第12話:尾州の頑固者
東海道新幹線が名古屋駅へ滑り込み、そこから東海道本線に乗り換えてわずか十数分。
車窓の景色が近代的な高層ビル群から、瓦屋根の民家と工場が入り混じる平野へと移り変わった頃、二人は愛知県一宮市の駅に降り立った。
駅前を一歩出ると、初秋の澄んだ風が頬をかすめた。
木曽川がもたらす豊かな軟水と、肥沃な濃尾平野の湿潤な空気。
この水と空気が、糸に絶妙な水分を含ませ、摩擦による静電気を防ぎ、極上の毛織物を育んできた。
愛知県一宮市を中心とする「尾州」――イギリスのハダースフィールド、イタリアのビエラと並び、世界三大毛織物産地の一つと称される日本のテキスタイルの聖地である。
「……静かね。昔はもっと、街のあちこちからガチャガチャと機の音が聞こえていたのに」
駅前で拾ったタクシーの窓から外を眺めながら、佐伯朋香がポツリと呟いた。
その視線の先には、北側からの柔らかく安定した採光を取り入れるために設計された、独特の三角形が連なる「ノコギリ屋根」の工場がいくつも見えていた。
だが、その多くはシャッターが下ろされ、敷地内には雑草が生い茂り、中には『解体工事中』の黄色い看板が掲げられている場所も少なくなかった。
「大手アパレルがコスト削減のために、生産拠点を中国や東南アジアへ移転させたツケよ」
詩織は膝の上に置いた黒いブリーフケースに手を添え、淡々と言った。
「安価な化学繊維の台頭、ファストファッションの大量生産。国内の機屋は単価を限界まで削られ、後継者不足も重なって、ここ十数年で何百軒もの名門が看板を下ろしたわ。……残っているのは、借金を抱えながら意地だけで機械を動かしているか、独自の技術で細々と生き残っているごくわずかな工房だけ」
「うちの墨田区の工場と同じね」
朋香は自嘲気味に息を吐いた。
「親父もよく言ってたわ。『東京のデザイナーは、布がどこから湧いてくるかも知らねえで、雑誌の切れ端持ってきて安く縫えとしか言わねえ』って。……尾州の機屋さんたちも、散々煮え湯を飲まされてきたはずよ。レオンさんの言っていた奥田創って人、本当に私たちの話を聞いてくれるのかしら」
「聞いてくれなくても、聞かせるわ」
詩織の横顔には、一切の迷いがなかった。
「あのトレンチコートの十着を完売させたのは、十年前にションヘル織機で織られた奇跡のデッドストックのおかげよ。これから『L'OMBRE』が世界へ討って出るには、あの布と同じ、あるいはそれを超える魂の宿ったウールが絶対に必要になる。……それを織れるのは、日本中で奥田織物しかいないの」
タクシーは市街地を抜け、のどかな田園地帯の路地へと入っていった。
用水路沿いの細い砂利道を抜け、大きく生い茂った柿の木の奥に、目的の場所はあった。
黒く煤けた木造平屋建ての古びた工場。
外壁のトタン板には赤錆が走り、屋根のノコギリ型の明かり取り窓は、長年の埃で白く曇っている。
門柱には、風雨に晒されて文字が半分消えかかった木製の看板が掲げられていた。
――『奥田織物』。
タクシーを降りた瞬間、二人の耳に、腹の底を揺さぶるような音が飛び込んできた。
――ガシャン、ガシャン、トントン……。
――ガシャン、ガシャン、トントン……。
それは、現代の高速エアジェット織機が立てるキーンという甲高い機械音とはまったく異なる、大地を踏み鳴らすような重厚なリズムだった。
木製のシャトルが左右に往復し、筬が経糸の間に緯糸を打ち込む、鈍く、力強い鼓動。
半世紀以上前に製造され、今や世界中を探しても稼働している個体は数えるほどしかないと言われる、幻の低速織機――「ションヘル織機」の音だった。
「……動いてるわね」
