第11話「命令の傷跡」
古い役場跡は、村の外れの林の向こうにあった。
崖崩れの後に迂回路として作られた細い道を抜け、その先の小高い斜面を登る。月はまだ浅く、木々の間には青白い光しか落ちていない。
足元の土は乾いている。
だが、人の気配だけが妙に新しかった。
「確かに、最近触られてるな」
カクタスがしゃがみ込み、地面の轍を指でなぞった。
「馬車じゃねえ。荷車だ。それも軽いやつだな」
「人の出入りもあるわね」
ギンが木の幹に手を置いたまま目を細める。
「戸口の前だけ草が寝てる。何度か踏んでる足跡だわ」
「役場跡を今さら使う理由がある、ということか」
「あるいは、使っていた痕跡を片づけに来てるかだな」
ヤッシュの声は低かった。
ミツクニは頷き、崩れかけた石段の先を見た。
建物そのものは古い。
壁はひび割れ、窓枠の木も反っている。だが扉だけは新しい鍵がかかっていた。古びた外見の中で、そこだけが場違いに新しい。
「ずいぶんと露骨じゃのう」
「誰も来ない場所だと思ってるんだろ」
スケイルは音もなく前へ出て、鍵を調べた。
「簡易鍵です。時間はかかりません」
「頼む」
かちゃり、と小さな音がして、扉が開く。
中は黴と古紙の匂いがした。
壁際には棚。
中央には長机。
奥には小部屋が二つ。
役場というより、急ごしらえの監査室だった。外から見えぬように窓には厚い布が張られ、机の上には古いインク壺と、まだ乾ききっていない蝋の欠片が残っている。
「最近まで使ってたな」
「うむ」
ミツクニは机へ手を伸ばした。
指先に薄い埃がつく。
だが、引き出しの縁だけは拭われていた。
「隠す時は、肝心なところだけ綺麗になる」
引き出しを開ける。
中には帳簿が三冊、封蝋付きの文書筒が二本、そして村ごとの報告札が束になって入っていた。
シルヴィアの呼吸が浅くなる。
「……この形式」
「見覚えがあるかの」
「あります。あの時の監査準備書類と同じです。現地確認をしたように見せるための簡易記録……」
彼女は一冊目を開いた。
紙の表題は《北部崖崩れ被害 仮設監査録》。
中には日付、担当者名、被害評価、対応方針。
どれも整っている。
整いすぎている。
その中の一行で、シルヴィアの指が止まった。
村側へは秩序維持優先を再通達済み。救援遅延に伴う騒擾兆候なし。
「……違う」
かすれた声が落ちた。
「騒擾なんて、ありませんでした」
「うむ」
「そんな余裕、あるはずがなかった……。皆、怒鳴る力もなかったのに」
シルヴィアの目が揺れる。
そこへ、ヤッシュが無言で別の帳簿を差し出した。
「こっちを見ろ」
裏表紙の内側に、別紙が挟まっていた。
そこには短い追記がある。
村側死亡者三。病因及び事故死として分類。救援遅延との直接因果は認めず。案件処理済み。
ミツクニはそれを見て、目を伏せた。
病因。
事故死。
処理済み。
紙の上では、三人の死はたったそれだけの言葉に潰されている。
シルヴィアはしばらく動かなかった。
息を吸うことも忘れたような顔で、その行を見つめている。
やがて彼女は、紙を持つ手を小さく震わせながら言った。
「……私の通した命令の先で」
「うむ」
「三人が死んで」
「うむ」
「それを、こういう言葉で終わらせたんですね」
ミツクニは否定しなかった。
今ここで、おぬしだけのせいではない、と言うのはあまりに軽い。
だから、ただ事実だけを置く。
「そうじゃな」
「……」
「じゃが、それを書いたのはおぬしではない」
「でも、私は入口に立っていた」
「うむ。立っておった」
シルヴィアは唇を噛んだ。
血が滲みそうなほど強く。
その横で、ハチが小さく拳を握っていた。
普段なら真っ先に「ひどい」と叫ぶはずの子が、今は黙っている。黙るしかない場面だと分かっているからだ。
「他にもあります」
スケイルが小部屋から紙束を持って戻ってきた。
「監査官の移動記録です。本隊は王都から来ていない。途中の宿場で、視察完了扱いに書き換えられています」
「現地を見てすらいない、か」
ミツクニは苦く笑った。
「見に来る前から、終わらせる気でおったわけじゃ」
「しかも、正規監査官の印影を写して偽装しているわ」
ギンが文書筒をひとつ振って見せる。
どうやら別室の床板の下から出したらしい。
「器用ねえ。雑だけど」
