第七話『アダムの創造』
『意志は意に反して消えることはない
-ダンテ・アリギエーリ-』
「そのカミュ先生の黒いリボンだって、ただの依怙贔屓だろ?」
セオドロスはそれを聞いた時にふと、浮遊感が襲ったのを感じた。
身体の重さはしっかりと地面に降り立つのを感じてはいるものの、カミュを見つめていた時と同じように身体の奥の心が上に引き上げられていくのを感じていた。
自分の体が告げている。
_相手を殺すべきだと
セオドロスはそのまま走って子供の首を左手で突く。突発的な行動を相手がしてきたことにより体が固まっていた相手の首に、左手は容易に差し込まれていった。
相手が嘔吐きながらくずり落ちるのを見るとセオドロスは勢いよく相手へしがみつき、相手の胸元へ跨った。マウントポジションだ。
左手で相手の右側の髪の根元を掴みながら床へと押しつける。
そして殆どの感覚がない右手で握り拳を作り相手の顔面を殴った。
最初はどこを殴れば良いのかわからず、とりあえず前頭葉に位置する額を殴る。殴った衝撃だけが右手に伝わる。しかし、殴った痛みはこの右手では感知しきれない。
セオドロスにとってそれは、人を殴り殺すのに自身へのデメリットがないという最高の条件であった。
目指すべきは頭部外傷だ。だが、しばらく殴ったあとにたかが非力な己の拳では相手の頭部へそれほどの衝撃を与えることは不可能だと判断したセオドロスは次に目を狙った。
頭部を殴っておいたお陰か、相手の意識はほとんどなかった。
だから、あとは狙って殴るだけだ。
人間に限らずほとんどの生き物は視覚に頼って生きている。
逆に言えば、視覚がなければ生活は困難になると言える。
だからセオドロスは目を狙った。
それに、今まで見えていたからこそ享受できていた毎日の幸福を、見えないからこそ思い知らせるのも己の役目だと思ったのだ。
右手は眼球がどれほど柔らかいものなのかを理解できずにただただ振り下ろされる。セオドロスだって、今殴っている相手がどれだけか弱いか、今殴っている拳がどれだけボロボロかもわからずにただ確実に相手へ後遺症を与えるという強い意志により、拳を振り下ろし続けていた。
汗ばんでいるのか、左手が相手の髪からずり落ちる。
その度に強く、より根元の髪を掴むが故に抜けた髪の毛はセオドロスの左手に絡まっていった。
周りの子供たちの悲鳴や静止も聞かず、セオドロスは拳を振り下ろす。
恐らくセオドロスには聞こえていたのだ。悲鳴も暴力をやめて欲しいとの懇願も
しかしセオドロスには止める理由がない。
セオドロスの視界は赤い色しかない。
何度目かの暴力の果てにセオドロスは体全体が動きにくいことを察知した。
右腕が引っ張られている事により、右腕を動かすことにのみ集中していた身体が止まったのだ。
セオドロスは腕を掴んでいる相手の顔を見て、少しときめいた後にふと、名前を聞いた。
相手が口を開く
「ミケランジェロだ」_と。
セオドロスはそれを聞いてやっと暴力に振り切っていた思考を休めた。
ただ周りは凄惨だった。
子供たちの何人かは泣いている。いや、その調子でいえばほとんど全員なのだろうか。
目の前で罰を執行された子供は力なく倒れている。顔は殆ど血に濡れていて赤い。
それを見るとセオドロスは己の右手も赤く染っていることに気づき、自分がどれ程までに相手を殴ったのかを実感した。
その時に湧いた感情は喜び喜びである。
ミケランジェロはセオドロスを見ながら端末を使い、教育チームの先生たちを呼んだ。
来るまでの間、ミケランジェロはセオドロスの腕を掴んで話さなかった。
教育チームのテグジュペリ、カフカ、ドストエフスキー、最後にカミュがやってきた。
最初に走ってきたのはテグジュペリだ。
テグジュペリは周りの泣いている子供たちを宥めながら、皆を引き連れて現場から離れさせた。
次に来たカフカは倒れている子供を虫の脚を使い、そっと支えながら怪我の様子を見ている。
ドストエフスキーはセオドロスの腕を掴んでいるミケランジェロの目の前に歩いてきた。
そこでセオドロスは気付いた。ドストエフスキーとミケランジェロの目付きや雰囲気が少し似ていることに
ドストエフスキーはセオドロスを少し憐れむような目で見つめ、ミケランジェロに対して感謝を述べた。
「ありがとう。ミケランジェロ、この子を止めてくれて」
ミケランジェロは苛立ちを隠さずにセオドロスの腕を掴んだまま上げてドストエフスキーに血濡れた右手を見せつける。
「オレがここここに来ていなきゃ、このガキの右手は粉々だったろうな。来た途端にこんな場面を見せられて、オレとしてはいい迷惑だ。」
ミケランジェロは掴んでいたセオドロスの腕を汚い鼠をどこかへ逃すかのように突き放した。
