第23話「騎士の誇り」
王都の朝は、剣の音で始まる。
貴族街の石畳を抜け、中央区を越え、さらに北寄りへ進んだ先。王都騎士団の詰所は、監察局や裁判庁舎ともまた違う顔でそこにあった。
高い外壁。
訓練場を囲む観覧回廊。
詰所棟、兵舎棟、厩舎棟。
どこも手入れが行き届いている。だが、ここには監察局のような“綺麗すぎる冷たさ”とは別の匂いがあった。
汗。
革。
油。
鉄。
剣を持つ人間の場所の匂いだ。
「……懐かしいですか」
詰所正門の前で、ミツクニが静かに尋ねた。
シルヴィアは門の向こうを見つめたまま、すぐには答えなかった。
懐かしい、という言葉だけでは足りない。
ここはかつて、自分が“正しい命令は上から来る”と信じていた場所でもある。
誇りを抱き、剣を磨き、法を守ることに疑いを持たなかった頃の自分が立っていた場所だ。
「……少しだけ」
ようやく、そう答える。
「ですが、今はそれより、息苦しいです」
「うむ」
「逃げたくはありません」
「うむ」
「でも、歓迎されないだろうとは思っています」
「それも、うむじゃな」
ミツクニは小さく笑った。
「じゃが、行かぬ理由にはなるまい」
「はい」
シルヴィアは頷いた。
今朝の目的は明確だった。
叔父派が王都で“若君保護”の空気を固めるなら、騎士団にもそれは流れている。ならば、騎士の側がどう動くのか、自分の目で見なければならない。
ギンとヤッシュは別働だ。
昨夜から帳簿筋を追っている。
今日は、シルヴィアの番だった。
「行ってきます」
「うむ。自分の足でのう」
「はい」
そう言って、シルヴィアは門をくぐった。
◇
王都騎士団詰所の訓練場には、朝から乾いた音が響いていた。
木剣の打ち合い。
号令。
走る足音。
怒鳴り声ではない、張った声。
規律の中の熱気だ。
シルヴィアが中へ入った瞬間、その音がほんの少しだけ乱れた。
訓練中の騎士たちが、一人、二人とこちらを見る。
銀髪。
見慣れた立ち姿。
だが、今は王都の制式甲冑ではなく、地方巡察のための実務装束。
「……シュタイン」
「本当に戻ってきたのか」
「まだ団に顔を出せると思ってるのかよ」
囁き声は小さい。
だが、十分に聞こえる。
シルヴィアは歩みを止めなかった。
正門脇の受付へ向かい、まっすぐ言う。
「元第二中隊所属、シルヴィア・フォン・シュタインです。副団長、もしくは記録室責任者との面会を求めます」
「……少々お待ちを」
受付の若い騎士は戸惑いながらも応じた。
その顔には、軽蔑より緊張が強い。昔の名を知っているのだろう。
待つ間にも、訓練場の空気はざわついていた。
「地方落ちしたって聞いた」
「いや、飛ばされたんだろ」
「命令を通した村の件、まだ尾を引いてるって話だ」
「若君について回ってるって噂も本当か」
「感情で動くようになったってよ」
どれも、完全な嘘ではない。
だから厄介だった。
シルヴィアはそれを全部聞きながら、ただ立っていた。
逃げるな。
ここへ来た時点で、その覚悟だけは決めている。
やがて、回廊の奥から一人の男が降りてきた。
四十前後。
短く刈った髪。
よく鍛えられた体。
肩章は副団長格。
目つきは鋭いが、怒っているというより、扱いに困るものが来た、という顔だ。
「シルヴィア・フォン・シュタイン」
男は階段の途中で止まり、こちらを見下ろした。
「久しいな」
「副団長、ヴィルヘルム殿」
「まだその呼び方をする礼儀は残っていたか」
「礼儀と誇りは、まだ捨てておりません」
副団長ヴィルヘルムは、そこで少しだけ口元を歪めた。
「結構。では、何の用だ」
「団内の空気を確かめに来ました」
「空気?」
「ええ。王都で今、若君の聖印と巡察がどう扱われようとしているのか。それに対し、王都騎士団がどこまで従うつもりかを」
訓練場が静まり返る。
ヴィルヘルムは、ため息にも似た息を吐いた。
「相変わらず、正面から面倒を言いに来る女だ」
「必要なことです」
「必要かどうかを、お前が決める立場ではない」
