観測チーム篇 最終話『地獄の対価』
『汝等ここに入る者、一切の希望を捨てよ
-ダンテ・アリギエーリ-』
フーコーの足元に蜘蛛が張っている。
ファウストは変わらず、パソコンの奥でフーコーを見つめていた。
愛する人と添い遂げたいがために、自分を殺さないといけない…
フーコーは椅子から立ち上がり蜘蛛の前に立った。
蜘蛛は足を怪我しているのか、糸がもう出せないのか、目が見えないのか、理由は様々だろうが動こうとしなかった。
足をあげて、蜘蛛に合わせて動かすと、蜘蛛に靴の形の影が被さる。
フーコーは蜘蛛を踏んづけた。
思いの外強い感触がした。ブーツで踏んづけているのに
フーコーは潰れた蜘蛛を見たくなくて目を閉じていたのを恐る恐る開けることにした。
靴で潰していたのは自分だった。
フランソワが潰れている。
靴先で踏みにじればその口から血反吐を吐き、身体は痙攣しているのか揺れ動いた。まるで虫が潰れたような動きだった。
_フーコー、まだ生きてるよ。ソレ
ファウストがパソコンの奥から語りかけてくる。
_フーコー、もし君が未来のイメージが欲しいというなら、人間の顔をブーツが永遠に踏みつけ続けているところを想像するがいいさ
フーコーはどこかで聞いたことあるような本の内容を耳で聞いた後、ブーツを退けた。
小さな孤児のフランソワが潰れている。下半身はぐちゃぐちゃだ。
彼はこちらを見て怯えたような顔をしている。
フーコーはもう一度、今度は躊躇もなく、より強い力で踏みつけた。
何度も何度も踏み付けた。
きっともう原型は無いのだろう。それでも踏みつけた。
原型が無くなっていくにつれフーコーは思う
「本当の自分ってなんだっけ!」
すっかり分からなくなったフーコーは足を退けた。
きっとそこに真実があるはずだ。
しかし足を退けた先にあるのはただの蜘蛛だった。
蜘蛛が潰れてよく分からない液体を撒き散らしてて、足がちぎれている。
フーコーは少し床から足を上げさせた。表面張力でまだ謎の液体で床と繋がっていると思われるギリギリのところまで上げた。
そして勢いよく靴の裏を見えるように足を上げ、振り返るようにして靴の裏を見た。
黒いブーツで色が分かりにくいが少しだけ臭う鉄のような香りが物語っている。これは血だということに
もう一度蜘蛛を見る。フランソワが潰れている。
フーコーはすっかり分からなくなり、ファウストを見つめた。
_まだ死んでないよ
フーコーは冷や汗が止まらなくなり、声も出せなくなってくると、一心不乱にフランソワを潰した。
机と椅子が揺れる。机の上の物が揺れる。
食べそびれてあの日から放置していたカップラーメンの中身が個倒れてこぼれていった。
すっかり表面にカビが生え、中にハエやうじが溜まっていたそれは倒れたと途端にハエが再びわっと動き出した。
あの虫達は今までの安寧を揺るがされ、焦っている。
フーコーも同じように焦っていた。何度も何度も踏みつける。
腐敗臭が部屋に満ちていき、ベトベトと気味の悪いものが床に落ちていくとフーコーの鼻にもやっと届いたのかフーコーは少し胃液が溢れた気がした。
思わず口を抑えたフーコーは足を、踏んだものを床にこびりつかせるように力強く踏みつけながら後ろに引きずった。
蜘蛛の足がちぎれていった。
足を後ろに動かす度に、1本2本と増えていったそれをフーコーは目で追うのをやめて床の蜘蛛を見たと同時に映ったあの数ヶ月放置した汚物とそれに集っていたウジを見て、床にゲロをぶちまけた。
何も入っていないのに何を吐けと言うのか分からず、何も吐けないままただ喉と胃がひっくり返ったような嘔吐きだけがある。
何かを吐けさえすればまだマシだったろうに
フーコーは顔を上げた。ファウストを見た。
しかしそこにファウストはもう居なくて、暗い画面だけがあった。
自分の顔が反射する。
「自分?」
フーコーはパソコンを閉じ、上から拳で殴りつけた。
自分を殺さないと、いけない!