「何しに来ていたんですか?」
セオドロスはミケランジェロに尋ねた。ミケランジェロは目の前の子供の言動に対し舌打ちをした。
「チッ、忘れ物を取りに来たんだ」
ドストエフスキーはそれを聞くと「これだろう?」と言いながらミケランジェロに箱を手渡した。
ミケランジェロはそれを受け取ると、セオドロスとドストエフスキーを睨みつけたあとに一歩、また一歩と足を進めた。
歩きながらカミュの横を通り過ぎる直前にカミュにしか聞こえない声で警告を発した。
「あの反乱因子は上層部にとってはさぞ邪魔なものとして目に映るぞ。子供を失いたくなければ教育方法を誤るな」
ドストエフスキーはセオドロスをしばらく見つめた後に何故暴力を振るったのかを聞いた。セオドロスが「あの子供がカミュ先生がくれたリボンを依怙贔屓だと言ったから」と答えると、ドストエフスキーはカミュの方を向いた。
ドストエフスキーと、それに遅れてこちらを見たセオドロスと目が合ったカミュは頭の中でどう考えるべきかを考えた。
セオドロスが自分のあげたリボンを大切にしていてくれたのはとても喜ばしいものだ。しかし、それを依怙贔屓だと言われたからと言って暴力に走るというのは普段のセオドロスからは考えられない暴挙だったからだ。
それに依怙贔屓と言われたのにおそらく怒りを抱いたような発言なのもカミュを困らせた。
いつもの言動の通りならセオドロスは自分達継承者を良いように見ていないと思っていたのに、自分がセオドロスを特別扱いしているという相手の発言にセオドロスは怒ったのだ。その怒りは相手を否定する感情でできており、それ即ちセオドロスは自分達をある意味では良いように見ているという証明になった。
カミュはどう接していいかわからず言葉に詰まりながら「暴力は良くない。でも、リボンを送ったのを依怙贔屓だと言われた事に対して怒ってくれたのは少し嬉しい」と自分の思ったことを正直に伝えた。
それを言われたセオドロスは特に反応を見せることなく、その後ドストエフスキーの処置によりしばらく授業を受けず自分の部屋で過ごす謹慎処分を受けた。
期限は3日。
しかしセオドロスにとってはそれはあっという間に過ぎ去るもので、気がつけばもう謹慎期間は過ぎていたが、セオドロスはずっと部屋に篭もりっぱなしになった。
謹慎を受けている間に、そもそも外に出る理由を見出さなくなったのだ。
食事自体は先生たちが届けてくれる。それに甘えている訳でもなくセオドロスは食事さえも別に必要としてないのになという思いを感じつつ、全ての食事がゼリー飲料のようになってそれを飲むだけで終わればずっと楽だろうという思いを何も変わらない部屋の中で考えていた。
数ヶ月後、セオドロスは定期的に脱走を繰り返すようになった。
常に先生達は授業をしたり、子供達と遊んだり、何かと作業をしている。
セオドロスは自室の窓から校庭でカミュが子供たちとサッカーをしているのを見ながら、ふと外に出た。
孤児院を出て、スターバーストの施設中を歩き続ける。
基本的にこの施設には監視カメラが備え付けられていて、どこを見ても監視カメラがある。
セオドロスはその監視カメラ一つ一つに対してわざと視界に入るように堂々と歩き、また監視カメラのレンズを睨みながら歩く。
やがて人気のないルートを通っていき、監視カメラの死角が増えて行く道に辿り着く。
そこからセオドロスは急いで走り、スターバーストの非常口を開け外に出る。
頑張れば登り切れるフェンスに手をかけ、勢いよく登っていく。
もう少しで乗り越えて、外に出られる__と言った所でいつもヒョイと持ち上げられるのだ。
「はい、残念」
軍服を着た3mの男がいつも行く手を阻んだ。
「今回もダメでしたね」
軍服の男はそっと地面にセオドロスを置いた。
「いつもいつも懲りないね。こっちとしては監視カメラの死角が分かって、新たに設置できるからさ。セキュリティが上がるもので助かってるよ」
「その分貴方の仕事も増えてると思いますがね」
軍服の男は6つある目でセオドロスの事を微笑みながら見つめる。
「別に構わないけどね」
軍帽を取り、蒸れて痒くなった頭部をガリガリと掻いた。
「フーコー、貴方って一人で監視カメラの映像を見続けているのですよね?」
フーコーは軍帽を被り直しウィと答えた。
「パノプティコンに引きこもって監視カメラから貴方だけでなくのの組織全体を監視しておりますとも」
「パノプティコンの話は、そんなものではなかったと思いますがね」
ぶつくさと文句を垂れるセオドロスを横目にフーコーは笑いながらその頭を撫でた
「解釈次第ですよ。誰がどう、何を解釈しようがその人次第です。人は自分の見たままに全てをラベリングしますから、一つ一つ突っ込んでいても仕方ないよ」
