観測チーム篇 第五話『虚無の夢』
『悪人がいくら害悪を及ぼすからといっても、善人の及ぼす害悪にまさる害悪はない
-フリードリヒ・ニーチェ-』
フーコーはいつも通り椅子に座りながら寝て、椅子に座りながら目を覚ました。
そのままポットで沸かしておいたお湯をカップラーメンに注ぎ、箸で蓋を塞いで砂時計をひっくり返した。
砂が完全に下に落ち切るまで、フーコーはモニターの画面を見ていた。
皆変わらず、仕事をしている。
まだ朝ということもあり、起きている人と起きてきてない人でバラバラではあるものの、この一日が始まろうとして全ての人間が動き出す瞬間はフーコーにとって面白いものだった。
あっという間に三分間が経った後、フーコーは蓋の上に置いた割り箸を歯で咥え、もう片方を引っ張って割った。
そして蓋を開けきって中の蒸気が上に上がるのを見ると、咥えて今箸を手に戻してカップの中に突き刺した。
そうして右手側に用意しておいた塩胡椒を少しかける。
いつもなら胡椒のみをかけるが、間違えて塩胡椒を買ってしまった過去の自分を恨むしかないね!
麺を程よく解すように抜き差しを繰り返しながらかき混ぜる。
そうしているうちに具材も混ざっていき、麺の中に具材が破片だけしか見えないように隠れた時が程よく食べられる最高の瞬間だ。
事前に息をふきかけて冷ますなんておこがましい真似はしない。フーコーはそのまま口に麺を入れ、熱いままのそれを末端まで吸い込んだ。
他のチームでは皆で食卓の準備をしているんだろうが、食事なんて食べられればそれで良くて、味は二の次だ。
しかし食事というのはエネルギーの補給と同時に至福の時間でもある。
一人で行うことに意味がある。一人で誰にも邪魔をされず、ただ目の前の愛する物のみを歯と舌と口内全体を使い味わい尽くす。
誰かが言ったか、食事と性行為は似ているらしいと
「ッハハハ!」
フーコーはそれを思い出して笑った。それは有り得ない。
目の前のカップラーメンが愛する人ならば、もっと欲情を煽れるように味わい尽くすだろう。それこそ、骨の髄まで
しかし愛する人などもういない。
生涯を共にした伴侶であったダニエルももういないのだ。
彼は私が捨てた手紙もちゃんと保管していたっけ……?
二人で交わした手紙は、墓場まで持っていくといってそのままだ。
フーコーは半分も食べきっていないカップラーメンを、横手に置いた。
ただ呆然とモニターを見た。
この中の何人が、生前の伴侶のことを覚えていて、また、忘れているのだろう?
「貴方のことを他者としてではなく…私の記憶として覚えていたかったのに………」
パノプティコンに響くこの声は誰にも聞こえることがない。
継承者は、偉人の概念を上書きした存在だ。
その偉人の概念というものの根源は、人々が作り上げた偉人のイメージそのものだ。
それは様々な文献、作品、人の意見、人の想像力……それらを元に作り上げられている。
資料がなければ、そこで終わり。記憶としても定着なんてしない。
だからフーコーは、ミシェル・フーコーとしてその伴侶であったダニエルの事をパートナーであったことは分かる。しかし、細かい記憶までは分からない。
だって、手紙が無いのだから。細かい愛の記録がない。
君への愛情がその手紙の中に同封されているのだから、墓場まで持っていくなんて寂しいこと言わずにしておいて欲しかった。
「じゃなきゃ君を思い出すことすら出来ないじゃないか…」
ただそうであったという事実だけが目の前にあって、その日々の日常は分からない。
名前だけの彼を、フーコーは愛していたと言わされてしまう。
愛だけは、ある。失恋した気分だ。実際、他人同士なのは分かってる。所詮自分達継承者は造られた存在で、それ本物じゃないんだってことぐらい彼らを見続けるフーコーには分かりきっていた。
カップラーメンから湯気はもう出ない。
フーコーの心も、同じぐらい冷えていく。
フーコーは今宵もSMバーに行こうかと思った。これぐらい冷えきったものを温めるには別の代用品がいる。
ミシェル・フーコーはゲイでもあったし、ハードなSMも好んでいた。それはもう少し事情がおありのようだが、その事実だけが全てだ。
果たしてかつての自分自身も同じようにゲイでハードなSMが好きな少年だったのか?…そこはもうどうでもいい
「どうでもいいんだ……」
愛した人のことさえ思い出せないぐらいなら、どうぞこの浮気者を殺すまでに痛めつけていただきたい。
フーコーは頭上の監視カメラを見た。
見られている。彼らは見ている。何のためにこんなことをするんだろう。
自分達は、もう充分頑張ってきたはずなのに。
フーコーは机の下の壁を蹴って、椅子を机から遠ざけた。
より監視カメラのモニターがよく見える。全てが見えてくる。
パノプティコン…一望監視施設の中にいる艦首自身もまた、囚人だ。誰もが看守であり囚人。誰に見られているのかも分からない。
ミシェル・フーコーはよく言ったものだ。
フーコーは座っている姿勢でずっと居て、頭が重く疲れてきた。
いつもならそれは快適であった姿勢も、今は最悪な現状を意味するだけだ。
フーコーは姿勢を直すか、はたまた立ち上がるかを悩みながら前のめりになった。
この時モニターを見た。正面玄関を
__血塗れの光景があった。職員達が多く、殺されている。
手足に惑わされるな。頭部だけを数えろ。
1…12…24…30……
「35…?」
震えた声のまま、フーコーは急いでテロリストの襲撃を表す警告音をスターバースト全体に告げる。
セオドロスが言っていたテロリストの集団…?このタイミングで…?
