第12話「笑う監察官」
村を出た朝は、妙に静かだった。
あれだけ人の感情が揺れた後なのに、空だけはどこまでも澄んでいる。山沿いの風は冷たく、道ばたの草を一方向へ撫でていく。鳥の声までよく通る、穏やかな朝だった。
だが、穏やかな朝ほど、嫌な知らせはよく届く。
旧渡し場を離れて半刻もしないうちに、前方の街道で一頭の馬が止まっているのが見えた。
乗り手は若い男だった。
服装は旅商人風だが、荷を持っていない。背筋も妙によい。こちらに気づくと、男は馬を下りて丁寧に一礼した。
「勇者家の若君、ミツクニ様でお間違いありませんか」
声音は丁寧だった。
丁寧すぎる、と言ってもよかった。
「そのようなものじゃ」
ミツクニが答えると、男は懐から封書を取り出した。
「王都監察局より、急ぎのお手紙です」
スケイルが一歩前に出た。
だが男は、あくまで落ち着いている。
「中身は確認しておりません。使いの務めは届けることのみですので」
「ご苦労」
ミツクニが封書を受け取る。
封には監察局の印があった。だが、その紙質と蝋の色を見た瞬間、シルヴィアの眉が動いた。
「……新しい」
「うむ」
ミツクニは、その場で封を切った。
中には短い文書が一枚。
北部数村における旧監査案件再調査の風聞あり。王都より正式監察官を派遣済み。地方においてはこれ以上の独自行動を慎み、現地資料は速やかに監察官へ引き渡されたし。
文面は柔らかい。
だが、意味は明白だった。
余計なことをするな。
証拠は渡せ。
カクタスが鼻を鳴らす。
「早いな」
「早いのではない。こちらの動きが筒抜けなのじゃろう」
ミツクニは紙を畳んだ。
使いの男は、まだ礼を崩さない。
「返書は必要でしょうか」
「いや、よい。これだけで十分じゃ」
「承知しました」
男はもう一度礼をし、すぐに去った。
振り向きもせず、街道の先へ消えていく。
その背を見送りながら、ヤッシュが低く言った。
「使いの歩き方じゃねえな」
「ええ」
シルヴィアが頷く。
「ただの使者なら、あんなに中身を知っている顔はしません」
「見事なものじゃ。伝令ひとつにも、ちゃんと躾が行き届いておる」
ミツクニは小さく笑った。
だが、目は冷えていた。
「ならば、監察官殿もさぞご立派なのであろうな」
◇
その日の昼過ぎ、一行は街道沿いの大きな宿場へ入った。
ここは、昨日までいた村とは違う。
王都へ近い流れを感じさせる町だった。宿も役場も大きく、通りには上等な馬車も混じっている。旅人だけでなく、書類と命令で動く人間の匂いがあった。
そして、宿へ荷を下ろしきる前に、その監察官は現れた。
黒に近い濃紺の上着。白手袋。飾り気の少ない銀の留め具。
年の頃は三十代半ばほど。痩せてもおらず、太ってもおらず、背丈も平均的。顔立ちは整っているが、印象に残る派手さはない。
だからこそ、よく出来た顔だった。
「はじめまして」
男は馬車から降りるなり、穏やかに一礼した。
「王都監察局のオルドランと申します。若君のお噂は、かねがね」
「ほう」
ミツクニは、宿の階段の上からその男を見下ろしていた。
「ご丁寧にどうも」
「こちらこそ。地方のご巡察、実にご熱心でいらっしゃる」
柔らかい笑顔。
声の抑揚も完璧だった。
だがシルヴィアは、その瞬間に嫌悪感を覚えていた。
この男は、礼儀を身につけた善人ではない。
礼儀そのものを武器として磨いた手合いだ。
オルドランは続ける。
「とはいえ、古い案件に関しては、すでに王都が正式に引き受けております。若君のお立場であまり深く踏み込まれると、かえって地方が混乱いたしますので」
「混乱、とな」
「ええ。村人の感情を刺激し、不要な誤解を生むのは避けるべきかと」
「なるほどのう」
ミツクニは頷いた。
「つまり、死んだ者の話は静かに埋めておけと」
「そこまで乱暴な言い方はいたしません」
