第22話「切り札を奪う者たち」
王都の朝は、静かなくせに容赦がない。
執政代理邸の庭では、まだ空が白み切らぬうちから庭師が砂利を整え、使用人が廊下の燭台を替え、厨房では湯気が立ち、門前には馬車の車輪が一台、また一台と止まっていた。
誰も声を張らない。
だが、全員が急いでいる。
そういう種類の慌ただしさだった。
ミツクニは客間の窓辺に立ち、その流れを黙って見ていた。
「忙しそうですね」
シルヴィアが低く言う。
「うむ。屋敷全体が“今日の何か”に備えておる顔じゃ」
「叔父様ねえ」
ギンが椅子の背にもたれたまま、つまらなそうに肩をすくめる。
「昨日の顔合わせだけで終わる人じゃないもの」
「ええ」
シルヴィアも頷いた。
「正面から善良で、裏で手が早い」
「ひどい言い方じゃのう」
「事実でしょう?」
「まあ、その通りじゃが」
ミツクニが苦笑したところで、扉が静かに叩かれた。
入ってきたのは、昨夜の高位使用人だった。
皺ひとつない衣服。
皺ひとつない表情。
だが、今朝はその丁寧さの奥に、ほんのわずかな緊張が見える。
「若君」
深く頭を下げる。
「旦那様より、お時間を賜りたく存じます」
「ほう」
「儀礼院、大聖堂儀式局、監察局より、少人数の立会いを得ております」
「朝から賑やかなことじゃ」
ミツクニは振り返った。
「内容は」
「聖印に関するご相談にございます」
部屋の空気が、そこでひとつ変わった。
ハチが「うわ」と小さく声を漏らし、カクタスの眉がぴくりと動く。スケイルは何も言わなかったが、視線だけが一段鋭くなった。
シルヴィアの胸の奥は、嫌な冷たさで満たされる。
来た。
ミツクニだけが、穏やかな顔のまま頷いた。
「そうか。で、わしひとりかの」
「旦那様としては、若君お一人でも――」
「ならば、皆で行こう」
「……」
「わしの旅は、わしひとりの旅ではなかったからのう。お供らにも聞く耳はある」
「旦那様が何とお考えになるか」
「叔父上は、きっと寛大なお方じゃよ。そうであろう?」
使用人は数瞬だけ沈黙し、それから、完璧に整えられた礼で退いた。
「承知いたしました」
扉が閉じると、ハチが真っ先に言った。
「絶対やなやつだよね」
「うむ」
ミツクニはあっさり頷いた。
「かなりの」
「何を相談するつもりなんでしょう」
「相談ではあるまい」
シルヴィアの声は冷えていた。
「正しそうな形で、何かを外しに来ます」
「ええ。たぶん切り札ね」
ギンが言う。
ミツクニは、カクタスが背負う荷に収められた黒塗りの小箱へ視線をやった。
そこにあるのは、ただの印ではない。
この旅で何度も、地方の悪意を止めてきた最後の通告だった。
「だからこそ、聞いてやる必要がある」
◇
会談の場は、昨夜の応接間ではなかった。
もっと奥。
もっと格式のある部屋だ。
天井は高く、壁には古い祭礼画、床には深い色の絨毯、中央には長卓。窓から差し込む光は柔らかいが、部屋そのものは少し冷たく感じる。
人がくつろぐ部屋ではない。
何かを決めるための部屋だった。
そこに並んでいた顔ぶれは、予想通りだった。
執政代理ラウフェルド。
儀礼院の高官。
大聖堂儀式局の神官。
監察局の立会人。
そして、白梟亭で見たあの年配文官までいる。
叔父は一同を前にしても、相変わらず善良な微笑みを浮かべていた。
「来てくれてありがとう、ミツクニ」
「お招きとあらばのう」
ミツクニは席につく前に、周囲をひと巡り見た。
儀礼院の高官は痩せた男で、服の折り目から言葉の選び方まで硬い。
儀式局の神官は年嵩だが、目が死んでいない。信仰を売っているのではなく、儀礼そのものを守っている顔だ。
だからこそ、厄介でもある。
監察局の立会人は中年で、感情を表に出さぬ訓練が行き届いていた。
皆、正しい顔をしている。
「さて」
ラウフェルドが静かに口を開いた。
「本題に入ろう。今朝こうして儀礼院と儀式局のお歴々に同席願ったのは、若君への敬意ゆえだ」
「ほう」
「聖印について、だ」
その一言で、部屋の空気がさらに締まる。
ラウフェルドは続けた。
