処刑チーム篇 第二話『血で穢れしも高潔なるものよ』
『宗教はたとえそれが愛の宗教と呼ばれようと、その外にいる人々には過酷で無情なものである
-ジークムント・フロイト-』
その日、カミュは一匹のネズミを吐き出した。
たった一人の子供の言葉で適合率が20%も上昇し、今や適合率は90%代だ。
お陰で生前に患っていたとされる結核が再発し、今も微熱と呼吸をする度の苦しみは止まない。
ずっと思うのは、生前のアルベール・カミュは17歳で発症し、その後人生や作品に大きな影響を与えたはずのこの死の病は90%まで上がらないとならなかったのか?という疑問である。
そこまで人生や思想、作品に関わっているのなら70%の時に出ていてもおかしくなかったはずだ。
あの時あの子の発言で、己自身を再び見つめ直したからなのか
自分という存在が何かを己自身に思い知らされたせいなのか
カミュは少年に自分の本質を疑われてからというもの、咳と共に血を吐き出していた。
カミュは結核自体にはどこか慣れたようなものを感じていた。
アルベール・カミュとしては、当たり前だ。17歳の頃から最期まで治らず染み付いてきたものなのだから
しかし、カミュとしては別だ。記憶として持っていても自分自身が体験するのは初めてになる。
喘鳴が響く。前まで簡単に吸えていたはずの酸素の量が取り込めずに唇から酸素が取りこぼされる。
胸の痛さに思わず胸元の服を掴むが、なんの気休めにもならない。
息を吐くと、詰まっていた痰が逆流した空気に反応して外に出ようと喉によじ登る。
途端にティッシュで口を抑え吐き出そうものなら赤い塊が混じる時がある。
血痰や喀血と言えば、結核の症状だ。
しかし時折恐ろしいと思えるのは………
ハンカチの中に吐き出された血の塊が、四肢を持って蠢いているように見えていることだ。
それは喀血と共に現れる
喉がむず痒くなり、咳をした途端に吐き出した泡混じりの血は手から零れ落ちていく
そこから落ちた血の雫は、地面に着くまでに手足が生える
そしてその四本の足で着地をするのだ。
その蠢く生命にはやがて丸い耳、長いしっぽが伸びていく。産まれたての生命のような赤い皮膚には黒い毛がびっしりと生えていく
そうしてキィキィと甲高い声で鳴き始めたネズミの子を、カミュはすぐさま潰した。
咳の度に吐き出される大量の血液と、その度に蠢く血の塊と、そして誕生するネズミ。
カミュはすぐに潰した。
何度も潰した。
拳を作り、ネズミが産声をあげて一歩歩む前にすぐに拳を叩き込む
ビチャと情けない音を立ててただの血になった後、己の拳にへばりついた血を見て今のは夢だったのではないかと強く思う。
しかし脳裏に染み付く恐怖は拳にへばりついた血のように水と石鹸ですぐに洗い流せはしないものだった。
「あれは不条理なんだよ」
カフェで共に紅茶を飲んでいるサルトルに対し、カミュは持論を告げた。
「適合率上昇に伴い新たに発言した権能…ペストじゃないかなって」
「だとしたらそのネズミは厄介になる。話の内容からするに操作する事もままならないのだろう?放ったら放っただけの不条理が誕生するのは厄介極まりない」
まさに不条理だと言ってサルトルは紅茶を啜った。
「ゼルチュルナーの薬は?」
「ダメだったよ。これはただの病気では無いらしい」
「…ま、だろうね」
サルトルは残りのケーキを平らげた。
くれぐれも気をつけるようにと忠告を受けてその日は別れた。
「気をつけるようにだって…どうしろってんだ」
カミュは頭を悩ませながら一人孤児院へと戻ろうとしていた。
概念的発症の病だから子供達には伝染らない…だとしても信頼している先生が常に咳き込めば心配するし、突如として血を吐けば怖がるだろう
授業として行かなくてはいけない時間以外でカミュはあまり子供たちに近寄ることはしなかった。
ドストエフスキーが言うには子供達は体調も心配ではあるが、それより遊べない方が悲しいと…
確かに、子供たちにとっては遊ぶ方が楽しいのだろう。自分とのサッカーを楽しんでくれているのはよく分かってた。
気持ちでも理屈でも分かるが、それでもそばにいてはいけないと思うのは心の問題だろう。
心療チームに行くしかない…か
カミュは踵を返した。
カウンセリングを受けるならせめて…うん、アドラーさんがいいなと思いながら建物を出て、心療チームがある道を歩く。
歩く度に靴が砂を押し潰してジャリジャリという音が鳴り、草を踏めば同様にクシャクシャとして擦潰れる音が響いた。