オルドランは笑みを崩さない。
「ただ、感情と統治は分けて考えるべきだと申し上げているのです」
ギンが少し離れたところからそのやり取りを聞き、口元だけで笑った。
ハチは逆に、露骨に嫌そうな顔をしている。
「何か、あの人やだ」
「うむ」
ミツクニは静かに答えた。
「わしもじゃ」
オルドランは、それを聞こえなかったふりで流した。
「ともあれ、旧監査案件の関係資料は、こちらで責任を持って預かります。若君にはこれ以上ご負担をかけません。どうか、この町では穏やかにご滞在を」
スケイルが一言だけ挟む。
「断ったら」
「もちろん、強要はいたしません」
オルドランは笑顔のまま言う。
「ですが、その場合、以後に起こる混乱については、若君のお名前も少なからず取り沙汰されるでしょう。地方は繊細ですから」
脅しだった。
それも、ひどく上等な脅し方だ。
カクタスのこめかみに青筋が立つ。
「主、こいつ殴っていいか」
「まだいかん」
「まだ、ってことは後ならいいんだな」
「短気じゃのう」
ミツクニは呆れたように言ってから、オルドランへ向き直る。
「悪いが、資料は渡せぬ」
「……理由を伺っても?」
「おぬしが嫌いだからじゃ」
「若」
スケイルが静かに呼んだ。
だがミツクニは、本気でそう言っていた。
オルドランでさえ、一瞬だけ笑みが止まる。
「それはまた、率直でいらっしゃる」
「率直は大事じゃよ。おぬしのように丁寧な言葉ばかり並べる相手には、なおさらな」
「誤解されていますね」
「しておらぬよ」
ミツクニは階段を一段下りた。
「おぬしは、最初から終わらせるために来ておる。調べるためではなく、片づけるために」
「ひどい物言いです」
「事実なら、ひどくはあるまい」
オルドランはそこで初めて、目だけで笑うのをやめた。
◇
夕方。
宿の一室で、シルヴィアはずっと落ち着かなかった。
窓の外では、監察局の馬車がまだ停まっている。
宿の周囲にも、さりげなく人が増えた。荷運びに見える者、旅人に見える者、酒場へ入る者。だが、気配の置き方が同じだ。
監視されている。
「息が詰まりますね」
ぽつりとこぼすと、ギンが椅子の背にもたれたまま言う。
「王都の犬は吠えないの。笑って首輪だけ締めてくる」
「上手いこと言うわねえ」
ハチが感心したように言う。
「褒めても何も出ないわよ」
ギンは肩をすくめた。
ハチが不安そうに外を見る。
「資料、盗まれたりしないかな」
「盗むなら、今夜がいちばん自然でしょう」
シルヴィアが答える。
「圧をかけて、断られて、その夜に消える。古典的ですが有効です」
「古典的なの?」
「腐ったやり方ほど古いものです」
ミツクニは書類箱の紐を結び直しながら、顔を上げた。
「では、盗みに来るなら盗みに来てもらおうかの」
「おびき出すの?」
「うむ。礼儀正しい悪というものは、表で崩れぬ分、裏でせっせと働いてくれるからのう」
ヤッシュが部屋の隅で鼻を鳴らす。
「厄介だが、分かりやすいっちゃ分かりやすい」
「相手も同じことを思っておるじゃろうがな」
「で、どうする」
ミツクニは机の上に三つの箱を並べた。
本物の資料箱がひとつ。
中身を抜いた箱がひとつ。
石と紙くずだけを詰めた箱がひとつ。
「正面に置くのは偽物じゃ」
「分かりやすすぎませんか?」
シルヴィアが問う。
「分かりやすすぎる方が、あえて本物かもしれないと思うものじゃ」
ギンがにやりとする。
「性格悪いわねえ」
「褒め言葉として受け取っておこう」
シルヴィアは、資料箱を見ながら問う。
「本物はどうします」
「それは、おぬしが持つとよい」
「私が?」
「おぬしが一番、今夜の相手を見たい顔をしておる」
「……」
否定できなかった。
オルドランの笑顔は、あまりに昔の上と同じ匂いがした。
命令の正しさを疑わず、いや、疑っていても疑わぬ顔をして、人を手続きの下へ押しつぶす匂い。
