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第7話「帳簿に沈む村の声」


 翌朝、一行が向かったのは、宿場町から半日ほど離れた小村だった。

 道中、ヤッシュはほとんど喋らなかった。

 灰色混じりの髪を揺らしながら、馬にも乗らず、ふらふらと歩いているように見える。だが、歩幅は一定で、目だけはずっと周囲を見ていた。


 ハチがひそひそ声でシルヴィアに言う。

「ねえ、あのおじさん、本当に仕事してるの?」

「おぬしがそれを言うか」

 前を行くミツクニが、振り返りもせずに答えた。

「だって昨日も酒飲んでたよ?」

「飲みながら働いておるのじゃろう」

「器用すぎない?」

「器用だから生き残っておるんじゃ」


 シルヴィアはヤッシュの背を見た。

 たしかに得体は知れない。だが、昨夜の裏市場でこの男が拾ってきた情報は、ギンが抜いた帳面とぴたり重なっていた。

 偶然ではない。

 見えているものが違うのだ。

「……信用しておられるのですね」

 ぽつりと問うと、ミツクニは小さく笑った。

「うむ。じゃから連れて歩いておる」

「ずいぶん、あっさり言うんですね」

「信じぬ者を手元に置いても疲れるだけじゃ」

 簡単な言い方だった。

 だが、簡単に言えることではない。

 シルヴィアは少しだけ黙り込み、やがて視線を前へ戻した。

 やはり、この一行は変だ。

 だが、変だからこそ、今の自分には息がしやすい。


     ◇


 村へ着く前から、空気は重かった。

 畑の土は痩せ、道ばたの井戸には人がいない。

 家々の戸は閉まりがちで、子どもの声も少ない。村に入って最初にすれ違った女は、薬草の束を抱えていたが、その目はひどく疲れていた。


 ハチが珍しく小声になる。

「……元気ないね」

「病が出ておるのう」

 ミツクニはそう言って、村の中央を見やった。


 ひときわ立派な建物がある。

 白壁に青い屋根。小さな鐘楼。村の規模に比して、明らかに場違いなほど整った神殿だった。

 入口には列ができ、村人たちが不安げな顔で順番を待っている。

「神殿が立派すぎます」

 シルヴィアが言った。

「うむ。民が痩せておる時に、神殿だけが太っておるのは嫌な兆候じゃ」

「嫌な兆候って言い方で済ませていいやつ!?」

 ハチが思わず声を上げる。


「済ませてはおらん。嫌なものは嫌じゃ」

 カクタスが鼻を鳴らした。

「しかも、あの列。診療待ちにしちゃ長すぎるな」

「見てみましょう」

 シルヴィアの声には、もう迷いがなかった。

 一行は神殿前へ向かった。


     ◇


 列の最後尾に並んでいたのは、痩せた母親と、咳き込む小さな娘だった。

 娘は熱があるのか頬が赤く、呼吸も浅い。母親は何度も娘の背をさすっているが、その手つきにも疲れがにじんでいた。


「具合が悪そうじゃのう」

 ミツクニが穏やかに声をかけると、母親は一瞬だけ警戒し、それから疲れたように首を振った。

「熱が下がらなくて……。神官様に診てもらえれば、奇跡の薬を分けていただけるかもしれないって」

「かもしれない?」

「寄進金の額次第だと……」

 シルヴィアの眉がぴくりと動く。


「寄進金?」

「はい。銀貨があれば、特別な薬を。なければ、薬草のお茶だけでもって……」

 ハチが目を丸くした。

「えっ、神様ってお金で効き目が変わるの!?」

「ハチ」

「だってそういうことでしょ!? ひどくない!?」

「ひどいが、静かにせい」


 カクタスがハチの頭を押さえる。

 母親は肩を縮めた。

「文句なんて言えません。神殿に睨まれたら、もう治療も受けられないし……村長も、従うしかないって」

 ミツクニは娘の額にそっと手を当てた。

 熱い。


「長く待たせるのはまずいのう」

「でも、寄進金が……」

「そのあたりは、後で考える」

 ミツクニの目が、神殿の奥へ向いた。


「まずは、何がどう回っておるのか見ねばなるまい」

 その時、列の脇を村娘風の女が何でもない顔で通り過ぎた。

 女はシルヴィアの隣をすり抜ける。

 裾が軽く触れた。

 同時に、小さな紙片がシルヴィアの手へ滑り込む。

 シルヴィアは一瞬だけ固まった。


「……」

「どうした」

 ミツクニに問われ、そっと紙を見る。

 短く書かれていた。

 ――薬の箱、裏口から商会印つきで搬入。表帳簿と数合わず。狐。

