第9話「王都から来た冷たい印」
夜も更けた頃、宿の一室には紙の山ができていた。
橋の町で押さえた徴税帳簿。
宿場町の徴発名簿。
神殿の裏帳簿。
裏市場で抜いた荷札と取引控え。
密告札、監視記録、価格統制命令、監査猶予の文書。
机の上に乗りきらず、椅子にも床にも広げられている。
ハチはその光景を見て、心の底から嫌そうな顔をした。
「ねえ、これ、本当に全部読むの?」
「読みます」
シルヴィアが即答した。
「ええー……」
「ええー、ではありません」
「だって見てるだけで眠くなるもん」
「眠くなったら水をかぶりなさい」
「厳しっ!」
カクタスが腹を抱えて笑った。
「隊長殿、すっかり旅の先生だな!」
「その呼び方をやめなさい」
「もう半分くらい諦めた方が早いんじゃねえか?」
「諦めません」
いつものやり取りを聞きながら、ミツクニは一枚の通達書を灯りにかざしていた。
執政代理府徴税強化通達、第三七号。
その隣には、徴発命令の写し。さらに神殿の監査猶予文書。
どれも形式が少しずつ違う。
だが、癖のようなものがあった。
言い回し。
印の位置。
余白の取り方。
そして何より、地方官へ責任だけ押しつけ、中央の手を見えにくくする書き方。
「よう似ておるのう」
ミツクニがぽつりと言うと、スケイルが頷いた。
「書いた者が同じか、作法を共有しているか」
「おそらく両方でしょう」
シルヴィアは別の紙束をめくりながら答えた。
「王都の正式布告ではありません。あくまで内部指示として流している。だから地方役人は、表では王国法を盾にしながら、裏では執政代理府の都合に従っている」
「見事な二枚舌じゃ」
「しかも、どちらの顔でも逃げられるように作ってあります。法に従っただけだ、とも。上の命令だ、とも言えるように」
ギンは窓辺に腰をかけ、足を組んだまま薄く笑った。
「要するに、“悪いのは誰か分からないようにしてある”ってことでしょ。嫌らしいわねえ」
「嫌らしいだけで済めばよいがの」
ミツクニは、手元の紙を静かに置いた。
「橋を絞る。若者を徴発する。薬を囲う。どれも別々の悪事に見えて、流れる先だけは同じじゃ」
そこで、今まで黙っていたヤッシュが口を開いた。
「金だ」
低く、乾いた声だった。
「橋で取った銭は商会へ流れる。徴発した若いのは私兵か荷運びに使う。神殿の薬は横流しして売る。結局、全部金になる」
「金の流れだけなら、欲深い地方役人の寄せ集めでも出来そうですが」
シルヴィアが言うと、ヤッシュは鼻を鳴らした。
「出来ねえよ。これだけ手広く、同じ手つきで、同じ商会と同じ許可印を使って回せるのは、上が黙らせてるからだ」
「うむ」
ミツクニは頷いた。
「小悪党が勝手に腐るのと、腐ってもよい仕組みがあるのとでは、話が違う」
ハチが頬杖をついた。
「つまり、上の人が“いいよいいよ、好きにやりな”ってしてるってこと?」
「やや雑じゃが、その理解でだいたい合っておる」
ミツクニが笑う。
「ただし、もっと性質が悪い。好きにやらせておるのではない。飢えも病も徴発も、全部“使えるもの”として流しておる」
「うわあ……」
「人を人として見ておらぬのう」
部屋の空気が、少しだけ重くなる。
その沈黙を破ったのは、意外にもハチだった。
「でもさ」
珍しく真面目な顔で、彼女は帳面の束を指差した。
「全部に、変な言い回しがあるんだよね」
全員の視線が集まる。
「言い回し?」
シルヴィアが問うと、ハチは何度も頷いた。
「ほら、あたし文字はそんな得意じゃないけど、商売の札って文句で覚えるじゃん? “今だけ”“限定”“王都照会不要”ってやつ。これ、橋の時もあったし、薬の荷札にも似た文句あったし、徴発の紙にも書いてあった」
「……王都照会不要」
シルヴィアの目が変わった。
彼女はすぐに三種類の書類を引き寄せ、該当箇所を探し始める。数息後、顔を上げた。
「あります」
「ほう」
