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第二部 第30話 聖印を待つ村


 ノルカ村には、水の音がなかった。


 村の中央を走る水路は干上がり、底にはひび割れた泥がこびりついている。


 畑の作物も、葉先から黄色く乾き始めていた。


「これは……思ったより深刻ですね」


 シルヴィアが水路を覗き込む。


 少し先では、スケイルとギンが上流へ続く道を確認していた。


 ハチは村へ着くなり、住民の輪へ入り込んでいる。


「水が止まったの、いつから?」


「十日ほど前からだよ」


「井戸は?」


「飲み水だけで精一杯さ。畑まで回せない」


「家畜は?」


「川まで連れていってる」


 最後尾からやってきたカクタスが、空になった水路を見て眉を寄せた。


「十日か。よく保ったな」


「保った、というより……」


 村長らしい老人が、力なく笑った。


「待っておりましたので」


「何をじゃ」


 ミツクニが訊く。


 老人の顔が、少しだけ明るくなった。


「若君を、でございます」


 周囲の村人たちも頷いた。


「近くまで来ておられると聞きました」


「聖印の若君が、悪い役人を裁いて回っていると」


「若君が来てくだされば、役所も動く」


「これで村も助かります」


 安堵の声が広がっていく。


 ミツクニは、何も答えなかった。


 その横顔を、シルヴィアだけが静かに見ていた。


     ◇


 壊れた水門は、村から少し上流へ行ったところにあった。


 古い石組みに、木製の開閉板をはめ込んだ小さな水門だ。


 片側の支柱が傾き、板が途中で噛んでいる。


 水そのものは来ていた。


 だが、壊れた板にせき止められ、村へ続く水路にはほとんど流れ込んでいない。


 スケイルがしゃがみ込んだ。


「完全に壊れているわけではありません」


「直せるか?」


「応急処置なら」


 村人たちがざわめく。


「ですが……」


 一人の若者が言った。


「勝手に触ってはまずいんです」


「なぜじゃ」


「役所から、許可が下りるまで待てと言われました」


「それに……」


 別の男が、周囲を気にしながら声を落とした。


「勝手に水路を直せば罰金だって話も」


「誰から聞いた」


「役所の人間が、そう言っていたと」


「直接言われたのか」


 村人たちが顔を見合わせる。


「私は……市場で」


「私は隣村の商人から」


「うちは役所指定の修繕屋に言われました」


 答えは、ばらばらだった。


 ギンが目を細める。


「妙ね」


「うむ」


 ミツクニも短く答えた。


 その時。


「ミツクニさん!」


 ハチが走ってきた。


「あったよ!」


「今度は何じゃ」


「直すもの!」


 ハチの後ろから、村人たちが板や縄を抱えてやってくる。


「村の倉庫に補修用の木材が残ってた!」


「縄もあります!」


「釘も!」


「石材も少しなら!」


 ハチが胸を張った。


「前に水路を直した時の余りだって!」


 カクタスが木材を一本持ち上げ、重さを確かめる。


「これだけありゃ、水を流すくらいなら出来そうだぞ」


 だが、村人たちは顔を見合わせた。


「しかし、役所が……」


「若君が命じてくだされば」


「聖印を出していただければ、罰金も――」


「待て」


 ミツクニが穏やかに止めた。


「その前に聞きたい」


 村人たちを見る。


「この水門を直せる者はおらぬのか」


「昔なら私が」


 村長が腰へ手を当てた。


「ですが、もうこの腰では」


「ほかには」


 誰も答えない。


 しばらくして、一人の男がおずおずと手を挙げた。


 三十代ほど。


 日に焼けた、働き者の手をしている。


「私なら……多少は」


「名は」


「ロッドです」


「水門のことを知っておるのか」


「父が水路番でした。子どもの頃から手伝っていたので」


「なら、なぜ黙っておった」


 ロッドは視線を落とした。


「若君が来られると聞いて……」


「うむ」


「下手に動かず、待った方がいいと思いました」


 ミツクニは責めなかった。


 ただ、壊れた水門を見る。


 材料がある。


 道具もある。


 人もいる。


 直せる者までいる。


「スケイル」