朋香が唾を飲み込んだ。
「ええ。生きているわ」
詩織は深く息を吸い込んだ。
風に乗って漂ってくるのは、羊毛特有のわずかな脂の匂いと、機械油の香ばしい匂い。
二人は砂利を踏みしめ、工場の半開きになった引き戸へと近づいた。
工場の中へ一歩足を踏み入れた瞬間、空気が一変した。
湿度を保つために締め切られた室内には、微細な羊毛の繊維が粉雪のように静かに舞い散り、ノコギリ屋根の北窓から差し込む淡く均一な光が、重厚な鉄の機械たちを青白く照らし出していた。
十台以上並ぶ織機のうち、動いているのはわずかに二台だけだった。
残りの機械は油を塗られ、黒いカバーを被せられて深い眠りについている。
稼働している一台のションヘル織機の前に、一人の男が立っていた。
年齢は二十代後半。
藍染めの作業用パンツに、油染みのついた黒いノースリーブのシャツ。
太い丸太のような腕には血管が浮き彫りになり、何千回、何万回と重いシャトルを扱ってきた男特有の、分厚く硬質な筋肉が背中を覆っていた。
短く刈り込まれた黒髪に、鋭い眉。
男は機械の振動に全身を同調させるように微動だにせず、目にも留まらぬ速さで左右に飛ぶ木製シャトルの動きを、瞬き一つせずに凝視していた。
糸の一本、毛羽の一筋の乱れすら見逃さない、研ぎ澄まされた職人の眼光。
「……あの、ごめんくださ――」
朋香が恐る恐る声をかけようとした、その瞬間だった。
「――部外者が勝手に足を踏み入れるな」
轟音の隙間を縫って、低く濁った声が飛んできた。
男――奥田創は、機械から一切視線を外さないまま、吐き捨てるように言った。
「糸がブレる。埃が立つ。用があるなら、表の事務所のベルを鳴らして待ってろ」
氷のように冷たい拒絶。
朋香がビクッと肩を跳ね上がらせる中、詩織は動じることなく、工場の入口の土間に佇んだまま、静かに口を開いた。
「奥田創さんですね。アポイントをいただきたく、ご連絡を差し上げたのですが、電話が繋がらなかったため、直接伺わせていただきました」
ガシャン、と大きな金属音が響き、機械の動力が手動レバーによって切られた。
回転していたプーリーが徐々に速度を落とし、やがて工場に耳をつんざくような静寂が訪れる。
漂う油煙の中、創がゆっくりと振り返った。
その顔立ちは、日本人離れした精悍さを持ちながらも、深い疲弊と世間に対する強烈な警戒心に覆われていた。
琥珀色に濁った鋭い瞳が、詩織と朋香の姿を、頭の先から爪先まで品定めするように舐め回す。
詩織の着ている仕立ての良い黒いタートルネックと、朋香の持っているバッグを一瞥した瞬間、創の口元が露骨な侮蔑の形に歪んだ。
「……東京のアパレルか」
吐き捨てられた言葉には、毒液のような嫌悪が滲んでいた。
「電話線を抜いたのは俺だよ。お前らみたいなハエどもからの電話に、いちいち付き合ってられるか。……用件なら聞くまでもねえな」
創は油に汚れた軍手を乱暴に引き抜き、作業台の上に放り投げた。
そして、詩織たちへズカズカと大股で歩み寄ってくると、数歩手前で立ち止まり、高い身長差から見下ろすように睨みつけた。
「どうせあれだろ? 『SNSで話題のサステナブルな伝統工芸』とか銘打って、うちのションヘル織機のストーリーをタダ同然で買い叩きに来たんだろ。『インスタ映えする安くて見栄えのいいウールを、来月までに三反織ってくれ』……だの、寝ぼけたことを言いに来たんだろ」
「私たちは、インスタ映えなどという軽薄な目的でここへ来たわけでは――」
朋香が耐えかねて口を挟もうとしたが、創はそれを乱暴な怒声で遮った。
「黙ってろ!」
創の怒声が、木造のトタン屋根をビリビリと震わせた。
