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第20話「善良な叔父」



 王都の門をくぐった瞬間、空気が変わった。


 人の数が違う。


 音の層が違う。


 地方の町ではひとつの通りに収まっていた生活の気配が、王都では何本もの大通りと裏路地に重なり、折り重なり、絶え間なく流れている。


 荷車の軋み。呼び込みの声。鐘の音。馬蹄。遠くの鍛冶音。どこかで笑う女の声。


 全部が混じっているのに、不思議と破綻していない。


 整っている。


 だが、その整い方があまりに巨大で、逆に息苦しかった。


「……すごいね」


 ハチが珍しく小声で言った。


「すごい、で済む量じゃない気がしてきた」


「よい感覚じゃ」


 ミツクニは馬上から王都の大通りを見渡した。


「大きい街というのは、それだけで人を呑む。良くも悪くものう」


「できれば良い方で呑まれたいんだけど」


「贅沢を言うでない」


「王都まで来たんだから、ちょっとくらい贅沢言ってもいいでしょ」


「おぬしは普段から言いすぎじゃ」


 カクタスが笑う。


 だが、その笑いもどこか抑え気味だった。


 地方の騒がしさとは違う種類の緊張がある。


 王都は、声を張る者よりも、静かに見ている者の方が怖い場所だった。


 執政代理府の馬車は、中央通りを逸れて貴族街へ入っていく。


 道幅は広い。石畳は均一で、街路樹までよく剪定されている。屋敷の塀は高く、門は重く、行き交う者の服も落ち着いた色が多い。


 地方で見た金の匂いは露骨だった。


 だが、ここでは匂いそのものが薄くされている。


 だからこそ、深い。


「嫌な静かさねえ」


 ギンが窓の外を眺めながら言った。


「皆、ちゃんと隠してる」


「隠せるだけ余裕があるとも言えます」


「それが嫌だって言ってるのよ、騎士さん」


「分かっています」


 シルヴィアはそれきり黙った。


 貴族街は、彼女にとってまったく知らぬ場所ではない。


 だが、懐かしさはなかった。


 あるのは、かつてここから降りてきた命令書の匂いだけだった。


     ◇


 執政代理の屋敷は、王都の中でも古い造りの大邸宅だった。


 石と木の重みを見せる正門。


 余計な装飾の少ない外壁。


 庭は広いが、見せびらかすためではなく、手入れが行き届いていることそれ自体が格になっている。


 派手ではない。


 だが、住む者が権力を誇示する必要のない立場だと、そういう顔をしていた。


「いかにもだな」


 ヤッシュが小さく吐き捨てる。


「ええ」


 ミツクニは頷いた。


「“わしは飾らぬ”という飾り方じゃ」


「一番嫌なやつね」


「うむ。そういうのは大抵、腹の中がよく煮えておる」


 門が開く。


 使用人たちが整然と並ぶ。


 屋敷の空気は静かだったが、その静けさには歓迎と緊張が同時に含まれていた。


 馬車を降りたミツクニの前に、ひとりの男が現れる。


 四十代の終わりから五十代の入り口ほどだろう。背は高すぎず低すぎず、体つきは痩せてもおらず、年齢相応に落ち着いている。


 黒髪に少しだけ白いものが混じり、衣服は上等だが華美ではない。目元には深い皺が刻まれているが、それが苦労人めいた印象をうまく作っていた。


 そして何より、その笑みだ。


 柔らかい。


 押しつけがましくない。


 だが、ちょうどよすぎる。


「ミツクニ」


 男は、まるで本当に心配していた親族のように声を掛けた。


「よく戻ってきた」


「お久しぶりです、叔父上」


 ミツクニもまた、穏やかに答える。


 叔父――執政代理ラウフェルドは、ゆっくりと近づいた。


「地方での巡察は聞いている。若い身で無茶をしているのではないかと、気が気ではなかった」


「そうでしたか」


「火事の報まで入った時は、さすがに顔色が変わったよ。怪我はないか?」


「見ての通り、ぴんぴんしております」


「それなら何よりだ」


 言葉だけを拾えば、完璧な善良さだった。


 シルヴィアは、そのやり取りを少し離れた場所から見ていた。


 胸の奥が、静かに冷える。


 この男は、怒鳴らない。


 威圧しない。


 恩を着せもしない。


 だからこそ怖い。


 ラウフェルドはそこで、ようやくミツクニの後ろに控える一行へ目を向けた。


