第17話「未熟な若君」
その夜の白梟亭は、昨日までより静かだった。
いや、静かというより、固い。
灯りは同じように柔らかく、給仕の足音も相変わらずよく消えている。だが、廊下を行き交う者たちの視線だけが妙に鋭い。
昼の公聴会で起きた揺れが、確実にこの場所へ届いている。
「分かりやすいわねえ」
裏手の路地。
塀の影に身を潜めたギンが、白い壁越しの気配を読んで小さく笑った。
「いつもより見張りが二枚多い。しかも神殿筋の下っ端まで混ざってる」
「焦っているのですね」
シルヴィアが低く言う。
「ええ。で、焦った連中ほど、やることは早い」
少し離れた荷車の陰では、ヤッシュが壁に背を預け、薄く目を開けていた。外套の襟を立て、町の気配と建物の気配を同時に聞いている顔だ。
ミツクニはさらに奥、通りの向こう側の暗がりに立っている。
白梟亭の正門を、正面から見渡せる位置だった。
派手に動くつもりはない。
今夜は何かを奪うためではなく、相手が何を急いだのかを確かめるために来ている。
「どう読みますか」
スケイルの問いに、ミツクニは灯りの漏れる二階窓を見たまま答えた。
「今日の公聴会で、わしが予想より面倒だと分かったのじゃろう」
「で、今夜のうちに次の手を打つ」
「うむ。礼儀正しく、な」
カクタスが鼻を鳴らす。
「礼儀正しく首を絞めてくる連中、ほんと嫌いだわ」
「同感じゃ」
その時だった。
白梟亭の裏門から、黒い礼装の男がひとり入っていく。
昨日見た、叔父派の側近筆頭。
ローデルだ。
ギンが目だけで合図する。
「来たわ」
「分かりやすいのう」
ミツクニは小さく頷いた。
「では、少し耳を借りるとしようかの」
◇
白梟亭の二階。
奥の会合室へ続く給仕通路は、昨夜よりもさらに通りづらくなっていた。
給仕の数が増えている。
しかもその半分は、給仕の格好をした見張りだ。
だがギンに言わせれば、それだけ焦っているということでもある。
「足音、止めて」
前を歩くギンが囁く。
シルヴィアはすぐに息を殺した。
ここ数日の潜入で、少しだけ分かってきたことがある。
ギンの“今”は、大抵正しい。
好みかどうかは別として。
細い通路を抜け、小部屋の脇へ出る。
昨夜と同じ構造だった。
壁一枚向こうで、声が低く反響している。
「――今日の件で十分でしょう」
聞こえてきたのは、監察局副局長補佐の声だった。
昨夜もいた男だ。
「若君は、想像以上に“言葉”を使う」
「ええ」
ローデルの声は低い。
抑揚が少ない。感情を乗せぬことに慣れている声だった。
「地方の不正を拾うだけなら、まだ若さゆえの物好きで片づけられました。しかし今のように、公の場で制度そのものへ噛みつかれると厄介です」
「では」
「形を決めましょう」
別の男が言う。
商会筋らしい、鼻にかかった声だ。
「若君の巡察を“私的行為”として整理する。以後、地方官・町役場・神殿・商会は、協力義務なし。資料提出は王都監察局経由に限定」
「妥当ですね」
「聖印への対応は」
「儀礼上の敬意は残す。ただし、実務権限は確認待ちへ落とす」
シルヴィアの背筋が冷たくなった。
それは、ただの嫌がらせではない。
権威の骨を抜く手だ。
敬意は払う。
しかし、実際には従わない。
叔父派が狙っているのは、最初からそこだった。
「名目は何にします」
年配の文官が静かに問う。
ローデルは、少しも迷わず答えた。
「若君の年齢です」
沈黙が落ちる。
「血筋と象徴性は否定しない。むしろ立てる。そのうえで、“若く、未だ統治実務の全体を負う段ではない継承者”と位置づける」
「なるほど」
「未熟ゆえの善意は認める。だが、地方巡察は私的遍歴。正式命令権は伴わず、聖印の運用も王都照会を要する。そう整理すれば角が立たない」
「立つでしょうが」
「立つが、礼は失しない」
監察局の男が小さく笑う。
「見事な切り分けです」
「若君ご本人を悪し様に言わず、権限だけを細らせるわけですね」
「ええ。子どもを叱るように見せるのが肝です」
その瞬間、シルヴィアの指先に力が入った。
未熟な若君。
善意だが未熟。