フーコーはその大きな体を折り曲げてスターバーストの施設の中に入っていく
「ほら、おいで。孤児院に戻ろう」
「…パノプティコンはそっちではないですよね?」
フーコーは笑いながらセオドロスに見つめる。
「キミが何度も脱走するから、親御さんに直談判をしに行くんだろう?キミぐらいだよ。私をあそこから引きずりだせるのは」
セオドロスはフーコーに続いて歩いた。
「司令チームは相変わらずさ。サルトルとはよく話すけど、ベートーヴェンとは話が合わない…というより会話できないし」
セオドロスはフーコーの愚痴をいつもの会話のように聞いていた
「適合率が上昇した結果、難聴になったのでしょう?」
「うん、それももうだいぶ前からだけど、やっぱり慣れないかな。私は本当に、パノプティコンに引きこもって出てこないからね」
そもそもとしてフーコーの肉体は3mある。施設中を歩くのも本人にとっては結構大変とのことだ。
「アルゴスを核にしたから身長も高いんでしたっけ」
「そうだよ。巨人を核にだなんてよくやるよね〜」
フーコーは事実のみを話そうとするセオドロスに対して、世間話を続けた。
「最近来た新人のジャンヌちゃんはさ、字が書けないからサンソンに教わってるんだよね。サルトルは教えてやらずにいつものように他チームの偵察してるよ……。この間は筆談でベートーヴェンと話して楽しそうにしてたっけ」
「馴染んでいるのですね。ジャンヌ・ダルクの継承者も」
フーコーはそれに対してウィと答えた。
やがて孤児院に着くと、その3mの看守に対して子供たちは少しの恐怖が混じった好奇の目を向けた、
何人かは恐れ、何人かはその雰囲気に魅了されている。
フーコーはその子供達の視線を受けながら、ニコニコとしていた。
「視線を浴びるのは新鮮だなぁ…」
味わうように子供たちの視線を一人一人見つめ返し、喜びのため息を吐いていたフーコーの元にカミュが急いでやってきた。
「セオドロス…!また……」
カミュはセオドロスに対してどう関わったらいいか分からず、言葉を止めた。
他の人もカミュも皆セオドロスには何を言っても響かないと分かっていたのだ。
だからこの数ヶ月の間にカミュもほかの先生もセオドロスに対して余り深く接しようとしなかった。
そんな中でもカミュはできる限りセオドロスに寄り添おうとしていた矢先に脱走なんて危険行為を繰り返されては、カミュとしては内心穏やかではなかった。
フーコーはカミュにセオドロスを届けると、ゆっくりとパノプティコンに帰っていった。
どの道行く末は監視カメラでいつでも見れるのだから、フーコーは何も気にせずパノプティコンに戻った。
セオドロスはカミュと二人きりの部屋にいた。空き教室を拝借しているが、カミュの顔は穏やかではない。
「なぜ脱走なんて危険な行為を繰り返すんだ?」
セオドロスは淡々と答える。
「することに意味があるからです」
カミュはそれを聞くと、額に手を当てた。
「セオドロス、私はキミが心配なんだ。そんな行為を繰り返さないでくれ」
「何故ですか?」
「危険行為を繰り返していると、キミが上層部に目をつけられて最悪…あの時の処刑チームが君を殺そうとするかもしれないし、キミだけ孤児院から追い出すなんてこともしかねない」
セオドロスはさっぱり響かなかった。
「受肉の儀式で死ぬのと、それで死ぬのに違いはないです」
その言葉を聞いた時カミュは酷く怒りに満ちた顔になり机を強く叩いてセオドロスに迫った
「なんでそうキミは死ぬ方向に持っていくんだ!それまでのキミの人生を心配しているんだよ!!?死ぬまでだって、過程がある。日々の生活はどうなる?!終わりだけを見つめるんじゃない!!それまでを、それまでを…大切にさせてくれよ」
カミュは力なく椅子に座っていたセオドロスの肩を掴んで、ズルズルと崩れ落ちた。
カミュの項垂れた頭はセオドロスの腹の位置にある。
傍から見れば親に甘える子供と、思えなくもない。
ただセオドロスには何も響くことはなかった。
「分かりません」
セオドロスはなぜ相手が自分にしがみつくのか分からず、また、それが分からないという自分自身への違和感を感じながらその正体を探るようにカミュから目を逸らした。
逸らした先には子供達の似顔絵が貼ってあった。
一人一人、各々が自分の顔を、自分なりに描いていた。
セオドロスは名前だけでなく顔などの外見がその人を認識させるのだというのを、その壁一面に貼られた子供達の似顔絵で噛み締めるように理解した。
そしてカミュに言い放った。
「貴方は誰ですか?」
『哲学は知識ではない。哲学は、すべてを問題とする反省の方法だ
-ミシェル・フーコー-』




