデュースなど、最初から一欠片も必要なかった。莉乃のフォロワー数も、西麻布のくだらない人脈も、メディアへの愛想笑いも……本物の服の前には、何の意味も持たなかったのよ)
四分間で完売した三百着。
それは、神代俊樹が「無能な作業員」と切り捨てた女が、自らの指先と、信じ合える仲間たちの技術だけで創り上げた、正真正銘の奇跡だった。
名もなき影の引いた線が、今、世界中を熱狂させ、跪かせたのだ。
「詩織……!」
涙で顔をぐしゃぐしゃにした朋香が、詩織の元へと駆け寄ってきた。
朋香は詩織の両手を握りしめ、震える声で言った。
「やったのよ……! あんたが世界を変えたのよ、詩織……!」
詩織はゆっくりと視線を巡らせた。
涙を流しながら笑う朋香。
誇らしげに胸を張り、眼鏡の奥で目を潤ませる長谷川。
そして、最高の賛辞を込めて拍手を送るレオン。
詩織の唇が、わずかに緩んだ。
氷のようだった彼女の表情に、柔らかく、だが決して揺らぐことのない誇り高い微笑みが灯った。
「いいえ、朋香。私一人じゃないわ」
詩織は朋香の手を強く握り返した。
「奥田さんの命を削った布と、長谷川さんの狂いのない型紙と、あなたの完璧なミシンがあったからよ。……私たちの技術が、世界に届いたのよ」
詩織は窓の外を見上げた。
雨はいつの間にか上がり、雲の切れ間から、冷たく澄んだ秋の夜空が覗いていた。
遠く南西の空――南青山のタワーマンションがそびえる方角を見つめる詩織の瞳に、鋭利な刃物のような光が宿る。
これは、奇跡のサクセスストーリーの完成ではない。
すべてを奪われたサレ妻が、自らの才能を貪り食った者たちを地獄の底へ引きずり落とすための――冷徹な処刑劇の、ほんの最初の幕開けに過ぎないのだ。
「レオン」
詩織は振り返り、凛とした声で言った。
「次の準備を始めましょう。三百着の発送と……ファーストコレクションの完全な納品を」
「ああ、もちろんだとも」
レオンは深く一礼し、琥珀色の瞳を愉悦に細めた。
「世界は今夜、君の影に呑み込まれた。……だが、真の嵐はここからだ」
深夜の墨田区の町工場に、誇り高き職人たちの新たな決意が満ちていく。
彼らが放った三百着の漆黒の鎧が、世界各地へと散らばり、やがて東京のモード界の頂点に君臨する「女帝」の目を覚まさせようとしていることを、まだ誰も知る由がなかった。




