第21話「綺麗な王都」
王都の朝は早い。
いや、正確には、夜が完全には終わっていない。
貴族街の石畳はまだ冷たく、屋敷の影には夜気が残っている。それでも、少し外へ出れば荷車はもう動き始め、役人は書類を抱え、商人は店の戸板を上げ、神殿の鐘はきっちりと時を刻んでいた。
地方の町の朝が“起きる”ものなら、王都の朝は“切り替わる”ものだった。
「息が詰まるのう」
執政代理邸の客間の窓から庭を見ながら、ミツクニが呟いた。
庭師は二人いた。
まだ日が上りきらぬうちから、砂利の筋を整え、木の枝先を確かめ、昨日落ちた葉を拾っている。どれも無駄なく、美しい。
だが美しすぎて、そこへ住む人間の生活の匂いがしない。
シルヴィアは鏡の前で髪をまとめながら言った。
「整っているのに、落ち着かない場所ですね」
「うむ。整っておること自体が威圧になっておる」
「乱れるなって言われてる感じ」
「よい表現じゃ、ハチ」
ハチは寝台の端で丸くなっていたが、褒められるとすぐに胸を張った。
「えへへ。でしょ?」
「朝から機嫌がいいな」
「だって朝ごはん豪華だったもん」
「そこか」
カクタスが笑い、スケイルはやれやれと肩をすくめる。
昨夜のうちに、客間の配置と執政代理邸の出入口の数、使用人の動線、見張りの数はおおよそ掴んである。
ギンとヤッシュは明け方近くまで動いていたらしく、今は別室で少しだけ目を閉じていた。
ミツクニは湯呑みを置く。
「さて。今日は王都の顔でも見に行くとしようかの」
「叔父上のお許しは?」
シルヴィアが問う。
「昨夜、朝のうちは好きに過ごせと言うておった」
「逆に怪しいですね」
「うむ。じゃが、怪しいからといって出ぬわけにもいくまい」
そこへ、扉が静かに叩かれた。
「若君」
入ってきたのは、昨夜出迎えた高位使用人だった。
相変わらず皺ひとつない服に、皺ひとつない顔である。
「旦那様よりお言葉にございます。本日は無理に屋敷へ留まらず、王都の空気もお感じいただければ、と」
「ほう」
「ただし、お疲れもございましょうから、護衛を二名」
「結構じゃ」
ミツクニは即答した。
使用人の眉が、ほんのわずかにだけ動く。
「しかし」
「こちらにも供がおる。王都見物にまで大仰な人数は要らぬよ」
「旦那様がご心配を」
「それはありがたいのう。じゃが、王都の空気は、自分の足で嗅いでこそじゃ」
使用人はすぐに表情を戻した。
「……承知いたしました。では、何か必要があればすぐにお呼びください」
「うむ。そうしよう」
男が下がると、ギンがいつの間にか寝台の上で起き上がっていた。
「ねえ、今の見た?」
「何をじゃ」
「眉。ぴくってした」
「おぬし、そういうところばかり見ておるな」
「坊ちゃんが人の顔で遊ぶからでしょ」
「遊んではおらぬよ」
「半分は遊んでるわ」
シルヴィアは小さく息を吐いた。
「護衛をつけたかったんでしょうね」
「うむ。見張りか案内、あるいはその両方じゃ」
「つけさせなかったのは?」
「今日は、まだ叔父上の家の顔を立ててやる段ではないからのう」
「性格が悪いですね」
「よく言われる」
◇
貴族街を出て中央区へ入ると、王都はさらに広がった。
石造りの役所群。
商会の並ぶ通り。
神殿へ続く白い階段。
大きな市場。
地方の町なら中心になるものが、王都ではいくつも並び、それぞれが独立して動いているように見える。
「うわあ……」
ハチがまた小さく声を漏らす。
「何回見ても、でかい」
「語彙が育たんなあ」
「だって本当にでかいんだもん!」
その“でかい”の中に、人も金も権力も混じっていた。
ミツクニたちが最初に向かったのは、監察局庁舎だった。
白に近い灰色の石壁。無駄のない柱列。窓は大きいが、中は見えにくい。
正門には守衛が立ち、出入りするのは書類を抱えた官吏ばかり。
