処刑チーム篇 第五話『死に至る病の健康保菌者』
『絶望とは死にいたる病である
自己の内なるこの病は、永遠に死ぬことであり、死ぬべくして死ねないことである
-セーレン・キルケゴール-』
早朝、リビングにはキルケゴールの悲鳴が響くことになった。
ヤスパースは自室から遅れて出て、予想通りの死体を発見した。宙ぶらりんになっているそれをヤスパースは床に下ろす。
力無く床にへたり込むキルケゴールを見ながら、ヤスパースはどう声をかけようか悩んでいた。
今から紡ぐ言葉次第で、この先の未来はどうとでもなる。
対してヴィトゲンシュタインはずっと立ち尽くしたままで何をしようという訳でもないようだ。
ヤスパースがどう出るかを見ているのだろう。
もしくは、どうするかを分かって放っているのだ。
ヤスパースはヴィトゲンシュタインに笑顔を向けた。
それを見ると、ヴィトゲンシュタインは自室に戻って行った。
ヤスパースはポロポロと涙を流すキルケゴールの傍に行った。
耳元で囁きながら、最期の理性を外していって見せた。
「なぜニーチェもデカルトもいなくなってしまったと思う?セーレン」
「…絶望に…逃れたかったからだ」
「そう…彼らは神が与えてくださった自己を手放してしまったんだ……絶望が故にね…」
ヤスパースは右手でキルケゴールの左手を握った。
「辛いだろう?セーレン…でもその苦痛や絶望こそがキミという存在を作り上げるんだ……ふふ」
ヤスパースはキルケゴールから手を離し、立ち上がる。
支えが無くなったキルケゴールはか細い声を上げて震えながらヤスパースを見上げた。
「セーレン…セーレン・キルケゴール…誰もキミを理解しないんだ。
キミはずっと独りだね……」
「ち、違っ……そ、そんな訳…ッ!」
キルケゴールはヤスパースの足にしがみついた。
「キルケゴール…!苦しいか!?その苦しみを手放しちゃダメだ!他のあの合理主義と虚無主義の怪物のように!負けてはいけない…!!」
ヤスパースは一際大きい声を出して跪き、キルケゴールの肩を掴んだ。
「大衆のように、あんな奴らと同じように死にたくは無いだろう!?キミは…そんな彼らを目覚めさせ、助けたいはずだ!絶望から!逃避から!神への真理を彼らが、私達が、キミが、己の選択で得られるように!」
ヤスパースの端末から、アラーム音が響く
適合率の上昇の音だ。見なくてもわかる。キルケゴールの適合率が異常上昇をしているのだろう。
ヤスパースは端末をポケットから出すと、ソファーの上に放り投げた。
キルケゴールは過呼吸を起こしているのか辛そうだ
「…セーレン・キルケゴール」
ヤスパースはキルケゴールを一度だけ強く抱き締め、そっと離した。
「さぁ、跳躍するんだ!セーレン…!皆を目覚めさせるんだよ!」
「それで……私だけでなく、皆も救われるのですね…?」
キルケゴールの問い掛けに、ヤスパースは頷きで返した。
キルケゴールは笑いもせず、ただ俯いた。途端に周囲を泥濘の絶望が包み込んだ。
完成したのだ。彼女は彼として……。
完成者となったものは全員、偉人の概念を持つ堕ちた星に変貌する。
段々とこれから人の姿を無くしていくのだ。彼女も…
キルケゴールは泥を纏いながらふわりと浮き上がると、空気を泳ぐように進んでいく
「絶望を___信仰…を…」
そう呟きながら、絶望は出ていった。
ヤスパースは放り投げた端末のアラームの音を消し、上層部に対してデカルトの自殺とキルケゴールの暴走を報告した。
やがてこの事実は全員が知ることになるだろう。
___しばらく経つと、汽笛が響き渡った。
蒸気機関車が走る音をヤスパースは感じると、周囲を見渡した。
やがて子供の声が聞こえてくる。
__一緒に列車に乗ろう?天国に行こう?
甘く囁くような、破滅をもたらすような声
ヤスパースは吐き捨てるように言った。
「同じ手口が、同じクズに伝わるとでも思ってんのか?
