第4話「徴発名簿に名を奪われて」
橋の町を出た頃には、日もずいぶん傾いていた。
川面に落ちる夕陽は赤く、馬の影も荷車の影も、街道の上に長く伸びている。
「今日はこの先の宿場で泊まるとしようかのう」
ミツクニがそう言うと、荷車の上でハチが両手を突き上げた。
「やったー! 宿場町ってことは、晩ごはんが豪華な可能性あるよね!? 焼き鳥! 煮込み! あと宿場名物!」
「お前の頭の中は食い物しかないのか」
スケイルが半眼で言った。
「失礼だなあ。儲け話も入ってるよ」
「余計悪い」
「ひどっ」
カクタスが腹を抱えて笑う。
「いいじゃねえか。腹が減ってちゃ、世直しも盾も動かねえ」
「カクタス殿まで……」
シルヴィアは小さく息を吐いた。
旅に加わって数日。
少しずつ、この一行の調子は分かってきた。
カクタスは豪快で騒がしいが、肝心な場面では空気を読む。
スケイルは無駄口こそ少ないが、周囲をよく見ている。
ハチは食べ物と儲け話に飛びつくが、庶民の違和感には妙に敏い。
そしてミツクニは、いつも通りだった。
若い顔で、老人のように笑う。
軽く見えて、誰よりも重いものを見ている。
自分だけが、まだ少し浮いている。
昨日まで地方の騎士隊長だった身だ。
命令、隊列、報告、規律。そういうものの中で長く生きてきた。
だが、この旅は違う。
主従でありながら、会話は妙に近い。
任務でありながら、どこか日常の匂いがする。
その距離感に、シルヴィアはまだうまく馴染めずにいた。
ミツクニはそんな彼女をちらりと見たが、何も言わなかった。
その沈黙は、突き放すものではない。
急かさず、待っている沈黙だった。
それが、かえって有り難かった。
◇
宿場町は、橋の町とは違ってそれなりに賑わっていた。
往来には荷馬車が行き交い、軒先には干し肉や薬草、旅人向けの小物が並ぶ。日が落ちる前だというのに、酒場兼食堂にはすでに灯りがともっていた。
旅人が腹を満たし、御者が馬の世話を頼み、商人が明日の道の噂を集める。
良くも悪くも、人の匂いが濃い町だった。
「ここにするかの」
ミツクニが入った店は、木の梁がむき出しになった古い酒場だった。
旅人、行商人、御者、町の男たち。顔ぶれは雑多だが、客は多い。ざわめきと肉の焼ける匂い、煮込みの湯気が、いかにも宿場らしい。
席に着くなり、ハチが勢いよく手を上げた。
「すみませーん! おすすめ全部ください!」
「全部はやめなさい」
シルヴィアが即座に止めた。
「だって、おすすめって一番おいしいってことでしょ?」
「量の話をしています」
「食べきれるよ?」
「そういう問題ではありません」
カクタスがげらげら笑い、スケイルは呆れ顔で水を口に運ぶ。
ミツクニだけが、ほっほっと楽しそうに笑っていた。
「まあ、腹が減っては世直しもできぬ。多少はよかろう」
「やった! ミツクニ様、分かってる!」
「多少じゃと言うておる」
結局、焼いた肉、煮込み豆、固めのパン、香草をまぶした魚、干し果実入りの粥が注文された。
ハチの言う「全部」には届かなかったが、普通の旅人なら十分すぎる量である。
料理が運ばれてくるのを待つあいだ、シルヴィアはふと気づいた。
この一行では、誰も酒を頼んでいない。
「……飲まれないのですか」
ぽつりと尋ねると、カクタスがにやりと口の端を上げた。
「俺は飲むと寝る」
「私は必要時以外は控えます」
スケイルが短く続ける。
「わしは嫌いではないが、今日はまだ目を使いたいのでのう」
ミツクニがそう言うと、ハチがぱっとシルヴィアを見た。
「じゃあ、シルヴィアさんは?」
「私は……」
シルヴィアは一瞬、言葉を切った。
飲めない、と言えば済む話だった。
だが、なぜか言えなかった。
自分はこの数日、どこか硬い。旅の空気に馴染めていない。騎士隊長だった頃の礼式や規律を、まだ脱ぎきれていない。
せめて酒くらい、普通に飲めると言いたかった。
実に浅はかな意地である。
「……酒くらい、普通に飲めます」
その瞬間、スケイルが静かに目を伏せた。
カクタスが天を仰いだ。
ミツクニが、少しだけ眉を上げた。
ハチだけがきらきらした顔になる。
「えっ、じゃあ飲も! 乾杯しよ! 旅の始まりって感じで!」
「待て、ハチ」
カクタスが珍しく止めに入る。
