第19話「王都へ」
王都からの召喚状は、火の匂いがまだ衣に残るうちに届いた。
その夜、一行は川港の宿の二階を借り切り、机の上へまた紙を広げていた。
だが、今度の空気は、これまでの地方巡察の夜とは少し違っていた。
橋の徴税。
若者の徴発。
神殿の薬。
帰れなかった村。
偽装された監査。
未熟な若君という布告。
そして、火事場での封鎖命令。
ひとつひとつは別の土地で起きた出来事だ。だが、もう誰もそれを“地方で起きた面倒な悪事”とは思っていない。
全部が、同じ方角へ流れている。
王都へ。
その言葉が、まだ誰の口からもはっきりとは出ぬまま、部屋の中央に座っていた。
「速やかに出頭、ねえ」
ギンが召喚状の文面を眺めながら、鼻で笑った。
「相変わらず、上品な命令」
「命令というより、檻の扉じゃな」
ミツクニは湯呑みを手にしたまま答える。
「おいでませ、と言いながら、入った後で中から閉めるつもりのやつじゃ」
「嫌な歓迎だな」
カクタスが顔をしかめる。
「ええ」
シルヴィアが静かに頷いた。
「ですが、行かないという選択肢はもうないでしょう」
「うむ」
ミツクニは短く頷く。
「地方の流れを拾うだけでは足りぬところまで来た。なら、流れを作っておる場所へ行くしかない」
ヤッシュは窓辺で外を見ていた。
川港の夜は遅くまで人の出入りがある。船荷を数える声、馬車の車輪、酔った荷運びの笑い声。水辺の町は、夜でも完全には眠らない。
だが今夜、ヤッシュが見ているのは川面ではない。
港を出入りする役人と荷の動きだった。
「王都へ入る前に、一回整理しとけ」
振り向かずに、低く言う。
「何をどこまで掴んだか。何が足りてねえか。向こうへ行くと、地方みてえにのんびり拾わせちゃくれねえ」
「その通りじゃな」
ミツクニは机の上の書類へ目を落とした。
橋の徴税帳簿。
徴発名簿。
神殿の裏帳簿。
偽装監査の控え。
白梟亭で拾った会合名。
監察局の識別札。
未熟な若君と書かれた布告。
そして、幾度も現れた執政代理府の印。
点ではない。
もう十分に、流れだった。
「橋では銭を絞り、徴発で若い者を使い潰し、神殿では薬を囲い、地方監察は途中で潰す」
スケイルが、書類を見下ろしながら短く整理する。
「全て、執政代理府の許可か黙認の下で回っている」
「監察局の一部も叔父派と連動している」
シルヴィアが続けた。
「商会は金鶸商会」
ギンが指先で机を叩く。
「神殿上層も少なくとも一枚噛んでるわね」
ヤッシュが窓辺から言う。
「地方役人は、上の命令を盾にして思考停止」
ハチが眠そうな顔のまま、指を折って数えた。
「で、都合が悪くなると証拠を焼く」
最後にそう言って、彼女は自分の指を見下ろした。
「……改めて聞くと、だいぶ最悪だね」
「だいぶ、で済んでおるうちはまだよい」
「それ以上あるの?」
「王都へ行けば分かるじゃろう」
「分かりたくないやつだ……」
ハチが肩を落とす。
カクタスは腕を組み、ミツクニを見た。
「で、主。王都で何をやる」
「まずは、笑っておる者の顔を見る」
「叔父上、ってことか」
「うむ。それと、その周りの綺麗な連中もじゃな」
シルヴィアは、机の上の古い控え文書を見つめていた。
帰れなかった村で掘り起こした、監査の偽装記録。
処理済み。
その一言で三人の死を紙の外へ捨てた文書だ。
昔の自分は、その流れの入口に立っていた。
今は、その流れを止める側にいる。
ならば、途中で目を逸らすわけにはいかない。
「……私は、行きます」
改めて言う必要はなかったかもしれない。
それでも、言葉にしておきたかった。
ミツクニが目を向ける。
「うむ」
「叔父派のやっていることは、もう地方だけの話ではありません。私の過去も、その流れの中にあった。なら、最後まで見届けます」
