第二部 第29話 若君の名が歩き出す
王都を出て、十日が経った。
街道の先をスケイルとギンが歩き、その後ろにミツクニとシルヴィア。
ハチは道端の露店を見つけるたびに隊列を外れ、最後尾ではカクタスが大きな荷を背負っている。
ヤッシュの姿だけは、朝から見えなかった。
「ミツクニさん、あそこあそこ! 干し芋売ってます!」
「まだ昼飯から一刻も経っておらんぞ」
「お腹と時間は別です!」
ハチが荷物を揺らして走っていく。
シルヴィアが小さくため息をついた。
「先ほどの町でも同じことを言っていましたね」
「食い物に対する集中力だけは一流じゃのう」
「だけって何ですか!」
ミツクニは笑った。
旅は続いている。
ラウフェルドを成敗してから、二週間ほど。
王都の後始末を残った者たちへ託し、一行はまた街道へ戻っていた。
前と変わったことが、一つある。
名前が、先に歩いている。
◇
街道沿いの休憩所で、老婆が煎餅を売っていた。
ハチは干し芋を買ったついでに、いつもの調子で話しかける。
「この辺りって、最近どうです?」
「前よりはいいねえ。役人が妙に大人しくなってさ」
「役人が?」
「聖印の若君がこの辺りまで来るって噂があるんだよ。悪い役人を片っ端から懲らしめて歩いてるってね」
老婆は、しわだらけの顔をほころばせた。
「おかげで、うちみたいな年寄りでも少し安心して商売できるよ」
ハチが目を丸くする。
「聖印の若君って、もしかして――」
「ほっほっ」
ミツクニが穏やかに遮った。
「それは良かったですな」
老婆へ軽く頭を下げ、一行は歩き出す。
カクタスが胸を張った。
「そうだろうそうだろう、うちの主は――」
「うむ。噂というのは、歩くのが早いのう」
「お、おう」
少し拍子を外された顔をしながらも、カクタスは満足そうだった。
隣を歩くシルヴィアだけが、ミツクニの横顔を見ていた。
嬉しそうでもない。
困っているようでもない。
ただ、考えている。
◇
昼前、一行は街道沿いの町へ入った。
市場では、布屋の商人が仲間へ声を潜めていた。
「聖印の若君が来る前に、権利書だけは整理しとかないとな。変なところを突かれたら面倒だ」
道端では、農民の老人が鼻を鳴らす。
「来てくれても、うちみたいな外れの村までは来ないさ。遠い話だよ」
宿へ入れば、主人がミツクニを見るなり目を輝かせた。
「もしかしてミツクニ様ですか! ちょうどよかった! うちの町にも困った役人がおりまして、ぜひひとつ――」
「まずは部屋を借りたい。飯も頼む」
「あっ、はい!」
主人は慌てて頭を下げた。
荷を置くなり、ハチが首を傾げる。
「みんな、ミツクニさんに会ったこともないのに」
シルヴィアがミツクニを見る。
「名前が、先に歩いていますね」
「うむ」
ミツクニは苦笑した。
「ならば追いつかねばならん」
「名前に?」
「名前に、恥をかかせぬようにな」
◇
昼過ぎ。
市場を見に行っていたハチが、小走りで戻ってきた。
「ミツクニさん。なんか変です」
「ほう」
「この市場、最近やたら摘発が増えてるんですって。ちゃんと証文を持ってても連れていかれた人がいるって」
「摘発された者の数が増えた、と」
「はい」
ミツクニが目を細めた。
「誰かが急に働き者になったようじゃな」
「いいことじゃないんですか?」
「真面目に働いた結果ならのう」
ちょうどその時、市場の向こうが騒がしくなった。
人だかりができている。
一行が近づくと、役人たちが若い行商人を囲んでいた。
「この品物、出所が怪しい。不正商売の疑いがある」
「違います! ちゃんと仕入れ先の証文があります!」
「それはこちらで確認する。それまで来てもらう」
「だから、その証文を見てください!」
二十代ほどの若い男だった。
荷車には布と薬草。
差し出した紙を、役人はまともに受け取ろうともしない。
ミツクニは人だかりの外から見ていた。
証文を調べない。
事情も聞かない。
とにかく捕らえることだけを急いでいる。
そして役人たちの少し後ろ。
油で髪を撫でつけた、痩せた中年の男が立っていた。
妙に新しい官服。
腕を組み、顎で役人を急かしている。
ミツクニの視線が止まった。
「スケイル」
「見えています」
すでにスケイルは動いていた。
役人の前へ出る。
「その証文、拝見してよろしいですか」
「何者だ、貴様」
「通りすがりです」
「関係ない者は引っ込んでいろ!」
「なら、確認すれば済む話でしょう」
役人が言葉に詰まった。
若い商人から証文を受け取り、スケイルが一読する。
「仕入れ先。日付。品目。商人印」
紙から目を上げた。
「問題ありません」
役人の顔色が変わる。
後ろの男が、舌打ちをした。
「おぬし」
ミツクニが男を見る。
「この者たちの上役かの」
「……市場監督官のベゼルだ」
「最近、随分と摘発に励んでおるそうじゃな」
「治安維持に力を入れているだけだ」
「証文を見ずにか?」
「多少の手違いはある」
「ほう」
