第28話「終わらない旅」
叔父ラウフェルドの失脚は、ひとりの悪党が倒れた、という程度の話では終わらなかった。
私設金庫から出た元帳。
地方ごとの不正運用記録。
儀礼院、監察局、神殿、商会へ流れていた裏金。
そして、聖印封印後の再編計画。
それらは、王都の“綺麗な秩序”の下へ、どれだけ深く腐りが根を張っていたかを、誰の目にも分かる形で晒した。
執政代理ラウフェルドは職を剥奪。
側近ローデルは拘束。
監察局副局長補佐、儀礼院高官、神殿補佐官、金鶸商会の関係者も、ひとりずつ名前を呼ばれ、連れて行かれた。
王都は、大騒ぎになった。
貴族たちは互いに距離を測り直し、役人たちは倉庫と書庫をひっくり返し、神殿は慌てて帳簿を繰り、商会は今さら潔白を主張した。
だが、もう遅い。
橋の町の乾いた顔も。
徴発で消えた若者たちも。
薬を待っていた母子も。
帰れなかった村の老人も。
川港の火事で泣いていた者たちも。
その全部が、もうただの“局地的不満”ではなくなっていた。
貴族院大広間で開かれた大印籠の一件は、それほどまでに大きかったのである。
◇
それから三日後。
王都の中枢では、後始末と新しい秩序づくりが、慌ただしく進んでいた。
貴族院の奥、日当たりのよい会議室で、ミツクニはまたしても“話し合い”の席へ呼ばれていた。
集まっているのは、中立派の老貴族たち、神殿の穏健派、王都騎士団の上層、商会連合の代表、そして記録係。
もう叔父派の顔はいない。
だが、気疲れする空気は相変わらずだった。
「――ゆえに」
白髪の老侯が、咳払いをひとつして言った。
「執政代理の空位は、もはや放置できませぬ」
「そうじゃろうな」
ミツクニは、あっさりと答えた。
「よって、勇者家正統継承者たるミツクニ殿に、王都常駐の執政補佐位、ならびに臨時統治監督権をお受けいただきたい」
「ほう」
「形式上は補佐位ですが、実質は国の再建の要です」
「なるほどのう」
「地方を見てきたお立場だからこそ、今の王都には必要です」
「民も、それを望んでおります」
「若君ご自身が、最も正統であり、最も清廉だ」
言い方は違う。
だが要するに、こういうことだ。
王都へ残れ。
叔父の代わりに国を回せ。
勇者家の名と聖印の権威を、今度は王都の内側で使え。
シルヴィアは、少し離れた位置からそのやり取りを聞いていた。
ギンは壁際で腕を組み、ヤッシュは目を閉じて立っている。スケイルは微動だにせず、カクタスは椅子が軋まぬよう、妙に慎重に腰を下ろしていた。
ハチだけが、あからさまに「うわあ、面倒そう」という顔をしている。
ミツクニは、しばらく何も言わなかった。
窓の外には、王都の塔が見える。
人と金と権力が集まり、全部がここへ流れ込み、ここからまた各地へ流れていく。
残れと言われるのも、当然だろう。
だが、その当然を受け取るかどうかは別だった。
「皆のお言葉、ありがたく思う」
ようやく、ミツクニは口を開いた。
「若輩に過ぎぬ身を、そこまで買うてくださること、感謝せねばなるまい」
「では」
「じゃが、断る」
会議室の空気が、そこでぴたりと止まった。
ハチが、やっぱりな、という顔でこっそり頷く。
老侯が、慎重に問い返した。
「理由を伺っても?」
「簡単じゃ」
ミツクニは、穏やかに笑った。
「わしは、王都に座るために旅へ出たのではないからじゃ」
「ですが若君、今の国にはあなたの目が必要です」
「必要なのは、わしひとりの目ではない」
ミツクニは静かに言う。
「橋の町も、村も、川港も、全部そうじゃった。王都が見落としたから腐ったのではない。見ようとせぬ仕組みが出来ておったから腐ったのじゃ」
「……」
「ならば、ここでわしが高い席へ座っただけでは足りぬ。地方で見る者、疑う者、立ち止まる者、切る前に顔を見る者が増えねば、また同じことが起こる」
「しかし」
「王都に残るべき人間は、王都を知り、ここに根を張れる者たちじゃろう」
そう言って、ミツクニは中立派の老侯たち、騎士団、神殿の穏健派へ順に目を向けた。
「幸い、叔父上が倒れたことで、ようやくその芽が見えた」
「……」
「なら、わしはもう一度、歩く方を選ぶ」
「まだ歩かれるのですか」
「当然じゃ」
ミツクニの返答は、少しも揺らがない。
「王都を正したから終わり、ではあるまい。この国は広い。人が生きておるところは、まだまだある。帳簿の上だけでは見えぬ顔が、これからもある」
その言葉に、会議室の何人かは肩を落とし、何人かは苦笑し、何人かはむしろ納得したように目を伏せた。
老侯は、やがて深く息を吐いた。
「……若君は、本当に歩くおつもりなのですな」
「うむ」