「よろしい」
「それと」
シルヴィアは、一度だけ息を吸った。
「私はもう、“命令だから”という言葉で、人を見ないふりはしません」
部屋が静かになる。
ギンが、ほんの少しだけ目を細めた。
「いい顔するようになったじゃない」
「あなたの好みは聞いていません」
「聞いてなくても言うわよ。好きに」
「……相変わらずですね」
「お互い様でしょ」
ふっと笑いがこぼれる。
決して軽くはない。
だが、重すぎもしない笑いだった。
ミツクニは、その空気の中で小さく頷いた。
「では、わしも言うておこうかの」
「何を?」
ハチが首をかしげる。
ミツクニは湯呑みを置いた。
「わしは、聖印の権威を守るために王都へ行くのではない」
全員が彼を見る。
「権威とは、民を安心して暮らさせるためにある。じゃが今の王都は、その権威を都合のよい飾りへ戻し、その下で人を削る仕組みを回しておる」
ミツクニの声は穏やかだった。
だが、その言葉はこの旅の芯をそのまま表していた。
「なら、取り戻すべきは印そのものではない。民を守る責の方じゃ」
シルヴィアは静かに息を呑んだ。
聖印。
勇者家の証。
王国の正統。
それはたしかに大きな力だ。
だがミツクニは、それを守りたいのではない。
その印に本来込められていた責任を、取り戻しに行こうとしている。
「橋も、徴発も、神殿も、監察も、全部そこから狂っておる。なら、狂わせた顔を見に行く。それだけのことじゃよ」
「……はい」
シルヴィアの返事は、ひどくまっすぐだった。
ヤッシュが窓から離れ、壁へ背を預ける。
「なら、手は三つだ」
「ほう」
「正面。裏。あと逃げ道」
「正面は主と騎士殿だな」
カクタスが言う。
「裏は私とおじさん」
ギンが軽く手を上げる。
「俺を当然のように巻き込むな、狐娘」
「巻き込まれる位置にいる方が悪いのよ」
「言うようになったな」
「最初からよ」
「荷と飯はあたし!」
ハチが勢いよく手を挙げた。
全員が一瞬、そちらを見る。
「……そこはまあ、おぬしに任せるかの」
「やった!」
ハチが胸を張る。
カクタスがすぐに茶々を入れた。
「お前の役目、毎回ちょっと雑だよな」
「雑じゃないもん! 食料線って大事なんだよ!」
「それはそうだ」
「おっ、分かってるねカクタス!」
「俺は腹が減ると機嫌が悪くなるからな!」
「知ってます」
スケイルが静かに言うと、また少しだけ空気が緩む。
地方で積み上げたものは重い。
だが、それを抱えたまま歩くためには、こういうどうでもいいやり取りも必要だった。
◇
翌朝、出立は早かった。
川霧がまだ水面に残るうちから馬を整え、荷を締める。
王都方面への街道は広い。人も多い。
だがそれだけに、飲まれれば終わる。
ギンもヤッシュも、普段より口数が少なかった。王都近郊の匂いは、地方とは別の意味で濃いのだろう。
橋のたもとでは、昨夜の火事で助かった者たちが何人か見送りに出ていた。
火の中から娘を抱き出された若い母親。
川岸から引き上げられた老人。
そして、守備隊長もいた。
鎧を着て、今日の顔をしている。
「見送りなど無用じゃよ」
ミツクニが言うと、守備隊長が短く答えた。
「分かってる。だが、言っておくことはある」
男は、橋の向こうのまだ煤けた区画を一度見やった。
「昨日、俺は荷を先に通そうとした。正しい順序だと思っていた」
「うむ」
「だが、あれで死ななかった奴らがいる。なら、少なくとも昨日の俺は間違ってた」
「……」
「礼を言うのは性に合わん。だが、お前たちが来なければ、たぶん何人か死んでた」
ぶっきらぼうな、それでも正直な言葉だった。
シルヴィアは少しだけ目を伏せた。
その言葉は、彼女にとっても効いていた。
ミツクニは頷く。
