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第八話『狂気の歴史』

『永遠の物のほか物として我よりさきに造られしはなし、しかしてわれ永遠に立つ、汝等ここに入るもの一切の望みを棄てよ

-ダンテ・アリギエーリ-』

カミュはその質問を聞いた時、頭の中に何かが過ぎるのを察知した。

最初に過ぎった光景は受肉を受けて最初の時、カプセルの中から出て過呼吸を起こしていた自分を支えたサルトルの姿だ。

次に浮かぶのは子供達とサッカーをしていた記憶だ。生前はゴールキーパーとしてサッカーを愛して、いや、待て、生前?私は今生きているはずだ。違う。私はアルベール・カミュだ。いやそれも違う気がする。私は完全にアルベール・カミュではない。顔は勿論違う。所々の性格だって、アルベール・カミュその人ではない。だが、自分はアルベール・カミュだ。カミュのはず。なぜ疑うのだろうか?

耳も聞こえず文字も読めなかったが、それでも愛していた母親の背中にアルジェリアの眩しい太陽…。

地中海の青い、青い海にパリの事務所で文字を書いた日々、サルトルとの論争、普通の人のように愛せずに上手くはいかなかった妻との関係、欲しくなかったのに受け取らざる負えなかったノーベル賞に__それで____それで__?


この記憶はどこから湧いて出たものだ?


カミュは自分という自己を思い出す時に、記憶という媒体を使っている事を今理解した。

そして今更、()()()()()()()を知るには遅すぎたことを知った。

「分からない…」

カミュはセオドロスにしがみつきながら答えた。

しかし答えても、そこで終わりでは無い。

カミュにとって自分が「誰」なのかという問いは、ここで終わらない。

カミュはもう一度記憶を思い返すことにした。

他でもない、自分を取り戻すために

やりたくはなかったが、そうせざるおえないという思いだけがカミュの中に渦巻いた。

深呼吸をして瞳を閉じて暗い、暗い世界の中に自分を放り込んだ。

セオドロスの腕を掴んでいるという感覚だけが手に伝わっている。他者と繋がりを感じたままカミュは自分から一番近い身体的なことから思い出すことにした。

自分は今呼吸をしている。息を3秒かけて吸い、5秒かけて吐いた。

息は何にも阻害されることなくできている。

子供たちとだって、いつもゼェハァと激しく肩を上下させながら息をして、一緒に校庭でサッカーをする程に仲良いのだ。

これは今自分が持っている記憶だ。いつも思い返せる。

こんな日常的なものではないもっと、もっと根源的な記憶___


__「先生、俺リフティングしてさ。17回できたんだぜ」

夕暮れ時に、ドストエフスキーに話しかけた自分の両手には泥だらけのサッカーボールが握られていた。

ズボンはすっかり泥に塗れてて、床を踏む度にベチャベチャとした地面の感触を感じていた。

足先ではジャリジャリと砂の感触が少し感じられて、それと靴下が濡れて湿リ続けている感覚が足にあることが、自分がどれだけの悪天候の中ボール遊びをしていたかを示していた。

孤児院に入るまでの、子供には長く、大人には短い道を歩く。

自分の歩幅に合わせてくれているのかドストエフスキーの歩くスピードはいつもよりも遅いような、早いようなものだった。

「ロレンツォ、嬉しそうですね」

ドストエフスキーはロレンツォと呼ばれた少年の頭を撫でた。

ドストエフスキーのゴツゴツとしてもどこか柔らかな手のひらで撫でられた頭はグラグラと手のひらの動きに合わせて動かされた。そのぶっきらぼうな動きには少しの雑さによる不満と、自分が愛されているという気持ちに包まれる喜びを感じさせた。

__カミュは自分が少しうたたねをして夢を見ていたのを身体が落ちる感覚で理解すると、落ちないようにギュッと命綱を握りしめた。現実に戻されたのだ。

途端に握りしめられたセオドロスは特に何も言わず、未だ項垂れているカミュを見続けている。

カミュは今までの映像が夢であったことを目を開いた先の床を見て思い知らされた。

果たしてあれは、ただの夢なのだろうか?いや、違う。本当にあった事のはずだ。本当にあったことを思い出さずにいただけで、あの記憶は夢などというか細いものではなく、事実のはずだ。