「では、誰が決めるのですか」
「騎士団だ」
「騎士団は、誰のために剣を取るのですか」
その問いに、ヴィルヘルムの目が少しだけ細くなる。
「騎士団は王都の秩序と王権を守る」
「民ではなく?」
「両方だ」
「両立しない時は」
「……」
一瞬の沈黙。
シルヴィアは踏み込んだ。
「橋が閉じられ、薬が止められ、若者が徴発され、死が“処理済み”で埋められる時、騎士団は何を守るのか。私は、それを聞きに来ました」
「お前は」
ヴィルヘルムの声が少し低くなる。
「地方で何を見てきた」
「見たくなかったものを、いくつも」
「そうか。なら、ひとつ教えてやる」
副団長は階段を下りきり、シルヴィアの真正面で止まった。
「王都では、感情で剣を抜く者は信用されない」
「感情で抜く気はありません」
「嘘を言うな。お前は昔から、顔に出る」
「……」
「だから使いやすかった」
その言い方に、周囲の空気がわずかにざわついた。
ヴィルヘルムは気にしない。
「命令に従う時のお前は、よく磨かれた剣だった。癖がなく、真っ直ぐで、疑わない。だが一度折れた剣は、昔のようには使えん」
「それを、いまここで言うために?」
「いや」
副団長は訓練場の中央を顎で示した。
「団の中でも、お前の評価は割れている」
「……」
「同情する者もいる。軽蔑する者もいる。まだ信じると言う愚か者もな。なら、言葉だけでは済まんだろう」
「どういう意味ですか」
「示せ」
短い言葉だった。
「お前が今、何のために剣を取るのか。ここで示せ」
「副団長」
「逃げるならそれでいい。王都騎士団には、まだお前の名も過去も残っている。だからこそ、曖昧に立つのが一番見苦しい」
その瞬間、訓練場の一角から声が飛んだ。
「なら、俺が相手をします」
出てきたのは、三十前後の騎士だった。
背は高く、体も強い。
王都制式の訓練着に、片腕だけ打ち合い用の籠手をつけている。
顔に覚えがあった。
昔、同じ隊舎で見たことがある。
名は――。
「ローディン……」
「覚えてたか」
男は口の端を上げる。
「光栄だな、地方帰りの女騎士殿」
「相変わらず嫌な言い方ですね」
「お前も相変わらずだ。そうやってまっすぐ返すところだけはな」
ローディンは木剣を一本、訓練場脇の武器棚から抜いて放った。
シルヴィアはそれを片手で受け取る。
「昔のままなら、お前は命令に従う剣だった。今の噂じゃ、若君の横で感情に流される剣だ」
「……」
「どっちにせよ、騎士団の剣としては半端だな」
挑発だ。
わざとだ。
だが、ここで退けばそれまでだった。
シルヴィアは木剣を握り直す。
「私はもう、命令のためだけには振りません」
「ほう」
「ですが、目の前の人間を見捨てるためにも振りません」
「言葉は立派だ」
「立派でなくて結構です」
訓練場の中央へ歩み出る。
「ですが、今の私は、昔の私よりずっと騎士です」
その言葉に、今度は訓練場全体が静まった。
◇
打ち合いは、すぐに始まった。
最初の一歩で分かる。
ローディンは強い。
地方のごろつきや私兵とは違う。王都の訓練を積み、正面から相手を崩すことを覚えた剣だ。
速い。
重い。
無駄がない。
木剣が打ち合う。
乾いた音が、訓練場へ響く。
ローディンの初太刀は、真っ直ぐ肩口を狙ってきた。
シルヴィアは受けるのではなく、半歩外へずらして流す。
「……」
ざわめきが起きる。
昔の彼女なら、正面から受けていた。
規律正しく、型通りに。
今は違う。
二太刀目。
横薙ぎ。
シルヴィアは今度は一歩だけ入って、柄元へ木剣を当てる。
打ち砕くのではない。
軌道を殺す。
三太刀目で、ローディンの目が変わった。
「変わったな」
「少しは」
「若君の影響か」
「半分くらいは」
言いながら、シルヴィアは足を止めない。
ローディンは力で押し切ろうとする剣ではない。
王都騎士らしく、相手の癖を読み、整えて崩す。
だからこそ、前の自分なら負けていたかもしれない。
だが、今のシルヴィアは“型を守るため”だけに立っていない。