 シルヴィアは顔を上げた。

 少し離れた路地の角で、頭巾をかぶった女が、気づいていないふりで果物を選んでいる。

 もちろんギンだ。


「……本当に、手が多いんですね。この一行」

「便利じゃろう?」

「ええ。腹が立つくらい」

「何で腹が立つんですか」

 ハチが首をかしげる。


「私は今の受け渡しに、全く気づきませんでした」

「それはまあ、狐の方が得意じゃからのう」


 ミツクニは何でもないように言ったが、シルヴィアは少しだけ悔しかった。

 その悔しさを抱えたまま、今度は神殿の裏手へ視線を送る。

 すると、鐘楼の影から、灰色の男が一瞬だけこちらを見た。

 ヤッシュだ。

 男は何も言わない。

 ただ、自分の喉元を指先で二度叩き、それから手のひらを下へ向けた。

「……薬が喉に落ちていない。下へ流している、ですか」

 シルヴィアが小さく呟くと、ミツクニが感心したように目を細めた。

「お、よく読めたのう」

「何となくです」

「十分じゃ」

 ヤッシュはすぐに姿を消した。

 つまり、表へ出る薬と、裏で動く薬の数が合っていない。

 村人に与えられる奇跡は見せかけで、実際の薬は別の場所へ流されている可能性が高い。

 シルヴィアの中で、点がつながった。


     ◇


 神殿へ入ると、空気は外より冷たかった。

 白い石の床。香の匂い。高い天井に反響する祈りの声。

 表向きは清浄だ。

 だが、診療を待つ村人たちの目は、救いを求めるというより、値踏みされるのを待つ者の目に近かった。


 奥の机に座る若い神官が、一行を見て微笑んだ。

「ようこそ。お困りごとですか」

「病人の列を見たのでのう。少し事情を伺いたくて来た」

「事情、とは?」

「この村では、寄進金の額で薬が変わると聞いた」


 神官の笑顔が、ほんのわずかに薄くなる。

「誤解です。寄進はあくまで神殿運営への善意。治療は万人に平等に行っております」

「では、特別な薬は存在せぬのか」

「特別と申しますか、回復の早い調合薬はありますが、数に限りが……」

「それを、払える者から回しておる」

「言い方が悪いですね」


 神官はやんわりと、しかしはっきり否定した。

「神殿にも資材が必要です。薬草も、器も、運搬も、すべて無償ではありません」

「だから病人に値札をつけるのか」

「値札ではありません。優先順位です」

「ほう」


 ミツクニの声が、静かに落ちた。

「その優先順位とやらは、金のある者ほど上へ来る仕組みらしいのう」

「……あなたはずいぶん失礼な方だ」

「失礼なのは、どちらじゃろうな」


 その間に、シルヴィアは机の端に置かれた投薬記録へ目を走らせていた。

「こちらの投薬記録、搬入数と使用数が合っていません」

 神官の笑顔が消える。

「何ですって?」

「昨日搬入された聖油三箱、癒し草の薬包二十。ですが今日の記録では、すでに残量が半分以下になっている。一方で、外で治療を待つ人数に対して配布量は少なすぎる」

「内部記録に勝手に触れないでいただきたい」

「裏帳簿の方を見れば、もっと早いかもしれませんが」


 その一言で、神官の目が揺れた。

 ミツクニは内心で頷く。

 シルヴィアは、やはり実務に強い。

 表の顔をした不正には、こういう人材がよく刺さる。

 その時、神殿の奥から若い巫女が薬包を抱えて出てきた。

 彼女は一行を見るなり、ぴたりと足を止めた。

 正確には、スケイルを見て止まった。


「あ、あの……診療の方、ですか?」

「違う」

 スケイルが短く答える。

 巫女は少し頬を赤くし、薬包を抱え直した。

「で、では、神官様へのご相談でしょうか。必要でしたら、奥の保管室に――」

「保管室?」

 スケイルの視線がわずかに動く。

 巫女は、はっとして口を押さえた。

「い、いえ、その……奥ではなく、ええと、通常の薬棚です」

 シルヴィアが半眼になる。

 ハチが小声で言った。

「出た。スケイルさんの顔で情報が落ちるやつ」

「落としていない」

 スケイルは不本意そうに返す。

「今、落ちましたよね」

「望んで得たものではありません」

「そこがまた腹立つんだよねえ」

 神官の顔が引きつった。

「余計なことを言うな」


 その一言で、巫女はびくりと肩を震わせた。

 ミツクニの目が細くなる。

 人は、不正そのものよりも、それを隠す時の態度でよく本性を見せる。

 そこへ、背後から低い声が飛んだ。