それでも信じきれないことが、自分がどれだけ不安定な世界に生きているかを思い知らせた。

ふと、カミュは息をしようと肺をふくらませた時に、息がしにくくなっていることに気づいた。

先程の夢を塗りつぶすかのごとく、自身にアルベール・カミュとしての記憶が思い起こされていく。

呼吸__呼吸_そう。アルベール・カミュにとって、自分にとって、私にとって、呼吸、呼吸とは___

「不条理と共にあった…」

カミュは気付いた。今の自分の身体に対しての、異常を

_結核が起きていない。

それに気付いた時、自分の喉が酷く間抜けな音を出してギュッと絞られた。

その音がこれから先の人生で、なんと滑稽な姿を晒すのかという嫌な予感を思わせることになった。


カミュは口を大きく開いて必死に空気を取り込もうと喉や肺、腹を動かした。

本当に動いているのかは分からないが、必死に今は酸素が欲しかった。

どんなに努力をしても酸素を得られないと分かった身体は、呼吸の回数を増やしていった。少ない労力で酸素を得ていこうという魂胆だ。いや違う。そんなに冷静なことを考えている訳じゃない。苦しい。ただひたすらに苦しい。息ができない。

何度も空気を口に入れ、空気を出すという行為だけに身体は集中している。喉になにかが突っかかる痛みと首が絞まるような感覚だけが今自分が生きているのだという苦痛の証明をさせた。

手が震える。セオドロスの腕を掴むことをついぞやめた。

カミュはセオドロスから這い蹲るように離れ、扉に近い床で、喉を押さえた。

喉に手を添えた時、カミュは幾分か呼吸が楽なのが分かった。

肺に酸素を送って、その代わりの二酸化炭素を吐き出す。

この行為をしばらく続けた時に、カミュは段々と気管に何かが詰まっていくのを感じた。

それはこの安楽だった呼吸を再び妨げた。

息をする自分の喉から押し出される音は、高い笛の音を出していく。

床に落ちて喉を押さえて、今尚息苦しさに悶える男のなんと見苦しいものか

セオドロスはただ黙ってその様子を見ながら、彼が何を考えているのかを考えた。

考えてもあの男自身ではない自分の脳で、人の気持ちなど考えても無駄だろうと直ぐにやめた。


カミュが気管に何かが詰まったのを感じながら呼吸をし続けて五分くらい経ったのだろうか

ついに血を吐いた。

詰まったものを出そうと咳き込んだと同時に喉から排斥される血は床にボトボトと落ちていった。

カミュは思わず口を手で押さえるものの遅すぎた。

一度咳をしてしまえば、続けて次の咳の為に喉がうねった。

咳は止まらなくなった。

咳を一度したら、喉の擽ったさがたまらなくなる。だから続けてもう一回、もう一回と出さざる得なくなる。

永遠と苦しい迷宮の中に迷いたくはなかったからこそ咳をせずにおいていたのにしてしまった身体は、それを責め立てるかのように余計に呼吸を辛くさせた。

その度に出続ける血、次に息苦しさ、最後にどこか頭が重く痛くなる感覚の中でカミュは苦しみ続けた。

アラートの音が鳴る。

その音はまるで病人がベッドの上で最期に聞く、死の宣告だ。と思いながらカミュは目を閉じた。


バンと勢いよく空き教室の扉を開けたのはテグジュペリだ。

酷く息を切らせて、手元の端末を見ながら走ってきていた。

テグジュペリは目の前の光景を悲惨だと思った。

血を吐きながら床に蹲るカミュに、それを椅子に座りただ見ているだけのセオドロス。

テグジュペリは二人を交互に見た後、カミュに駆け寄って体を起こした。

カミュの身体が酷い高熱と、か細い息だけで動かされているのを理解したテグジュペリはカミュを治療チームの元へ運ぼうと抱き上げた。

続いて来たカフカとドストエフスキーは様子を把握するとテグジュペリがカミュを運んで行ったのを見届けた。

ドストエフスキーはカフカに耳打ちをして、教室から出した後に扉を閉めてセオドロスの元へとゆっくり歩いていった。

ドストエフスキーは教室の惨劇を見て何が起こったかを大体把握していた。

「自分が何をしたのか理解しているか?カミュは適合率が上昇し過ぎた。完成者になりかけたのだよ」

セオドロスはドストエフスキーの目を見つめた

「ボクは彼に、貴方が誰なのかと問いかけただけです」

ドストエフスキーはセオドロスの発言がなんの悪意もなくただ事実を言っているだけなのは分かっていた。しかし、何も響かないとしても言わざるを得なかった。

「それはしてはいけないことなんだ。少なくとも心の綱渡りを続けている。継承者に対しては特に」

セオドロスは納得がいかなかった

「貴方も綱渡りをしているのですか」

ドストエフスキーは首を横に振った後、「私もフロイトと同じ時期に造られた古い継承者だ。殆ど私として定着しすぎた」というとセオドロスの傍の床に跪くように足を置き、肩に手を置いた