フーコーは自分の顔を反射させるものを全て叩き壊した。
自分の目の前に移る大量の監視カメラの映像も、一つ一つ壊していく。
高いところのモニターは、椅子を持ち上げて
近くのものは、そのモニターの支えの枠組みごと引きちぎるように床に倒させた。
壊し続けていた果てに、フーコーは歪んだ声で笑った。
笑い声と泣き声は酷く似ていて、それらはパノプティコンに響いた。響いてももう、誰も気にしない。ここには自分一人だったのだから。
フーコーの両手は強く握りしめていても何故かずっと冷たかった。フーコーはそれに気付くと床に仰向けに倒れた。
頭上には監視カメラがあった。
唯一壊しきれない。自分を反射させるもの
フーコーの唇からは変わらず笑い声が出されていた。
フーコーは思った。
誰も彼も一人の人間の心の内など気にしていなくて、ただ自分の見たままで全てを捉えるのだ。
ニーチェは言っていた。
「事実なんてなく、あるのは解釈だけだ」と
全くその通りだった!ずっと前から一人の人間は気付いていたのに、全ての人間はそれに気付けないまま生きてしまった!
誰一人として、ミシェル・フーコーを気にしていない
多くの人間の解釈によって構成されたミシェル・フーコーが己だった。
果たしてその何人が本当のミシェル・フーコーを知っているのだろうか?
誰一人として、いない。
この世界は、もう誰もが自分自身を忘れてしまったのだ。
誰も彼もがその内に秘めた熱を出さずして、全てが末端から冷たくなっていってしまった。
ブーツで踏み潰すよりも前に、もっと前に自分は死んでいたのかもしれない。
子供の時に既に蜘蛛は潰されていたのだろう。
フーコーは体の感覚がもうほとんどなかった。
ただ感じないようにしているだけかもしれない。
顔の表面にハエが張り付いてくる。その不快感を拭うことさえ叶わずに顔表面のくすぐったさを感じたままに監視カメラを見続けていた。
_ふと、モニターが着く音がした。
その音を聞いた時、フーコーは起き上がった。
ファウストがついぞ帰ってきてくれたのかもしれない。
やっと、自分を殺せたのかもしれない。
そう期待を込めてパソコンを見つめた先にいたのはダンテだ。
ダンテは、変わらず槍に貫かれ、拘束されている。
フーコーは不思議だった。この場においてなぜ彼だけが見えるのか。
一つ最悪な事を思い出した。
ファウストはダンテを嫌っていて、だからこそダンテ絡みの願いだけを無償で叶え、破滅へと向かわせる。
逆もまた然りだ。
ダンテも、ファウストを嫌ってる。
ダンテはゆっくりと監視カメラを見た。そして、フーコーを見た。
彼には一体目の前の存在は何に見えていることだろう?
「あ」
フーコーはダンテと目が合った。
フーコーは地獄と目が合った。
ダンテにとって目の前の存在は、悪魔と繋がった重罪人に見えていたようだ。それもよりによって、ファウストと
それだけは事実だった。
それだけは事実だったんだ。
「よりにもよって……」
フーコーはその一瞬に地獄を見た。
足が震え、声が出なくなり、涙が溢れ出してくる。
足から焼かれていくような幻痛が襲う。
目の前に凄惨な光景が広がっていて、色んな罪人が死んでいて、その中の一人として逃れられないことを分からされるとフーコーの身体は酷くあっさりとした音を鳴らして床に落ちた。
頭上の監視カメラから見ればそれは、ブーツで踏み潰された蜘蛛のようだった。
__『あーあ』
監視カメラから見ていた男は携帯を画面を消し、机に伏せさせた。
「終わっちゃったな。兄さんも無理し過ぎたんだよ。馬鹿だねぇ……せめて私の事を思い出してくれないかと思ったけど、それも無理だったみたいだね」
男は伸びをすると、空を仰ぎ見た。
「人の小説を引用しやがって、あのペテン師が」
オーウェルは空を飛んでいる鳥をずっと見つめていた。
モールスは通信室を出た。外の有り様といえば酷く至る所に死体が散らばっていた。
かつてみていた戦場の光景とは似ても似つかない。
モールスはコルトから受け継いだコルト・パターソンを握りながら崩壊した施設を巡ることにした。
巡っていった先で、暴れていたらしいキルケゴールの完成者がふわふわと浮いていた。
目的といえば特にないようだ。
だいぶ離れた距離だから、向こうがこちらに気づくかどうかは分からない。
でもモールスはそれで終わるなら、それも運命だと思いながら観測していた。