「はい」


「危ない場所を見てくれ」


「すでに」


 スケイルが上部の梁を指した。


「ここは腐っています。人が乗れば落ちる可能性があります」


 次に右側を示す。


「作業は下から。こちらの足場も避けた方がいい」


「ギン」


「上流を見てくればいいのね」


「頼む」


「はいはい」


 狐耳を揺らし、ギンが上流へ向かう。


「ハチ」


「材料だね!」


「任せた」


「うん!」


「カクタス」


「力仕事だろ?」


 大男が腕をまくった。


「待ってました!」


 最後に、ミツクニはロッドを見る。


「やれるか」


「……私が、ですか」


「わしは水門大工ではないからのう」


 村人の間から、小さく笑いが漏れた。


 ロッドも、少しだけ表情を緩める。


「やれます」


「なら任せた」


「はい!」


 今度の返事は、大きかった。


     ◇


 作業が始まると、村は急に騒がしくなった。


「そっち押さえて!」


「縄、もう一本!」


「その板はまだ切らないで!」


 ハチは材料の山の前に陣取り、人と物を次々と振り分ける。


「長い板は水門用! 短いのは補強!」


「釘はロッドさんのところ!」


「お嬢ちゃん、よく分かるな!」


「商売って、何がどこにどれだけあるかを見る仕事だからね!」


 ハチが得意げに胸を張る。


 その横を、カクタスが太い板を二本まとめて担いで通った。


「これはどこだ!」


「一本でいいって!」


「二本持てるぞ!」


「持てるかどうかじゃないの!」


「難しいな!」


 シルヴィアは、作業する人間を次々と整理していた。


「子どもは水門へ近づけないでください」


「高齢の方は材料の仕分けを」


「足場へ入るのは慣れた方だけです」


「はい!」


「怪我をした方は、すぐこちらへ」


 少し離れた場所では、ミツクニがその様子を見ていた。


「あら」


 いつの間に戻ったのか、ギンが隣に立つ。


「若君様は見てるだけ?」


「働いておる」


「どこが?」


「皆が働けるように見ておる」


「便利な言い方ね」


「統治というのは、そういうものじゃ」


「偉そう」


「偉いのじゃよ、一応」


 ギンが吹き出した。


「忘れてたわ」


 ミツクニも笑った。


 だが、その目は村人たちから離れない。


 さっきまで若君を待っていた者たちが、今は自分たちで走っている。


 板を運ぶ。


 縄を結ぶ。


 互いに声を掛け合う。


 出来なかったのではない。


 動けなくなっていただけなのだ。


     ◇


 日が傾き始めた頃。


「開けるぞ!」


 ロッドが声を上げた。


 カクタスが補強した板を押さえる。


 村人たちが、一斉に縄を握った。


「せーの!」


 水門が軋む。


「もう一度!」


「せーの!」


 ごとん。


 噛んでいた板が持ち上がった。


 一瞬。


 何も起きない。


 その直後。


 水が走った。


「おおっ!」


 細かった流れが、次第に太くなっていく。


 乾いた水路を水が這い、村へ向かって流れていく。


「水だ!」


「戻った!」


「畑へ行ったぞ!」


 村人たちが歓声を上げた。


 ハチも両手を上げる。


「やったー!」


「俺の力だな!」


 カクタスが胸を張った。


「一人で直してないでしょ!」


「分かってる!」


 笑い声が広がる。


 その中で、ロッドだけは水門の前に立ち尽くしていた。


 自分の手を見る。


「直せた……」


「うむ」


 いつの間にか、ミツクニが隣に立っていた。


「若君……」


「直したのは、おぬしらじゃ」


「ですが、若君が来てくださらなければ――」


「それも事実じゃな」


 ミツクニは否定しなかった。


「人には、背を押してもらわねば立てぬ時もある」


 ロッドが、ゆっくり頷いた。


 その時だった。


「何をしている!」


 怒鳴り声が響いた。


 村人たちの顔から、一斉に笑みが消えた。


     ◇


 街道から、三人の役人が歩いてくる。


 先頭にいるのは、腹の出た中年男だった。


 上等な外套。


 磨かれた靴。


 男は直った水門を見るなり、顔を赤くした。


「誰の許可で修繕した!」


 ロッドの肩が強張る。


「バ、バルク様……」