「受け取っておこう」
「それと」
守備隊長の目が鋭くなる。
「王都へ行くんだろ」
「うむ」
「なら気をつけろ。あっちは、間違っても“間違えました”って顔をしない」
「知っておる」
「知ってても足りん」
男はそう言って踵を返した。
地方で会ってきた者たちの中にも、少しずつ、こちらの言葉が残り始めている。
それは、聖印で平伏させた時とは別の重さだった。
「……行きましょうか」
シルヴィアが小さく言う。
「うむ」
一行は馬を進めた。
◇
王都へ近づくほど、道は混み始めた。
豪奢な馬車。
荷車。
神殿の使い。
地方からの陳情団。
商会の輸送列。
地方の町では決して一度に見ぬ種類の人間が、同じ道を同じ方向へ進んでいく。
そのすべてが、何かを求めて王都へ吸い込まれていくようだった。
ハチがずっと黙っていられたのは、王都の外壁が見えるまでだった。
「うわ」
それが第一声だった。
「うわ、でか」
「雑じゃのう」
「だってでかいよ!?」
王都の外壁は、これまで見てきた地方都市の比ではなかった。
灰白の石壁が幾重にも連なり、塔が立ち、旗が風を受けている。
外からでも、人の多さ、音の多さ、金の多さが分かった。
ギンが小さく息を吐く。
「帰ってきたくない帰ってきた感じ」
「複雑ですね」
「でしょ?」
ヤッシュは王都の門の流れを見ていた。
どこで荷が止められ、誰が優先的に通されるか。
あの男の目は、そういうものばかり数えている。
「門が二段だ」
「うむ」
「外で荷を見て、内で人を見る。中も相当うるせえぞ」
「じゃろうな」
シルヴィアは王都の壁を見上げたまま、しばらく黙っていた。
かつては、ここが“上”だった。
正しい命令が下りてくる場所。
秩序と法が組み立てられ、人々を守るはずの場所。
今は違う。
ここが、見に行くべき顔のある場所だ。
「どうしたかの」
ミツクニの声に、彼女は視線を戻す。
「いえ」
「怖いか」
「少し」
「うむ」
「ですが、前とは違います」
「ほう」
「今は、ここに呑まれに来たのではありません」
その答えに、ミツクニはほんの少しだけ目を細めた。
「よろしい」
「はい」
その時、王都門の外、列を整える兵の向こうから一台の黒塗りの馬車が出てきた。
紋章つきだ。
見慣れた執政代理府の印が、陽を受けて鈍く光る。
馬車は一行の前で止まった。
御者が下り、扉が開く。
出てきたのは、執政代理府の高位使用人らしい男だった。
年配。
姿勢がよく、皺ひとつない服。
礼の角度まで整っている。
「若君」
男は深く頭を下げた。
「お待ちしておりました」
「ほう」
ミツクニは馬上からその男を見る。
「随分と早い出迎えじゃのう」
「旦那様がご心配なさっておりますゆえ」
「旦那様、とな」
「執政代理様にございます」
使用人は顔を上げた。
その微笑みは丁寧だった。
だが、そこに温度はない。
「若君が地方でご熱心に見聞を広めておられること、たいへん誇らしく思っておいでです。どうか、まずはお屋敷へ。お疲れもありましょう」
ギンが、聞こえぬほど小さく笑った。
「来たわね。善良な叔父」
「うむ」
ミツクニは静かに答えた。
王都は目の前にある。
そして叔父は、もう笑顔を用意して待っている。
地方で拾った痛みも、古い傷も、偽装監査の紙束も、全部ひっくるめて、この先は王都の空気の中へ持ち込まれる。
そこでどう扱われるか。
どう切られるか。
どう笑われるか。
ならば、こちらも最初から笑顔の裏を見に行けばよい。
「よろしい」
ミツクニはゆっくりと馬を下りた。
「では、叔父上に会いに行くとしようかのう」
使用人は、完璧な礼で一歩退く。
門の向こうでは、王都が無数の顔を隠して待っていた。
そのうちの最初のひとつが、いま開いたばかりだった。




