第11話:契約条項「顔なき亡霊」
墨田区の下町を抜け出た漆黒のマイバッハは、滑るような静粛性を保ったまま、夕暮れの首都高速を都心へと向かって走っていた。
分厚い二重合わせガラスに阻まれ、外の喧騒は遠い世界の幻聴のようにしか届かない。路面の継ぎ目を越える際の振動すら、緻密に制御されたエアサスペンションが完璧に吸い取っていた。
後部座席の独立シートに腰掛けた佐伯朋香は、借りてきた猫のように背筋をピンと伸ばし、シートのナッパレザーに恐る恐る触れていた。
「……ねえ、詩織。私、生まれてこの方、こんな絨毯みたいな車に乗ったことないんだけど。シートヒーターどころか、背中がマッサージチェアみたいに動いてるんだけど……」
「落ち着きなさい、朋香。息を吸って」
詩織は穏やかに微笑みながら、朋香の手をそっと握った。
その隣のシートには、レオン・城崎・ヴァランタンが脚を組み、膝の上に広げたタブレット端末に視線を走らせていた。画面には無数の外国為替レートや欧州株式市場のチャートがリアルタイムで明滅している。
「緊張する必要はないよ、マダム佐伯」
レオンは端末から顔を上げず、心地よい低音で言った。
「君たちの縫い上げた十着のコートは、先ほど無事に成田の貨物ターミナルへ搬入された。今夜の便で、ニューヨーク、ロンドン、パリへと飛ぶ。……購入した顧客たちは、今頃首を長くしてトラッキングナンバーを更新し続けているはずだ」
「十着が……もう海外へ……」
朋香が小さく息を呑む。
昨日まで手形の決済に怯え、ミシンを差し押さえられる恐怖に震えていた町工場の日常が、わずか数日で音を立てて塗り替えられていく。
車は赤坂の喧騒をかすめ、溜池山王の裏手に位置する静寂な高台へと滑り込んだ。
大使館や外資系ファンドのオフィスが点在するその一角、鬱蒼とした木立の奥に、コンクリート打ち放しの重厚な低層ビルが姿を現した。
看板も、社名を示すプレートすら掲げられていない。
エントランスへ続くアプローチには鉄格子のゲートがあり、車両のナンバープレートとレオンの顔認証によって、音もなく左右に開かれた。
「ここは?」
詩織が尋ねると、レオンは端末を閉じ、薄く口角を上げた。
「L&Vグループがアジアにおける非公開案件――主に敵対的買収や超富裕層向けのファミリーオフィス業務を処理するためのプライベートフロアだ。日本の大手メディアはもちろん、公安や国税の調査すらこの扉の内側には入れない」
地下駐車場から直通のプライベートエレベーターに乗り込む。
押しボタンはなく、レオンが指紋と網膜をセンサーにかざすことで、カゴは静かに最上階へと上昇した。
扉が開いた先は、外観の無機質さとは対照的な、息を呑むような空間だった。
天井まで届く特注のワインセラー、磨き上げられた黒檀のフローリング、そして壁面にはピカソやゲルハルト・リヒターの真作が無造作に掛けられている。窓の外には、暮れゆく東京タワーの赤い鉄骨が、青紫の夕闇の中に美しく浮かび上がっていた。
「お待ちしておりました、レオン」
部屋の中央に置かれた巨大なガラス製デスクの前から、一人の男が音もなく立ち上がった。
三十代前半。細身の長身に、寸分の狂いもなく仕立てられたミッドナイトブルーのシングルスーツ。
銀フレームのスクエア眼鏡の奥にある瞳は、まるでスキャナーのように冷徹で、感情の揺らぎを一切感じさせない。無駄のない所作で一礼した男の胸元には、日本の弁護士バッジが控えめに輝いていた。
「紹介しよう」
レオンが歩み寄り、男の肩に手を置いた。
「我がL&Vホールディングスのアジア専属法務ディレクターであり、知財戦略の最高責任者――倉田拓海弁護士だ。ニューヨーク州と日本の双方で弁護士資格を持ち、知的財産権の防衛と租税回避スキームの構築において、彼の右に出る者はアジアに存在しない」
「倉田です。お初にお目にかかります、神代詩織さん」
倉田は眼鏡のブリッジを中指でわずかに押し上げ、深々と一礼した。
その声は、研ぎ澄まされたメスのように正確で、一切の感情のノイズを含んでいなかった。
「あなたの動画、拝見しました。服飾の技術的なことは門外漢ですが、あの布の構造が生み出す経済的価値と、背後にある知財の破壊力については、即座に理解いたしました」
「初めまして、倉田さん」
詩織が会釈を返すと、倉田はガラスのテーブルの上へと視線を向けた。
そこには、三冊の分厚い革張りのバインダーが整然と並べられていた。ページの間には無数のインデックスが挟まれ、幾重もの割り印が捺されている。
「お掛けください。本日の本題に入りましょう」
