第二話『夜間飛行』
『わずかな火花から炎が上がる時もある
-ダンテ・アリギエーリ-』
「解釈違いだって言ってるんです…!」
セオドロスは怒った
「言っている意味がわからないな」
カミュは困惑した。
「君が怒っているのは、心療チームのフロイト先生と、ユング先生と、アドラー先生の件でいい…んだよね?」
「はい、合ってます」
語尾に怒りマークが着いているような声でセオドロスが答えた。
セオドロスは一度深呼吸をした。
大きく息を吸って、6秒待ち、吐いた
「それアンガーマネジメントじゃない…?」
テグジュペリは声を震わせた
「はい、そうです」
テグジュペリも困惑した。
「…ジークムント・フロイト……カール・グスタフ・ユング…アルフレッド・アドラー………!精神分析学…!関係性は最高…!今やフロイトが提唱した概念である無意識やエス、超自我やリビドーは聞かない日はありません」
「はぁ…」
テグジュペリはタイヤの足をブラブラさせながら話を聞いている。
「原因を追求したフロイトと目的を追求したアドラーとでは残念ながら道を違えることになりましたがね…」
「へぇ〜、フロイトとユングは?」
「リビドーという性的な欲求が起源としていたフロイトの説に異を唱えてから、段々と各々違う方向に行った感じですね。ユングはその後神秘主義へと目覚めましたが…」
「詳しいね」
セオドロスはテグジュペリにそう褒められると、そっぽを向いた。
「好きなので調べたまでです……」
「ツッコミどころで言えばまだまだあります」
「まだまだあるんだ…」
テグジュペリが漏らすように呟いた
「ハイデガーやサルトルがいるのなら…その実存主義の起源ともされるキルケゴールがいてもおかしくないはずです
なんなら、哲学者としては屈指の知名度を誇っているニーチェもそうですがね」
セオドロスがなんとなしに放った言葉はカミュとテグジュペリには鋭く突き刺さるものとなった
部屋には沈黙が続いた。
テグジュペリの視線の先はセオドロスではなくカミュだ。
カミュは酷く怯えたような顔で、目を見開いている。
「…?どうかしましたか……?」
セオドロスはそんなカミュの様子を見て心配よりも先に疑問が出た。
「…あぁ!そういえば不条理について、カミュよりも先にキルケゴールが話していましたね…!アルベール・カミュはセーレン・キルケゴールやカール・ヤスパース達を哲学上の自殺をしているとか何とか言ってましたけどね……」
セオドロスが偉人の方にしか興味が無いのかそちらをベラベラと話してる間に、カミュは救われたような、命拾いをした悪人のようなため息を吐いた。
リンゴンと鐘が鳴った。
「…あっ、もう寝なきゃいけない時間だ!」
テグジュペリがわっと椅子から立ち上がった。
「寝る時間ですか。ボクはさっきまで寝ていたのですけども…」
セオドロスは窓の外を見ながらポツポツと呟く
「子供たちが寝なきゃいけない時間なんだ。子供は早く寝るのに限る」
「僕、他の子達を寝かしつけてくるから!あとよろしく!」
テグジュペリがタイヤを動かしてゲームのバグみたいに等速直線運動をしながらスイー…と扉から出ていった。
「……」
カミュもそれに続きホワイトボードを片付けに外に出て行った。
セオドロスは改めて今聞いた情報を全て整理した。
孤児に堕ちた星の核を入れ、生み出される偉人の継承者…
どこまでが偉人で、どこまでがあの人達なのだろうか?
細部まで工夫をこらして本物そっくりに造られたケーキは、それを知らないまま窓越しに見ていたらケーキと思うだろう。
__それがケーキと、書かれているなら
しかし、ケーキではなくレプリカだと見破る人がいたら?
そのケーキと書かれた文字の下に、読めるだろうが読めないように別の国の言葉でこれはレプリカですと書いてあれば?