「クソッ!日時も知ってたか聞いとくべきだった…いや、あの様子じゃ知らなさそうか……どれもこれも何もかも!タイミングが悪すぎる!神はとんだアバズレだ!」
監視カメラのモニターにちらと見えた影は管理室へ向かっていた。あれが葬儀屋か?
警告音を止ませ、全体に放送をかける。
「あーマイクテスト!マイクテスト…ッ!…よし、いいね」
フーコーが全体に聞こえるかどうかを確認を取り、モニターの反応から聞こえていることを理解する。
理解した。
途端に次の言葉を出す口が重くなった気がした。
「葬儀屋…」
一つの単語を言った時、その気だるさに気が付いた。
こんな時に、なんで?
「正面ゲートを通過……」
さっき見た、場所、場所は
「あー」
言おうとした時、誰かに背後から抱き締められた。
「っあ?…待っ__」
「はい、終わり」
ブツッと手元のマイクを下に下げられる。
体は動かない
「…寝にくい」
「はいはい……ほらよ」
何者かに袖を掴まれた後、床に雑に転がされた。
獣の皮を被ったような人間と、火炎放射器を持っている人間
自分に張り付いているのは…ネグリジェを着ている。
「あー、俺もだるくなってきた…こいつの権能は厄介だ…ほんとに」
「……てろりすと…?」
すっかり回りにくい呂律で、何とか言葉を振り絞ったフーコーをその二人は嘲笑った。
「私は誘いで来ただけだが…紹介しよう。美術館に行く時に、パンフレットは先に見るだろう?」
獣の皮を被った人間はその血なまぐさい死臭を身に纏いながら礼をした。
「星を砕くもの所属。ヘリアンサス・アンヌウス。
掲げる主義は作家主義だ。私の目的は全世界の生き物を全てアートにすることだ。今回は葬儀屋のお誘いを受けてここに来た。普段はこんな所にも来ないし、こんな奴らとも協力なんてしないが…スターバーストは面白い素材があると聞いてきた。それだけだ」
長く、そして短く終わる挨拶をした後、腕に雑にくっつけられている鋭く長い爪で、フーコーに張り付くネグリジェの人間を指さした。
「そいつはニーチェ-ϛ…スティグマ、だ。
星を弔うもの所属…あ、この弔うものが葬儀屋の集団だ。私の横のやつもな。私は違う。私は芸術家だからだ。こんなヤツらと一緒にしないでくれよ。
でだ。そいつは虚無主義を掲げてて、永遠に世界が停滞することを望んでる。よく分からないよな。
元々はスターバーストで生まれたニーチェらしいぞ。失敗してスラム街に捨てられて、何とか生きてたのを葬儀屋に拾われたらしい。今回は寝に来ただけだ。ついでに、お前という目を閉じさせに来た」
次にと言わんばかりにヘリアンサスは火炎放射器の男を指したが、男はフーコーに火炎放射器の先を向けた。
「消すぞこいつの記憶」
「おい今話した内容無駄になるだろうがやめろよ」
「まず言うなってあんだけ言ったろ」
「芸術家は名と作品と存在を遺してこそだろうが」
「黙れ消すぞ」
言い争いをしている間にも、フーコーの目は何故か閉じそうだった。
「意味無いことを私にさせるな!」
「意味無いだって?当たり前だろ、こいつがいるんだから全て意味がない虚無だ!」
火炎放射器の男はその靴先でスティグマと呼ばれたニーチェを小突いた。
「…それもそうだ」
「全ては夢だ。ゆっくりと忘れる事だな」
火炎放射器を向けられる。
その一瞬に炎が見えたと同時にすっかり目を閉じたフーコーは、深い夢の中に落ちていった。
見てももう遅い、虚無の夢の中に
そこは孤児院だ。
ドストエフスキー先生がいて、テグジュペリ先生がいて、カフカ先生がいる。
「フランソワ!切り紙をしたあとの切れ端は床に捨てないの!」
フランソワと呼ばれた少年はテグジュペリ先生にそう怒られると、不服ながらに左手をチリトリ、右手を箒にして紙を集めてそのままゴミ箱に捨てた。
「面倒くさい」
「ここは皆の共同スペースでしょ!ちゃんと綺麗にしないと、皆困っちゃうだろう?」
テグジュペリは優しく叱りながらも、フランソワの頭を撫でた。
「でも先生、この間ベンジャミンくんがハロルドくんにいじめられてたぞ。これに比べたら悪いことじゃないもん」
