第10話「帰れなかった村」
村へ向かう道は、晴れているくせに妙に重かった。
空は高く、風もある。春先の野を渡るには悪くない日和のはずなのに、シルヴィアの足取りだけが朝から少し鈍い。
ハチは最初こそ気を利かせて静かにしていたが、半刻もすると我慢しきれなくなった。
「ねえ、本当に何も食べなくて平気?」
「平気です」
「でも顔色悪いよ?」
「平気です」
「怒ってる?」
「怒っていません」
「怒ってる時の言い方だよ、それ」
カクタスが横で肩を震わせた。
「お前はそういう時だけ勘がいいな」
「そういう時だけって何さ!」
いつもなら、シルヴィアもひと言返すところだ。
だが今日は何も言わない。ただ前だけを見て歩いている。手綱を握る指先が、少し白い。
ミツクニは馬上からそれを見ていたが、すぐには何も言わなかった。
昨日、机の上に並べた書類の山。
その流れの先に、シルヴィアの古傷と同じ匂いがあると分かった。ならば行くしかない。
だが、行くと決めたことと、向き合えることは同じではない。
しばらくして、ヤッシュが前方を見たまま低く言った。
「あと一刻もすりゃ着く」
「そうかの」
「村の手前で川が折れてる。あそこから先は見晴らしが悪い。入る前に様子を見るなら、その土手が最後だ」
「うむ。ありがとうよ」
ヤッシュは返事をしなかった。
ギンがその横顔をちらりと見て、すぐに視線を逸らす。珍しく、彼女も軽口を叩かなかった。
こういう時、この一行は妙に空気が読める。
ふざける者はふざける。だが、踏み込まぬ線はちゃんと知っている。
土手に差しかかったところで、ミツクニは馬を止めた。
「少し休むとしようかのう」
誰も反対しなかった。
川沿いには、まだ去年の枯れ草が残っていた。そこへ腰を下ろし、水を飲み、息を整える。
ハチは黙って干し肉を差し出したが、シルヴィアは首を振った。
「……食欲がありません」
「そうか」
ミツクニはそれ以上勧めなかった。
代わりに、自分の水袋を軽く掲げる。
「では、これだけでも」
「……ありがとうございます」
受け取る手が、少しだけ震えていた。
ミツクニは土手の下、流れる水を見たまま言った。
「怖いかの」
「……はい」
シルヴィアは正直に答えた。
「行くと決めたのに、近づくほど、怖いんです」
「うむ」
「逃げたいとは思いません。ですが……会わせる顔があるのかと考えると」
そこで言葉が切れた。
風が吹く。
川面がさざめく。
遠くで鳥が鳴く。
ミツクニはやがて、穏やかに言った。
「謝って許される話ばかりではない」
「……」
「じゃが、顔を見ずに背を向けておれば、何も始まらぬのも確かじゃ」
シルヴィアは水袋を握りしめた。
「私は、あの時……正しいと思っていたんです」
「うむ」
「命令に逆らえば、もっとひどいことになる。だから、まず秩序を守らなければいけないと」
「うむ」
「でも、結果は違った」
目を伏せたまま、彼女は続けた。
「私は、村へ向かう救援を止める側に立ってしまった。ほんの数日の遅れでした。でも、その数日で助からなかった人がいた。私は、誰も斬っていません。けれど……」
その先は言わなくても分かる。
ミツクニは静かに頷いた。
「真面目な者ほど、手を汚しておらぬことで自分を誤魔化したくなるものじゃ」
「……厳しいですね」
「優しい言葉で済む傷ではあるまい」
シルヴィアは小さく息を吐いた。
痛いところを、きれいに突かれた顔だった。
だが、その顔は少しだけ楽そうでもある。
妙な慰めではなく、ちゃんと痛いと分かっている者の言葉だからだ。
「では、参ろうかの」
「はい」
今度の返事は、少しだけはっきりしていた。
◇
村は、静かだった。
いや、静かすぎたと言った方が近い。
道の両脇には畑がある。だが、耕されている場所と、手を入れられぬまま荒れ始めた場所がまだらに混じっている。新しい柵もあれば、倒れたままの柵もある。