キルケゴールの後ろから、脱走してきたらしいダンテが現れた。
彼はキルケゴールの頭を鷲掴みにすると、そのまま握り潰した。
それだけで良かったのか、それ以上の何かが起きていたのかキルケゴールは泥のように溶けながら消えていった。
ダンテはまた何処かに飛び去った。
キルケゴールからもダンテからも見放されたか、私は
と、思いながらモールスは道を歩いた。
「What hath God wrought?」
モールスはふと、呟いた。
これはモールス信号が初めて長距離電信の公開実験で歴史上最初に送信されたメッセージだ。
モールス信号は、自分の発明は人間だけの力によるものだけではない。
神の導きによってなされた偉業でもあるだろう。
モールスはそう思っていた。そう思いながら、信号を打った。
「まぁこれは私ではなく友人の娘のアニー・エルスワースが選んだ言葉だがな」
開発資金を政府に申請していた時に法案が議会を通過した吉報を翌朝一番に教えてくれたのがアニーだった。
喜んだ私は最初の電信線を敷いたとき、最初のメッセージを送る権利を君に与えると言ったっけ。そして彼女は今呟いたものを選んだのだ。
懐かしさを胸に秘め、瓦礫混じりの道を歩いているとドストエフスキーを見つけた。
血塗れだ。向こうもろくなことになっていなかったらしい。
彼の見つめていた先の瓦礫の山にはダンテがいた。
太陽を見つめている。
「生きてたんですね」
モールスがドストエフスキーに話しかけると、彼はこちらを見た。
「…同じセリフをそのまま貴女へ」
「ふふ、恐縮です」
ドストエフスキーはそちらでは何があったかを聞いてきた。
「ノイマンとラプラスと共にやっていたのですがね。ファウストがこちらにやって来て、ノイマンが対処したのですが殉職しました。
その後、ラプラスが未来視を行ったのですが、そのまま発狂死しましたよ」
モールスはダンテの方の瓦礫の山と、その地面に散らばる死体を見た。
彼女はこの未来をあの一瞬で全て見たのだろう。
「この未来を一人で見れば、それは発狂ものでしょう。
他の人達はほとんど…完成者に成ったキルケゴールとドン・キホーテにより蹂躙されました。
私は……運が良かっただけです。通信室に居て、そこが丁度誰も来なかっただけ、建物も崩壊しきらずに保たれただけ、です」
モールスは伸びをした。
「その後キルケゴールはダンテにより消滅させられました……私が観測したのはそこまでです」
「そうか」
ドストエフスキーとモールスはただ呆然と目の前の地獄の主を見ていた。
モールスは、踏ん切りがついた。
地獄でも天国でも、何処だっていい。
誰かが入口で待っていてくれているだろう。
「さて、私はそろそろお暇させていただきます」
モールスは懐からコルト・パターソンを取り出した。
弾丸の重みが手に伝わる。
「……そうか」
「止めないんですね」
「やめてくれそういうこと言うの、もう今更だろう?」
「それもそうです」
モールスは自身のこめかみに拳銃を向けた。
弾丸は全て入っている。自分が死んだあと、ドストエフスキーが是非とも使ってくれればいいと思った。
そこら辺の破片で死ぬより、朽ちていって死ぬより、引き金ひとつあった方が、きっと楽だ。
「最後に会えたのが貴方とは、良い人生でしたよ」
「そうか?」
「えぇ、貴方は全ての継承者の父ですから」
「そんな大層なものでもなかったよ」
「いいえ、私達は、その希望を込めて貴方を見ていました」
実際にそうだ。彼は教育チームの、孤児院のリーダーとして生き続けていた。
全ての継承者は彼を知り、そして忘れることで始まる。
「………」
「…ほんと、クソみてぇーな人生です」
「全くだ」
「どうせなら皆でBBQでもして楽しく死にたかったなぁ!」
アメリカ人はBBQが好きなんですよと、テンプレじみたことを言ってみせた。
「でも、もう意味なんて無いんですね」
「ないな。その皆は…あいにく居ないらしい」
「ふふ、それでは天国でお待ちしています」
「おいおい、縁起でもないことを言うな」
「ははは!…でも貴方も早くここから去ることです。
どうせ長くいても、ここには地獄しかありませんから……」
さようなら、と言って引き金を引いた。
それまですっかり震えていた手はしっかりと引き金を引ききった。
聞き馴染みのある破裂音が聞こえる前に、モールスとしての生命は終わった。