視界の端に、帰れなかった村がある。
橋の町がある。
徴発された若者がいる。
火事場で泣いていた母親がいる。
剣を振る理由が増えたのだ。
増えたぶん、動きも変わる。
ローディンが踏み込む。
重心が前へ流れる。
その瞬間だけを拾う。
シルヴィアは木剣を受けず、足を入れ替え、相手の手首へ柄を打ち当てた。
「ぐっ」
ローディンの剣がわずかに浮く。
逃さない。
次の瞬間、シルヴィアの木剣は相手の喉元で止まっていた。
終わりだ。
訓練場に、ひどく短い沈黙が落ちる。
ローディンは数息そのまま動かず、やがて、ゆっくりと口元を上げた。
「……なるほど」
「どうします」
「参ったよ」
男は両手を上げた。
「今のお前なら、昔の俺よりよっぽど騎士だ」
「そう言われると腹が立ちます」
「言わせとけ」
シルヴィアは木剣を下ろした。
まだ息は荒い。
だが、心は不思議と静かだった。
勝ったからではない。
逃げずに、ちゃんと自分の名で立てたからだ。
◇
だが、本番はそこからだった。
ヴィルヘルム副団長が、静かに言う。
「腕は見た」
「……」
「で、今のお前は誰の剣だ」
「私の剣です」
「それでは答えにならん」
「なります」
シルヴィアは木剣を持ったまま、副団長を見る。
「昔の私は、命令に従うことで責任を果たしたつもりでした。ですが、その結果、救えなかった人がいる」
「……」
「だから今は、命令を疑わぬ剣ではなく、目の前の人を見て立つ剣でいたい」
「感情論だ」
「そうかもしれません」
「騎士団は、もっと大きいものを守る」
「ええ。守るべきです」
シルヴィアの声は、訓練場の隅までよく通った。
「ですが、大きいものを守るために、小さいものを最初から切り捨てる剣を、私は誇りとは呼びません」
そこまで言って、一度だけ息を吸う。
「私は、命令に従った結果、人を救えなかった騎士です」
「……」
「その過去は消えません。軽くもなりません。ですが、だからこそ、今度は“命令だから”を盾に人を見捨てません」
「シルヴィア……」
誰かが小さく名を呼んだ。
昔の隊の誰かだろう。
顔までは見えない。
だが、そこに揺れが生まれたのは分かった。
「若君についたのも、感情で流されたからではありません」
「では何だ」
「民を守るための権威が、王都で飾りに戻されようとしているからです」
「……」
「それを見て見ぬふりをする方が、私にはよほど騎士らしくない」
訓練場に立つ騎士たちの顔は、もう一様ではなかった。
侮る者。
眉をひそめる者。
目を伏せる者。
そして、まっすぐ見ている者。
ヴィルヘルム副団長はしばらく黙っていた。
やがて、低く言う。
「それで、団に何を求める」
「味方は求めません」
「ほう」
「ただ、剣を帳簿の飾りにするなとだけ」
「……」
「人を守るために抜けぬ剣なら、どれだけ整っていても、私は王都騎士団の誇りとは呼びません」
その言葉の余韻が訓練場へ落ちた時だった。
列の後方から、一人の騎士が前へ出た。
二十代後半。
背は高くない。
だが姿勢がいい。
頬に古い傷が一本走り、制式外套の下に副官級の肩章が見える。
シルヴィアは顔を見て、わずかに目を見開いた。
「アルノルト……」
「久しぶりです、先輩」
男――アルノルト・フェルナーは、昔シルヴィアの下で一時期副官を務めていた騎士だった。
真面目で、融通が利かず、しかし現場の人間をよく見ていた青年。
今はもう、青年と呼ぶには少し落ち着いた顔になっている。
ヴィルヘルムが険しい目を向ける。
「何だ、フェルナー」
「申し上げます」
「不要だ」
「必要です」
アルノルトは、声を張らずに言った。
「先ほどの副団長のお言葉と、シルヴィア先輩のお言葉、両方聞きました」
「……」
「そのうえで、私は先輩に賛同します」
訓練場がざわめく。
ヴィルヘルムの目つきが冷えた。
「それが何を意味するか分かっているのか」
「ええ」
「副官職を失うぞ」
「構いません」
「叔父派の護衛任からも外れる」
「むしろ願ったりです」