「セオドロス、キミは何が罪になると思う?」

それを聞かれたセオドロスは長い沈黙で分からないという答えを返した。

ドストエフスキーは「自分を過信して、神と道徳を見下して他人の命を蔑ろにする事だ」と説いた。

セオドロスはとどのつまり、傲慢さという物が、それにより他者との繋がりを断ち切ることこそが罪なのだと知った。

なら今まで自分がしていたことは全て罪になるのだろう。

セオドロスはその言葉を持って、自身が罪人である事を理解した。

「また謹慎ですか」

そうだ。とドストエフスキーが答えると、セオドロスは素直に部屋へと戻って行った。


カミュは目を覚ますと白い天井を見た。

鼻だけでなく口から息を吸い込んで、何の妨げもなく息を吐けることを理解すると、ホッとしたような顔を見せた。

最後に残っている記憶を手繰ろうとした。

手繰ろうとして思い浮かばれるのはセオドロスだ。

酷く悲しそうな顔をしていた気がする。

その子供は知識を得た上で、それを上手く活かす方法を知らないままに生きている。

事実をありのままにしか受け止められない。それらに付属する他の感情を全て削ぎ落としている___

と、考えていたカミュの耳にジョリジョリと言った音が聞こえてきた。

いや、目が覚めた時から聞こえていたその音を、今やっと聞こえていると気づいた。

音のする方を見るとサルトルが林檎の皮を剥いていることが分かった。しかし、その作法は雑なもので皮と一緒に果肉までも削られていて、原型がない。おおよそ剥かれた林檎として取るべき形をとっていない。

「サンソンを呼んでくれ。林檎が死んでいる。」

サルトルはふと、自分がどれだけ林檎という名の本質を削っていたかを知ると「実存を決めるのは私だ」と言ってナイフをしまうと、クシャクシャな林檎を食べ進めた。

食べ進めながらサルトルは鞄の中から新品の林檎を取り出すとそのままカミュに差し出す。カミュはどうもとお礼も言わずに皮が着いたままの林檎に歯を刺し、そのままシャクシャクと食べ進めた。

「お前は最後に倒れてから三日間目を覚まさなかった。今日はノストラダムス先生からそろそろ目が覚めるだろうという予言を聞いて、タイミングを合わせてきたんだ」

サルトルは果肉の少なくなっていた林檎をすぐに食べ切るとそのまま捨てた

「そうか、子供達の様子はどうだ?私がいなくて業務とか大変になってないといいんだけど」

「他の先生たちが上手くやっている。お前がいないとダメという程でもないが、子供達も復帰を楽しそうに待ってるよ」

そう聞いたカミュはホッとすると、もうひとつの不安をそのまま伝えた。

「セオドロスは?あの子はどうなってる」

「謹慎だ」

カミュはまぁそうか、と納得の言った顔を見せた。

それを見てサルトルは必要ないだろうが知りたいだろう情報を付け加えておくことにした。

「謹慎中、彼奴の様子は変わりがない。分かるか?あれだけのことをしておいて()()()()()()()()()()()()()()()()()んだ。」

カミュは別にと言ったように、気にするほどのことではないだろう事を伝えた。

サルトルは呆れたように返した。

「度重なる脱走に、一継承者の精神をたった一言で崩壊させてお前の適合率を90%まで上昇させた。たった一言で、20%の上昇をさせたんだ。この恐怖がわかるか?」

数値でいえば確かにそうかもしれないが、カミュにとってはその事は起きた過去の記録でしかなく、今後セオドロスをどうするとかいう危険視をする為に必要な情報では無いと思った。