「裏帳簿なら、今ここにあるぜ」

 振り向くと、ヤッシュが立っていた。

 いつの間に入ってきたのか、片手には薄汚れた帳面を持っている。

 若い神官が青ざめた。

「な、何者だ!」

「お前らが捨てた荷札を拾う係だ」

 ヤッシュは帳面を机へ放る。

「正面の記録は使用済み。こっちは横流し。数も日付もぴったりだ。器用なことしやがる」


 神官が帳面を奪い返そうとした瞬間、スケイルが一歩だけ前へ出た。

 それだけで、相手は足を止める。

 さらに神殿の裏口から、ギンが戻ってきた。今度は村娘ではなく、運搬係の外套を羽織っている。


「裏の倉庫、空っぽだったわ。薬箱はさっき商会の馬車に積み替え済み。神殿って便利ねえ。奇跡がそのまま売り物になるんだから」

「商会……?」

 神官の唇が引きつる。

 ミツクニは帳面、荷札、裏口の報告を見比べ、それから神官を見た。

「《金鶸商会》じゃな」

「……」

「答えぬか」

「私は命令に従っただけです! 上から来た通達で、必要な分を回しただけで……!」

「上、とな」

「村のためでもある! 寄進がなければ神殿は回らない。薬を全部無償で配れば、すぐに底をつく!」

「だからと言って、貧しい者から順に見捨ててよい理屈にはならぬ」

 シルヴィアの声は冷たかった。


「優先順位という言葉で飾っても、やっていることは選別です」

 神官は歯を食いしばる。

「綺麗事だ! この村の全員を救えるだけの薬など、最初からない!」

「ならばなおさら、必要な者へ正しく回すべきであろう」

 ミツクニが前に出た。

「病と貧しさにつけ込むだけでも外道じゃ。それを救いの顔で売るとは、なお悪い」

 声は大きくない。

 なのに、神官の顔がみるみる青ざめる。

「お前に何が分かる……!」

「分かるとも」

 ミツクニは静かに告げた。

「飢えた者、病んだ者、追い詰められた者。そういう者ほど、差し出された手を信じるしかない。それを掴ませるふりをして財布だけ探る者を、わしは嫌う」


 その時、カクタスがミツクニの横へ進み出た。


 背の荷から、黒塗りに金の縁取りが施された小箱を取り出す。

 場の空気が変わった。

 白い石壁に灯る蝋燭の炎が、なぜか一段低く見えた。

 スケイルが静かに剣を収め、シルヴィアも姿勢を正す。

「や、やめ……」

 神官がかすれた声を出した時には、すでに遅い。

 カクタスは箱を胸の高さで開いた。

 中に収められていたのは、金と蒼で象られた聖印。

 勇者家直系の統治印。王国の正統を示す国家最高級の秘宝。

 カクタスの声が、神殿の冷たい空気を震わせた。

「控えおろう!」

 神官は膝から崩れ落ちた。

「……聖印」

 ミツクニは聖印の横に立ち、静かに神官を見下ろす。

「病人を選び、薬を流し、神殿の名で利を貪る。そのうえで、民に祈れと言うかの」

「お、お許しを……! 私はただ命じられて……!」

「命じられたから、と言えば罪が軽くなると思うか」


 ミツクニの目は、静かに怒っていた。

「救いとは、金のある者へ先に売る品ではない。神殿とは、困った者ほど先に駆け込める場所でなければならぬ。それを忘れた時点で、おぬしらは信を失っておる」

 言葉の一つ一つが重かった。

 ハチでさえ、もう茶化さない。

 ギンもヤッシュも、黙ってその断罪を見ている。

 神官は床へ額をこすりつけた。


「ど、どうか……どうか、神殿だけは……!」

「慈悲は病人に向けるものじゃ。おぬしらには、まず帳簿を吐いてもらう」

 ミツクニは静かに命じた。

「シルヴィア殿」

「はい」

「表帳簿と裏帳簿、両方押さえよ。村への配布量も改めて確認じゃ」

「承知しました」

 シルヴィアは即座に動いた。

 その迷いのなさに、ミツクニは少しだけ目を細めた。


     ◇


 日が傾く頃には、神殿前の列はほぼ解消していた。

 押収された薬箱が改めて積み直され、村人たちへ正しく配られていく。

 熱にうなされていた娘へも、ようやくまともな薬が渡った。母親は何度も頭を下げ、涙ぐみながらそれを受け取る。

「ありがとう、ございます……本当に……」

「礼はまだ早い」

 シルヴィアはしゃがみ込み、娘の様子を確認しながら言う。


「まずは飲ませて、今夜はしっかり休ませてください。明朝も熱が高ければ、こちらでもう一度診ます」

「え……騎士様が?」

「今は、ただの旅の者です」

 そう言って立ち上がった彼女の顔は、以前より柔らかかった。