倉田が促し、詩織と朋香、そしてレオンが席に着いた。
倉田は手袋をつけた手でバインダーを開き、詩織の目の前へと滑らせた。
「これは、L&Vホールディングスと神代詩織さんの間で締結される、包括的業務提携契約書、ならびにブランド『L'OMBRE』の設立に関する基本規約です。……その中で、最も重要であり、かつ違反した際に天文学的な違約金が設定されている条項について、私から直接ご説明申し上げます」
倉田の細い指先が、契約書の一節をトンと叩いた。
そこには、太字のゴシック体でこう記されていた。
――『第十四条(完全なる秘匿義務および匿名性の保持)』。
「……秘匿義務?」
詩織が眉をひそめると、倉田は感情を交えずに頷いた。
「ええ。この契約書において、神代詩織という人間は『存在しないもの』として扱われます。『L'OMBRE』の株式は、スイスのプライベートバンクが管理する信託会社、ならびにルクセンブルクのペーパーカンパニーを五層にわたって噛ませた特殊目的会社(SPC)が保有します。登記簿をどれほど遡ろうと、あなたの名前は絶対に浮上しません」
「そこまで徹底する必要があるの?」
朋香が思わず口を挟んだ。
「詩織が作ったブランドなんだから、堂々と『神代詩織のブランドだ』って言った方が、箔がつくんじゃないの?」
「愚問ですね」
倉田は冷ややかな視線を朋香に向けた。その声音には、容赦のない論理の刃が宿っていた。
「神代詩織という本名を今、世間に晒すことは、ビジネスにおける自殺行為です。第一の理由は、前夫である神代俊樹氏、ならびに株式会社アトリエ・アルカとの法的な泥沼化を避けるためです」
倉田は別のファイルをめくり、アルカ社の登記情報と、詩織が過去にサインさせられた書類のコピーを提示した。
「神代俊樹氏は非常に狡猾、かつ浅ましい男です。詩織さんが退職する際、個人口座の資金を奪っただけでなく、『在職中に職務上作成した一切の意匠・著作権は会社に帰属する』という文言の入った誓約書に、半ば強引に捺印させている。もし今、詩織さんが表舞台に出て『私がL'OMBREのデザイナーです』と名乗り出れば、奴らは即座に『アルカ在籍時のノウハウやデザインの流用だ』と騒ぎ立て、民事訴訟を起こしてくるでしょう」
「そんな……! 詩織の技術を全部盗んで追い出したのは、あっちじゃない!」
朋香が憤慨して身を乗り出す。
「法廷とは、正義を競う場所ではなく、手元にある証拠の強度を競う場所です」
倉田は淡々と切り捨てた。
「もちろん、最終的に勝訴することは可能です。私が担当する以上、奴らの杜撰な主張など粉微塵に論破してみせます。……しかし、判決が出るまでに最低でも二年から三年はかかる。その間、週刊誌やネットメディアは面白おかしく書き立てるでしょう。『サレ妻の復讐劇』『泥沼の著作権争い』『愛人と元妻のキャットファイト』……。下品な大衆は、服の構造美などそっちのけで、低俗なスキャンダルを貪り食います」
倉田は眼鏡の奥の瞳を細め、詩織を真っ直ぐに見据えた。
「詩織さん。あなたが血を吐くような思いで仕立て上げたあのトレンチコートが、ワイドショーのゴシップのダシに使われることを、あなた自身が許せますか?」
詩織の喉が、息を詰まらせた。
想像しただけで、全身の血が逆流するほどの嫌悪感が込み上げてくる。
自分が命を削って引いた型紙、奥田織物が魂を込めて織り上げた布、朋香が指を痛めて縫い上げたミシン目。
それらが、俊樹や莉乃のような下劣な人間たちの名前とともに、ネットの掃き溜めで消費されることなど――絶対に、万が一にも許せるはずがなかった。
「……許せないわ」
詩織の声は、地を這うように低かった。
「私の服に、あの男たちの汚らわしい名前を一文字たりとも触れさせたくない」
「結構。ならば、徹底的に隠れるのです」
倉田は満足そうに頷いた。
「そして第二の理由。これについては、レオンから説明してもらいましょう」
視線を向けられたレオンが、ソファの背もたれから身体を起こし、琥珀色の瞳を妖しく光らせた。
「マーケティングにおける絶対の真理だ、詩織」
レオンはテーブルの上に両肘をつき、指を組んだ。
「人間という生き物はね、すべてが白日の下に晒されたものには、すぐに飽きる。SNSで私生活を切り売りし、インフルエンサー気取りで愛想を振りまくデザイナーなど、市場には掃いて捨てるほど溢れている。……だが、『完璧な沈黙』と『圧倒的な実力』が組み合わさった時、それは熱狂を超えて、不可侵の信仰へと昇華する」
レオンは窓の外の夜景を手で指し示した。