「旅のお供たちか」


「うむ。世話になっております」


「そうか。では彼らにも礼を言わねばならぬな」


 柔らかな声だった。


 だが、その視線は一瞬で一人ずつを計っていた。


 スケイル。


 カクタス。


 ハチ。


 ギン。


 ヤッシュ。


 そして、シルヴィア。


 シルヴィアのところで、ほんのわずかに止まる。


「……シュタイン卿の」


「フォン・シュタインです」


 シルヴィアはまっすぐ答えた。


 ラウフェルドは、まるで無礼に気づいたかのように穏やかに頷く。


「失礼。昔、何度か報告で名を見たものでね」


「そうでしょうね」


「勇ましいな」


 その一言に、からかいはない。


 だが、もうその程度は承知している、という含みはあった。


 ギンは横で薄く目を細める。


 ヤッシュはいつものように表情を動かさない。


 ハチだけが、叔父の笑顔を見て「うわ、いい人そう」と言いかけ、寸前で口をつぐんだ。


 ミツクニが言う。


「叔父上、積もる話もありましょうが、まずは皆を休ませていただけますかの」


「もちろんだとも」


 ラウフェルドは即答した。


「客間は用意してある。……ただ」


 そこで、ほんの一拍だけ間が入る。


「ミツクニ、お前とは先に少しだけ話しておきたい」


「ほう」


「長旅で疲れているところ、すまない。だが心配していた身としては、顔を見てすぐ言葉を交わしたいのだよ」


 丁寧だ。


 断りづらい。


 そして、見事に当然の親族の願いの形をしている。


 カクタスの眉がぴくりと動いた。


 スケイルの視線もわずかに鋭くなる。


 シルヴィアは息を詰めた。


 ここで引き離すのか、と。


 だが、ミツクニは笑ったままだった。


「そういうことでしたら、こちらも少しだけお願いしたい」


「何かな」


「この旅は、わしひとりの旅ではなかった。お供らにも聞いてほしい話が出るやもしれませぬゆえ、最初の挨拶だけは皆一緒で願いたいのじゃ」


「……」


 ラウフェルドの笑みは崩れない。


 だが、その沈黙はほんのわずかに長かった。


「そうか。ならば、それでもよい」


 通った。


 だが、叔父が最初に切り分けを試みたことは、全員の胸に残った。


     ◇


 通された応接間は、思ったよりも温かい部屋だった。


 重すぎない調度。


 焚かれた香。


 高価だが落ち着いた織物。


 執政代理の威光を見せつけるというより、訪れた相手に、ここは安心できる場所だと思わせるための部屋だった。


 そこが、かえってシルヴィアには気味が悪い。


 茶が出される。


 ラウフェルドは上座に座るが、決してふんぞり返らない。


 むしろ少しだけ肩の力を抜き、親しげな距離を保とうとしている。


「さて」


 カップを手にして、叔父は微笑んだ。


「まずは無事を喜びたい。地方で色々見てきたのだろう。橋の件、火事の件、いずれも聞いている」


「耳が早いのう」


「立場上、遅くては困るのでね」


 その返しも上手い。


 ミツクニは茶に手をつけず、叔父を見ている。


「で、何と聞いておりますかの」


「熱心に歩き、多くを助けたと」


「ほう」


「そして、少々無理をしたとも」


「少々、とな」


「若いからね」


 ラウフェルドは苦笑する。


 叱っているようで、甘やかしているようで、その実どちらでもない絶妙な声音だった。


「ミツクニ。お前が民の顔を見たいと思う気持ちは、私は理解しているつもりだ」


「そうでしたか」


「前々から、お前はそういう子だった。帳簿や報告だけでは足りぬ、と。よく知っている」


「叔父上にそう言われると、幼い頃から相当に手のかかる子であったように聞こえますのう」


「実際、手はかかったとも」


 柔らかな笑い。


 ハチなら普通に優しいおじさんと思うだろう。


 実際、ハチは今まさにそういう顔をしかけて、ギンに脇腹を軽くつつかれていた。


 ラウフェルドは続ける。


「だが、お前はまだ若い。見たもの全部を、一度に背負う必要はない」


「背負う必要はない、と」


「そうだ。橋の町も、村の件も、火事場も、胸が痛んだだろう。だが、それを全部お前ひとりが正そうとするのは危うい。国には役割がある。監察局があり、執政代理府があり、地方行政がある」