「王都に縛っても、たぶん良い顔はなさらぬ」
「じゃろうな」
「困った方だ」
「よく言われる」
そこで、少しだけ笑いが起きた。
重い笑いではない。
ようやく、“この若君はそういう人間だ”と皆が受け入れ始めた笑いだった。
◇
だが、まだ終わりではなかった。
老侯が、次の紙を取り上げる。
「では、もうひとつ。シルヴィア・フォン・シュタイン殿」
「……はい」
名を呼ばれ、シルヴィアが一歩前へ出る。
「あなたには、王都騎士団特別監察補佐官の名誉職を提示したい」
「……」
「過去に過ちがあったことは承知している。だが、それを隠さず、王都騎士団の前で自らの名を背負って立ち、今回の件において大きな働きをされた」
「……」
「王都騎士団の改革に、あなたの目は必要です」
「さらに」
ヴィルヘルム副団長が続けた。
「再編後の監察部隊長職も、希望されるなら検討したい」
「副団長……」
「異論はあるだろう。だが、あの日お前は団の前で逃げなかった。そこは事実だ」
シルヴィアは、言葉を失った。
王都騎士団。
戻れないと思っていた場所。
いや、戻る資格はないと思っていた場所。
そこから、名誉職どころか、実務の椅子まで差し出されている。
普通に考えれば、受けるべき話かもしれない。
誇りもある。
意味もある。
彼女の過去に対する、ある種の決着でもある。
だが、胸の中に浮かんだのは、別の景色だった。
橋の町。
病の村。
帰れなかった村。
川港の火。
そして、それを前にして、隣で「今、おぬしが選べ」と言った声。
「……ありがたいお話です」
シルヴィアは、ゆっくりと言った。
「王都騎士団にいた頃の私なら、泣いて喜んだかもしれません」
「では」
「ですが」
そこで、彼女は首を横に振った。
「お断りします」
会議室が、また静まり返った。
ハチが、今度は「おおっ」と目を丸くする。ギンは口元だけで笑い、ヤッシュはわずかに片目を開けた。
「理由を伺っても」
「はい」
シルヴィアは、まっすぐ前を向いて言った。
「私は、王都騎士団へ戻ることが怖かった」
「……」
「戻れば、昔の私と向き合わずに済むような気がしたからです。名誉を得て、肩書きを得て、それで過去に蓋をした気になってしまうかもしれない」
「……」
「ですが、今は違います」
彼女は、少しだけ横を向いた。
ミツクニがいる。
少し驚いたような、だが優しい目でこちらを見ている。
「私は、誰かの命令に従うためではなく、自分で選んで剣を取りたい」
「……」
「その選び方を、ようやく教わりました」
「……」
「ですので」
シルヴィアは一度だけ、深く息を吸う。
「私は、名誉職も、王都での地位も、選びません」
「では、何を」
「旅を選びます」
はっきりと、そう言った。
もう揺れない。
「一生のお供として、ミツクニ様の隣に立つことを、私は自分で選びます」
会議室が、しんと静まる。
ハチが口をぱかっと開け、カクタスが「おお」と低くうなり、ギンは面白がるより先に少しだけ目を細めた。スケイルだけが、ほんのわずかに口元を緩める。
ミツクニは、数瞬だけ言葉を失っていた。
珍しいことだった。
やがて、ほっほっと小さく笑う。
「それは、随分と頼もしい申し出じゃのう」
「申し出ではありません」
「ほう」
「もう決めたことです」
「そうか」
「はい」
その返答に、会議室の空気が少しだけ柔らかくなる。
老侯は呆れ半分、苦笑半分で肩を落とした。
「……若君も騎士殿も、王都に残る気がないのですな」
「残ってほしいなら、もう少し居心地のよい国にしておかねばならんかったのう」
「耳が痛い」
「じゃろうな」
また、小さな笑いが起きた。
◇
王都を発つ日の朝、空はよく晴れていた。
叔父の裁きと再編の初動がようやく動き出し、王都も少しだけ落ち着きを取り戻している。
だが、貴族院前には見送りの人が出ていた。
老侯たち、王都騎士団の一部、神殿穏健派、商会の代表。
そして、アルノルトも来ている。
「本当に行かれるのですね」
アルノルトが少し寂しそうに言う。
「うむ」
「王都騎士団は、まだ立て直しの途中です」
「じゃろうな」
「それでも、先輩が残ってくださればと、少しだけ期待していました」
「悪いですね」
シルヴィアは、ほんの少しだけ笑った。
「ですが、私はあの方の隣に立つと決めました」
「……ええ。よく分かりました」
「王都騎士団のこと、頼みます」
「はい」
アルノルトは、今度こそまっすぐ頷いた。
ヴィルヘルム副団長は、相変わらず愛想の少ない顔だったが、去り際に一言だけ言った。
「逃げるなよ」
「どちらがです」
「両方だ」
「それは、ええ」
シルヴィアは短く答える。