役所というより、感情を抜いた神殿に近い顔をしている。
「綺麗ねえ」
ギンが通りの向こうから眺めて言う。
「ええ」
シルヴィアも同意した。
「綺麗すぎます」
「汚れが表に出ないよう、よう磨いておるのじゃろう」
ヤッシュは庁舎へ荷を運ぶ裏手の小門を見ていた。
「正面は正面の顔だ。見るなら裏だろ」
「うむ。じゃが今日は正面も見ておきたい」
ミツクニはそう言って、庁舎前の掲示板へ近づいた。
そこには人事通達、監査日程、監察局の理念めいたものが並んでいる。
公正。
透明。
中立。
法の下の均衡。
どれも立派だった。
立派すぎて、空々しい。
シルヴィアが、掲示された監査手順書の一部を指で追う。
「……ほら」
「何じゃ」
「臨時監察の事前確認手続きです。昨日の改革案が、もう実務文書に降り始めています」
見ると、書式にはこうある。
緊急案件においても、地方官は監察局照会を経ずに強制執行へ移ってはならない。
「見事じゃのう」
ミツクニは笑った。
「火の手が上がってから、桶の許可を取れと言うようなものじゃ」
「しかも、秩序のため、という顔でね」
「最悪」
ハチが即答する。
その時、庁舎の階段を降りてくる一団が見えた。
黒い上衣の役人たち。
その先頭にいたのは、白梟亭で見た監察局副局長補佐だった。
「いたな」
スケイルが低く言う。
男は一行に気づいた。
驚きは見せない。
だが、足取りはほんの一拍だけ鈍る。
「……若君」
そのままこちらへ歩いてきた。
「朝からご熱心で」
「そちらもなかなかのものじゃ」
「職務ですので」
「結構なことじゃ」
副局長補佐は、表面だけなら穏やかな笑みを浮かべている。
「監察局に何かご用向きでも?」
「いや。叔父上の改革とやらが、どの程度早く紙になるのか見に来ただけじゃ」
「それはまた」
「で、見事に紙になっておった」
「必要な整備です」
「火の手が上がっても、まず照会せよと」
「恣意的運用を防ぐためには当然でしょう」
「その照会の間に死ぬ者がおってもか」
「若君」
男は声を少しだけ落とした。
「感情論で行政手順を否定されては困ります」
「困るのは誰じゃ」
「国です」
「便利な言葉じゃのう。国、とは」
「皆のためですよ」
「皆、とな」
ミツクニは掲示板を指した。
「この“皆”に、橋の町の商人も、徴発された若者も、帰れなかった村も入っておるか」
「もちろん」
「では、なぜどれも間に合わなんだ」
「それは個別事案であって」
「個別で片づけるには、似すぎておる」
副局長補佐の笑みが、そこで少しだけ固くなった。
「若君は、痛ましい事案を広げすぎておられる」
「おぬしらは、広がったものを個別へ戻しすぎじゃ」
その返しに、周囲を通る書記たちがちらりとこちらを見た。
副局長補佐は一礼だけ残し、それ以上は応じなかった。
「本日は執政代理様とのお時間もおありでしょう。これ以上、外の空気にあてられすぎぬよう」
「心配ご無用じゃ」
「それは何より」
男は去る。
その背を見送りながら、ギンが口元だけで笑った。
「ほんと、皆おんなじ顔」
「ええ」
シルヴィアは静かに言った。
「心配している顔で近づいて、黙っていろを置いていく」
◇
次に向かったのは、裁判庁舎だった。
監察局よりさらに古く、重い建物だ。
広い階段。
硬い石壁。
入口上部には、法の女神めいた像まで立っている。
権威とはこう見せるものだと、そのまま形にしたような場所だった。
だが、その階段の下には人が溜まっていた。
訴えを持ってきた者たち。
順番待ちの者たち。
帰されてきた者たち。
服装を見れば分かる。
裕福な者は少ない。
皆、何かを失い、ようやくここまで来た顔をしている。
「……」
シルヴィアの足が止まった。
階段脇で、痩せた女が幼い息子を抱いていた。
着衣は擦り切れ、足元は泥だらけだ。何かの請願書を握っているが、役人風の男に冷たく追い返されている。