「かつてメゾン・マルジェラがそうであったように、顔を見せないデザイナーは、それだけで現代の神話になる。パリの批評家も、ニューヨークの富裕層も、『L'OMBREの背後にいるのは誰だ?』と血眼になって詮索し、妄想を膨らませる。そのミステリーこそが、服の価格にゼロを二つ余分に付け加える『最大のプレミアム』になるんだよ」
レオンの言葉は、冷徹なビジネスの冷酷さと、人間の心理を極限まで計算し尽くした魔術のような説得力を持っていた。
「君は、表に出る必要など微塵もない。パリのランウェイでも、ミラノの展示会でも、スポットライトを浴びるのは君が創り出した『服』だけでいい。君はアトリエの最も暗い影の中に潜み、冷徹にハサミを握り続けなさい。……神代俊樹と立花莉乃が、自らの無能さで破滅の坂を転がり落ち、藁をも掴む思いでうちの下請けの門を叩くまで、君の正体は世界に対する最大の切り札として温存する」
倉田が契約書の末尾をめくり、一本の重厚なモンブランの万年筆を詩織の前に差し出した。
漆黒の軸に、プラチナのペン先。
「署名を、神代詩織さん。このサインをした瞬間から、あなたはこの世界から法的に『消滅』し、名もなき『影(L'OMBRE)』となります。……後戻りはできません」
静まり返った地上数十階のプライベートオフィス。
外では、東京の夜を走る無数の車のライトが、星屑のように瞬いている。
その光の海のどこかで、今夜も俊樹と莉乃は、奪った栄光に酔いしれ、シャンパンを煽っていることだろう。
詩織を「能無しの寄生虫」と罵り、雨の夜に放り出したことなど、とうに忘れ去って。
詩織は迷わなかった。
一切の手の震えもなく、万年筆を取り上げた。
重厚な金属の重みが、手のひらに心地よい覚悟を刻み込む。
名前など、最初からいらなかった。
名誉も、世間の称賛も、メディアの脚光も、何一つ欲しくない。
欲しいのはただ一つ。
自分を裏切り、職人の魂を足蹴にした偽物たちを、自らの技術の差だけで、再起不能の奈落へと叩き落とす力。
そして、日本の片隅で誇り高く生きる本物の職人たちが、正当に報われる新たな王国を築くこと。
――サラサラ……。
滑らかなインクが、上質なコットンペーパーに染み込んでいく。
寸分の迷いもない、鋭利で力強い署名。
契約は、完了した。
「成立ですね」
倉田が書類を恭しく引き取り、フォルダーを閉じた。
「今日から、あなたを法的に脅かすものはこの世に存在しません。もし神代俊樹やアルカ社があなたの影を踏もうとすれば、私がL&Vの法務チームを総動員し、奴らの息の根を止めます」
「ありがとう、倉田さん」
詩織が静かに礼を言うと、レオンが立ち上がり、満足そうに微笑んだ。
「さて、法的な防壁は完璧に構築された。……となれば、次はいよいよ攻めのターンだ」
レオンは壁の大型モニターをリモコンで操作した。
画面が切り替わり、日本地図の愛知県周辺がクローズアップされる。
「トレンチコートの十着は無事に旅立ったが、世界中からの需要はすでに数千着規模に膨れ上がっている。この熱狂を持続させ、次のパリ・コレクションへの足がかりとするためには、ファーストコレクションのフルラインナップ――コート、ジャケット、トラウザーズの三型を展開する必要がある」
画面には、古い工場の写真と、古色蒼然とした巨大な鉄の機械が映し出された。
「プレタポルテの量産に耐えうる、最高品質のウール生地を大量に確保しなければならない。……向かう先は、愛知県一宮市。尾州だ」
「尾州……」
詩織の瞳が、微かに揺れた。日本の毛織物産業の心臓部であり、世界中のトップメゾンが極秘裏に生地を買い付けに来る、職人の聖地。
「一筋縄ではいかない男がいる」
レオンが画面の写真を指し示した。
そこに映っていたのは、作業着を着て、険しい表情でカメラを睨みつける、筋骨逞しい若き職人の姿だった。
「奥田織物の三代目、奥田創。世界最高峰のションヘル織機を今なお操る天才だが……大手アパレルの横暴に煮え湯を飲まされ続け、今や人間不信の塊になっている。どんな有名ブランドからの発注も『二度とアパレルの使い捨ての布なんざ織らねえ』と門前払いしている頑固者だ」
レオンは詩織の顔を、試すように覗き込んだ。
「どうする、マダム・影? 私の名前と巨額の資金でねじ伏せることもできるがね」
「いいえ」
詩織は即座に首を横に振った。
その瞳には、すでに職人としての闘志が、青白い炎となって宿っていた。
「本物の職人は、金や権力では動きません。……布の命を知る人間を動かせるのは、同じ熱量を持った設計図だけです。私が直接行って、話をつけてきます」