「表現は微妙に違いますが、意味は同じです。『本件は執政代理府管轄につき、王都本局への再確認を要せず』……照会不要どころか、“問い合わせるな”と書いてある」
スケイルが低く言う。
「地方役人にとっては便利でしょうね。責任の所在を考えずに済む」
「逆らった時点で、“執政代理府に楯突くのか”と脅せるわ」
ギンが唇の端を上げる。
「つまり、叔父上の名を盾にしておるわけじゃな」
ミツクニの目が細くなる。
叔父は表向き、若い甥を案じる善良な後見人だ。
だが、その名がこうして地方の通行税や徴発や薬の横流しに使われている。
もはや疑いではない。
ここまで綺麗に繋がるなら、叔父は知らない側ではあり得ない。
少なくとも、止める気がない。
下手をすれば、最初から流れを作っている。
「叔父上。ずいぶんと、よく回る仕組みをお作りになったものじゃ」
その声音は静かだった。
だが、シルヴィアには分かる。
ミツクニは本気で怒っている。
◇
夜半を過ぎた頃、ハチがとうとう机に突っ伏した。
「むり……数字、ぜんぶ同じ顔してる……」
「数字の顔が見える時点で末期です」
「シルヴィア、厳しい……」
「当然です。もう少しだけ起きていなさい」
「ええー……」
だが、そのやり取りも長くは続かなかった。
窓の外で、かすかな物音がした。
スケイルがぴくりと反応する。
カクタスも椅子から腰を浮かせた。
次の瞬間、屋根の上を走る足音が三つ。
窓枠の影に、鈍い光が走る。
「来たかの」
ミツクニが言うと同時に、窓が内側へ蹴破られた。
黒装束の男が二人、転がり込むように入ってくる。
狙いは明らかだった。
机の上の書類だ。
「燃やせ!」
片方が短く叫び、火打ち石を打とうとした。
だが、その手首へギンの簪が飛んだ。
金属音。
火種が床へ落ちる。
「だめよ。燃やしたら面倒じゃない」
いつの間にか梁の上にいたギンが、にたりと笑った。
もう一人の黒装束は机へ飛びかかったが、カクタスの腕が先に伸びる。
襟首を掴まれ、そのまま床へ叩きつけられた。
「痛っだろうが、こら」
「わしの書類へ泥手で触れる方が悪い」
カクタスが鼻を鳴らす。
窓の外へ逃げようとした影を、スケイルが無言で追った。
夜の廊下で短い衝突音が二度、三度。
やがて、引きずられるような音とともに、もう一人の襲撃者が戻ってきた。
「三人とも確保しました、若」
「お見事じゃ」
黒装束たちは、いずれも町兵ではなかった。
装備は軽く、口も硬い。明らかに、物を消す仕事に慣れている手つきだった。
ヤッシュがその一人の懐を探り、鼻を鳴らす。
「ほらよ」
取り出したのは、小さく巻かれた紙だ。
ミツクニが開く。
そこには短い文面だけがあった。
証憑類は回収または焼却。
若君巡察中につき、刺激せず穏便に帰京を促すべし。
差出の印はない。
だが末尾の記号は、これまでの文書に何度も出てきた執政代理府内部のものと一致していた。
「穏便、とな」
ミツクニはその紙を見て、むしろ小さく笑った。
「わしは叔父上に、随分と優しく扱われておるらしい」
「優しく、ですか」
シルヴィアが眉を寄せる。
「穏便に帰れと言うてくれるそうじゃ」
「それ、全然優しくないだろ」
カクタスが呆れたように言う。
「言い方だけは優しいわねえ」
ギンが肩をすくめた。
シルヴィアは黒装束の男を見下ろし、顔を強張らせる。
「若君巡察中、という表現……」
「思い当たることがあるかの」
ミツクニが問うと、彼女は少しだけ躊躇い、それから低く言った。
「私が以前、任地で受けた命令書にも似た書き方がありました。責任者名は違う。ですが、本文の癖が……」
「同じ手から流れていた可能性が高い」
「ええ」
シルヴィアは拳を握った。
「つまり、あの時から……」
ミツクニはそれ以上言わせず、穏やかに言った。
「焦って全部を今夜背負わずともよい。じゃが、見えてきたものから目を逸らす必要もない」