「お前が地方巡察に聖印を携えたこと、それ自体を責めるつもりはない。むしろ、勇者家の継承者としての責任感からだと理解している」
「それはどうも」
「だが、ここ最近の動きを見ていると、聖印が危険に晒されていることもまた事実だ。火事、襲撃、夜間潜入……あれほどの宝を、旅の中で持ち歩かせ続けるのは、あまりに重い」
「重い、とな」
「ええ」
今度は儀礼院の高官が言葉を継いだ。
「聖印は国家祭祀級の秘宝。本来、王都の奉安庫にて厳重に守られるべきものです」
「奉安庫、か」
「一時的にお預かりし、正式な礼式のもとで保管する。それが最も穏当かと」
シルヴィアの背筋に、冷たいものが走る。
一時的。
お預かり。
正式な礼式。
どれも穏やかだ。
だが、意味ははっきりしていた。
ミツクニは、まだ何も言わない。
ただ、続きを促すように小さく顎を引いた。
儀式局の神官が口を開く。
「若君の名誉を損なうものではありません。むしろ逆です。聖印にふさわしい格式をもって王都へ奉安し、そのうえで必要時には正規の申請手続きを経てお使いいただく」
「必要時、とな」
「ええ。臨時監察や高官任免に関わる運用も、儀礼院および監察局の確認を経て、より厳密な形で」
「つまり、毎度そちらの許しが要るのう」
「許しではなく、整えです」
監察局の立会人が、よく通る声で言った。
「聖印ほどの重みを持つものだからこそ、個人の判断だけで動かぬ方がよい」
「個人、とな」
「若君を軽んじているのではありません」
「もちろんだとも」
叔父がやわらかく言葉を挟む。
「むしろ逆だ。お前を守りたいのだよ、ミツクニ」
その言い方が、あまりに整っていた。
「若い身で、あまりに重いものを抱えたまま地方を歩く。それは危うい。聖印はお前の誇りであると同時に、狙われる原因にもなる。ならば、王都で大切に預かり、必要な時だけ正しく用いる方がよい」
ハチですら、口を挟まなかった。
正しそうに聞こえすぎる。
だがシルヴィアには、もう分かる。
これは保護ではない。
封印だ。
彼女は、ミツクニより先に口を開いた。
「それでは、臨時監察権は即応性を失います」
部屋にいる何人かの視線が、彼女へ向いた。
「地方で急を要する事態が起きた際、王都照会を経ていては間に合いません」
「騎士殿」
儀礼院高官が静かに言った。
「急を要するからこそ、個人判断の濫用を避ける必要があるのです」
「濫用」
「感情に引きずられた拙速な介入は、地方を乱す」
「乱しているのはどちらですか」
シルヴィアの声は低く、まっすぐだった。
「橋の通行税で商いを殺し、徴発で若者を潰し、薬を囲い、挙句に“処理済み”の紙で人の死を埋める。そういう流れに、王都照会の遅さと確認待ちが何度使われたか、私たちは見てきました」
「地方の個別事案を一般化されても困る」
「個別にしては、似すぎています」
そこで、年配文官が初めて口を開いた。
「若い方は、目の前の痛みに心を動かされやすい」
「……」
「それ自体は美徳でしょう。ですが、統治は美徳だけでは回らない。特に若君のように、まだ――」
そこまで言って、男は少しだけ言葉を選んだ。
「――まだ、全体を負う経験の浅い継承者であれば、なおさらです」
未熟な若君。
言葉を少し変えただけで、中身は同じだ。
シルヴィアの拳が膝の上で固くなる。
だが、ミツクニはここでもすぐに返さなかった。
彼はひとりずつ顔を見る。
叔父。
儀礼院。
儀式局。
監察局。
全員に最後まで喋らせた。
それから、ゆっくりと口を開く。
「では確認じゃ」
声は穏やかだった。
「おぬしらは、聖印を守りたいのか」
「無論だ」
「それとも、聖印が民の前で使われることを恐れておるのか」
部屋の空気がぴたりと止まる。
ラウフェルドの笑みが、ほんのわずかに薄くなった。
「……極端な言い方だ」
「そうかの」
「聖印は重い。ゆえに、正しく使われねばならぬ」
「正しく、とな」
「ええ」
叔父は、やはり柔らかな声を崩さない。
「地方で感情に押され、即断で振るわれるのは危うい。そう言っているのだよ」
「感情、か」
ミツクニは小さく笑った。