 ミツクニが村長を見る。


「知っておる者か」


「地方役所の土木担当官、バルク様です」


 バルクはロッドを指差した。


「貴様か! 無許可で水門に触れたのは!」


「ですが、水が十日も止まって――」


「規則は規則だ!」


「ほう」


 ミツクニが声を上げる。


「壊れた水門を十日放置した役所が、水を戻した民から金を取るのか」


 バルクが振り返った。


「誰だ、貴様は」


「通りすがりじゃよ」


「なら口を出すな!」


「そうもいかぬ」


 ミツクニは穏やかに続ける。


「無許可で水路へ手を入れれば罰金、という規則があるそうじゃな」


「当然だ! 勝手に公共設備を触られては困る!」


「シルヴィア」


「はい」


 待っていたように、シルヴィアが前へ出た。


 手には、一冊の薄い台帳。


「村の役所から保管規定集を借りて確認しました」


 バルクの顔が、わずかに引きつる。


「地方水路管理規定、第十二条」


 シルヴィアがページを開く。


「災害、破損その他によって生活用水・農業用水の供給が著しく阻害された場合、住民による応急修繕を認める」


 ページをめくる。


「役所への事後報告は必要ですが、罰金規定はありません」


「な……」


「むしろ、十日以上にわたり生活へ重大な支障が生じた場合、担当部署には早急な対応義務があります」


 シルヴィアは台帳を閉じた。


「待たせていたのは、あなたですね」


「そ、それは……!」


「ミツクニさん!」


 今度はハチが手を挙げた。


「もう一個あるよ!」


 バルクの顔が露骨に歪む。


「何だ、小娘!」


「村の人に聞いたんだけどさ」


 ハチが首を傾げる。


「役所指定の修繕屋さんって、すっごく高いんだって」


「専門業者だから当然だ!」


「でも、去年隣の村が直した水門より、ほぼ倍だよ?」


「……」


「木の値段も、縄の値段もそんなに違わないのに」


 ハチがさらに首を傾げる。


「なんで?」


「それは……」


 村長が、恐る恐る口を開いた。


「バルク様から、修繕は必ず指定業者へ頼むよう言われておりました」


 ロッドも続く。


「ほかの業者へ相談しようとしたら、許可が下りないと」


「黙れ!」


 バルクが怒鳴った。


 その反応だけで、十分だった。


 スケイルの目が細くなる。


 バルクが一歩下がる。


 さらに、もう一歩。


「どちらへ?」


 いつの間にか、スケイルが道を塞いでいた。


 バルクが反対を見る。


 そこには、腕を組んだカクタスが立っている。


「まだ話の途中だろ」


「貴様ら……!」


 バルクの額から汗が流れた。


 ミツクニが静かに言う。


「役所へ戻れば、修繕契約の帳簿があるな」


「……」


「指定業者への支払額も」


「……」


「そして、おぬしへ流れた金も」


「証拠があるのか!」


 バルクが叫んだ。


 ミツクニは、少しだけ笑う。


「ならば調べればよい」


「……!」


「何もなければ、困ることもあるまい」


 バルクの顔が青ざめた。


 カクタスが腰へ手を伸ばす。


 黒と金の小箱を取り上げる。


 そして、ミツクニの横へ立った。


「控えおろう!」


 腹の底まで響く声が、村を打った。


「この方こそ勇者家正統継承者、ミツクニ様である!」


 聖印を高く掲げる。


「この聖印が、目に入らぬか!」


 バルクの膝が崩れた。


「わ、若君……」


「バルク」


 ミツクニの声は静かだった。


「民を守るための決まりで、民を縛った」


「……」


「しかも、己の懐を肥やすためにな」


「お、お待ちを……」


「役所へ戻り、修繕契約と金の流れをすべて出せ」


 バルクが顔を上げる。


「おぬしの役目は、今日までじゃ」


 言葉は、それだけだった。


     ◇


 バルクたちが連れていかれた後。


 村には再び、水の音が戻った。


 村長が深々と頭を下げる。


「ありがとうございます、若君」


「礼なら皆に言え」


「ですが、悪い役人を裁いてくださったのは若君です」


「うむ」


「やはり聖印があれば――」


「悪を裁くのに、聖印は使った」


 ミツクニが、水路を指した。


「じゃが、この水を戻したのは聖印ではない」


 村人たちが、水を見る。