「ほう」


「だからこそ、若い継承者には、継承者の立場にふさわしい役目があるのだよ」


 シルヴィアの胸が冷えた。


 来た。


 未熟な若君。


 熱意はあるが、立場に収めるべき子。


 昨日、布告で読んだ言葉と同じ流れだ。


 ただしここでは、もっと優しく、もっと断りにくい形で。


「ふさわしい役目、ですか」


 ミツクニが問う。


「うむ。民を想うことは美徳だ。だが、統治は想いだけでは回らぬ。お前の名も、聖印も、本来はもっと慎重に扱われるべきものだ」


「橋の徴税も、若者の徴発も、薬の横流しも、慎重に扱った結果があれでしたかな」


「ミツクニ」


 叔父は、そこで初めて少しだけ真顔になった。


「地方では、時に不幸な行き違いも起こる」


「不幸な行き違い」


「そうだ。全てを誰かの悪意で括るのは、若い者にありがちな早合点だ」


「……」


「だから私は、お前に一度戻ってきてほしかった。落ち着いて話をし、手続きを整え、必要なら王都から正式に監察を出す。その順でよかったのだよ」


「ほう。正式な監察を」


「もちろんだとも」


 それを聞いて、シルヴィアの手が膝の上で硬くなる。


 正式な監察。


 帰れなかった村で来なかった、あの正式な監察。


 古い監査案件を処理済みにしたあの流れの先で、この男は同じ言葉を平然と使う。


 ギンは、茶杯の縁へ指を置いたまま動かない。


 ヤッシュは表情を変えず、スケイルだけが静かに叔父の手元を見ていた。


 この男の怖さは声にも顔にも出ない。


 手元に出る。


 カップを持つ角度。


 相手が喋る時の視線。


 そういう小さなところに。


 ミツクニは、そこでふっと笑った。


「叔父上」


「何だ」


「今のわしを、どう見ておられますかの」


 ラウフェルドは一拍だけ間を置いた。


「誇らしい甥だよ」


「それは結構」


「だが、危うい」


「ほう」


「民を見たことで、逆に全体を見失いかけている」


「全体、とな」


「国だよ」


 叔父は静かに言った。


「国は、救えたひとりのためだけにも、救えなかったひとりのためだけにも動けぬ。だから仕組みがいる。順序がいる。責任の所在がいる」


 シルヴィアは、気づけばミツクニを見ていた。


 どう返す。


 こういう言葉は、正しそうに聞こえる。


 昔の自分なら、きっと押された。


 全体のため。


 国のため。


 順序。


 だからこそ怖い。


 ミツクニはしばらく黙り、それから穏やかに口を開いた。


「叔父上のお言葉、もっともらしくは聞こえますのう」


「もっともだから言っている」


「じゃが、少し違う」


 ラウフェルドの笑みがごくわずかに薄くなる。


「何が違う」


「国は、救えたひとりのためだけに動けぬ。たしかにそうかもしれぬ。じゃが、救えなかったひとりのことを、最初から帳簿の外へ出す国など、わしは信用せぬ」


「……」


「橋の銭を絞り、若者を徴発し、薬を囲い、挙句に処理済みの紙ひとつで蓋をする。それを全体のためと呼ぶなら、その全体とやらは随分と痩せた顔をしておる」


 部屋の空気が変わった。


 怒鳴り合いではない。


 だが、もう表面だけの親族会話ではない。


「お前は」


 ラウフェルドが静かに言う。


「地方で見た一部だけを、国の全てと思っている」


「叔父上は、地方で死んだ一部を、国の勘定に入れておらぬ」


「必要な犠牲はある」


「必要、とな」


「国を回すには」


「便利な言葉じゃのう」


 ミツクニは笑った。


 だがその目は少しも笑っていない。


「必要。やむなし。不幸な行き違い。整理。順序。どれも綺麗で使いやすい。そういう言葉の下で潰される顔を、わしはもう何人も見てきた」


「若いな、ミツクニ」


「ええ。若いですとも」


「だから熱い」


「熱いのではない」


 ミツクニは、茶に手もつけぬまま叔父を見据えた。


「冷えておるのは、そちらの方じゃ」


 シルヴィアの背筋に、別の意味で冷たいものが走った。


 叔父は、やはり善良な忠臣の顔をしている。


 だがその奥にあるのは、怒りではない。


 もっと冷たい何かだ。


 ミツクニもそれを見ている。


 だから、冷えている、と言ったのだ。


 ラウフェルドはそれきり、少しだけ黙った。


 長い沈黙ではない。


 だが、この男にしては十分に長い。


 やがて、ふっと息を吐く。