「どいつもこいつも、口を開けば『伝統を守りたい』『日本の技術を世界へ』だ! だがな、いざ契約書にハンコを押す段になりゃ、商社を間に噛ませて『他所の海外工場ならこの三分の一の工賃で織る』と脅してきやがる! 糸の仕込み代も出さず、納期を半分に縮めさせ、いざ店頭で売れ残れば『品質基準を満たしていない』と言いがかりをつけて返品の山を押し付けてくる!」
創の胸が、激しい呼吸で波打っていた。
その拳は、爪が手のひらに食い込むほど固く握りしめられている。
長年、大手アパレルの傲慢な搾取に晒され、先代である父親の代から築き上げてきた工場の資産を削られ尽くし、仲間たちが次々と廃業に追い込まれていくのを目の当たりにしてきた男の、血を吐くような叫びだった。
「大手アパレルの小娘が何の用だ? うちはな、もう誰の仕事も受けねえよ。残った糸を織り切ったら、この機械を全部スクラップにして、工場を畳むって決めてんだ。……お前らがワンシーズンでゴミ箱に捨てるような、使い捨てのペラペラな服のための布なんざ、うちのションヘルに一ミリも通させる気はねえよ!」
創は背を向け、再び織機の方へと歩き出そうとした。
「話は終わりだ。塩を撒かれる前に、さっさと東京へ帰りな」
完全なる門前払い。
資本主義の論理に裏切られ続け、心を完全に鋼鉄の鎧で閉ざしてしまった男の背中。
朋香は唇を噛み締め、悔しさに顔を歪めた。
だが――。
詩織は、一歩も引かなかった。
怒ることも、弁解することも、同情の言葉をかけることすらしなかった。
ただ静かに、持参していた黒い革のブリーフケースの金具を、パチンと外した。
静寂の中、硬質な金属音が澄み渡る。
「……おい、聞こえなかったのか」
足を止めた創が、苛立ちを露わにして振り返る。
「帰れと言って――」
詩織は何も言わなかった。
ケースの中から取り出したのは、一枚の書類でも、契約書でも、レオンから預かった莫大な小切手でもなかった。
それは、夜を徹して製図用紙に書き上げられた、厚さ三センチにも及ぶ、黒い背表紙の分厚い「仕様書(テキスタイル設計書)」だった。
詩織は静かな足取りで、創のすぐ横にある、油染みのついた木製の作業台へと歩み寄った。
そして、古びたレンチやボビンの転がるその台の中央へ、無言のまま、ドサリとその仕様書を置いた。
埃がわずかに舞い上がり、重厚な紙の擦れ合う音が響く。
「……何だ、これは」
創が警戒を剥き出しにして眉をひそめた。
詩織は作業台の前に凛として立ち、創の琥珀色の瞳を、真っ直ぐに見据えた。
その瞳の奥には、言葉による説得をすべて捨て去った者だけが放つ、冷徹なまでのプロフェッショナルの覚醒があった。
「言葉で何を言っても、あなたは信じないでしょう。……だから、それを見て」
詩織の低く、凛とした声が、静まり返った工場に響いた。
「あなたが織るべき布の、すべての構造がそこに記されています。……それを読んだ上で、まだ私を『アパレルの小娘』だと思うなら、私は二度とこの敷居を跨ぎません」
創の視線が、作業台の上に置かれた黒いバインダーへと吸い寄せられた。
表紙には、詩織の手書きによる硬度2Hの端正な文字で、こう記されていた。
――『L'OMBRE — Fabric Specification Sheet / Super 140's Double-Woven Wool』。
挑発でも、懇願でもない。
職人が職人に対して突きつけた、魂の果たし状。
創の喉仏が、ゴクリと音を立てて上下した。
工場の外を吹き抜ける秋風が、トタンの隙間から滑り込み、仕様書の表紙の角を、パタパタと小さく揺らしていた。




