第23話:虚飾のインスピレーション
表参道のケヤキ並木から一本奥へ入った閑静な住宅街に佇む、白亜の洋館風ハウススタジオ。
普段は海外ハイブランドの広告撮影やグラビアアイドル用のスタジオとして貸し出されているその空間は、間宮健二の手配によって、わずか半日で「新進気鋭の天才デザイナー・立花莉乃のプライベートアトリエ」へと仕立て上げられていた。
床には無造作に広げられたアンティーク調のペルシャ絨毯。
壁際の本棚には、神田の洋古書店からキロ単位で買い集められたフランス語の美術全集や建築図面集が隙間なく詰め込まれ、窓辺にはアイビーの蔦が絡まるアイアンのパーテーション。
部屋の中央には、あらかじめ傷をつけて使い古したように見せかけたオーク材の製図台が置かれ、その上には、詩織がアルカに残していった過去の型紙の切れ端や、適当に広げられたシルクサテンの端切れが「芸術家の無造作な日常」を演出するように散りばめられていた。
「はい、照明もう少し落として! 莉乃ちゃんのフェイスラインに斜めから柔らかいサイド光当てて! 髪のハイライト綺麗に出してね!」
民放キー局の人気情報ドキュメンタリー番組のディレクターが、メガホン代わりに丸めた台本で手際よく指示を飛ばす。
フロアには三台の業務用4Kカメラが構えられ、音声マイクを掲げたアシスタントたちが息を潜めていた。
スタジオの隅、カメラの死角となる壁際で、神代俊樹は高級なリネンシャツの腕をまくり、満足そうに腕を組んでその様子を眺めていた。隣には、派手なストライプスーツを着流した間宮が、口元に下卑た笑みを浮かべて寄り添っている。
「どうです、神代社長。絵になってるでしょう?」
間宮が声を潜めて囁きかける。
「テレビの連中が求めているのはね、『本物の技術』じゃないんですよ。『物語』なんです。二十代そこそこの若くて美しいモデルが、夜な夜なアトリエで孤独に布と向き合い、奇跡のようなドレスを生み出している……この記号さえ画面に映っていれば、茶の間のお茶碗持った主婦や、自分磨きに夢中なOLどもはイチコロなんですよ」
「ああ、素晴らしいよ、間宮さん」
俊樹は小さく頷いた。
広州の格安工場へ、海外メゾンとファストファッションの盗作データを投げたのはわずか三日前。八百万円の手付金はすでに香港の口座へ着金し、現地からは『サンプルは展示会前日に直接会場へ空輸する』と連絡が入っていた。
手元に一着の服もないという異常事態でありながら、俊樹の胸の奥には焦燥感ではなく、巨大なメディアを自らの掌の上で操っているという万能感が渦巻いていた。
「本番いきまーす! カメラ回して! 莉乃ちゃん、物憂げな表情から、ゆっくり視線を窓の外へ……はい、キュー!」
カチンコが鳴る。
スタジオの空気が一変した。
製図台の前に腰掛けていた立花莉乃は、ふわりと顎を引き、長いまつ毛を伏せて物憂げな眼差しを宙へと向けた。
纏っているのは、鎖骨のラインを大胆に露出させた淡いラベンダー色のシフォンブラウス。髪は計算され尽くした「無造作なハーフアップ」に整えられ、メイクはすっぴん風に見せかけた完璧な陶器肌。
その細い指先には、俊樹がこの日のために買い与えた十万円を超えるモンブランの高級万年筆が、まるで高貴な絵筆のように握られていた。
莉乃はカメラのレンズが自分の横顔を舐めるように捉えるタイミングを熟知していた。
読者モデルとして培った「カメラの前の自分を最も魅力的に見せる角度」。
彼女は唇をわずかに半開きにし、ため息を漏らすように息を吐き出すと、製図台の上に広げられたスケッチブックへと万年筆のペン先を走らせた。