カミュの耳には咳の音と痰が絡む音しか聞こえておらず、自然の音に耳を傾ける暇はなかった。
咳き込む数が増える。足取りが重くなる。
砂を押し潰す音、草が擦り潰れる音が段々と道に響かなくなる。
一度、喀血をしてしまい、泡立った血をボタボタと吐き出しながら何とか深呼吸をして落ち着いた後、もう一歩を踏み出した時
その時、カミュは一匹の瀕死のネズミにつまづいた。
つまづいた拍子に崩れた身体でネズミを潰した時、嫌な音を立ててカミュのコートに血が着いた。
カミュはその場に胸を押さえて蹲った。
額を地面に擦り付け咳に合わせながらボトボトと血が吐き出されていった。
地面に落ちた血液が、ネズミの形を得ていく
それは母を求めるように手足を動かしてカミュの元から離れていこうとする。
「このままでは不条理が…!」
胸を押さえたまま走り去るネズミを見てカミュは動こうと身を捩った。
「おぉ!弱者の吐き出す妬みがついに形となったか!」
目の前から五人組___処刑チームが歩いてきていた。
ニーチェは勢いよく足でネズミを踏んづける。ネズミが潰れた音より地面を強くえぐった音の方が大きかった。
「障害物の脅威を確認……」
デカルトはブツブツと言い、冷たくこちらを見ている。
「処刑…チーム……なんでこんな所に…」
「上層部からの呼び出しですよ。どのチームも定期的にあるでしょう?」
ヤスパースが四人の前に出た。気を緩めればすぐに信頼してしまうような雰囲気を漂わせている。
ヤスパースはそのまま歩みを進めていき、カミュの近くに座り込んだあと、ハンカチを取り出した。
「深呼吸をなさってください。お辛いでしょう?」
ヤスパースはそのままカミュの体を起こし、自分に寄りかからせた後にハンカチで口元を拭った。
カミュは身体に力を入れて抵抗することもままならずヤスパースにされるがままだ。ヤスパースの方を向けば今度こそ終わると思ったカミュは、目線を常に自身が血を吐いた後のネズミ達に向かせていた。
「怖いですか?ご自身の吐き出されたネズミ達が…」
ヤスパースはそういうと、カミュの杞憂を無くす為にもデカルトにコマンドを放った。
「デカルト、血のネズミ。足蹴」
それを聞くとデカルトは頭部に生えていた獣の耳をピクリと動かし、ヤスパースの指示通りにカミュが血を吐いたあとのネズミ達を足で踏みにじり、土に馴染ませるように靴を地面に擦り付けた。
やがてネズミの消滅が分かると、元の位置に戻って行った。
「ねぇ、カミュ…キミ、溜め込みすぎているんじゃないの…?」
ヤスパースはカミュを抱きかかえながら左手でカミュの胸部を少し押し込んだ
「う…」
「肺……いや違う…キミが抑えてるのはもっと奥の…心…かな」
ヤスパースはカミュの耳元まで顔を近づけて囁く
「もっと正直に生きるといい……自分にも、相手にも……」
「キミは高潔な精神なんて持っていない…」
「辛いだろう?今まで健康だったのに急に結核にさせられて…カミュではなかったキミは…肺も心も何も犯されていなかったはずだ…」
耳にかかる息とかけられる言葉がカミュの心をざわつかせる
「自分以外の人間も……こんな風に不条理に苦しめばいい……のにねぇ…?ふふ…」
ヤスパースはカミュを抱きしめる力をより強めていく
「私はキミの本当の名前を知ってる……」
「キミは___」
「おいこのクソサノバビッチ…!アルベールに触れるな!!」
サルトルがカミュの襟を掴み自分の方へと引っ張った。
その時の重さでカミュもサルトルも後ろ向きに倒れてしまうが、それを見て着いてきていたフーコーは「あーあ」と言いながら両方を立たせた。
「ふん、私の哲学に影響を受けた弱き者共が来たな!」
デカルトとキルケゴールは臨戦態勢に移る。
ニーチェとヴィトゲンシュタインは言葉の勢いこそあれど武器を構える素振りは見せなかった。
「私はニーチェにも影響受けてますが、最推しはハイデガーです。どうも、構造主義とのレッテルを世間に貼られてしまったフーコーと申します。監視カメラ管理塔…パノプティコンから出てきて皆様とお話するのは初めてですね。以後、知っておかなくてもいいです」
フーコーは自己紹介をした後に軽くお辞儀をした。
ニヤニヤとしてる態度からは上の者に対する礼儀とかは無さそうだったが、キルケゴールを見ると少し身体を強ばらせた。
ヤスパースは少しふらつきながら立ち上がると土埃を払った
「急に持っていかないでくださいよ。よろけてしまうでしょう?」
「黙れ。このサディストが」