人々はそれがレプリカのケーキだと思うだろう
ここでこのケーキは本物であると思っているのは、そのプレートが見えていない窓の奥のレプリカのケーキ自身と、そんな文字すら見ずに、そんなことすら思わずに生きて表面上のふわふわとした概念だけを貪るもの達だろう
レプリカのケーキ達は、もしかしたら自身がレプリカなのだと分かる時が来るかもしれないし、分かっているのかもしれない。
柔らかなスポンジがないと分かったポリ塩化ビニルのプラスチック達はどうするのだろうか
セオドロスはそんなことを考えている中で自分がお腹が減っていることに気づいた。
自分がなんの意味もなくケーキのことなど考えないからだ。
ケーキといえば、誕生日だったか?その程度の認識しかケーキに求めていないのだ。
コンコンとノックの音が響いて、カミュが両手にお盆を持ってきた。
「夜食だけど食べる?」
「食べます」
セオドロスは部屋に用意された椅子に座った。
カミュがお盆をカタリと置き、セオドロスの失った右目の視力では全体を掴めないことを察してお盆の位置を普通の子供たちの時よりも左寄りに動かした。
「どっち利き?」
「右です」
「…あちゃー、どうする?左で食べる?私が食べさせてもいいんだけど恥ずかしくないかい?」
「いいえ、お気遣いなさらず、この先左の手でやっていかなきゃならないのですから左の手で生活することに慣れてもらわないと私が困りますから」
「私が困りますからって…まぁ、そうだけどさ」
カミュはセオドロスの近くにもうひとつ椅子を持ってきて腰掛けた
「私がそばにいるから安心して食べて、ここに座るのは何かあった時用と、ご飯を食べ終わった時にわざわざ食べ終わりましたという前に片付ける為だから」
「…ちょっと気にしますが、分かりました」
カミュは机に置いていた異邦人を再び手に取った
カミュは本に挟んでいた紐を愛する人の髪を指でなぞるように親指と人差し指で挟んで持ちながら読んでいた所のページを開いた。
セオドロスは最初は右手で挑戦することにした。
スプーンを右手で掴む
感覚だけが鈍くある。
本当の手が今目の前に見えている手よりももっと細く存在しているような感覚だ。
手袋を沢山つけている感覚だろうか。とても鈍く掴んだと見て分かってても、強く握りしめたはずの手の感覚で分かっていても不安は拭えない。
左手で器を持ちスープをすくおうとする。
スプーンを持たなければと強く握りしめられた手はスプーンの中に溜まったコーンスープの重さも感じてはくれず、入っているはずなのに入っていないように思えた。
そのまま何とか口に運ぶ
冷めてはいたが、それがむしろ美味しかった。
暖かいというのは必ずしも心身へ安らぎを与える訳ではなく、今のセオドロスにとってはこの冷めているという冷ややかな暖かかさが心地よいものだったのだ。
10分かけてスープを飲みきった。
次に左手でフォークを持ち、ラザニアを食べようとする。
左手は大丈夫だった。だからこそだった。
持ち方が上手く覚束無い。利き手ではないのだから当たり前だ。
右手でどのように持っていたかをやろうとするもわざわざ右手にフォークを持たせなければいけないという手間がある。
セオドロスは諦めて丁寧に持つのをやめ、フォークを握るように持ちラザニアに深く突き刺した後に持ち上げてそのまま口に運んだ。
傍から見れば行儀が悪いかもしれないが、それでいい。
今見ている人はいないし、側の人は異邦人を読んでいる。
左手で食事ができた。この成功体験すら得られればそれでいいのだ。
もはや獣のように犬食いの方が合理的ではないかと思えてきたが、後に手を洗わなければならないという面倒臭さが勝ちやめることにした。
…こちらはスープよりも時間がかかったが、何とか食べ切ることに成功した。
左手は存外汚れていない。
一番汚れているのは必死に食らいついた口元である。
セオドロスはフォークを置くと、用意されたナプキンで口元を拭いた。
一度口を拭った時に着いたソースの量や細かな肉などは今後の改善点の量を指し示していた。