「……なるほど。話には聞いていたが、ずいぶんと変わったようだ」


「そうかもしれませぬ」


「地方は人を育てるな」


「あるいは、化けの皮を剥がすのやもしれませぬな」


 ミツクニの返しに、叔父はまた微笑んだ。


 だが最初の笑みではない。


 もう一段、奥行きのある笑みだ。


「面白いことを言う」


「叔父上もです」


「では」


 ラウフェルドは、ようやく茶をひと口飲んだ。


「今夜はここまでにしておこう。長旅で疲れているだろうし、私も甥を叱るつもりで呼んだわけではない」


「そうでしたか」


「無論だ。ゆっくり休むといい。王都では、地方よりもう少し落ち着いて話ができる」


「楽しみにしておきます」


 その、落ち着いて、がどういう意味か。


 この部屋にいる全員が理解していた。


     ◇


 応接間を辞した後、客間へ通されるまでの短い廊下で、ようやく皆が息を吐いた。


 ハチが真っ先に小声で叫ぶ。


「こわっ!」


「おぬし、よく最後まで黙っておれたのう」


「だってあれ、いい人そうなのにめちゃくちゃ怖いよ!」


「やっと分かった?」


「分かるって、あれは!」


 カクタスが腕を組んで低く唸る。


「殴りづれえな」


「そういう相手ほど厄介なんです」


「分かってるよ、騎士殿」


「分かってるなら、最初に殴る発想を捨ててください」


「難しい注文するなあ!」


 ギンは肩をすくめた。


「でも、思ってた通りね。未熟な甥を案じる善良な叔父の顔、完璧だった」


「ええ」


 シルヴィアは短く答える。


「だから厄介です。正面から悪だとは言わない。全部、保護と配慮の顔で来る」


「しかも本心から半分くらいそう思ってそうなのが最悪だな」


 ヤッシュの言葉に、ミツクニは小さく頷いた。


「うむ。叔父上は、自分が国を回しておると思っておる。善人の顔も、ある程度は本物じゃろう」


「本物だから厄介、ってこと?」


「そうじゃな、ハチ。悪いことをしている自覚だけで動く者の方が、まだ単純じゃ」


 シルヴィアはそこで、ひとつだけ問いを口にした。


「……どう見えましたか」


 ミツクニは振り向く。


「叔父上が、か」


「はい」


「表向きは善良。内実は冷えておる。だが、それだけではない」


 彼は少し考えるように目を細めた。


「一番厄介なのは、自分こそが国を持ちこたえさせていると本気で思っておることじゃろうな」


「……」


「欲だけで動く者ではない。秩序のためだと信じておる。じゃから人を切る時も迷いが薄い」


 シルヴィアは、それを聞いて小さく息を呑んだ。


 そうだ。


 ただの悪人より、そちらの方がずっと怖い。


 間違いをしている自覚が薄いからこそ、止まりにくい。


 ギンが壁へ肩を預ける。


「じゃあ、正面から悪党め、ってやる相手じゃないわね」


「うむ。まずは、何を守ろうとして何を切っておるのか、そこをもっと剥がす必要がある」


「つまり?」


「叔父上の秩序の中で、誰がどう得をし、誰がどう捨てられておるか、王都の中で見て回るのじゃ」


 ヤッシュが短く言う。


「手始めに、王都の裁判機関と監察局だな」


「ええ」


 シルヴィアも頷いた。


「それと、叔父派が改革案を通そうとしている先。議会筋」


「ほう。やる気じゃのう」


「ここまで来て、逃げる気はありません」


「よろしい」


 ミツクニは穏やかに笑った。


 それから客間の扉へ手をかける直前、ふと思い出したように振り返る。


「そういえば、叔父上は皆に礼を言うておったのう」


「ええ」


「で?」


「礼を言う相手の顔を、ちゃんと覚えておる顔じゃった」


「……」


「つまり、こちらの人数も手札も、すでに数え終えておる」


 その一言で、廊下の空気がまた少し冷えた。


 ハチが小さく肩をすくめる。


「やっぱりこわっ」


「そうじゃな」


 ミツクニは扉を開けた。


「じゃが、こちらも同じじゃよ」


 王都の夜は静かだった。


 だが、その静けさの下では、すでに互いの手札を数え合う音がしている。


 善良な叔父。


 その顔の下にあるものを、ここからひとつずつ見ていくことになる。


 もう地方の巡察ではない。


 王都の中で、王都の論理を相手にする時間が始まったのだ。

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