却下だよ。ガキ」
すると、声は聞こえなくなった。
同時刻、孤児院ではおぞましい光景が広がっていた。
グラウンドでカミュ、テグジュペリ、カフカと七人の子供たち全員で遊んでいたはずだった。
汽笛が鳴った途端に、自分達の脳内に誘われる声が響いた。
自分達はそれを拒絶した。乗ってはいけないと思ったからだ。
しかし子供達にとってその誘いは、遊びの延長線だったのだ。
おそらく全員が誘いに乗ったのだろうか?乗ったのだろう
七人のバラバラ死体がそこにあった。
カフカがその場に座り込む。子供たちのバラバラの死体をそれぞれ抱え込み、意味の無いことだと分かるとそっと手を離した。
呆然としている。
「…何かあったんだ!」
テグジュペリが叫ぶ。翼を大きく広げて、今ずくにも飛び立とうとしていた。
「偵察してくる……!」
そのまますぐにテグジュペリは空へ飛び去っていった。
遠くの方を見るなら、地面から天に昇るようにして煙をあげる蒸気機関車が見えた。
細く見える線はおそらくどこに向かうかの線路だ。それは上に登っていたのが下に下がり、建物に向かうように道を描いた。
あそこの建物は探索チームの方だろうか?
完成者の収容違反だ。カムパネルラが姿を表したということは、時期にドン・キホーテ、ファウスト、ダンテも呼び覚まされるのだろう。この世界に
「…不条理だ……」
カミュはそう呟くと端末で伝えられた情報に目をやった。
デカルトの自殺とキルケゴールの暴走…と。
「フランツ!……行かなきゃいけない気がした!ごめん!」
カミュは急いで司令塔へと向かった。
後ろでカフカが「えっ!?危ないよ…ッ!」と叫ぶ声がしたが、カミュはそれらを振り切って走った。
カミュが司令塔に着いた時、まだ何事も無かった中でカミュはサルトルの方に向かった。
「子供達は全滅だ!カムパネルラの導きによってね!」
「…!?何しに来たんだカミュ!」
サルトルはカミュを掴んだ。
「ここに来なきゃいけない気がしたんだよ。サルトル」
サルトルはカミュを掴んでいた手を離した。
「観測チームは…通信が取れなくなった。ファウストの出現でな」
「なっ…」
「不味い…!キルケゴールが来ているッ!」
ハイデガーが叫んだと同時に、壁を通過してキルケゴールが現れた。
絶望の泥と鎖を纏ったソレは、空気中を泳ぎながらこちらを見ていた。
その場にいる全員が身構える。
_我々と、絶望を共に…して……神へ、己を……
そう呟くキルケゴールを前に、カミュが叫んだ
「…黙れ!私達は、私達なりに生きてきた!」
「カミュ…」
「他者を強制的に苦しめて、何が神への信仰だ…!」
__可哀想に、己から逃げているのですね…
カミュは話が通じない相手だと思うと同時に、会話ができる相手だと確信した。
今ならまだ、間に合うのではないだろうか?
「…私達は私達として生きていけるはずだ!何故それに縋る!?」
キルケゴールはくすくすと笑う
_跳躍ですよ…カミュ……
キルケゴールはそう言うと、鎖を振るい始めた。
_さぁ!絶望を共に、神への信仰への跳躍を!!
キルケゴールが振るう絶望の泥を、ジャンヌがすかさず焼き払った。
「ジャンヌ!」
「何とか、食い止めます!」
ジャンヌは自らの身に炎を宿していく
「ジャンヌ!ジャンヌ!それでは、貴方が燃え尽きてしまう!」
「構いません!彼女を…キルケゴールを、皆さんを守る為に!私が神への信仰を見せます!」
己をそう奮い立たせるジャンヌの叫びを聞くと、キルケゴールはそちらに注意を向けた。
キルケゴールの鎖がジャンヌに向けられる。ジャンヌは自身の身に突き刺さる鎖を体内を焼く炎でもって焼き払っていった。
「…ッ……ふ…ッ……」
_限界だ。ジャンヌの身にも限界が来てる。
「ッ!死刑執行を!ギロチンよ!」
サンソンがすかさずキルケゴールの上部にギロチンの刃を生み出す。
「……私の命と代償に…せめて殺せるといいのですが……」
サンソンもジャンヌも覚悟は同じのようだ。
両方、目の前の怪物を殺すために今、死のうとしている。
「どうして…どうしてそんな……すぐ死のうとするんだよ…ッ!」
カミュは目の前の光景が分からないまま、サルトルに押さえ付けられる
「カミュ!出ようとするな!」
「分からねぇんだって!!なんでそんなすぐに命を削れるんだよ…!」