もう一度拭う。まだ拭き残しがある気がする。まだ結構着いている。
もう一度拭った。今度こそ綺麗になった。ナプキンに着くソースの量もほとんどない。
しかしもう一度拭った。先程ソースが着いたということは、そのソースが着いた部分で拭かれた部分が汚いということになるからだ。これで綺麗になった。……恐らく
「ご馳走様でした」
「美味しかった?」
カミュは読んでいた本のページに紐を挟んで机に置き、お皿を重ねてお盆を持ち上げた。
「美味しかったです」
「そりゃ良かった。カフカ先生も喜んでるよ」
あの人の継承者が料理を…?セオドロスは想像がつかなかった。
少し待っていて、そう言って部屋を出ていったカミュを見届けた後、セオドロスは力が入りにくい右半身を引きずるようにベッドに戻った。
カミュはすぐ帰ってきた。
手には黒いリボンを持ってきている。
「なんですかそれは」
「君の右目を覆う物さ。いや〜リボンがこれしかなくてね」
セオドロスが興味を示して起き上がったのを見た時、カミュは先程までセオドロスが座っていた椅子を引きずってセオドロスと対面するように座った。
どちらも喋らない沈黙があった。
ただどちらにも喋る理由がなかったからだ。
セオドロスはカミュが何をするのかを察したし、カミュはセオドロスが自分の意図を理解したのに気付いたからだ。
カミュはセオドロスの右顔の火傷を隠すようにリボンを巻いた。
包帯のように隠し切れてはいないが
「包帯なんて、君を怪我人だと言っているようなものだ」
カミュはぐるぐると巻いていく
「でも、それがリボンだったら?」
カミュはセオドロスの見えなくなった右目の所に来るように、リボン結びをした。
「怪我人ではなく、それは勲章になる」
カミュは四角い手鏡をセオドロスに向ける。
セオドロスは自分の右顔が不格好にも黒いリボンに覆われているのを理解した。
包帯のように巻き切れていない黒いリボンからこぼれて見える火傷している所の皮膚は赤茶色の色をしていて自分の皮膚とは思えない離れた感覚を与えた。
触っても感覚なんてない。それが余計に自分の一部ではなくなったような感覚を思わせる。
ただそれらの要素を差し引いてもセオドロスの左目の視線はちょうど右目に来るように結ばれたリボン結びに向かっていた。
セオドロスはその時初めて微笑んだ。
「それじゃあ明日、他の子達と先生に挨拶しようね」
カミュが立ち上がり、扉の方へと向かった。
「いい夢を、セオドロス」
扉から出て、丁寧に扉を閉めた後に聞こえたカミュのあくびはそれはそれはまぬけたものだったが、セオドロスはそのままベッドに寝転ぶとすぐに眠りについた。
翌日、セオドロスが目覚めると横に既にカミュがいた。
「起きたね。行こうか」
「え?もうですか?」
「朝ごはんの時間になっても君が起きないからね」
カミュはズルズルとセオドロスを引っ張って行く
「ボク、眠たいんですけど」
「朝ごはん食べれなくなっちゃう!」
「それって、ボクがですか?それとも貴方が??」
カミュが手を引っ張って扉を開けて先にいたのは数十人の子供たちだった。
皆はセオドロスを見て様々な表情を見せる。
新しい仲間が来たと喜ぶ人、自分が誰なのか気になるといった人、火傷跡が見えたのか痛々しいなと目を細める人、そもそも人に興味のない人…それらばかりだ。
しかしセオドロスの左目は彼らではなく壁際にいた二人組に目がいった。
安全ヘルメットを被っているものの、虫の触覚がピコピコと蠢き、その口元は虫顎になっている男がいる。
服の下からは蜘蛛の足のようなものが見える。
それらをじっくりと見るような視線に気付いたのか相手はヒッ!と声を漏らして持っていたノートで自分の顔を覆い隠してしまった。
周りの子供たちがその様子に気づくと「カフカ先生照れ屋〜!」等ともてはやしている。
安全ヘルメット、虫。なるほど
フランツ・カフカの変身での「毒虫」は、ハッキリと虫と言われていたわけではないとは思ったが…