 少し離れた場所で、ハチが薬箱を数えている。


「これ、ちゃんと全部村の分だよね?」

「全部ではないな」

 ヤッシュが答えた。

「もう何箱かは先に流されてる」

「うわ、最悪」

「だが荷札は拾った。流れは追える」

 ギンも肩をすくめる。

「商会の馬車、次は王都寄りの中継所へ向かうみたい。ほんと、節操なく繋がってるわね」

 ミツクニは神殿の机から回収した文書を見ていた。

 そこには監査猶予の印が押されている。発行者欄にある名前を見て、彼は小さく息をついた。


「叔父上の官僚、か」

「監査を止め、通達を流し、商会へ許可を出す。全部そっちにつながってるわね」

「うむ。しかも、思うたより露骨じゃ」

 シルヴィアが戻ってくる。


「村長にも話を通しました。今夜のうちに村人へ事情を説明し、神殿の薬在庫は一時的に村管理へ移します」

「見事じゃ」

「見事なのは、最初から神殿を疑っていたミツクニ様の方でしょう」

「疑うのは容易い。形にするのが難しいのじゃ」

「……」

「おぬしはようやったよ」

 短い言葉だった。

 だが、シルヴィアは一瞬だけ目を伏せ、それから静かに頭を下げた。

「ありがとうございます」


 その素直さに、ハチがにやにやし始める。

「隊長さん、最近ちょっと素直になってない?」

「隊長ではありません」

「でも前より怒るの一拍遅くなった」

「……ハチ」

「はい」

「後で薬草の仕分けを手伝ってください」

「何で!?」

「元気そうだからです」

「やだー!」


 カクタスが腹を抱え、ギンは「いいわねえ、その感じ」と面白そうに笑う。

 スケイルは少し離れた場所で、先ほどの若い巫女に再び声をかけられていた。

「あの……先ほどは、余計なことを言ってしまって……」

「助かった」

「えっ」

「あなたの一言で、保管室の存在が分かった」

 スケイルはそれだけ告げた。

 巫女は耳まで赤くなり、俯いた。

「そ、それなら……よかったです」

 ハチがそれを見つけて、小声でシルヴィアに言う。

「ねえ、あれ、また落としてない?」

「何をですか」

「情報じゃなくて、女の人の心」

「……言い方」

 スケイルは戻ってくるなり、二人の視線に気づいた。

「何ですか」

「いえ、何でもありません」

「絶対に何かある顔だよね」

「ハチ」

「はい黙ります」

 ヤッシュだけが、遠くの道を見ていた。

「主」

「何じゃ」

「次はもう少しでかい相手になる。地方の神殿がここまでやるなら、その上はもっと腐ってる」

「分かっておる」

 ミツクニは薬を抱えて帰る村人たちを見送った。

 救われた顔がある。

 それだけで、今日ここへ来た価値はあった。

 だが、その裏にはまだ流れがある。

 橋の銭。

 徴発の若者。

 救援物資。

 神殿の薬。

 それらをまとめて吸い上げている何かが、たしかにいる。

「さて」

 ミツクニは夕空を見上げた。

「病人から薬を奪い、若者から働きを奪い、橋から流れを奪う。ずいぶん欲張りなことじゃのう、叔父上は」

「欲張りってレベルじゃないよね」


 ハチが眉を寄せる。

「うむ。ゆえに、腹を壊させてやらねばならぬ」

 ハチが目をぱちくりさせ、カクタスが豪快に笑った。

「はっはっは! いいな、その言い方!」

「食いすぎた腹ってのは、ぶん殴るとよく響くからな!」

「できれば殴る前に証拠で固めてください」

 シルヴィアが冷静に言う。


「そこはもちろんじゃよ」

 ミツクニは穏やかに頷いた。

 シルヴィアはそのやり取りを聞きながら、小さく息をついた。

 この一行は本当におかしい。


 なのに、こうして病人へ薬が戻り、村人の顔に少しずつ色が差していくのを見ると、間違っているとはとても思えない。

 だったら、自分はもう少し、この異様な旅に付き合ってみよう。

 そう思えるくらいには、彼女の足元は前よりも固くなっていた。

 村を出る頃には、鐘楼の影が長く伸びていた。


 祈りの場所は、せめて祈れる場所であれ。


 救いの場所は、せめて救いを売り飛ばさぬ場所であれ。


 そんな当たり前を取り戻すために、一行はまた次へ向かう。

 夕暮れの道の先には、まだ見えぬ濁りが続いている。


 それでも、ミツクニの足取りは止まらなかった。

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