「雑なんですか?」
ハチが思わず聞く。
「雑よ。本物を知ってる人間が見たら、癖が違うもの」
ギンはシルヴィアを見た。
その視線には、からかいはなかった。
「あなた、ちゃんと見てたのね」
「……全部ではありません」
「全部見えてたら、その場で死んでたかもよ」
辛辣だが、慰めでもあった。
シルヴィアは答えなかった。
ただ一度だけ、深く息を吐いた。
◇
役場跡から村へ戻る途中、風が強くなった。
林を抜け、川沿いの道へ出たところで、村の若い男が二人、こちらへ駆けてくるのが見えた。顔色が悪い。息も切れている。
「村長が……!」
先頭の青年が、膝に手をついて叫んだ。
「村長が、あんたらを呼んでる! 倉の方で揉めてる!」
ミツクニたちは顔を見合わせ、一斉に走った。
村の共同倉へ着くと、そこには十人ほどの村人が集まっていた。
その中央で、村長がひとりの中年男と向かい合っている。
男は身なりこそ村人風だが、靴だけが新しく、腰の短剣も妙に上等だった。
「話が違うと言ってるんだ」
男は苛立った声で言った。
「村の古い記録は、もうとっくに処理済みだと聞いていた」
「誰にだ」
「上だよ!」
そこで男は一行に気づき、舌打ちした。
逃げようとしたが、スケイルが静かに立ち塞がる。
「通しません」
「っ……!」
男は短剣に手をかける。
だがその前に、カクタスの大きな手が肩を掴んでいた。
「やめとけ。今日はそういう日じゃねえ」
「放せ! 俺はただ確認に来ただけだ!」
「何の確認じゃ」
ミツクニが前へ出る。
男の目が泳いだ。
「……倉の在庫だ」
「嘘じゃな」
「何っ」
「在庫を見る者の靴ではない。荷の泥がついておらぬ」
「そんなもので……」
「十分じゃ」
ミツクニの声は穏やかだったが、逃げ道を許さない。
「おぬし、何を確かめに来た。昔の記録が残っておらぬか。それとも、余計な旅人が何を掘ったか、か」
男の喉が鳴った。
村長が低く言う。
「この男、昔も来ていた顔に似てる」
「親父だ」
男は、はっとして口を押さえた。
遅い。
「……何と申した?」
「……」
ミツクニは一歩近づいた。
「親父、とな。昔ここへ来た監査役人の息子か」
「ち、違う」
「嘘はよせ。もう遅い」
「……っ」
男は観念したように歯を食いしばった。
「親父は下役だった。俺は書付の運びを手伝ってただけだ」
「その手伝いで、村の死を処理済みにしたのか」
「俺が決めたんじゃない! 親父だって決めてない! 上から来た文面を写しただけだ!」
「便利な言葉じゃな。上から来た、とは」
ミツクニの眼差しが静かに沈む。
「それでおぬしは、今は誰のためにここへ来た」
「……執政代理府の使いだ」
「やはりの」
「村にまだ記録が残っていれば回収しろと。最近、若君が妙な巡察をしてるから、昔の件も掘られるかもしれないって……」
シルヴィアの顔が変わった。
昔の件。
つまり、あの時の命令も、いま叔父の下で整理され直し、掘り返されぬよう塞ぎ直されている。
「そこまで……」
「当たり前だろ!」
男がやけになったように吐き出す。
「昔の件が今さら表に出たら困るんだよ! 橋も徴発も神殿も、全部同じ線で回ってるってバレる! だから親父の代の書付まで片づけろって……!」
村人たちがざわつく。
村長は杖を強く地面へ打ちつけた。
「やはりな」
その一言に、長年の怒りと諦めが滲んでいた。
ミツクニが視線を向けると、カクタスが一歩前へ出た。
背の荷から、黒塗りに金の縁取りが施された小箱を取り出す。
ここで見せる必要がある。
これは村のためだけではなく、積み上げた線を公の場で一本にするための行為でもあった。
カクタスが箱を開く。
聖印が、夜風の中で鈍く輝いた。
周囲の空気が張り詰める。
カクタスの声が、共同倉の前に響いた。
「控えおろう!」
男はその場に膝をついた。
さっきまでの強がりは、もうどこにもない。
「ひっ……」
ミツクニは聖印の横に立ち、男を見据えた。
「おぬしら親子は、命令書を運んだだけかもしれぬ。文面を書いたのも、死を処理済みにしたのも、別の誰かかもしれぬ」
ミツクニの声は静かだった。
「じゃが、その紙で死んだ者はおる。その紙で泣いた家族はおる。その紙で、今なお苦しんでおる者もおる」
「……」