「持ちます」
短く答える。
「うむ。頼んだぞ」
◇
夜半。
宿の灯りはほとんど落ち、廊下も静かだった。
ただ、静かすぎる。
シルヴィアは本物の資料箱を抱えたまま、宿の裏手の物置で息を潜めていた。
隣にはスケイル。
少し離れた梁の上にはギン。
庭木の影にはカクタス。
ヤッシュは外周だ。
ミツクニだけが、部屋に残っている。
囮として。
足音がした。
ひとつ、ふたつ。
止まる。
それから、戸口ではなく窓側へ回る気配。
スケイルが目だけで合図する。
来た。
窓の桟が静かに外される音。
人影が一つ、二つ、三つ。
忍び足で部屋へ入る。
手早い。無駄がない。地方のごろつきではなく、ちゃんと訓練された者たちだ。
シルヴィアは息を潜めたまま、その影を数える。
そして少し遅れて、別の足音が廊下を歩いた。
もっと堂々と。
もっと迷いなく。
オルドランだ。
彼は扉の前で止まり、軽く二度、指で板を叩いた。
「見つかってはいませんね」
中から、低い声が返る。
「問題ありません」
「結構。焼却は不要です。回収だけで十分でしょう。若君には、明朝“旅装の乱れに乗じた盗難”とでも説明します」
その声を聞いた瞬間、シルヴィアの胃の奥が冷えた。
昔、聞いた。
こういう声を。
怒鳴らず、慌てず、まるで書類の順番でも決めるように、人の死や不幸を処理する声を。
スケイルが動くより早く、シルヴィアは立ち上がっていた。
物置の扉を開け、廊下へ出る。
「その説明では足りませんよ、監察官殿」
静まり返った宿の中で、オルドランがゆっくり振り返った。
彼の目が、ほんの少しだけ見開かれる。
だが次の瞬間には、また笑顔が戻っていた。
「これは、騎士殿。眠れませんでしたか」
「あなたの声を聞いていたら、なおさら眠れません」
「光栄です」
そのやり取りの間に、部屋の窓側ではスケイルとカクタスが動いていた。侵入者たちはまとめて床へ転がされ、ギンがそのうち一人の喉元へ短刃をぴたりと当てている。
オルドランの笑顔が、そこで初めて本当に消えた。
「……罠でしたか」
「礼儀正しい悪は、裏でよく働くと聞いておったのでのう」
部屋の中から、ミツクニが出てくる。
眠たげな顔のまま、しかし目だけが冴えていた。
「期待に違わぬ見事な働きぶりじゃ」
「私はただ、資料の保全を」
「嘘を申せ。保全したいなら、なぜ夜中に忍びを使う」
ミツクニは、ゆっくりと階段の手すりへ手を置いた。
「返還要求なら日中にできる。正式差押えなら文書を出せる。おぬしが選んだのは盗みじゃよ」
「……若君」
「言い訳は聞くが、信じはせぬ」
オルドランは視線を巡らせる。
退路はない。侵入者たちも押さえられた。
それでも彼は、最後の外面だけは崩さなかった。
「若君はお若い。感情で動きすぎる」
「ほう」
「地方の痛みに同情するのは結構。ですが、統治は痛みを整理しなければ回らない」
「整理、とな」
「ええ。救えぬものを救えぬと線引きし、過去の損失を今の秩序のために呑み込む。それが現実です」
その言葉を聞いた時、シルヴィアの中で何かが切り替わった。
昔の自分が聞いていた正しそうな声の正体が、ようやく言葉になった気がしたのだ。
「違う」
自分でも驚くほど、声がよく通った。
全員の視線が集まる。
シルヴィアはオルドランをまっすぐ見た。
「あなたは整理しているのではない。切り捨てているだけです」
「……」
「見に行かず、間に合わず、助けられなかった者を、仕方なかったと書き換えているだけだ」
「騎士殿、それは感情論です」
「そうです。感情です」
シルヴィアは一歩前へ出た。
「死んだ者に痛みがあること。残された者に怒りがあること。それを最初から勘定に入れない統治を、私はもう正しいとは呼びません」
オルドランの眉が、わずかに動いた。
ミツクニはそのやり取りを見て、静かに頷く。