その言葉に、シルヴィアは深く息を吐いた。
「……はい」
彼女の過去もまた、この流れの一部なのだ。
そう考えると、胸の奥に冷たいものが広がる。
だが同時に、今ようやく繋がったとも思えた。
◇
襲撃者を縛り上げ、火種を片づけ、散らばった書類をもう一度整えた頃には、東の空が白み始めていた。
窓から差し込む朝の光が、帳面の山を淡く照らしている。
ハチはいつの間にか目を覚まし、机に突っ伏したまま顔だけ上げていた。
「……終わった?」
「まだ終わっておらぬ」
「うわあ」
ミツクニは、机の中央へ一枚ずつ紙を並べていく。
橋の徴税。
救援物資の横流し。
徴発と私兵化。
神殿の薬。
密告統制。
そして、証拠焼却命令。
「見事なものじゃのう」
誰へともなく、ミツクニは呟いた。
「別々の土地、別々の役人、別々の理屈。じゃが、全部が同じ手つきで流れておる」
「流通は《金鶸商会》」
シルヴィアが言う。
「監査停止は叔父派官僚」
ギンが続ける。
「地方役人は、執政代理府管轄を盾にする」
スケイルが言葉を置く。
「で、都合が悪くなれば証拠を焼く」
最後にヤッシュが、杯も持たずに低く言った。
「地方じゃ聖印で黙る。だが王都は違う」
「……」
「向こうは意味を知ったうえで、笑ってくる」
部屋が静まる。
ハチでさえ、もう口を挟まなかった。
ミツクニは窓の外へ目を向けた。
朝が来る。
夜の帳簿も、密告札も、焼却命令も、陽の下ではただの紙に見えるだろう。
だが、紙は嘘をつく。
そして時に、嘘を重ねすぎた紙は、かえって本当の流れを露わにする。
「ならば」
ミツクニは静かに立ち上がった。
「笑っておる者の顔を、見に行くとしようかのう」
シルヴィアが顔を上げる。
「……王都へ?」
「いや、まだ早い」
ミツクニは首を横に振った。
「ここまで見えたのは流れじゃ。王都へ踏み込むには、もう少しだけ重みが要る」
「次はどこだ」
カクタスが問う。
ミツクニは、静かにシルヴィアを見た。
「おぬしの古傷の近くじゃよ」
その一言に、シルヴィアの息が詰まった。
ミツクニは彼女を見ていた。
優しくはある。
だが、甘くはない目だった。
「逃げたければ止めぬ。じゃが、行くなら見届けよう。あの時、何がどう流れておったのか」
「……」
シルヴィアはしばらく黙っていた。
部屋の中の全員が、彼女の答えを待っている。
ハチでさえ、今は茶化さない。
やがて彼女は、ゆっくりと背筋を伸ばした。
「行きます」
「うむ」
「今度は、見誤りません」
その声には、震えが少しだけ混じっていた。
だが目は逸れていない。
ミツクニは小さく頷く。
「よろしい」
ギンが、どこか面白そうに目を細める。
「騎士さん、いい顔するようになったじゃない」
「からかわないでください」
「からかってないわ。半分くらいは」
「半分は何なんですか」
「面白がってる」
「正直ですね……」
カクタスが大きく伸びをした。
「よし、決まりだな! 次は傷跡の残る場所ってわけだ」
「できれば、もう少し繊細な言い方を」
「俺にそれを求めるな!」
「諦めてください」
スケイルが即答すると、カクタスが振り返る。
「お前まで言うか!」
「事実です」
その時、ハチが小さく手を挙げた。
「ひとつだけいい?」
「何じゃ」
「朝ごはんは?」
「食う」
「やった!」
「話が重くても腹は減るからのう」
ミツクニが笑う。
その笑いに、少しだけいつもの空気が戻った。
だが机の上の書類は消えない。
叔父の影も、もう見失いようがない。
綺麗すぎる報告書の裏には、想像以上に濁った流れがあった。
そしてその濁りは、シルヴィアの過去にまで届いている。
朝の光が、窓の縁を越えて広がっていく。
旅は、次の土地へ向かう。
偽りの支配が、誰の手で、どこまで人を傷つけてきたのかを知るために。
そして、傷を抱えた騎士が、今度こそ自分の足で立ち直るために。