「受付は終わりです」
「まだ昼前でしょう」
「急ぎでない案件は来月の審理回しになります」
「急ぎです! 夫が拘束されたままで……!」
「なら証明書類を」
「町役場が出してくれないんです!」
「それでは受理できません」
まるで壁に向かって話しているようなやり取りだった。
ハチが思わず言う。
「それ、どうすればいいの」
「町役場が書かないと裁判が受けない。裁判が受けないと町役場は知らぬ顔。そういうことじゃろう」
「うわ……」
「綺麗な袋小路ね」
ギンが低く呟く。
ミツクニは階段脇の掲示文へ目をやった。
受付区分。
必要書類。
審理順の原則。
緊急差込案件の条件。
全てが整然と書かれている。
整っていて、正しそうで、その正しさの下からこぼれる者が確実にいる。
シルヴィアは女へ近づいた。
「少し、話を聞かせてください」
「……騎士様?」
女は怯えたように顔を上げた。
シルヴィアは膝を折り、目線を合わせる。
「夫君が拘束されたと?」
「川港の荷の件で……帳簿の違いを指摘したら、逆に公文書妨害だって」
「公文書妨害」
「そんな大それたこと、するわけないのに……」
「町役場は証明書類を出さない」
「ええ。何度行っても手続き中ばかりで」
シルヴィアが女から事情を聞いている間、スケイルは庁舎の階段脇に立つ若い事務官を見ていた。
事務官は視線を逸らした。
だが、逸らすのが遅い。
何かを知っている者の目だった。
スケイルは近づいた。
「少し聞きたい」
「私は何も」
「まだ何も聞いていません」
「……」
「彼女の夫は、本当に公文書妨害ですか」
事務官は唇を噛んだ。
「書類上は、そうです」
「書類上は」
「帳簿の不一致を指摘しただけです。ですが、商会側の証言が先に受理されました」
「金鶸商会ですか」
事務官の肩が跳ねた。
それだけで十分だった。
「分かりました」
「待ってください」
事務官は慌てて小声で言った。
「私は、何も言っていません」
「ええ」
「あなたも、聞いていません」
「その通りです」
スケイルが静かに頷くと、事務官はようやく息を吐いた。
少し離れた場所で見ていたハチが、ひそひそとギンに言う。
「スケイルさん、何か話すだけで相手が勝手に白状するよね」
「顔と声と間合いね」
「ずるい」
「本人は嫌がってるから、余計にずるいのよ」
スケイルは戻ってくるなり、淡々と言った。
「金鶸商会が先に証言を入れています。夫君は不一致を指摘しただけの可能性が高い」
「見事じゃ」
ミツクニが言う。
「いや、私は確認しただけです」
「その確認が早い」
「褒めても、何も出ません」
「おぬしは褒められ慣れておらぬのう」
「必要ありません」
その素っ気なさに、ギンがくすりと笑った。
ミツクニは、その言葉を聞いて静かに目を細めた。
まただ。
橋の町でも、神殿でも、帰れなかった村でも聞いた。
手続き中。
確認待ち。
今は出せない。
人を止める言葉だけは、いつも綺麗だ。
「坊ちゃん」
ギンが、あえて軽い声で呼ぶ。
「これ、好きじゃない顔してるわね」
「うむ。かなりの」
「止める?」
「いや」
ミツクニは女の抱く子どもを見てから、裁判庁舎の階段を見上げた。
「まずは、どう止まっておるのかを見ておこう」
ちょうどその時、庁舎の正面から黒塗りの馬車が一台出てきた。
紋章は見慣れたもの。
叔父派の官房印。
スケイルが低く言う。
「来ますね」
「うむ」
馬車の扉が開く。
出てきたのは昨日の副局長補佐ではない。もっと年嵩の、裁判庁舎付きの法務官らしい男だった。衣は地味だが質がよく、手に持つ書類箱には執政代理府の封が見える。
その男は、階段脇の女など目にも入れず、まっすぐ役人たちのところへ行く。
何かを囁く。
すると、庁舎の受付机の上に積まれていた束の一部が、別箱へ移され始めた。