「橋の町の商人も、徴発された若者も、薬を待っていた病人も、帰れなかった村も、みな感情を持っておる。怒りも、悲しみも、怯えもある。統治がそれを最初から勘定に入れぬなら、何を守るのかと聞いておる」
「国だよ」
叔父は静かに答えた。
「国全体だ」
「便利な言葉じゃな」
「便利ではなく必要なのだ」
儀礼院高官が、少しだけ強く言った。
「国家の象徴を、ひとりの若君の旅の道具のように扱うべきではありません」
「旅の道具」
「聖印は、個人の機転で抜く刃ではない」
「ほう」
ミツクニの目が、そこで初めて少しだけ冷えた。
「ならば何じゃ。棚に置いたまま、儀礼の席でだけ拝む飾りか」
「そういう言い方は――」
「違うのか」
問いは短かった。
だが、誰もすぐには答えなかった。
ミツクニは続ける。
「聖印は、王都が見落とした時、地方で民を守るためにある。おぬしらが帳簿を優先し、順序を言い訳にし、確認待ちで人を止めた時、その場で止めるためにある」
「若君」
「それを安全のためと称して奉安庫へ戻すなら、守られるのは民ではない。おぬしらの都合じゃよ」
年配文官が口を引き結ぶ。
監察局立会人は無表情を装っているが、目だけが少し揺れた。
儀式局の神官は、ほんの一瞬だけ伏し目になる。
儀礼院高官だけが、まだ硬い顔を保っていた。
「聖印の即時行使など、そもそも今の王政にそぐわぬ古い運用です」
出た。
その一言で、部屋の空気が変わる。
ラウフェルドが、すぐにやわらかな声を差し挟んだ。
「言葉が過ぎるぞ」
「……失礼しました」
だが、もう遅い。
古い運用。
そこが本音だ。
シルヴィアは、叔父派の“保護”の皮が一枚剥けたのを見た。
ギンも同じらしい。
笑っていない。
ミツクニは、むしろ少しだけ納得したように頷いた。
「ようやく骨が見えたのう」
「ミツクニ」
「聖印が古いのであれば結構。じゃが、古いからといって、民を守る効きを抜いてよい理由にはなるまい」
「……」
「おぬしらが保管したいのではないことは分かった。おぬしらは、聖印が民の前で使われる瞬間を恐れておるのじゃ」
叔父は、そこで初めて少し長く黙った。
善良な叔父の顔は崩れていない。
だが、目元の皺にあった柔らかさだけは消えていた。
「考える時間を与えよう」
やがて彼は静かに言った。
「急がせるつもりはない。今日ここで無理に結論を出す話ではない」
「そうかの」
「明日の夕刻まででいい。その時に、もう一度話そう。お前が感情ではなく立場から考えれば、答えはそう難しくないはずだ」
それは、穏やかな顔をした期限だった。
「よろしい」
ミツクニはあっさりと立ち上がる。
「考えておきましょう」
「うむ」
叔父も立ち上がった。
「ミツクニ」
「何じゃ」
「お前を傷つけたいわけではない。それだけは忘れないでくれ」
「承知しております」
ミツクニは、穏やかな笑みのまま答えた。
「だからこそ厄介じゃ、ということも含めてのう」
◇
客間へ戻る道すがら、誰もすぐには口を開かなかった。
王都の廊下は長い。
それだけで、人の気持ちを冷やすには十分だった。
やがて、客間の扉が閉まり、周囲の気配をスケイルが確認し終えてから、カクタスが低く言う。
「胸糞悪いな」
「ええ」
シルヴィアが答える。
「正面から奪うと言えば、まだ斬りやすいんですが」
「守るの顔で来るからな」
ヤッシュは窓辺へ行き、外の庭を眺める。
ギンは椅子へ座るなり、深く息を吐いた。
「ほんと、上等な悪」
「うむ」
ミツクニは、カクタスの背にある黒塗りの小箱へ目を向けた。
「切り札を奪うのに、刀も縄も要らぬ。制度と礼式で十分、というわけじゃな」
「儀礼院、監察局、神殿まで揃えてきた時点で本気です」
シルヴィアの声は冷えていた。
「一度奉安庫へ入れば、礼式に従い開封は何日後、立会人が揃わない、神官の準備が要る……いくらでも遅らせられます」
「うむ。使えぬ印になる」
「それを丁寧にお預かりすると言うんですから、反吐が出る」
「おぬし、だいぶ言うようになったのう」
「誰のせいだと思っているんですか」