セオドロスはそのまま流れるように横の人物に目を向けた。
今まで見た先生たちの中では一番老けてみえるのは口元の髭だろうか。
顎から伸びているひげは三つ編みしているほどに長いが、本人自体はかなり細身であり、ぴっちりとしたスーツがそれを引き立たせている。頭には矢が刺さっているが…刺さっているというより、貫通している。
セオドロスは分からなかったが、カミュの説明の時に聞いたので消去法であれがフョードル・ドストエフスキー……いや、その人の継承者なのだと理解した。
全ての問題に回答しきって満足して、テスト用紙を裏返すようにセオドロスは全員から目線を逸らした
テグジュペリの姿が見えないが、皆さほど気にしていなさそうだ。
セオドロスは聞く必要はないだろうと結論づけて、沈黙に耐えきれずにカミュの方を見た。
「自己紹介した方がいいですか?」
「名前だけでいいよ」
カミュはウインクした。
「セオドロスです。よろしくお願いします。」
「………だってさ!!皆!新しい仲間…嬉しいねぇ!!」
カフカがすぐさま歓声と拍手を送った。
リカバリーできる上司というのは大切にしなきゃダメだなとカミュとセオドロスは思った。
皆の拍手を裏から支えるようにドストエフスキーはゆっくりと拍手をした。
「じゃ、朝ごはん食べようか!そのあと授業あるしね!」
カミュに連れられて他の子達がいる机の空いていた席に座らされるとセオドロスは目の前に持ってこられた食事を見た。
まだ左手で食べれそうなものである。
三人の先生がみんなの目の前に立ち「いただきます」の合図をして、皆もそれに続いていただきますを言った。
セオドロスは言わなかった。
言う必要が無いと判断したからだ。
食事を進めていくセオドロスは次から始まる授業はなんなのだろうかという方に思いを馳せてばかりで少々手が止まる場面が多かったが、周り子達からはまだ慣れていないのだろうという同情を向けられつつも食べ方の指導をされながら完食した。
「ご馳走様でした」は、ちゃんと言った。
…………コツ、コツと、冷たい廊下を歩いている。
テグジュペリが機械にカードをかざすと、自動で開いた扉から重たそうな程に防具と武器を身につけた二人の職員が傍に着く。
「僕一人だけでいいんだけど」
テグジュペリがそういうも、職員たちはいつも首を横に振る、
「規則ですから、それにあの怪物は多くの犠牲を生み出しました。アレは危険ですよ。」
「………」
納得いかないように唸りながら、テグジュペリは手に持った袋をぎゅっと掴んだ。
テグジュペリが歩いて行った先、ガラスの向こうには地獄が満ちている。
その怪物は身体の多くを槍で貫かれようが、罪ある世界に罰を下す為に肉がえぐれても構わないと言わんばかりに身体を動かす。
槍からグチグチと音を立てて引きちぎれていく肉は、同じ時間に聞こえるジュワジュワとした音で治されていく
この怪物は、己に突き刺された槍から解放されることがない。誰かに抜いてもらわなければ身体を自由に動かせない。
声を出さぬようにと内側にも棘が着いた首輪からダラダラと流れ続ける血は元から鮮やかな赤色だった服を段々と上から染め上げ、血液が酸化された部分は赤黒く変色していっている。
「ガァ……グ…ァ……………グゥ…グ…ッ」
声にならない声をあげながら、怪物は目の前に訪れた人物を一目見ようと身体を必死に動かした。
ブチブチと肉がちぎれる音
ジュワジュワと肉が塞がる音
怨恨と憐憫に満ちたその目と、怒りを溢れさせる顔を向けた先にいるのはテグジュペリだ。
___目が合った。
怪物は少し落ち着いたのか、表情を柔らかくさせた。
「今日は元気そうでなによりだよ
昨日の夜…来れなくてごめんね。新しい子が来たから……」
テグジュペリが怪物に話しかける。
「ダンテ…。元気そうでなによりだよ」
ダンテと呼ばれた怪物は、部屋に満ちた地獄を少し和らげさせた。
『誰もが真実を見ることはできない
しかし真実そのものになることはできる
-フランツ・カフカ-』