熱心だが未熟。
だから、立派な大人たちが制度の中へ戻してやる。
そういう顔で来るのだ。
昔、自分が受け取っていた命令書の匂いと同じだった。
相手を正面から潰さない。
守るため。整えるため。本人のため。
そういう顔で、立つ場所だけを消す。
ギンがそっと、シルヴィアの手首に指を置いた。
落ち着け、という合図だ。
だが、次の一言で、その指先にもわずかに力がこもった。
「ついでに、若君へ共感を示した地方官の洗い出しも進めておきましょう」
商会筋の男が軽く言う。
「今のうちに線を引いておかねば、あとで面倒です」
「賛成です。感情で揺れる者は、制度運用の障害になりますから」
「地方の痛みを拾う癖のある者は、今後の人事でも注意対象に」
「結構」
ローデルの声は最後まで平板だった。
シルヴィアは、ようやく理解した。
叔父派は、地方の不正を回しているだけではない。
その不正に心を動かされる人間そのものを、不向きな者として帳簿に乗せ始めている。
「……最低」
それは、シルヴィアの口からこぼれたのではない。
隣のギンだった。
珍しく、抑えきれなかったような声だった。
その時、部屋の向こうで椅子が鳴った。
「誰だ」
短い声。
ギンの目が鋭くなる。
「走るわよ」
◇
給仕通路を抜け、裏庭へ出た時には、背後で扉が開く音がしていた。
見つかった。
ギンは迷わず塀へ飛びつき、身軽に上へ上がる。
シルヴィアも続いた。
昨日までなら一拍遅れただろう。
だが今は違う。
衣装の裾を片手で払い、身体の向きを変え、足の置き場だけで登りきる。
「上手くなったじゃない」
「褒めるなら後で」
「はいはい」
塀の向こうへ降りた瞬間、待っていたスケイルが二人を受けるように立っていた。
「追手二」
「分かってる」
ギンが短刃を抜く。
シルヴィアも腰の短剣へ手をかけた。正装向けの隠し武器だが、使えぬわけではない。
追手は白梟亭の私兵ではなかった。
もっと整っている。
監察局の警備だろう。動きが静かで、無駄がない。
「止まりなさい」
その一人が言った。
「今夜のところは、穏便に」
「その言い方、ほんと好きよね」
ギンが笑う。
「でも嫌いなのよ」
「こちらもです」
シルヴィアの声は冷えていた。
相手が一歩踏み込んだ瞬間、ギンが横へ流れる。
視線を奪う。
同時にシルヴィアが正面から半歩だけ入って、手首を払う。
刃筋ではない。
制圧の動きだ。
短い交錯。
もう一人へはスケイルが入る。
背後からカクタスが現れた時には、勝負はほぼついていた。
「よっしゃ、捕まえた」
「静かにしろ」
「今のは俺じゃねえ!」
追手二人は地面に伏せさせられ、ギンがその胸元から識別札を引き抜いた。
「やっぱり監察局」
「地方の酒場より、ずっとお上品に追ってくるわね」
「追ってくること自体は同じじゃ」
そこへ、少し遅れてミツクニが来る。
外套の裾を払う仕草まで落ち着いていた。
「聞けたかの」
「ええ」
ギンが答える。
「来るわよ。未熟な若君、って顔で」
「うむ」
「聖印は敬う。でも従わない。巡察は認める。でも私的行為。そういう切り方をするつもり」
「うむ」
ミツクニは、静かに頷いた。
驚きはなかった。
むしろ、やはりそう来たか、という顔だった。
「怒らないんですか」
シルヴィアの声は、自分でも驚くほど硬かった。
「怒っておるよ」
「……」
「じゃが、予想の範囲内じゃ」
ミツクニは識別札を指でつまむ。
「聖印そのものを否定すれば、まだ反発は大きい。ゆえに否定しない。わしも否定しない。じゃが、まだ若い、善意だが未熟、立派な保護が必要という顔で囲う。叔父上らしい」
「私、ああいうの嫌いです」
「うむ。わしもじゃ」
「笑ってないでください」
「笑ってはおらぬよ」
その時、ヤッシュが暗がりから出てきた。
「のんびりしてる暇はねえぞ」
「何か動いたかの」
「もう印刷に回ってる。明朝には町中の掲示板だ」
全員が一瞬黙った。
早い。
向こうは今夜聞き、今夜決め、明日の朝には空気として配る気だ。
ギンが舌打ちする。
「ほんとに仕事だけは早いんだから」