復興しているようで、まだ傷が残っていた。
入口の木標には、かすれた村名が刻まれている。
シルヴィアの足が、そこでほんのわずかに止まった。
ミツクニは何も言わず、その半歩前に立つだけにした。
村人たちは、よそ者に気づくとすぐに視線を寄こした。
旅人を見る目ではない。
もっと硬く、もっと計るような目だ。
特に、シルヴィアの銀髪と騎士装に視線が止まる。
それは一瞬ではなかった。
見て、息を詰めて、目を逸らす。
あるいは逸らさず、じっと見る。
若い女が桶を抱えたまま立ち尽くした。
畑帰りらしい老人は、鍬を握る手に力を込めた。
子どもが母親の陰へ隠れる。
シルヴィアの喉が、ひどく乾いた。
「……覚えられて、います」
「忘れるには、まだ生々しいのであろうな」
ミツクニの言葉は淡々としていた。
だが責める響きはない。
村の中央には、小さな祠と、広場らしき空間があった。
そこで、ひとりの老人がこちらを見ている。
村長なのだろう。背は曲がっているが、目だけは鋭い。
「旅の方か」
老人の声は、しわがれていた。
「そのようなものじゃ」
ミツクニが答える。
「少し、この村の話を聞きたくての」
「なら、他を当たってくれ」
村長の視線は、ミツクニではなくシルヴィアに刺さっていた。
「うちには、騎士様に話すようなことは残っちゃいない」
言葉は丁寧だ。
だがそこにあるのは歓迎ではない。
拒絶だ。
シルヴィアは、わずかに唇を引き結ぶ。
逃げるな、と自分に言い聞かせている顔だった。
「……覚えて、おいでですか」
自分の声が、少しだけ掠れた。
村長は冷たく笑うでもなく、ただ事実を言うように答えた。
「忘れろと言われても無理な話だ」
広場の空気が、ぴたりと止まった。
ハチが不安そうにミツクニを見る。
ギンは表情を消している。
ヤッシュだけが、村の家並みをちらちらと見ていた。人がこちらをうかがう気配を数えているのだろう。
「お前さんが来た時も、よく晴れた日だった」
村長は続けた。
「兵を連れて、通達を持ってきた。救援は後回しだ、まず道と物資の保全が先だと」
「……」
「お前さんは、ひどく真面目な顔でそう言ったよ。命令だからと。秩序のためだからと」
シルヴィアの肩が揺れる。
ミツクニは、なおも黙っていた。
ここで遮るのは違うと分かっているからだ。
「その間に、うちでは三人死んだ」
村長の声が、少しだけ低くなった。
「薬が切れた婆さんがひとり。熱の下がらなかった子どもがひとり。崩れた納屋の下敷きになった男がひとり」
「……」
「お前さんが剣を振るったわけじゃない。だが、あの日、あの通達を通したのは、お前さんだ」
正しい。
だからこそ、シルヴィアは何も言い返せなかった。
「すみ、ません」
ようやく出た声は、情けないほど小さかった。
「その一言で、墓が軽くなるなら便利だな」
村長の言葉は鋭かった。
だが怒鳴りはしない。
長く抱えた怒りほど、案外そういうものだ。
ミツクニはそこで、ようやく一歩前へ出た。
「もっともなことじゃ」
村長の目が、初めてミツクニに向く。
「おぬしが腹を立てるのは当然じゃよ。謝られて済むことではない。シルヴィア殿も、それは分かっておる」
その言い方に、村長は少しだけ目を細めた。
「なら、何をしに来た」
「まずは知るためじゃ」
ミツクニは広場を見回した。
「この村で何が起きたのか。何が止められ、何が奪われ、誰が得をしたのか」
「今さら知ってどうする」
「今さらでも知っておかねば、同じ流れがまた別の土地で人を殺す」
村長は黙った。
「わしらは、この村に詫びを持ってきたわけではない。安い許しも乞わぬ。ただ、あの時の流れが、今もまだ続いておると分かったから来た」
「続いている?」
村長の眉が寄る。
そこでシルヴィアが、ようやく顔を上げた。
目は赤くなりかけている。
だが、もう逸らしてはいない。