「おぬしらの手じゃ」


 ロッドが、自分の手を見る。


「聖印は、民の足を止めるためにあるのではない」


 村人たちの顔が上がる。


「次に水門が壊れた時、まず自分たちの手を見よ」


「それでも届かぬなら、助けを呼べばよい」


「はい」


 ロッドが答えた。


 今度の声には、迷いがない。


「顔を上げよ」


 ミツクニは笑った。


「この村の水を守るのは、おぬしらじゃ」


 水音が、村を流れていった。


     ◇


 夜。


 村では、ささやかな食事が用意された。


 豆の煮込み。


 固いパン。


 残っていた干し肉。


 ハチは幸せそうに頬張っている。


「働いた後のご飯って違うね!」


「三回つまみ食いしていたが」


 スケイルが言った。


「見てたの!?」


「前方だけ見ているわけではありません」


「怖っ!」


 カクタスが大笑いした。


 少し離れたところでは、ロッドたちが明日の作業について相談している。


 今日の修繕は、あくまで応急処置だ。


 本格修理には、人も材料も要る。


 今度は村側で必要なものをまとめ、正式に役所へ申し入れるという。


 シルヴィアが、その様子を見ていた。


「変わりましたね」


「元々、動ける者たちじゃったのだろう」


 ミツクニは茶を飲む。


「止められていただけじゃ」


「役人に」


「それだけではない」


 ミツクニは、水路の方を見る。


「罰せられるという噂」


「役所の命令」


 少し間を置く。


「そして――わしが来るという噂」


「……待てば若君が何とかしてくれる」


「うむ」


 二人の間に、しばらく水音だけが流れた。


「ミツクニ様」


「何じゃ」


「今日、ずっと難しい顔をしていました」


「そうか?」


「はい」


「気のせいじゃ」


「そういうことにしておきます」


「信用がないのう」


「あります」


 シルヴィアは静かに笑った。


「だから分かるのです」


 ミツクニが彼女を見る。


「ミツクニ様は、民を見捨てられない方です」


「……」


「ですが、すべてをお一人で背負う必要はありません」


 昼間にはなかった水音が、夜の村を流れている。


 ミツクニは、しばらくそれに耳を傾けていた。


「おぬしにそう言われると」


「はい」


「少し肩が軽くなるのう」


 シルヴィアが、一瞬だけ目を丸くした。


 それから、静かに微笑む。


「でしたら、何度でも申し上げます」


「それは少々うるさそうじゃな」


「先日、うるさく言うと宣言しました」


「そうじゃった」


「一生のお供ですので」


 ミツクニは苦笑した。


「便利な言葉になっておらぬか?」


「気のせいです」


 二人の間に、小さな笑いが落ちた。


     ◇


 翌朝。


 一行はノルカ村を後にした。


 前をスケイルとギン。


 その後ろに、ミツクニとシルヴィア。


 ハチは村人からもらった豆菓子を片手に、その周りを自由に歩いている。


 最後尾にはカクタス。


「朝飯を食ったばかりじゃろう」


「お腹と時間は別!」


「昨日も聞いたのう」


 カクタスの笑い声が、後ろから響いた。


 村から少し離れたところで。


 道端に男が立っていた。


 木にもたれ、腕を組んでいる。


 ヤッシュだった。


「遅かったな」


「今度はこちらの台詞じゃ」


 ミツクニが笑う。


 ヤッシュは、水の戻った村を一度だけ振り返った。


「直したのか」


「村の者がな」


「そうか」


 それだけ言って、歩き始める。


「何か分かったか」


 ミツクニが訊いた。


「少しな」


「聞こう」


 ヤッシュは振り返らない。


「若君の噂だけじゃない」


 ミツクニの目が細くなる。


「何がじゃ」


 ヤッシュが足を止めた。


「黒と金の小箱を見たって話が出てる」


 カクタスの手が、反射的に腰の聖印へ伸びた。


「……俺のじゃねえぞ」


「知ってるよ」


 ヤッシュは街道の先を見る。


「だから妙なんだ」


 風が、街道を抜けていった。


 ミツクニは何も言わず、その先を見る。


 次の町は、もう遠くに見えていた。


【第二部 第30話 了】

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