「一杯くらい、問題ありません」
シルヴィアは言い切った。
完全に引き返せない顔だった。
やがて料理と一緒に、琥珀色の酒が置かれた。
香りは強い。
色も濃い。
明らかに、一杯目に選ぶ酒ではない。
カクタスが杯を見て、顔をしかめる。
「それ、強いやつじゃねえか」
「カクタス殿、私は貴殿ではありません」
「何その言い方!?」
ハチがもう笑っている。
シルヴィアは意地を張るように、杯を手に取った。
「では」
そして、一息に酒をあおった。
次の瞬間。
「……あ」
視界がぐらりと揺れた。
◇
「えっ、早くない?」
ハチの声が遠い。
「だから言っただろうが」
「言ってません」
「顔で言ってた」
「それは言ったうちに入りません」
「入るんだよ、こういうのは!」
妙に騒がしい。
だが、シルヴィアの頭にはもうまともな言葉が入ってこなかった。
頬が熱い。
喉も熱い。
耳の奥で、自分の心臓の音が大きく鳴っている。
何より、胸の奥にずっと押し込めていたものが、酒気に炙られたようにふわりと浮いてきた。
「……私は」
気づけば、口が勝手に動いていた。
「私は、ちゃんと……やっていたはずなのに」
店のざわめきが、一瞬だけ遠のいた。
シルヴィアは、涙が出る前の子どものような顔で杯を見つめる。
「命令に従って、規律を守って、無茶はしてはいけないって……ちゃんと、言われた通りにして……」
「シルヴィア殿」
スケイルが静かに呼んだ。
だが、もう止まらない。
「それで、救えなかったら……何のための騎士なんですか」
ぽろり、と涙がこぼれた。
ハチが目を丸くする。
カクタスも、さすがに笑いを引っ込めた。
スケイルは黙って視線を外した。見ぬふりをしてやるのが礼儀だと知っている顔だった。
「私は、間違えたくなかったのに……」
シルヴィアの声は、もう泣き声に近い。
「真面目にやれば、ちゃんと守れると思ってたのに……っ」
そこで、静かな手が差し出された。
水だった。
「ほれ」
ミツクニはいつもと変わらぬ顔で、ただ杯を押しつけるように差し出した。
「水を飲むとよい」
「……笑わないんですか」
「何をじゃ」
「私、こんな……」
言葉が続かなかった。
自分でも情けないと思う。
騎士隊長として立ってきた女が、杯ひとつで泣き崩れている。みっともないにもほどがある。
だが、ミツクニは少しも面白がらなかった。
からかいもしない。
慰めすぎもしない。
責めることもない。
ただ、静かに言った。
「真面目にやった者ほど、間違えた時の傷は深いものじゃ」
その一言が、胸の奥へすとんと落ちた。
誰かに許された、というほど甘い言葉ではない。
けれど、見られていた。
自分がただ折れたわけではないことを。
迷いながら、それでも守ろうとしていたことを。
分かっている、と言われた気がした。
「……ずるいです」
ぽつりと漏らすと、ミツクニは首をかしげた。
「何がじゃ」
「そういう顔で、そういうことを言うところがです……」
「難しいことを申すのう」
くしゃりと歪んだ顔のまま、シルヴィアはまた涙をこぼした。
その様子を、店の奥の席から面白そうに眺めている者がいた。
「相変わらず、人たらしねえ」
紫がかった酒を揺らしながら、女がくすりと笑う。
深い頭巾で耳元を隠してはいるが、覗く口元は妙に艶っぽい。旅装は地味だが、仕草の一つひとつに人の目を引くものがある。
隣の席に座る灰色混じりの男は、焼いた豆をひと粒つまみながら、あくまで無関心そうに肩をすくめた。
「たらしてるんじゃねえ。拾ってんだろ」
「なお悪いわ」
「俺はそういう面倒見の良さ、嫌いじゃねえがな」
女――ギンは、杯の縁に指を滑らせた。
「で、話しかけていい?」
「お前は最初からそのつもりだろうが」
灰色の男――ヤッシュがぼそりと言う。
ギンは妖しく笑って席を立った。
◇
「こんばんは、坊ちゃん」
するりと、甘い声が割って入った。
シルヴィアが顔を上げると、見知らぬ女がいつの間にかミツクニの横に立っていた。
旅芸人めいた衣装。
深くかぶった頭巾。
細い指先。
口元だけで笑っているような女。
「ずいぶん賑やかな晩餐ね」
「うむ。おぬしも元気そうで何よりじゃ」
ミツクニがあまりにも自然に返したので、シルヴィアは一瞬だけ固まった。