「……あの時の命令は、ただの一度きりの誤りではありませんでした」
喉が詰まりながらも、彼女は続ける。
「橋の徴税、若者の徴発、神殿の薬……形を変えて、同じ手つきの命令が流れています。私がここで受けた通達も、その流れの中にありました」
村長の目が、わずかに揺れた。
完全には信じていない。
だが、聞く価値はあると判断した顔だった。
「証拠は」
「あります」
スケイルが短く言う。
カクタスが背負い袋から文書筒を出し、ミツクニへ渡す。
ギンは周囲の村人たちの顔を静かに見ている。
ヤッシュは村の倉の向き、物資の積み方、そして古い焼け跡らしき痕を確認していた。
ミツクニは文書を数枚取り出し、村長へ見せた。
「読めるかの」
「少しはな」
「では十分じゃ」
徴発命令の写し。
監査猶予文書。
執政代理府の内部指示。
どれも、この村のような地方へ届く上の流れを示している。
村長は紙を受け取ったものの、すぐには読まなかった。
代わりに、シルヴィアを見た。
「お前さんは、今さら何をしたい」
鋭い問いだった。
だが、必要な問いでもある。
シルヴィアは一度だけ目を閉じ、それから答えた。
「許されたいとは、言いません」
「……」
「言えません。そんな資格はないからです」
風が吹く。
銀髪が揺れる。
「けれど、あの時の流れが今も誰かを潰しているなら、今度は止める側に立ちたい」
「それで?」
「それだけです」
村長はしばらく黙っていた。
ハチが息を潜める。
カクタスでさえ、今は一言も挟まない。
やがて村長は、深く、長い息を吐いた。
「お前さんが軽い顔で“昔のことです”と言わなかったのは、少し意外だ」
「……忘れたことは、一度もありません」
「なら、苦しめばいい」
シルヴィアの顔が強張る。
だが村長の声は、責めるばかりではなかった。
「忘れず、苦しみながら、それでも止める側に立てるなら立てばいい。死んだ者は戻らん。だが、次を止められるなら、その分だけは無駄ではない」
それは許しではない。
赦免でも慰めでもない。
だが、完全な拒絶でもなかった。
シルヴィアはゆっくりと頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いじゃない」
村長はそっけなく言った。
「話があるなら、中へ来い。立ち話で済む村じゃない」
◇
村長の家は、古いが手入れの行き届いた家だった。
囲炉裏の火は小さく、壁には修繕の跡が幾つもある。
ここもまた、ぎりぎりで持ちこたえている家なのだと分かる。
湯が出され、全員が腰を下ろす。
ヤッシュだけは家の外へ残った。村の出入りと、誰が話を聞きに来ているかを見るのだろう。
そういう男だ。
「私が知っていることなど、昔の話だ」
村長は文書を机へ置いた。
「それでも構わぬなら話そう」
ミツクニが頷く。
「頼む」
「あの年、ここの川向こうで崖が崩れた。道が塞がれ、薬も食い物も届きにくくなった。こっちは救援を願い出た。最初は通るはずだった。だが途中で止まった」
「執政代理府の系統で?」
「そこまでは知らん。こっちに来た紙には、“優先順位の見直し”とあった」
シルヴィアの指先が、膝の上でわずかに震える。
ミツクニはそれを見たが、やはり何も言わない。
「道の復旧が先だ、物資の集積が先だ、秩序維持が先だ……そんな文言が並んでいたよ。お前さんは、その紙を持ってきた」
「はい」
「命令だからと言った。あれはもう決まったことだと」
「……はい」
「真面目な顔だった。悪いことをしている顔ではなかった。だから余計に腹が立った」
その言葉は、シルヴィアに深く刺さったようだった。
顔色がまた少し白くなる。
村長は続ける。
「道は復旧した。だが、その間に何人か死んだ。で、しばらくしたら今度は上から監査が来るはずだった」
「来なかったのですね」
「来なかった。代わりに、“適切に処理済み”という書付だけが来た」