テグジュペリは頭を撫でていた手を一瞬止めた。頭から手を離してメモ帳を手に取った。
「…それっていつの話?」
「昨日」
「何があったの?」
「お外でハロルドくんがベンジャミンくんの事なんか色々責めてた。ベンジャミンくん泣きそうだった。でも…」
「でも?」
「クルスさんとオズくんが助けてたよ。オズくんは拳握って殴ろーとしてたけど」
「危ないなぁ」
「僕もそう思う…あ、あとロレンツォくんが禁止テープの先まで飛んでったサッカーボール。禁止テープの先まで入って取りに行ってた!これも悪い事だ。ポイ捨てに比べたら!」
「それも、危ないね」
テグジュペリは一通りの事をメモし終わると、それをしまいながらフランソワの視線に合わせてしゃがみ込んだ。
「でもフランソワ、やっちゃいけないことは、やっちゃいけないこと。何よりも悪い!とかあまり基準で考えちゃダメだよ。順位をつけて比べてもダメだ。そんなことしちゃう時が着いたらもっと悪いことをしちゃう。先生はそんなことして欲しくないよ」
テグジュペリは改めて、フランソワの頭を撫でた。
「…はぁい。紙をポイ捨てしたのはダメでしたァ…」
「でも、ちゃんと皆の事を見ててくれてたんだね。ありがとう」
テグジュペリは立ち上がると、どこかに去ろうとしていた。
「先生、それドストエフスキー先生に伝えるの〜?」
「もちろん。ドストエフスキー先生はリーダーだからね!」
「ふぅん。リーダーって大変そう!お兄ちゃんよりも!」
「ふふ、お兄ちゃんも大変でしょ〜?」
「全然大変じゃないもん!ミシェルのやつ生意気なんだ!お兄ちゃんの言う事聞かないから!」
「もぉ、言うこと聞かないじゃなくて、お願いって言うんだよ」
「むむ…」
フランソワがそう話していると、部屋に弟のミシェルが入ってきた。
「わぁ、お兄ちゃんってば、テグジュペリ先生に甘えてる!甘えんぼ甘えんぼ!私はお兄ちゃん居なくても誰にも甘えないのに!甘えんぼだ!」
「うるさいなぁ!」
「こらこら、喧嘩しないの」
テグジュペリは二人の間に入って、ポケットをゴソゴソとした後飴玉をふたつ取り出した。
「はい、飴!これ食べて喧嘩なんてやめるの!」
「やめてあげるよーだ」
「先生にそんな言い方するな!ミシェル!」
テグジュペリが去っていくと、二人は飴の包み紙を開いてニヤニヤとしながら中身のものを口に入れた。
「先生ってばちょろいぜ!」
「言ったろ!ミシェル!喧嘩するフリしたらお菓子くれるって!」
「最高〜!今度またやろ!」
「いいよ!てかそっちなに味〜?」
「私いちご!そっちは?」
「僕ソーダ!」
「いいな〜!半分舐めきったら交換しようぜ!」
「いいよ〜!」
もう見ても、意味の無い夢
起きたら全て、忘れる夢…
フーコーは目が覚めた。
起きた時に今まで自分が何を見ていたかなんて忘れて、夢を見る前の自分の事ばかりを考えた。
時刻は午後4時だ。
フーコーを起こしたのは他の誰でもなく、ただの治療チームの医療班だった。
彼らは他のチームにも出向き、トリアージをつけているらしい。
トリアージ…トリアージと言えば…
「テロリストにより多くの職員と継承者が、殺されました…」
フーコーはそれを周りの職員から聞いた。
聞いた時、背後の自分が今まで眠り続けていた一望監視施設を見た。
何があったかもよく分からない中、フーコーの頭の中にはただ一つの考えだけが残っていた。
「何故、自分だけ眠らされたまま殺されず、最悪な気分で起こされるようなことになってしまったのだろう」__と
他の人達が死んだのに、他の継承者が死んだのに
自分だけ、ただ眠らされていました、で終わり。他に外傷もない。
フーコーは最悪な気分になった。
地獄では蜘蛛の糸は救いの糸だった。
現世にも蜘蛛の糸が欲しい。
きっとその蜘蛛の糸の先は、ただの輪っかになっていて
自分はそこに首をかけるだけで、全部が終わって
蜘蛛の糸に罪人が救われたいと縋ったように
自分の身体にも自分を許さない誰かがしがみついて
そのまま首を吊る為の糸が途切れさえしてくれたらいい
フーコーは無性に死にたくて、無性に生きなけらばならないと思った。