知り合いだ。
しかも、妙に距離感が近い。
ギンはハチを見て、次に泣き崩れかけたシルヴィアを見て、最後にカクタスへ目を向けた。
「新しい顔も増えてるじゃない」
「何者ですか、あなたは」
シルヴィアの問いに、女は悪戯っぽく笑った。
「ただの旅の女よ」
「嘘ですね」
「あら、早い」
「旅の女は、今の距離でミツクニ様に近づきません」
「堅いわねえ、騎士さん」
ギンはくすりと笑う。
そしてごく自然に、ミツクニのそばへ身を寄せた。
シルヴィアの眉間にしわが寄る。
酔いのせいか、いつもより感情が顔に出ていた。
「最近、この町、若い男がよく消えるわよ」
ギンの声の調子は軽かった。
だが、内容は重い。
ミツクニの目が、ほんのわずかに細くなる。
「ほう」
「徴発って名目。街道整備だの、荷役だの、いろいろ言い方はあるみたい。けど戻りが少ない。家族には曖昧な紙きれ一枚。嫌な臭いがするわ」
「いつものことながら、鼻が利くのう」
「誰かさんに褒められたくて鍛えてるもの」
さらりとそんなことを言う。
シルヴィアの眉間のしわが、さらに深くなった。
「……ミツクニ様、お知り合いですか」
「まあ、そのようなものじゃ」
「そのようなもので済ませないでいただきたいのですが」
「堅いわねえ、本当に」
ギンは笑いながら、ミツクニの手元へ視線を落とした。
「頭、撫でてくれてもいいのよ?」
「今は話の途中じゃ」
「つれないわね」
言葉は甘い。
だが、目は笑っていなかった。
ギンは情報を渡しに来たのだ。
からかいは飾り。
色気も、距離の近さも、相手の反応を見るための道具でしかない。
それに気づいて、シルヴィアは酔った頭の奥でわずかに警戒を改めた。
この女は軽くない。
軽く見せているだけだ。
「じゃ、私はこれで。あとはおじさんの方が早いかもね」
「おじさんとは何だ」
店の奥から、ぶっきらぼうな声が返った。
「だっておじさんじゃない」
「誰がおじさんだ、狐娘」
シルヴィアがはっと目を向けると、灰色混じりの髪をした渋い男が、こちらもいつの間にか席を立っていた。
四十代か、五十代か。
目つきは鋭いが、表には出さない。
酒場にいればただの疲れた旅人にも見えるが、足運びに無駄がなかった。
男は近寄っては来ない。
酒代を置き、店の裏口へ消えていくだけだった。
「……今の方も、お知り合いで?」
「たぶんのう」
「たぶん!?」
シルヴィアが思わず声を上げると、ハチが目をぱちぱちさせた。
「なになに? 今の美人さん誰? なんかすごい“分かってる”感じだったけど」
「おぬしはそこを拾うか」
ミツクニが笑う。
その時だった。
どす、と鈍い音がして、テーブルの脚元に何かが刺さった。
シルヴィアは反射的に立ち上がった。
「っ!」
床板に突き立っていたのは、柄に赤い布を巻いた苦無だった。
刃は深く刺さっているが、周囲の誰も傷つけていない。騒がしい酒場の中、狙った場所だけを正確に射抜いている。
見事な腕だった。
カクタスがにやりと笑う。
「来た来た」
「何が“来た来た”ですか!?」
「そう慌てるでない」
ミツクニは苦無に結ばれた小さな紙片を外した。
書かれていたのは、短い文字だけ。
――徴発名目。北外れの倉庫。戻り少なし。
シルヴィアは呆然とした。
「……今の、何ですか」
「気の利く知らせじゃよ」
「気の利く知らせが、なぜ苦無で届くんですか」
「世の中には、そういう方が話の早い者もおる」
「まったく説明になっていません!」
ハチが感心したように身を乗り出した。
「すごいね! あたしだったら絶対、自分の荷車に刺してた!」
「それはただの事故です」
「違うよ、才能だよ」
「どこがですか」
スケイルは平然としている。
カクタスも当然のような顔だ。
つまり、これがこの一行にとっては普通なのだ。
シルヴィアだけが、今さら気づく。
自分が見ていたのは、表に出ている札だけだった。
この一行には、裏で動く手も、耳も、目も、すでに揃っている。
「……あなた、本当に旅に出たばかりの若君ですか」
「そうじゃが?」
「絶対違います」
「何をもって絶対と言うておるのかのう」
ミツクニは苦笑しながら紙片を畳んだ。
「さて。今夜はこのあたりで休むとしようか。明日は少し早いぞ」