シルヴィアが顔を上げる。
「処理済み……」
「そうだ。だから俺は、あの時から知ってる。上は見に来ない。見に来たふりだけして終わらせることがある」
ミツクニの目が静かに細くなる。
綺麗すぎる報告書。
現場へ行かず、処理済みだけを返す監査。
叔父が今やっていることの原型が、すでにここにあったのだ。
「……ようやく繋がったのう」
小さく呟くと、村長がこちらを見る。
「何がだ」
「いや。こちらの話じゃ」
今度のそれは、言い逃れではない。
ミツクニの中で、ばらばらだった違和感が一枚の絵になりつつある、そういう呟きだった。
その時、戸の外で小さな物音がした。
シルヴィアが反射的に立ち上がるより早く、戸が少しだけ開き、小さな顔が覗いた。
十歳にも満たぬ少女だ。
村長の孫だろうか。
「じいちゃん、お水……」
少女の声は細く、少し咳が混じっていた。
村長が立ち上がろうとする。
だが、その前にシルヴィアが動いた。
「私が持っていきます」
自分でも驚くほど自然に口から出た。
村長は一瞬だけ彼女を見たが、止めはしなかった。
水差しを持って、少女の前にしゃがむ。
少女は最初こそぎゅっと戸を握ったが、怯えて泣き出すことはなかった。シルヴィアが、必要以上に近づかなかったからだろう。
「……飲めますか」
「うん」
水を受け取る小さな手を見て、シルヴィアの胸が痛んだ。
あの時、熱を出していた子どもも、こんな手をしていたのかもしれない。
少女が少し飲んでから、ぽつりと聞いた。
「おねえちゃん、騎士さま?」
「……そうです」
「つよい?」
「強く、なりたいと思っています」
「変なの」
言われて、シルヴィアはほんの少しだけ目を丸くした。
「そう、かもしれません」
「でも、あっちのお兄ちゃんよりやさしそう」
少女が、奥を指差す。
そこにいたのはミツクニだった。
シルヴィアは思わず、小さく笑った。
「そうですね。あの方は、やさしいです」
そのやり取りを、ミツクニは囲炉裏の向こうから何でもない顔で聞いている。
だが、目元だけは少し柔らかかった。
◇
日が落ちる頃、ヤッシュが戻ってきた。
「村の外れ、古い役場跡がある」
「役場跡?」
「監査が来るはずだった時期に、一度だけ使われたらしい。今は閉まってるが、鍵は最近触られてる」
ミツクニが顔を上げる。
「監査が来ぬのに、役場跡だけ使われた?」
「そういうことだ」
ギンが口元を上げる。
「匂うわねえ」
「うむ。なかなかよく匂う」
村長がゆっくりと頷いた。
「昔、たしかに使われた。上の役人が来たと聞いたが、村の人間は誰も中へ入れなかった」
「中へ入れない監査、か」
「そうだ」
シルヴィアの声が低くなる。
「見に来るためではなく、見たことにするための場所ですね」
「じゃろうな」
ミツクニは立ち上がった。
「では、その跡地を見せてもらおうかの」
村長が、初めてわずかに口元を動かした。
笑いではない。
だが、完全な拒絶でもない顔だった。
「好きにしろ。どうせ、昔の膿は掻き回される時が来ると思っていた」
シルヴィアはその言葉を、黙って受けた。
ここで許されることはない。
だが、目を逸らさずに立つことはできる。
その最初の場所が、ようやく足元に現れた気がした。
囲炉裏の火が、ぱちりと鳴る。
外では風が出ていた。
古い役場跡。
誰も入れなかった監査の場所。
叔父の流れが、昔からここまで届いていた証拠が、まだどこかに残っているかもしれない。
ミツクニは戸口の暗がりを見て、小さく息をついた。
「さて。綺麗に処理したつもりの跡ほど、掘れば何か出るものじゃ」
表を整え、書類を揃え、見たことにして終わらせる。
だが、本当に苦しんだ者の記憶までは消えない。
そして記憶の残る土地には、たいてい何かが埋まっている。
夜はまだ長い。
そしてシルヴィアにとっては、ここからが本当の意味での向き合いになる