ミツクニは若い商人を見る。
怯えた顔。
次に役人たちを見る。
彼らもまた、ベゼルの顔色ばかり窺っていた。
「摘発の数を増やせと命じたのは、おぬしか」
「成果を出せとは言った」
「成果」
「当然だろう。聖印の若君がこの地方へ来ているという。悪徳商人を放置していたと知られれば、こちらの立場が悪くなる」
そこまで言って、ベゼルは口を止めた。
ハチが「あ」と声を漏らした。
「なるほどのう」
ミツクニが静かに言う。
「わしが来るから、働いたのじゃな」
「違う! 私は町のために――」
「町のためなら、まず証文を見る」
ミツクニの声は穏やかだった。
「悪を捕らえるなら、悪かどうかを確かめる」
「……」
「数を増やすために、罪なき者を罪人に仕立てる。それは取り締まりではない」
一拍置く。
「数合わせじゃ」
市場が静まり返った。
「き、貴様……さっきから何様のつもりだ!」
カクタスが一歩前へ出た。
腰に下げた黒と金の小箱を、大きな手で取り上げる。
ミツクニの横へ立ち、高く掲げた。
「控えおろう!」
腹の底まで響く声が、市場を打った。
「この方こそ勇者家正統継承者、ミツクニ様である!」
ざわめきが消える。
「この聖印が、目に入らぬか!」
黒と金の聖印を目にした役人たちが、一斉に顔色を失った。
「ま……まさか……」
「そのまさかじゃ」
ミツクニはベゼルを見る。
「市場監督官ベゼル」
「は、はい……」
「今月の摘発記録を、すべて再調査せよ。不当に拘束された者がおれば、ただちに解放する」
「……はい」
「おぬしは調査が終わるまで職務停止。この件は地方院と王都の監察へ送る」
「そ、そんな……」
「功を焦る気持ちは、分からぬでもない」
ミツクニの声が少し低くなる。
「じゃが、おぬしの功績の一行のために、一人の人生へ罪人の名を刻んでよい理由にはならぬ」
ベゼルは何も言えず、その場に膝をついた。
カクタスは聖印を静かに腰へ戻す。
若い行商人が、何度も頭を下げた。
「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます」
「礼には及ばん」
ミツクニは笑う。
「じゃが、証文はこれからも肌身離さず持っておれ」
「はい!」
「世の中、おぬしのような正直者ばかりではないからのう」
「はい!」
若者は荷車を引き、何度も振り返りながら去っていった。
ハチが目を輝かせる。
「やっぱりカクタスさんの『控えおろう!』、気持ちいいですね!」
「だろう!」
カクタスが胸を張った。
「腹から出すのがコツだ!」
「そこなんですか?」
「そこだ!」
スケイルの口元が、ほんのわずかに緩んだ。
◇
夜。
宿の食堂へ降りると、隅の席に男がいた。
灰色の髪。
渋い目元。
酒の杯を片手に、いつからそこにいたのか分からない顔で座っている。
ヤッシュだった。
「遅かったな」
「朝から姿が見えぬと思うておった」
ミツクニは向かいへ座った。
「どこにおった」
「三日ほど先まで見てきた」
「先回りしすぎじゃ」
「仕事だからな」
ミツクニは茶を頼む。
「で、何を拾った」
「あんたの名前の広まり方がおかしい」
「ほう」
「自然な噂は、もっとばらつく。人から人へ渡るうちに話は変わるし、町ごとに言い方も違う」
ヤッシュが杯を置いた。
「ところが、この街道沿いじゃどこへ行っても同じだ」
「何と」
「『聖印の若君が、悪徳役人を裁いて回っている』」
ミツクニは茶を一口飲んだ。
「間違ってはおらんようにも聞こえるが」
「だから厄介なんだよ」
ヤッシュの目が鋭くなる。
「噂の流れが綺麗すぎる」
ミツクニの手が止まった。
「誰かが整えて流しておる、と」
「その可能性が高い」
「何のために」
「そこまではまだ分からん」
ヤッシュは肩をすくめた。
「それと、今日のベゼルも気になる」
「誰かに焚きつけられたか」
「かもしれん。ああいう奴は、昨日まで怠けていたのに突然正義に目覚めたりはしねえ」
「調べられるか」
「そのために先を歩いてる」
ヤッシュは残った酒を飲み干し、立ち上がった。
「次の町を見てくる」
「もう行くのか」
「俺が一緒にぞろぞろ歩いてどうする」
「それもそうじゃな」
ヤッシュは出口へ向かう。
「あんたの旅、また面倒な方向へ行きそうだな」
「面倒でないと、旅ではないじゃろう」
ヤッシュが足を止めた。
「……あんた、ずいぶん年寄り臭いこと言うよな」
「前からじゃろう」
「見た目と中身が合ってねえんだよ」
「そうかのう」
「自覚なしか」
呆れたように鼻を鳴らし、ヤッシュは宿を出ていった。
◇
しばらくして、ミツクニも外へ出た。
夜の街道は静かだった。
この先にも町がある。
村がある。
まだ顔も知らぬ人々がいる。
そして、そのどこかを。
自分の名前だけが、もう先に歩いている。
ミツクニは街道の先を見た。
「では」
小さく笑う。
「追いつくとするかのう」
若君の名は、すでに歩き出していた。
【第二部 第29話 了】