カミュの様子をサルトルは未熟だと吐き捨てると、サルトルはひとつの問を出した。

「セオドロスとは何者だ?」

それを聞いたカミュは、今までの関わりの中で感じたセオドロスについてを伝える事にした。

「あの子は子供だ。でもその態度は大人びている。いや大人びていると言うより、機械的とも言えるか?徹底した合理的な発言とその冷静さは感情的に生きる子供たちとは、確かに混ざりにくいだろうなって、印象はあったよ。でもあの子もあの子なりに苦しんでるんだと思うんだ。ジャン=ポール、あの子は事実をありのままに受け取る。だからこそ他の子達の視線や私達の発言の意図をありのままに()()()()()。だから__」

カミュは吐き出すように言った。

「_自分がどれだけ異物なのかを、理解できてるんだ」

カミュは起き上がると手に持っていた林檎を両手で持ち、親指で擦りながら自分が齧った果肉の部分を見つめた。

「可哀想だ。なんて言ってはいけない。彼は自分がそうとは思っていないのだから、言うだけ意味の無い話だ。でも、誰かが言わなくてはいけない。彼が()()()()()、と」

サルトルはカミュの独白を聞き終えると、端末を操作した。

「観測チームと記録チームに調べさせた。セオドロス・クラークはポルックス周辺に住んでいた子供だ。

専業主婦の母。印刷会社の父を持ち、健気に学校に通っては授業中先生に質問をしたり、帰りには図書館で本を読んだり他の子供とその日学んだ知識を語り合っていた、と。何ら変わりもないが、今のセオドロスを見ていると想像はしにくいものだな」

サルトルは手元の端末の電源を切り、席を立った。

「ゼルチュルナーがそろそろ来る。お前の今の状態について話してくれるだろうね」

それじゃと言ってサルトルは病室を出た。

それからすぐにゼルチュルナーが入ってきた。

「た、体調は…お変わりない?ですかね。」

カミュは息苦しさ等の辛さはないことを伝えた。するとゼルチュルナーはホッとしていた。

「それは良かった…!いや、良くないことも多いんです、けど…と、とりあえず説明しますね」

ゼルチュルナーはカミュに対して、適合率が上昇し、アルベール・カミュとしての概念に近くなったせいで、彼の人生の全てでもあった結核(不治の病)を再発させた事を説明した。

次に、概念的な発症なので元来の結核のように空気感染で誰かに移るということは無く、今まで通り教育チームで教師を続けられる事。でも結核は結核である為適合率と身体の状態によっては息苦しさや喀血が起きる為無理はして欲しくない事。サッカーは本当にして欲しくないけど、無理のない範囲でという事を念入りに伝えた。

カミュはそれをはいはいと聞き流す、その態度がゼルチュルナーを余計に不安にさせた。

ゼルチュルナーはカミュへ薬の束が入った袋を差し出した。

「えと、開発チームのパラケルススさんと、僕と、あとノストラダムス先生とで共同で開発したものです。星の核を使って概念に干渉できるようにさせたものなんですけど、これである程度は概念的侵食である結核を抑えることができるはずです。まだ実験段階のものを使用するので、貴方を被検体にしてるみたいになっちゃって、申し訳ないんです、けど、他に方法もなく……」

ゼルチュルナーはズビズビと泣き始めた。

カミュはそれでも構わないと伝えると、余計に泣き始めた。

「薬には気をつけてくださいと言ってますよね…!?何が起きるか分からないんです。なにが…う、モルヒネ…モルヒネみたいに…あんな、最悪なことがおきないとも言えないんですから」

こうなるとゼルチュルナー先生は長くなるぞと覚悟をしたが、説明が終わったことを廊下から聞いていたナイチンゲールがすぐさま部屋に入ってきて「ゼルチュルナー先生!泣いてないで話が終わったなら仕事場に持ってください!」と、叱咤をした。

ヒィと声をあげて、ゼルチュルナーは渋々部屋から出た。

ナイチンゲールは起きたのならばとカミュのバイタルサインを測定した後に、自覚症状を確認して異常がないことを確認すると、何かあればナースコールを押してくださいと言って部屋を出ていった。

カミュは代わり映えのしないベッド上の景色を見ながら、一口しか齧っていなかった林檎を頬張りながら、セオドロスも同じように代わり映えのしない景色を見ているのかもしれないと想像をした。

『「あらゆるものを、可能な限り最大の正確さで測り、そして秤量しなければならない

-フリードリヒ・ゼルチュルナー-』

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