アルノルトは、そこで初めてシルヴィアの方を見た。
「昔、村の件の後、先輩が誰より先に崩れたのを見ました」
「……」
「だから、逃げたのだと思っていた」
「そう見えたでしょうね」
「でも違った。戻ってきた」
「……」
「戻ってきて、ここで名前を背負って立った。なら、私はそちらを信じます」
シルヴィアの胸に、鈍い熱が落ちた。
許しではない。
だが、捨てられてはいなかった。
アルノルトはそのまま、腰の副官章を外した。
「本日付で、私は叔父派護衛任から外れます」
「命令違反だ」
「ええ。承知の上です」
「フェルナー!」
副団長の声は鋭かった。
だがアルノルトは引かなかった。
「騎士団が、誰のための剣かを忘れぬなら、いずれ誰かが言わねばならないと思っていました」
「……」
「今日は、先輩が先に言っただけです」
それで十分だった。
副団長の顔は硬い。
だが訓練場の空気は、もう一枚岩ではない。
完全に分断されたわけではない。
だが確かに、裂け目が入った。
◇
詰所を出る時、王都の空は薄曇りだった。
騎士団の外壁を背に、シルヴィアはしばらく何も言わなかった。
ミツクニたちは少し離れた位置で待っていた。訓練場の空気ごと、全部見ていたのだろう。
ハチが真っ先に駆け寄る。
「すごかった!」
「聞いていたんですか」
「全部じゃないけど、だいたい!」
「だいたい、とは」
「とにかく、騎士さんかっこよかった!」
「……そうですか」
「照れてる?」
「照れていません」
「ちょっとだけ顔やわらいでる」
「気のせいです」
「全然気のせいじゃないわね」
ギンが笑う。
シルヴィアは、そこでようやく小さく息を吐いた。
「……終わったわけではありません」
「うむ」
「副団長も、団そのものも、叔父派から離れたわけじゃない」
「うむ」
「ですが」
彼女は、騎士団の外壁を振り返る。
「逃げずに立てました」
「うむ」
「それだけは、間違いありません」
「十分じゃ」
ミツクニは穏やかに頷いた。
「今のおぬしは、もう誰かの命令を写すだけの騎士ではない」
「……はい」
その言葉は、以前よりずっと素直に胸へ落ちた。
その時、外壁脇の影からアルノルトが一人で出てきた。
もう副官章はない。外套もきっちり留めず、急いで追ってきた顔だ。
「先輩」
「アルノルト」
「時間がありません。これだけ」
差し出されたのは、小さく折りたたまれた紙片だった。
「叔父派護衛任の内訳です。今日の午後から、執政代理邸と儀礼院の間で特別搬送が動きます」
「特別搬送?」
「名目は祭具移送。ですが、護衛構成が過剰です」
「……聖印」
「おそらく」
アルノルトの声は低かった。
「正式な封印が無理なら、礼式準備名目で囲いに来る可能性があります」
「分かりました」
「それと」
彼は一瞬だけためらい、それから言った。
「団の全員が叔父派ではありません」
「……」
「今日、言えなかった者もいる。でも、聞いていた者はいます」
それだけ言って、アルノルトは下がった。
シルヴィアは、紙片を見つめたまましばらく黙る。
それからミツクニに渡した。
「来ますね」
「うむ」
「正面からではなく、礼式と護衛の形で」
「らしいやり方じゃ」
ギンが口元を上げる。
「でも、これで騎士団側にも裂け目ができた」
「ええ」
シルヴィアは頷いた。
「もう、全員が向こうではありません」
「十分な進展じゃのう」
「そうですね」
曇った空の下で、王都の鐘が鳴る。
騎士団の中に残した傷は浅くない。
だが同時に、それは道にもなった。
過去を知る者。
侮る者。
信じる者。
全部を前にして、シルヴィアは逃げなかった。
だからこそ、離反する騎士がひとり出た。
それは小さいようで、王都の中では決して小さくない亀裂だった。
ミツクニは紙片を畳み、静かに言う。
「では、次は切り札を囲いに来る手を折る番じゃな」
王都の整った顔の下で、ようやく騎士の側にも揺れが生まれ始めている。
それは叔父派にとって、決して見過ごせぬ変化のはずだった。