「カミュ…!じゃあなんでキミはここに来た!何しに来たんだ!」
「…此処にキルケゴールが来るかと思って」
「それで!?死地に向かいに来たというのか!?」
「会わなきゃいけないと思った。キルケゴールに……」
「それこそ無謀だ!キミは本当に馬鹿だ!」
そうこうしている間に、ギロチンの刃と火刑の炎がキルケゴールに向けられた。
自らの死を引き換えにしたジャンヌとサンソンはそれぞれ燃え尽き、首が切断された。
__キルケゴールは最初はぐちゃぐちゃのまま死にかけていた。身体中が切断され、また燃やされる。しばらく経った後に、黒い泥が己を包み込みそして、より新たな姿に成ったのだ
キルケゴールは惚れ惚れとしながら天井の蛍光灯を神の光と誤認し、手を差し出した。
「…ああ!クソッ!」
ハイデガーがすかさず武器を持ってキルケゴールに向かった。
キルケゴールはハイデガーの方を見ると体内から鎖を生み出し、すぐに身体中を突き刺した。
「ッ…」
今までのキルケゴールの攻撃なら、鎖は概念的なものだったはずだ。それを突き刺すことで相手に絶望を与えるもので__
「…相手を…殺すだけの……道具に成り果てたか…」
ハイデガーは吐血しながら笑うと、そのまま力尽きた。
ズルリと鎖が引き抜かれ床に崩れ落ちる。
「諦めたりなどしない!貴方達に、貴方達以上の意志がある限り、私は反抗し続ける!」
カミュはそう叫び、コートから取り出した拳銃をキルケゴールに向けて何度も撃ち続けた。
キルケゴールはその苦痛に少し身を捩りながら部屋を旋回しながら泳ぎ続ける。
カミュは何度もリロードを行い、地面に落ちている職員の死体からも拳銃を奪い、キルケゴールを追いかけながらずっと、ずっと撃ち続けた。
「カミュ……」
サルトルはその様子をずっと見ていた。
自分自身も拳銃を構えはするものの、カミュのように思い切って撃つことなどできなかった。
目の前の彼奴は人間全てが罹患する病を定義した怪物だ。
サルトルは絶望していた。
勝てるわけが無いと確信めいたものが渦巻いていた。
不意にキルケゴールから鎖を差し向けられ、突き刺される。
体内に、心に、高濃度の絶望が打ち込まれた気がした。
「ッ……おぇ……」
サルトルはそのまま床に胃液を吐いた。
胃の中にはもう何もないのに吐き続けた。
サルトルは一度手放した拳銃を、もう一度と手を伸ばした。
「ジャン!!」
カミュがこちらに走ってくるのが見えたサルトルは、すぐに拳銃を手にして、立ち上がろうとした。
カミュがこちらに走ってきて…傍に来て…それで
「……痛ッてぇ…」
カミュの腹部には鎖が何本も突き刺さって、血が滴っていた。
「…カミュ」
「………」
キルケゴールはカミュから鎖を引き抜く
引き抜かれた時に引っ張られたカミュの体を、手放さんとしたサルトルはそのまま抱きしめるようにカミュをこちら側に引き戻す。
「あぁ…お前、さっき自分で…あんなに言っといて!」
「はは…不思議だな。体が勝手に…ね」
話している間にもカミュの腹部からは血が止まらない
遠くではベートーヴェンがキルケゴールと交戦していた。
片腕が引きちぎれている。ベートーヴェンもあのままでは不味いだろう。
「……アルベール…」
サルトルはカミュの顔にかかる髪を払い除けた。
「…来て良かったよ…お前の残念そうな顔が見れて嬉しい」
カミュはそういうと、後ろのキルケゴールの方を見た。
「…もうダメなんだろうな」
「勝てると思ったか…?絶望に…」
「それもそうだ…ハハハ…!」
カミュは血を吐きながら笑って見せた。
サルトルはいつもいつも、カミュには先立たれているような気がした。
「…美しい魂だ。キミは…」
それを聞いたカミュは、少しだけムッとした
「やめろって…何回も言ったろ?…そうやって呼ぶのはさ」
カミュはそういうと、静かに息絶えた。
サルトルはカミュの死体を横に寝かせる。そしてキルケゴールの方を見る。
ベートーヴェンの姿はなく、キルケゴールはずっとこちらを見ていた。
キルケゴールは微笑んでいる。
サルトルは立ち上がって、キルケゴールの方に歩み寄った。
そうして跪く。
「キルケゴール」
「私にも信仰をくれ」
_えぇ!神の前に立ちましょう!
キルケゴールは笑顔で、鎖を振るった。