「綺麗な顔の裏で、せっせと働くからのう」
ミツクニは赤布を巻いた苦無をひと撫でしてから、静かに言った。
「よろしい。では、明日の朝一番に見に行こうかの」
◇
朝。
アスベルの町は、昨日までと同じように整っていた。
だが、人の視線だけが違った。
広場へ近づくほど、囁きが増える。
露店の女がこちらを見る。
役場帰りの書記が目を逸らす。
馬具屋の若い職人が、何か言いたげに口を閉じる。
そして町役場前の掲示板には、新しい布告が貼られていた。
白地に黒字。
王都監察局と執政代理府の連名。
シルヴィアは、紙を見た瞬間、胃の奥が冷えた。
勇者家継承者ミツクニ殿の私的巡察について、地方官は敬意を払いつつも、行政協力・資料提供・命令受領を行わぬこと。聖印による臨時指示は、今後すべて王都照会を要する。なお、若君の善意と熱意は重く受け止めるも、未だ統治実務の全般を負う段ではなく――
そこまで読んだところで、カクタスが低く唸った。
「胸糞悪い」
「ええ」
「しかも言い回しが丁寧なのが最悪」
「昨日聞いた通りじゃ」
ヤッシュが鼻を鳴らす。
ハチが掲示板の前で顔をしかめる。
「何これ。褒めてるふりして締めるやつじゃん」
「おぬし、そういうところだけ感覚が鋭いのう」
「商売してると分かるんだよ! 嫌な褒め方ってあるもん!」
ミツクニは布告を最後まで読み、ふっと笑った。
「見事なものじゃ」
「見事じゃありません」
シルヴィアが思わず言う。
「ここまで露骨に格を落としに来るなんて」
「うむ。じゃが、上手い」
「褒めないでください」
「褒めてはおらぬ。評価しておる」
ミツクニは紙を指先で軽く叩いた。
「聖印は否定せぬ。わしも否定せぬ。じゃが、わしを未熟な継承者と位置づけることで、権威の行使だけ細らせる。しかも礼を失せぬ形で。叔父上、やはり性格が悪いのう」
「笑いごとじゃないわよ」
「笑ってはおらぬよ、ギン」
その時、役場の若い書記が、書類束を抱えたままこちらへやって来た。
昨日の公聴会で、何度か目が合った男だ。
「若君様」
彼は深く頭を下げた。
「昨日は……その……」
「うむ」
「本来なら、今日お渡しするつもりだった町の価格統制記録があるのですが」
「あるのですが」
「渡せません」
声が震えていた。
「今朝、この布告が出ました。私が今ここで若君様へ記録を渡したと知れれば、職を失います」
「……」
「申し訳ありません」
若い書記は、本当に申し訳なさそうだった。
シルヴィアは、布告の効き方をそこで初めて実感した。
これは、単なる紙ではない。
地方の善意や迷いを、日常の怖さで押し潰すための紙だ。
ミツクニは、若い書記を少しの間見ていた。
やがて、穏やかに答える。
「よい」
「ですが」
「おぬしは職を失ってまで英雄になる必要はない」
「……」
「渡せぬなら、渡せぬで構わぬ。わしらは別の口から見る」
若い書記は目を見開き、それから再び頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「礼を言う場面ではないがの」
「いえ」
男はそれ以上言わずに去った。
若い書記が去った後、スケイルだけが一歩、役場の脇道へ目を向けた。
「若」
「何じゃ」
「あの書記、まだ完全には去っていません」
「ほう」
見ると、役場の裏口近くで、書記が別の女書記と何かを話している。女書記はちらりとこちらを見た。いや、正確にはスケイルを見た。
ギンが小さく笑う。
「また?」
「また、とは何です」
「いいから行ってきなさい。あなたが行くと、紙が少しだけ軽くなるみたいだから」
「私は文鎮ではありません」
そう言いながらも、スケイルは静かに歩いていった。
距離を取りすぎず、近づきすぎず、相手に圧をかけない場所で止まる。
「困らせるつもりはありません」
彼は女書記へ言った。
「渡せないものは、渡さなくていい。ただ、何がどこへ移されたかだけ知りたい」
女書記は戸惑ったように視線を泳がせた。
「それも……」
「名前は聞きません」
「……」
「あなたが誰かを裏切ったことにはしない」
しばらく沈黙があった。