「案件選別か」
「ええ」
シルヴィアの声が冷える。
「審理順をその場で変えています」
「公正な手続きの下で、な」
「最悪」
「うむ」
ミツクニは短く頷いた。
「綺麗な王都じゃのう」
◇
昼過ぎ、王都中央区の喫茶室へ入った時には、皆少しだけ疲れていた。
地方を巡る疲れとは違う。
王都の疲れだ。
顔を上げたまま、綺麗な嘘を見続ける疲れ。
ハチは椅子に沈み込みながら言う。
「何かさ」
「何じゃ」
「地方の悪い人の方が、まだ分かりやすかったね」
「ええ」
シルヴィアが答える。
「地方の悪党は、自分の欲を隠しきれない。王都は違う。正しさの顔で切ってくる」
「で、仕方ないですって顔もする」
「うむ」
ミツクニは茶をひと口飲む。
「一番性質が悪いのは、己が国を守っておると思い込んでおる連中じゃな」
「叔父様もそう?」
「そうじゃろうな」
ギンが頬杖をつく。
「自分が全部回してるって、本気で信じてる顔してたものね」
「だから、善良な叔父の顔が崩れぬ」
「ええ」
シルヴィアは、昨日の応接間を思い出していた。
あの男は怒鳴らない。
威圧しない。
だが、人をどこへ置くかだけは、最初から全部決めている。
若い甥。
熱意はあるが未熟。
地方の痛みに動かされる騎士。
役には立つが、整った仕組みには乗せづらい者。
そうやって、笑顔のまま棚へ並べるのだ。
「どうする」
ヤッシュが短く問う。
ミツクニは、今日見たものを指で机へなぞるようにしながら言った。
「監察局は叔父派と連動。裁判機関も案件の順番を動かしておる。なら次に見るべきは、議会筋じゃろうな」
「法を通す側、ですか」
「うむ」
シルヴィアが頷く。
「改革案が、誰のための法として整えられているか、そこを見ないと」
「ほう。いい顔をするようになったのう」
「誰の影響だと思っているんですか」
「半分くらいは坊ちゃんでしょ」
「残り半分は狐じゃな」
「否定しません」
「ちょっと、そこは否定しなさいよ」
ギンがわざとらしく眉を上げる。
そのやり取りに、ほんの少しだけ空気が緩んだ。
だが、その時だった。
喫茶室の給仕が、困ったような顔でこちらへ近づいてくる。
「失礼ですが……」
年若い給仕だった。
緊張しているのか、盆を持つ手が少し揺れている。
「お客様の中に、ミツクニ様は」
「そうじゃが」
「こちらを、と」
差し出されたのは、小さな封書だった。
封は簡素。
だが、紙質はいい。
外に署名はない。
ミツクニが封を切る。
中の紙には、短い文字でこうあった。
今夜、議会南棟の小閲覧室。改革案の草案、差し替え前あり。見るなら一度だけ。
最後に、小さく梟の印。
「白梟亭の誰かですね」
スケイルが言う。
「うむ。あるいは、その場にいた者の気まぐれか」
「罠の可能性は」
「高いわね」
「だが本物の匂いもする」
ヤッシュが紙を一瞥して言った。
シルヴィアはその文字を見つめた。
改革案の草案。
差し替え前。
つまり、叔父派が表へ出す前に、何を削り、何を残したのかが分かるかもしれない。
「行くんですね」
彼女の問いに、ミツクニは紙を畳んだ。
「うむ。法の顔をしたものは、法の草稿を見るのが早い」
「夜の議会、ですか」
「綺麗な王都の裏側としては、なかなか洒落ておるじゃろう」
ハチが頬を引きつらせる。
「それ、洒落てるって言うの?」
「言わぬな、普通は」
「ですよね!?」
ミツクニは少しだけ笑った。
今日一日で、王都の顔はよく見えた。
綺麗だ。
整っている。
言葉も服も立派だ。
だからこそ、その下へ隠れたものを引っ張り出す価値がある。
「では」
茶を飲み干し、彼は静かに言った。
「今夜は、綺麗な法の下書きでも見に行くとしようかのう」
王都はまだ、笑っている。
だが、その笑顔の端から、少しずつ糸が出始めていた。