さらさら、とインクが紙を撫でる音が静寂に響く。
描いているのは、雑誌の切り抜きから適当に真似た、手足の異様に長い少女の輪郭線――服の構造も、縫い代も、ダーツの位置すら存在しない、ただの少女漫画のようなイラストだった。
「……莉乃さん」
ディレクターの静かな質問が、オフカメラから投げかけられる。
「大賞を受賞した『宵闇のプリマ』に続き、来週には三ツ星百貨店との大型コラボコレクションが控えています。この圧倒的なプレッシャーの中、新しいデザインのアイデアは、一体どこから湧き上がってくるのですか?」
莉乃はペンを止め、ゆっくりと顔を上げた。
瞳にわずかな潤みを宿らせ、慈愛に満ちたような儚げな微笑みをカメラへと向ける。
「……私、寝ている間に、インスピレーションが降りてくるんです」
耳をくすぐるような、透明感のある甘い声。
彼女は万年筆を胸の前にそっと引き寄せ、窓の外の柔らかな光を見つめた。
「深夜、アトリエで一人きりになって、静寂の中に身を置いていると……布たちが私に話しかけてくるような気がするんです。『私をこういう形にして』『私はこんな風に風を孕みたい』って。……私にとって、服はキャンバスなんです。パターンがどうとか、縫製がどうとか、そういう難しい理論は分かりません。ただ、私の心の中に生まれた純粋な感性を、そのまま布の上に解き放っているだけなんです」
「なるほど……感覚で、布と対話している、と」
「はい」
莉乃は無邪気な少女のように首を傾げ、カメラに向かって眩しい笑顔を咲かせた。
「服って、着た人を幸せにするための魔法じゃないですか。だから私は、難しい理屈よりも、心がキュンとする瞬間を一番大切にしたいんです。私のデザインした服を着た女の子たちが、鏡の前で自分を一番好きになれるように……その祈りを込めて、一本一本の線を引いています」
「オッケー! カット! 完璧! 莉乃ちゃん、最高だよ! 涙出そうだった!」
ディレクターが両手を叩いて立ち上がった。
スタジオのスタッフたちからも、ため息混じりの感嘆と拍手が沸き起こる。
「あー、疲れたぁ!」
カットがかかった瞬間、莉乃の儚げな表情は雲散霧消した。
彼女は万年筆を製図台の上に放り投げると、傍らのアシスタントに向かって顎をしゃくった。
「ちょっと、喉乾いたんだけど。炭酸水持ってきて、常温のやつね。あと、エアコンの風が直撃して肌が乾燥するんだけど、温度上げてよ」
傲慢で、下品な地金。
だが、カメラのテープには、世界を魅了する「若き美貌の天才クリエイター」の姿だけが完璧に焼き付けられていた。
その特番が放映されたのは、秋の新作展示会を一週間後に控えた、日曜日の午後七時――家族連れや若者たちがテレビの前に集まる、ゴールデンタイムの直前だった。
番組タイトルは『時代のミューズたち――世界を動かす若き異才の告白』。
洗練されたナレーションと、胸を締め付けるようなアコースティックギターのBGM。
画面の中の莉乃は、夜のアトリエで孤独にスケッチブックと向き合い、自らの感性の限界と格闘する悲劇のヒロインであり、同時に時代の最先端を切り拓く輝かしい時代のアイコンとして描かれていた。
俊樹もまた、「彼女の類まれな才能を見出し、ビジネスとして世界へ羽ばたかせる若き敏腕社長」としてスーツ姿でインタビューに答え、理路整然と(実際には中身のまったくない)ブランド戦略を語っていた。
その放送の効果は、俊樹たちの想像を遥かに超えていた。
番組の終了と同時に、インターネットのSNS上では爆発的なバズが巻き起こった。
X(旧Twitter)のトレンドには、『#立花莉乃』『#アトリエアルカ』『#ネオゴシックフェアリー』のワードが一気にトップテン入りを果たした。