「行くんですね」
「若い者が消えておるというなら、行かぬ理由がないからのう」
その言葉に、シルヴィアの酔いかけた頭が少しだけ冴えた。
若い者が消える。
徴発。
戻りが少ない。
嫌な言葉の並びだった。
それは昔、自分が見た命令書の匂いとどこか似ていた。
◇
翌朝。
「……死にたい」
寝台の上で、シルヴィアは布団を頭まで引っかぶっていた。
二日酔いと羞恥が同時に襲ってくる。
昨夜、泣いた。
絡んだ。
たしか、よく分からないことまで口走った。
記憶は曖昧なのに、やらかした手応えだけは鮮烈だった。
そこへ容赦のない声が飛ぶ。
「おはよー! 昨日すごかったね!」
「やめてください」
「えー、でも“私はちゃんとやってたのにー”って」
「やめてください」
「“何のための騎士なのー”って」
「ハチ!!」
「わああ怒った! 二日酔いなのに元気!」
布団の向こうで、カクタスが腹を抱えて笑っている気配がする。
スケイルは、おそらく止める気がない。
昨夜は見ぬふりをしてくれたのに、今朝は少しだけ冷たい。
いや、これがこの一行の距離感なのだろう。
「……ミツクニ様は」
「外です」
スケイルが短く答えた。
シルヴィアはゆっくり起き上がる。
頭が痛い。
死ぬほど痛い。
だが、その痛みとは別に、胸に残っているものがあった。
昨夜、ミツクニは笑わなかった。
そのことだけは、はっきり覚えている。
顔を洗い、よろよろと外へ出ると、ミツクニは宿の女将と話していた。
女将は困り果てた顔で、何度も手拭いを握り直している。
「……何かあったのですか」
シルヴィアが問うと、女将は顔を曇らせた。
「うちの息子じゃないんですがね、最近この町、若いのがよく連れていかれるんですよ」
「連れていかれる?」
「徴発だって。街道の整備だか、倉庫の荷役だか言って。けど、戻ってきた者は少ないんです」
シルヴィアの酔いは完全に吹き飛んだ。
「徴発……」
「逆らえば家族にも罰金だって話でねえ。怖くて、皆、黙るしかなくて」
ミツクニは静かに振り向く。
「よい朝じゃのう、シルヴィア殿」
「ちっともよくありません」
「うむ。顔色も悪い」
「誰のせいだと」
「酒のせいではないかの」
「……否定できません」
ミツクニは小さく笑った。
だが、すぐに声を低くする。
「どうやら、次の騒ぎが来たようじゃ」
宿の軒先に、朝の冷たい風が吹き抜けた。
若い男たちが徴発され、戻りが少ない。
昨夜のギンの言葉。
ヤッシュの苦無。
女将の証言。
点が、線になる。
シルヴィアは無意識に拳を握った。
嫌な予感がする。
そして多分、それは当たる。
スケイルが宿の壁にもたれながら、静かに言った。
「若。北外れの倉庫までの道は確認済みです」
「早いのう」
「昨夜のうちに」
カクタスが大盾を背負いながら笑う。
「俺も行けるぜ、主。若い連中を倉庫に詰めてるってんなら、扉ごと開けりゃいい」
「扉は開けるものであって、壊すものではありません」
シルヴィアが反射的に言う。
カクタスはにやりと笑った。
「お、今朝は調子戻ってきたな、隊長殿」
「隊長ではありません」
言い返してから、シルヴィアは少しだけ目を伏せた。
昨日より、自然に言えた気がした。
ハチが荷車の横から顔を出す。
「で、朝ごはんは?」
「お前は本当にぶれんな」
「腹が減っては尾行もできないよ!」
「世直しから尾行に変わっておるぞ」
ミツクニがほっほっと笑う。
けれど、その目はもう遠く北の方角を見ていた。
「シルヴィア殿」
「はい」
「今度は違う結末にしようかのう」
その一言に、胸の奥が強く打たれた。
昨夜、自分に向けられた言葉。
酔っていたから曖昧だったはずなのに、今ははっきりと耳に残っている。
真面目にやった者ほど、間違えた時の傷は深い。
ならば。
その傷を抱えたままでも、次は違う選択ができるのかもしれない。
シルヴィアはゆっくりと頷いた。
「……はい。今度は、見逃しません」
宿場町の朝は、もう次の事件の匂いを運んでいた。
若者の徴発。
北外れの倉庫。
戻らない者たち。
それは、彼女自身の過去の傷へも、まっすぐにつながっている気がした。
旅はまだ、休ませてはくれない。
だが今のシルヴィアは、そのことを少しだけありがたいと思っていた。