それで充分だった。
一方、ギンは見送りの神官をからかい、ヤッシュは老侯からこっそり包みを受け取って中身を確かめもせず懐へ入れ、スケイルは馬の具合を確認していた。
カクタスは「王都の飯も悪くなかったが、やっぱり外だな!」と大声で言って、ハチに「静かにして!」と叱られている。
見送りの列の端では、王都騎士団の若い女騎士が二人、なぜかスケイルの方ばかり見ていた。
ひとりが勇気を出したように歩み寄り、小さな包みを差し出す。
「あの、道中に。干し果物です」
「ありがとうございます」
スケイルは礼儀正しく受け取った。
すると、もう一人も慌てて包みを出す。
「こちらは薬草飴です。喉に良いので」
「助かります」
さらに、少し離れたところにいた神殿の若い補佐官まで、なぜか包みを持って近づきかけた。
ハチが目を丸くする。
「また食料が増えた!」
「食料線担当としては歓迎すべきです」
スケイルが淡々と言う。
「いや、そこは照れるところじゃないの?」
「なぜですか」
「なぜって……顔で干し果物が増えたんだよ?」
「結果として役に立つなら問題ありません」
ギンが吹き出した。
「開き直ったわね」
「受け取った以上、無駄にはしません」
「そういう真面目さがまた増やすのよ」
「何をですか」
「包みよ」
その直後、三つ目の包みが差し出され、スケイルはほんの少しだけ目を伏せた。
「……若」
「何じゃ」
「荷が増えました」
「よいことじゃ。旅は蓄えが大事じゃからのう」
「そういう問題ではありません」
ハチはすでに包みの中身を覗こうとしていた。
「ねえ、干し果物ちょっと味見していい?」
「まだ出立前です」
「一個だけ!」
「一個で済んだ試しがありません」
「信用ない!」
「ありません」
その即答に、周囲から小さく笑いが起きた。
「ねえねえねえ、次の町って、川向こうのラスティアだよね!?」
出発前から、もう目を輝かせていた。
「うむ。そうじゃな」
「あそこ、蜂蜜漬け焼き栗が名物なんだって! しかも塩焼き川エビもあるらしい!」
「おぬし、耳が早いのう」
「行商人ネットワークなめないでよ!」
「でも昨日まで“王都ってでかい……”って言ってなかった?」
「それはそれ! これはこれ!」
「切り替えが早すぎるだろ」
「旅ってそういうもんじゃない?」
「お前はほんと強いな……」
ハチが胸を張ると、ミツクニは小さく笑った。
王都での重い話も。
叔父の失脚も。
秩序だの権威だののやり取りも。
この娘にかかれば、次の町の名物の前では、いったん脇へ寄せられるらしい。
「では参ろうかの」
ミツクニが馬へ手をかける。
最初に旅へ出た日のことを、少しだけ思い出していた。
あの頃は、供も少なく、見えるものも少なかった。
今は違う。
頼もしい剣士がいる。
声の大きい大男がいる。
食いしん坊の行商人がいる。
妖艶な狐がいる。
灰色の男がいる。
そして、隣には銀髪の騎士が立っている。
シルヴィアが、馬の手綱を引きながら言う。
「ミツクニ様」
「何じゃ」
「ひとつだけ」
「ほう」
「私は、たぶんこれからも、時々うるさく言います」
「うむ」
「無茶も止めます」
「うむ」
「必要なら、口も出します」
「それは今さらじゃな」
「……そうですね」
「じゃが、それでよい」
ミツクニは穏やかに答える。
「一生のお供というのは、そういうものじゃろうからのう」
シルヴィアは、そこでほんの少しだけ目を丸くした。
それから、静かに笑う。
「はい」
王都の門が開く。
大きな街だ。
多くを呑み込み、多くを回し、多くを見落とす街。
だが今は、その背後で少しずつ、変わろうとする者たちが動き始めている。
それで十分だった。
ミツクニは最後に一度だけ、王都を振り返る。
叔父を成敗し、腐敗の根を断ち、大印籠まで打ち切った。
だが、終わりではない。
もともと、この人の望みは玉座でも官職でもなかった。
自分の足で、世を見に行くことだったのだから。
ハチが、もう先の方で叫ぶ。
「早く行こうよー! 焼き栗なくなっちゃうー!」
「なくならんわ!」
「なくなるかもしれないでしょ!」
「元気ですねえ」
「元気だけが取り柄だからな!」
「それ、自分で言うのね」
ギンが笑い、ヤッシュが「走るな、目立つ」と低く言い、スケイルが「まず整列を」と呆れ、カクタスが「腹減った!」といつも通りうるさい。
その騒がしさの真ん中で、ミツクニは小さく目を細めた。
ようやく、望んだ場所まで来た気がした。
「さて」
老人のように落ち着いた声で、しかし若い足取りのまま、彼は前を向く。
「次はどの町を見に行こうかのう」
終わらない旅が、また始まる。