『立花莉乃ちゃん、可愛すぎてレベチ。こんな顔で天才デザイナーとか、神様二物与えすぎでしょ』
『「服はキャンバス」って言葉、刺さった……職人ヅラしたおじさんたちには絶対に真似できない感性だよね』
『アワード大賞のドレスも神だったし、三ツ星百貨店の新作絶対買う! 並んででも手に入れる!』
『莉乃ちゃんのデザインする服を着たら、自分も変われる気がする』
莉乃の個人のインスタグラムのフォロワー数は、放送開始からわずか三時間で十万人以上跳ね上がり、瞬く間に六十五万人を突破した。
アトリエ・アルカの公式オンラインショップには、まだ写真すら上がっていない新作の予約ページを求めて数万件のアクセスが殺到し、南青山のオフィスの代表電話は、取材を申し込むファッション誌やウェブメディアからのコールでパンク状態に陥った。
「見たか、莉乃! サーバーが落ちかけたぞ!」
南青山の社長室で、俊樹はタブレットのリアルタイムアクセス解析を見せながら、シャンパングラスを高く掲げた。
「大成功だ! 間宮さんの狙い通り、世間は完全に莉乃のファンになった! 三ツ星の役員からもさっき直電があってな、『展示会の初日は入場規制をかける準備をしている』と上機嫌だったよ!」
「キャハハ! 言ったでしょ、俊樹さん!」
莉乃はソファーの上で飛び跳ね、俊樹の首に抱きついた。
「職人気取りの長谷川とか、あの地味な元奥さんが何十年かけてもできなかったことを、私はたった三十分のテレビ番組でやっちゃったのよ! 服なんて、見せ方ひとつでどうにでもなるの! 広州から届く安物ポリエステルのドレスだって、私が着てテレビカメラの前でポーズ取れば、ファンは一着五万円でも喜んで買い漁るわ!」
「その通りだ! 誰が作ったかなんて関係ない、お前というブランドがすべてなんだ!」
俊樹は莉乃の腰を引き寄せ、下卑た歓喜に溺れながら、高級シャンパンを喉へと流し込んだ。
手に入れた名声。
狂乱する大衆。
口座に雪崩れ込んでくるであろう億単位の数字。
すべてが自分たちの思い通りに進んでいる。詩織を追い出し、職人を切り捨てた自らの判断は、完全に正しかったのだと、二人は信じて疑わなかった。
だが。
その熱狂に沸く東京の夜空の真下、まったく異なる冷徹な静寂に支配された部屋があった。
港区愛宕の超高層タワーマンション最上階。
都心の夜景を足元に見下ろす、広大なペントハウスのリビングルーム。
天井まで届く壁一面の大型4Kモニターには、先ほど放映されたばかりの立花莉乃の密着番組が、録画映像として無音で再生されていた。
部屋の照明は落とされ、モニターの白い光だけが、革張りのアームチェアに深く腰掛けた女性の冷徹な横顔を照らし出していた。
九条志乃だった。
志乃は部屋着のシルクロードを纏い、足元にペルシャ猫を侍らせながら、手にしたバカラのグラスを静かに揺らしていた。
グラスの黄金色のシャンパンの中で、微細な炭酸の泡が一筋、糸を引くように立ち上っては消えていく。
志乃のチタンフレームの眼鏡の奥にある瞳は、絶対零度の冷気を湛えていた。
画面の中で、莉乃が万年筆を持ち、物憂げに宙を見つめている。
『私、寝ている間に、インスピレーションが降りてくるんです――』
字幕で表示されるその台詞を、志乃は眉一つ動かさずに眺めていた。
「……反吐が出るわね」
志乃の唇から、氷のように硬い呟きが零れ落ちた。
志乃が注視していたのは、莉乃の整った顔立ちでも、華やかなブラウスでも、演出されたアトリエのセットでもなかった。
――手。
万年筆を握り、スケッチブックに触れている、立花莉乃の「指先」だった。