「よう言った」
「……ミツクニ様」
「今のは、おぬしの言葉じゃ。よい言葉じゃった」
オルドランは、そこで初めて少しだけ息を吐いた。
勝ち目がないと悟った者の息だった。
「なるほど。若君の巡察は、思っていたより厄介だ」
「褒め言葉として受け取っておこう」
「好きにしてください」
それでもなお、監察官は最後まで折れきらない。
「ですが、ここで私を押さえたところで、王都は止まりません」
「知っておる」
「聖印を掲げれば皆が平伏した時代は終わりつつある」
「それも知っておる」
「なら、なぜ抗うのです」
「簡単じゃ」
ミツクニは少しだけ笑った。
「気に入らぬからじゃよ」
あまりにあっさりした言い方に、オルドランでさえ一瞬だけ言葉を失った。
「偽りを丁寧に並べ、死を綺麗な言葉で処理し、笑いながら踏みにじる。そういうのが、わしは昔から嫌いでのう」
「……」
「嫌いなものには、ちゃんと嫌いだと言うておかねばなるまい」
オルドランは、そこで初めて視線を落とした。
笑わなくなった監察官の顔は、どこにでもいる疲れた役人に見えた。
だが、同情する気にはならない。
疲れていても、やっていることは十分に外道だ。
「どうしますか」
スケイルが問う。
「監察官殿には、少しこちらの話も聞いてもらおうかのう」
ミツクニは穏やかに答えた。
「王都へ帰す前に、地方で何を終わらせておったのか、口で説明してもらわねば困るからな」
◇
夜明け前、オルドランから引き出した話は多くなかった。
だが十分だった。
監察局の一部は叔父派と連動していること。
正式監査を済んだことに書き換える手口が、複数の地方で使われていたこと。
そして、聖印の権威を古い遺物として実務から外す動きが、王都でかなり前から進んでいること。
それを聞き終えた時、ハチがぽつりと言った。
「やっぱり、やな感じ」
「雑だが正しい」
ヤッシュが短く返す。
ミツクニは、窓の外が白み始めるのを見た。
夜が明ける。
地方漫遊の気楽さは、もうだいぶ薄れてきた。
シルヴィアは黙って座っていた。
だがその顔は、村へ入る前より明らかに変わっている。過去の傷に飲まれているのではない。まだ痛みはある。けれど今は、それを見ながら前を向いている顔だ。
「……ミツクニ様」
「何じゃ」
「私、少しだけ分かった気がします」
「うむ」
「昔の私は、命令に従えば誰かが責任を取ってくれると思っていました。上には、ちゃんと見ている人がいると」
「じゃが、上は見ておらんかった」
「いえ」
シルヴィアは首を横に振った。
「見ていたんです。見ていて、切った」
部屋が静かになる。
その言葉は重かった。
だが、その重さこそが本質だった。
ミツクニはゆっくりと頷いた。
「そうじゃな」
「だから、今度は見ている者の顔まで行かないと駄目なんですね」
「うむ」
「……行けます」
その返事に、もう迷いは少なかった。
ミツクニは、ほんの少しだけ目を細める。
「なら、次は王都へ近い流れを掴むとしようかの」
「次は?」
ハチが首をかしげる。
「叔父上の笑顔の近くまでじゃ」
ギンが肩をすくめる。
「いやねえ。いよいよ上品に腐った連中の庭先ってわけ」
「上品って言葉が、こんなに嫌な響きになるんだね……」
「よい勉強じゃ」
カクタスが大きく伸びをした。
「よし。じゃあ次は、礼儀正しくぶん殴る相手ってことだな」
「できれば比喩にしてください」
シルヴィアが疲れたように言う。
「難しい注文するなあ!」
ようやく、少しだけ笑いが戻る。
夜の終わりと朝の始まりの間で、一行はまた次へ進む準備を始めていた。
地方の土に埋められた古い傷は、もう掘り起こした。
ここから先は、その傷を処理済みにしてきた顔の見える相手と向き合う番だ。
旅は続く。
今度は、もっと整った服を着た悪意の方へ。