「運んだだけ。写しただけ。確認に来ただけ。便利な逃げ口上じゃ。じゃが、紙を回した手もまた、流れの一部であることに変わりはない」
男は震えるばかりだった。
村人たちの前で、ミツクニははっきりと言う。
「この村で起きたことは、偶然でも、過去の不運でもない。上の都合で救援が止められ、死が軽く処理され、今また隠されようとしておる」
村長が、シルヴィアを見た。
責める視線ではない。
もっと重い、問いかける目だった。
お前はここで何をするのか、と。
シルヴィアはその視線を受け止め、ゆっくりと前へ出る。
「私が、最初の命令を通しました」
村人たちは黙っている。
「そして、その先を見きれなかった」
「……」
「だから今ここで、せめて隠されようとするものだけは、隠させません」
「隠させない、か」
「はい」
彼女は男の前へ立った。
「文書の在処を言いなさい。親の代に回された控えでもいい。宿でも倉でも、執政代理府の出張所でも」
「し、知らない……!」
「嘘です」
「本当だ! ただ、古い控えの一部は川向こうの物置に……」
「場所を」
「村の旧渡し場の先だ……!」
シルヴィアはそこで初めて、少しだけ息を吐いた。
勝ったわけではない。
許されたわけでもない。
だが、隠されるはずだったものをひとつ、表へ引っ張り出せた。
それはたしかに、今の彼女の足で掴んだ一歩だった。
◇
その夜、旧渡し場の物置から、古びた書付箱が見つかった。
中には半ば湿気た控え書類、配給差止めの補記、監査予定の変更指示、そして村名入りの封書の束。
完璧ではない。
だが、十分だった。
囲炉裏の前で、村長はその箱を見つめていた。
「ようやく、か」
「長かったのう」
ミツクニが言う。
「長すぎた」
村長は苦く笑った。
それから、シルヴィアを見た。
今度は昼のような刺す目ではなかった。
痛みはある。
怒りも消えていない。
だが、それだけでもなかった。
「お前さんを許すとは言わん」
「はい」
「だが、ここまで来て掘り返した根性は認める」
「……」
「次を止めろ。せめて、それをやってみせろ」
「やります」
シルヴィアの返事は短かった。
けれど、迷いはなかった。
村長はそれ以上何も言わず、火へ薪を足した。
それで十分だった。
ミツクニは囲炉裏の火を見ながら、静かに考える。
叔父は今の腐敗を回しているだけではない。
過去の失政まで処理し、なかったことにし、必要なら古傷の上から土をかけ直している。
つまり相手は、現在の悪を止めれば済む類ではない。
積み重ねてきた嘘そのものが、敵だ。
ヤッシュが湯呑みを置いた。
「昔の件がここまで丁寧に消されてるなら、王都側も相当びびってるな」
「うむ。掘り返されたくない土が、まだまだ埋まっておる証拠じゃ」
「なら、掘るしかないわね」
ギンが言う。
ハチはもう半分眠そうだったが、それでも頷いた。
「うん。なんか、もう腹立ってきた」
「今さらかの」
「今までは理不尽って感じだったけど、今日は……こう、ずるい」
「ずるい、か」
「うん。痛いの終わったと思ってる人のところに、また勝手に来て、また埋め直そうとしてる感じ。最低」
ミツクニは小さく笑った。
「よい言い方じゃ。まさにその通りじゃな」
シルヴィアは火を見つめたまま、ぽつりと言う。
「私は、あの日からずっと、ここに帰れませんでした」
「うむ」
「帰れないと思っていました」
「うむ」
「でも、帰って終わりではなかったんですね」
ミツクニは頷いた。
「傷は、向き合うだけでは閉じぬ。そこから何をするかで、ようやく形が変わる」
「……はい」
彼女は顔を上げる。
まだ痛みはある。
消えたわけでもない。
だが、ここに来る前の彼女とは、もう少しだけ立ち方が違っていた。
「次、行けます」
「よろしい」
ミツクニの返事は短い。
だが、それで十分だった。
囲炉裏の火は、夜の底で静かに燃えている。
古い命令の傷跡は消えない。
だが、その傷をなかったことにさせないための証拠は、ようやく手の中に戻ってきた。
ここから先は、もっと大きな場所へ向かわねばならない。
古い嘘を塗り固め、新しい腐敗を回し続けている者たちの顔を見に。
笑いながら、紙の上で人を消す連中のところまで。
旅はまだ続く。
そしてシルヴィアもまた、ようやく帰れなかった場所を越えて、次へ進めるところまで来ていた。