サルトルはヤスパースに対しかなり語気が強めだ。カミュはそれを疑問に思うよりも身体的な疲労の方が酷かった。
不安を感じるとすぐに血が出てきてしまう。それがネズミとなって不条理を蔓延させる事になる。
このままでは負のループだ……
どうしようもないまま次の波が来たカミュは酷くむせながら蛇口を捻られたようにビチャビチャと血を吐いた。
サルトルはそのままカミュを支えるようにして立ち、地面に落ちたネズミ達はフーコーが潰していった。
「処刑チーム、持ち場に戻れ…!」
「戻る途中でしたが……カミュさんが苦しそうだったので、助けたまでですよ。いけませんか?」
「助けるよりも何かを教唆していたろう。黙って去れ」
フーコーが潰しきれずに逃げたネズミは処刑チームの方に走っていった。
気付いたヴィトゲンシュタインは蹴り飛ばすようにネズミを潰した。
フーコーは自身の目を赤く光らせた。
いつもは緑色のフーコーの瞳は、監獄の誕生を使用する時は警戒の証である赤色に染まる。
フーコーは処刑チーム全員を視界に入れ、行動を規制する。
いつも以上に危険なものを感じたフーコーは、彼らを精神的拘束にかけることにした。だが、もとより上層部の洗脳が入っていて余計に捻じ曲がっている彼らの精神は、フーコーの権能で抑え込むにはかなり苦労を伴う結果になった。
「フーコー…去らせれば良いものを…何故わざわざ拘束を…?」
サルトルはフーコーの行動に疑問を抱いた。フーコーも自分自身の行動をよく分かってはいない。
革靴で潰したネズミの血溜まりが笑っている気がした。
カミュは不条理を吐き出し続けていた不安と混乱の中、血の代わりにずっと抱いていた思いを吐き出した。
「ルネ・デカルト…セーレン・キルケゴール…フリードリヒ・ニーチェ…カール・ヤスパース…ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン……ッ!貴方達は…人とは、人生とは、神とは何かを深く考えた哲学者だろう…ッ!?」
「カミュ…!落ち着け…!」
サルトルの静止も聞かず、カミュは不条理を撒き散らす。
「なのに…ッ!上層部のヤツらに良いように使われて、平気で人を殺せるようにされて…!」
カミュは自身の口から吐き出される血を乱暴に袖で拭う
「本当に何も思わないのか!?
心は痛まないのか!?」
太陽の光を背に叫ぶカミュの姿はまさにこの世に降りてきた神の使いのようであった。
それらを見た処刑チームの五人は少し考える素振りを見せた。
_デカルトが淡々と告げる
「Ce n'est pas douloureux.(辛いことではない)」
「全て論理的な帰結。
エラー値を消去することに感情を挟む必要はなく、ノイズすらも私が思考しているという証明になる故に問題無し」
デカルトには少しふらつきが見られる
_キルケゴールが涙を流しながら答える
「Det er ikke smertefullt.(それは痛くありません)」
「これは倫理を超越した先の神への捧げ物なのです!
この絶望の深さこそ私の信仰を研ぎ澄ますのですから!」
キルケゴールは歓喜に震え、恍惚として喜びの涙を流す
_ニーチェがわざとらしく笑いながら叫ぶ
「Es tut mir weder weh noch juckt es mich!(痛くも痒くもないわ!)」
「破壊こそが新たな生の肯定!この苦痛すらも運命愛として謳歌しよう!」
ニーチェはその発言をした後に、どこか噛み締めるように複雑な顔を見せた。
_ヤスパースが優しく語りかける
「Es ist nicht schmerzhaft, Camu.(それは辛くありませんよ、カミュ先生)」
「私はこの限界状況を引き受けています。キミみたいに中途半端に人間性に縋って自分を騙し続ける方が辛くはないのですか?」
見下すように、鼻で笑うようにしてヤスパースは笑顔を見せた。
_ヴィトゲンシュタインが口枷を取り、呟く
「Es ist schmerzlos.(呆気ないほど簡単だ)」
「語りえぬ苦痛に対し意味を与える必要はないだろう」
言いたい事だけ言い終えると、ヴィトゲンシュタインは口枷を再びつけた。
異常な光景を見ながらサルトルはカミュの容態を確認した。
息はまだ荒く、落ち着けていない
「…こいつらッ!脳の論理回路が狂ってしまっている…!」
事実を噛み締めるように、カミュに言い聞かせるようにサルトルは呟く。そして、己自身も感化されたのか言いたい事を吐き出してしまう。
「どれだけ脳を弄られようと!