志乃はリモコンを操作し、莉乃の手元のアップのシーンで映像を静止させた。
画面いっぱいに拡大される、莉乃の細く白い右手の指先。
「……嘘をおつきなさい」
志乃の低く鋭い声が、静まり返ったリビングに響いた。
「その指のどこにも、糸を紡ぎ、布と格闘した痕跡がないわ」
志乃の目は欺けなかった。
莉乃の爪は、長く伸ばされ、艶やかなジェルネイルとラインストーンで完璧に装飾されていた。
爪の間に、布の繊維の埃ひとつ入っていない。
右手の人差し指と親指の腹には、何万回と生地の目を撫で、針を通した者だけにできる「硬いタコ」がない。
指の関節には、待ち針を誤って刺した赤黒い点状の傷跡ひとつなく、皮膚はまるで、赤ん坊のように柔らかくふやけていた。
そして何より――万年筆の握り方。
布に命を吹き込む本物のデザイナーは、線を引く時、指先だけを動かしたりはしない。肩甲骨から腕全体を連動させ、重力と布の張力を頭の中でトレースしながら、紙を削るようにして線を刻むのだ。
だが、画面の中の莉乃の手首は、ただ宙に浮き、表面を撫でているだけだった。
布の重みを知らない手。
ハサミの重さを知らない手。
針に血を吸わせたことのない、ただの無垢で、無知で、傲慢な消費者の手。
「布と対話している、ですって?」
志乃は冷笑を浮かべ、シャンパングラスを口元へ運んだ。
「布の一片すら触ったことのない小娘が、よくも抜け抜けと電波を使って泥棒の看板を掲げられたものね」
志乃の脳裏に、数日前にデスクに届いた、あの『L'OMBRE』のテーラードジャケットが鮮烈に蘇る。
人体の骨格をミリ単位で捉えた立体裁断。
手縫いの毛芯の据え付け。
あの服の型紙を引き、あの服を仕立てた名もなき職人の指先には、どれほどの傷と、どれほどのタコと、どれほどの血と汗が刻み込まれていたことだろうか。
本物と、偽物。
その圧倒的な断絶が、志乃の審美眼には、太陽と泥水のように明確に見分けがついていた。
そして志乃は、先日のアワードで大賞を受賞した『宵闇のプリマ』の真実をも、完全に看破していた。
あのドレスの構造美を生み出したのは、目の前で「インスピレーションが降りてくる」などと戯言を抜かしているこの小娘ではない。
アトリエ・アルカのどこかに、かつて本物の怪物が存在していたのだ。
そしてその怪物は、俊樹たちの手によって切り捨てられたか、あるいは自らその泥舟を去ったのだと。
「……神代俊樹。立花莉乃」
志乃は立ち上がり、サイドテーブルの上に置かれていた漆黒の革表紙の手帳を引き寄せた。
万年筆を抜き、手帳のページをめくる。
来週の金曜日。
そこには、アトリエ・アルカから届いていた豪奢な招待状の日程――『三ツ星百貨店コラボレーション・秋の新作展示会・南青山特設会場』の文字が印刷されていた。
志乃の手が動いた。
迷いのない、鋭利な筆致。
志乃は手帳のそのスケジュールの横に、極太の赤インクで、深紅の丸印を力強く刻み込んだ。
「自分の足で立ち、自分の手で布を断ったことのない者に、服を語る資格はないわ」
志乃は手帳をパチンと閉じた。
その瞳の奥には、偽りの栄光に浮かれる豚どもを、自らの言葉と審美眼で白日の下に晒し、完全に解体するための――冷徹な処刑人の炎が灯っていた。
「待っていなさい。来週、あなたたちのその薄っぺらいメッキを、私の目の前で一枚残らず剥ぎ取ってあげる」
女帝の宣告が、夜の帳の中に静かに溶けていく。
自らが仕掛けたテレビの虚飾によって、最大の審判者を自らの処刑台へと招き寄せてしまったことに、俊樹と莉乃はまだ、一欠片も気づいていなかった。