ギンが少しだけ笑う。
その時、扉がごく軽く叩かれた。
全員の視線がそちらを向く。
「誰じゃ」
「私です」
低い女の声だった。
ギンとヤッシュが同時に顔を上げる。
ギンが先に扉を開ける。
外に立っていたのは、貴族街の下町寄りに出入りする酒場女に化けた、彼女の手の者だった。
顔は知らぬ女だが、ギンが頷いたところを見ると確かな筋らしい。
女は無駄口なく、小さな木札を差し出した。
「狐様へ。灰様から」
それだけ言って去る。
ギンが木札を裏返す。
赤墨で、短く書いてある。
礼式庫じゃない。帳簿庫を見ろ。
ヤッシュの字だ。
「帳簿庫」
「うむ」
ミツクニの目が細くなる。
「どういうことじゃ」
「おじさんがそこまで書くなら、礼式そのものじゃなく、もっと生臭いところに何かあるってことよ」
「つまり」
「聖印を預かる、その後の話が、もう帳簿についてる」
シルヴィアの息が一瞬止まる。
「……まさか」
「そういうこと」
ギンは立ち上がった。
「叔父派は、ミツクニ様が首を縦に振るかどうか考えてる顔をしていた。けど、裏ではもう、預かった後の予定まで回してるかもしれない」
「ええ」
ヤッシュの不在が、逆にその確信を強くした。
「探る価値はある」
「当然じゃろう」
ミツクニは即答した。
「考える時間をくれると言いながら、向こうはもう次の帳簿までつけておる顔じゃった」
「坊ちゃん、読んでたの?」
「叔父上の顔なら、少しはのう」
ギンがにやりとする。
「じゃあ、今夜は私とおじさんで帳簿庫」
「私も」
「今回はだめ」
シルヴィアが反射的に言いかけたのを、ギンが切った。
「あなたは今夜、表で必要になる」
「表?」
「叔父様は明日の夕刻までに答えを欲しがってる。ってことは、その間に“若君保護の空気”を王都で固めるかもしれない」
「……」
「表を見てる目が要るのよ。今のあなた、そこに向いてる」
シルヴィアは一瞬だけ言葉に詰まり、それから頷いた。
「分かりました」
「よろしい」
ミツクニが静かに言う。
「では、今夜はこちらも二手じゃな。ギンとヤッシュは裏帳簿。シルヴィア殿は表の動き。わしは――」
「叔父様の顔色でも読む?」
「半分はな」
少しだけ笑いが戻る。
だが、空気の底は鋭いままだ。
◇
その夜、王都の空は曇っていた。
月は薄く、貴族街の屋敷群は影が濃い。
ギンは黒に近い装いへ着替え、音を消すための薄靴を履く。ヤッシュは灰色の外套を裏返し、庭師見習いめいた地味な服に変わっていた。
「礼式庫じゃない、帳簿庫、ねえ」
ギンが腰の短刃を確かめながら言う。
「好きな匂いがするわ」
「好きな匂いって言い方はやめろ」
「嫌な匂いって意味よ」
「知ってる」
ヤッシュは短く返す。
客間の灯りを絞った中、ミツクニは二人を見る。
「気をつけよ」
「坊ちゃんに言われると、妙に不安なのよね」
「何でじゃ」
「自覚ないならいいわ」
「ある意味、褒めてます」
「シルヴィア殿まで辛辣じゃのう」
シルヴィアは、ギンへ小さく言った。
「無理はしないでください」
「珍しい」
「連携の話です」
「はいはい。で、こっちも言っとく。表で“保護される若君”の空気が強くなったら、すぐ知らせて」
「分かりました」
ギンは、そこでほんの少しだけ真顔になった。
「たぶん向こうは、聖印を預かった後の手までつけてる。王都のやり方ってそういうもの」
「ええ」
「だったら、そこを見つけた方が勝ちよ」
それだけ言って、二人は夜へ消えた。
客間に残った静けさの中で、ミツクニはカクタスの背にある黒塗りの小箱へ手を伸ばさず、ただ見た。
叔父は、正面からは笑っていた。
礼を尽くし、保護の顔をし、考える時間まで与えた。
だが、その裏で帳簿が動いているなら話は別だ。
考える時間を与えている顔で、もう次の配置まで決めている。
そういう人間だと、ミツクニは知っている。
「……さて」
小さく呟く。
「善良な叔父の帳簿とやら、どこまで未来を書いておるかのう」
答える者はいない。
だが、王都の夜のどこかでは、もう紙がめくられ始めているはずだった。