どれだけ思考をねじ曲げられようと!
目の前の吐き気を催す現実から逃げようとするのをやめろ!」
サルトルはカミュ以上に必死に叫ぶ
「今すぐにその欺瞞を捨てて、自らの実存に生きてみろよ!」
「__サルトル!」
サルトルの叫びを覆うようにフーコーが停止のハンドサインを出す。
「彼ら本来のエゴと上層部からの洗脳を矯正し続けるのは堪える…
目が焼き切れそうになるよ…ッ!」
フーコーはいつにも増して焦っている。
それを見透かしてヤスパースは笑った。
「フーコーくん…キミのそのパノプティコンの権能は…君一人でやっている事だろう?…疲れるだろうに…ふふ…
絶対的な絶望を閉じ込めておくには…隙間が多いかもねぇ…?」
デカルトは冷や汗をかきながら鼻血を出し始めた。
「エラー……わ、わた…疑…疑ッ……」
すかさずヤスパースがデカルトの傍に寄り添い、耳元で矯正を行う。
何かを呟かれ続けたデカルトは鼻血を出しながらも「エラーの削除完了」といい、さっきまで同じように綺麗な姿勢で立った。
「ヤスパース…!」
カミュの絶望はヤスパースの怒りへと変貌する。
地面に新たに生まれていたネズミ達は威嚇の声を出し歯を見せた。
「ふふ…」
ヤスパースは笑いながら、次に壊れるタイミングがわかってたキルケゴールの所にすぐに駆けつけていた。
案の定自身の信仰と人殺しの罪に苦しみ始めたキルケゴールを、ヤスパースは簡単に鎮めた。
「全く…私の玩具を雑に扱わないでいただきたい」
ヤスパースは適当にキルケゴールの頭を撫でると、ハンカチを取り出して手を拭いた
「っクソ!これ以上___」
カミュがサルトルの静止を振り切ってまでヤスパースに掴みかかろうとすると、周囲に甘い香りのする煙が散布される。
「…そこで止めだ」
「__フロイト先生…!もう少し早く来ていれば…!」
「うるさい。コイツら全員を鎮める為の鎮静剤を探してたんだ」
フロイトがシーシャを咥えて、煙を吐き出しながら歩いてきている。
傍にはユングもアドラーもいる。
「担架いるかなぁ…」
「他の職員呼ぼ」
煙を吸って意識が無くなりかけていたカミュは少ししょうもない会話を聞きながら、支えていたサルトルと共に崩れ落ちた。
処刑チームの五人は殆ど全員素直に眠りについたものの、ヴィトゲンシュタインとヤスパースだけは立ったままだ。
ヤスパースはかなり苛立った顔を見せる。
「フロイト……彼等は私が運びますので、ご心配なく」
「一人だけで?いやはや大変そうだな」
「…上層部の職員にも頼りますから……では」
ヤスパースはヴィトゲンシュタインを連れて、上層部のいる建物へと戻って行った。
建物に入る前にヴィトゲンシュタインがフロイトに対してなにかのハンドサインをしているのをフーコーは見逃さなかった。
「危険ですか。ヤスパースが?」
フーコーは煙が届く前に上着でバタバタと煙を来ないようにさせた。
「自分だけガードか」
「ふふ…ほんとすぐ寝かせようとするの良くないと思いますけどね…面白みがない…」
フーコーは血が出ていた自分の目を拭う
「よく吠えるな。ユング、アドラー…カミュとサルトルを運べ」
フロイトに言われた二人はそれぞれで一人ずつ…ではなく、ユングが二人を一気に担いで運んで行った。
アドラーは後ろで応援をした。
その様子を見ながらフロイトは周囲の不条理と死に至る病をかき消す為に鎮静剤でもある煙を吐き出していった。
「ヴィトゲンシュタイン……あの子は私の弟だ」
「…!へぇ、弟ですか」
フーコーはまさか来るとは思わなかった回答が来て驚いた
「フロイトとヴィトゲンシュタインになる前…な。今もまだ微かに私達は兄弟である記憶を有してる。だから沈黙の会話を行うのだ……あとついでにスパイみたいなものでもあるし…」
「だいぶ危険なことをさせてるんですね。フロイト」
「ふん…本人の性に合ってるようだから私は特に何も言わん
お前も早く持ち場に帰るといい」
フロイトはそう言うと、アドラーとユングを追いかけるように心療チームに走っていった。
フーコーは全てを見届けた後、どう報告書を書くかを考えながらパノプティコンに帰って行った。
__翌日、カミュはカフカに心配していたと酷く怒られた。