やがて女書記は、小さく息を吐いた。
「価格統制記録は、今朝、王都本区向けの先行送達箱に移されました。白梟亭関係者の分と一緒に」
「箱の印は」
「梟の印と、執政代理府の小印です」
「助かりました」
スケイルはそれだけ言って、深く踏み込まずに戻ってきた。
ハチが目を輝かせる。
「また情報もらってきた!」
「顔で」
「顔ではありません」
「じゃあ何で?」
「相手が、正しいことを言う機会を探していただけです」
ミツクニは静かに頷いた。
「それを逃さず拾えるのも、才じゃよ」
スケイルは少しだけ困った顔をした。
「若にそう言われると、否定できませんね」
シルヴィアは、その背を見送りながら言う。
「こういうこと、なのですね」
「うむ」
「紙一枚で、人の善意を止める」
「うむ」
「正面から敵だと言わずに」
「うむ」
「……本当に、嫌なやり方です」
「じゃろうな」
ミツクニは広場を見回した。
皆、こちらを見ている。
侮る者。
戸惑う者。
同情する者。
距離を測る者。
昨日までの地方を歩く若君ではなく、今日は上から未熟と決められた若君として見られている。
空気を変えられた。
それ自体は、たしかに相手の勝ち筋のひとつだ。
だが。
「では、どうするんですか」
シルヴィアが問う。
「このままだと、地方官も町役場も、ますます口を閉ざします」
「うむ」
「聖印も、出しただけでは止まらなくなる」
「うむ」
「それでも、進むんですか」
ミツクニはそこで、ほんの少しだけ目を細めた。
「当然じゃ」
答えは短かった。
「権威を囲われたなら、囲った者の顔を見に行く。地方で拾えぬなら、王都へ近いところで拾う。それだけのことじゃよ」
「……」
「叔父上は、わしを未熟な若君として檻へ戻したい。ならば、檻の外からではなく、中へ踏み込んでやればよい」
ギンが笑う。
「物騒ねえ」
「穏便な表現じゃよ」
「全然穏便じゃないわ」
カクタスが肩を鳴らした。
「好きだぜ、その考え方」
「おぬしは単純じゃな」
「褒め言葉だな!」
ヤッシュが掲示板の前で立ち止まり、布告の下部を指で叩く。
「ここだ」
皆が見る。
布告の末尾、配布範囲の欄に小さく書かれている。
本通知は、白梟亭会合関係者および王都本区関係各位へ先行送達済み。
ギンの目が鋭くなる。
「先行送達」
「うむ。つまり」
「白梟亭の連中は、もう次の場所を共有してる」
シルヴィアが息を呑む。
王都本区。
貴族院裏手の会合室。
昨夜拾った予定とつながる。
「見えましたね」
スケイルが言う。
「ええ」
ミツクニは頷いた。
「礼儀正しく締め出されたなら、締め出した側の部屋まで行けばよい」
「行くんですね」
「行くとも」
彼は掲示板へ、もう一度目をやる。
未熟な若君。
善意だが未熟。
熱意は認めるが、権限は預けられない。
綺麗な言葉で書かれている。
だが、その中身が、地方で拾った痛みを見なかったことにしろ、なのはもう分かっている。
「なら、少し未熟なままで暴れてやるとしようかのう」
その言い方に、シルヴィアは思わず小さく息を漏らした。
笑いに近い吐息だった。
「未熟を開き直らないでください」
「開き直ってはおらぬ。活用しておる」
「質が悪い」
「今さらです」
ギンが肩を震わせ、ハチが「それだ!」と無駄に元気よく頷く。
カクタスは腹を抱え、ヤッシュは呆れたように鼻を鳴らした。
だが、その空気は悪くなかった。
掲示板の前で未熟と書かれた若君は、少しも縮こまっていない。
そのこと自体が、周囲の目をわずかに変え始めていた。
露店の女が、ほんの少しだけこちらを見直した。
若い書記は、役場の窓から一瞬だけこちらを見た。
誰も味方にはならない。
だが、完全に侮ってもいない。
ミツクニは踵を返した。
「さて。王都寄りの部屋へ参ろうかの」
「白梟亭から繋がる会合、ですね」
「うむ。礼儀正しい連中の、次の相談を聞きにのう」
風が吹き、掲示板の紙が揺れた。
未熟な若君。
そう書かれたなら、それでいい。
書いた側が、そうでもしなければ恐れを隠せなかったというだけの話だ。




