第16話「誰のための法か」
翌朝、アスベルの町は、昨日までと同じように整っていた。
道は掃かれ、荷車は予定通りに通り、役場の前では書記たちが書類を抱えて行き交っている。表面だけ見れば、ここには何の問題もない。むしろ、地方のどの町よりも“ちゃんとしている”と言ってよかった。
だからこそ、ミツクニは嫌だった。
「綺麗な町じゃのう」
「はい」
シルヴィアが頷く。
「ですが、整い方があまりに均一です。人の暮らしというより、管理台帳の上から切り抜いたような」
「うむ。住んでおる者の顔より、管理する者の都合が先に立っておる」
「それ、昨日からずっと思ってた」
ハチが焼き菓子をかじりながら言う。
「店はちゃんとしてるし、人も多いのに、何か全部“きちんとしすぎ”なんだよね。失敗しちゃだめな町って感じ」
「よい表現じゃ」
ミツクニは小さく笑った。
「失敗が許されぬ町は、たいてい弱った者にも冷たい」
そこへ、ヤッシュが朝から不機嫌そうな顔で戻ってきた。
いつもの灰色の外套には、土埃がついている。
「拾ってきたぞ」
机の上へ放ったのは、今日の公告写しだった。
町役場前で開かれる公開公聴会の案内。
表題は、こうだ。
《行政合理化試案に関する地方意見聴取会》
ギンがそれを見て、口元を歪める。
「嫌な響きねえ」
「しかも、地方意見聴取とあるくせに、発言枠は事前登録制だ」
「何それ」
「つまり、都合のいい声だけ拾う気じゃ」
ヤッシュが答えた。
スケイルが公告写しを取り上げる。
「参加者一覧もあります。商会代表、町役場書記長、神殿会計補佐、監察局推薦者……」
「民は」
「二枠だけですね」
「ふむ」
ミツクニは目を細めた。
「意見を聞くふりをして、同意だけを並べるわけじゃな」
「いつもの手口だろ」
「うむ。じゃが、今回はわしらの前でやってくれる。なら、かえって都合がよい」
シルヴィアが少しだけ顔を上げる。
「出るのですか」
「出る」
「正面から?」
「うむ。法と仕組みの顔をしておるなら、こちらも正面から聞いてやるのが礼儀じゃ」
ハチが目を丸くした。
「また面倒そうな会だねえ」
「だからこそ行くんだよ、そういうのは」
カクタスが肩を回しながら言う。
「殴れねえ相手ほど、言葉で立たせりゃいい」
「言葉で立たせた後に殴る気では」
「そこは流れ次第だな!」
「流さないでください」
ギンが笑う。
ミツクニはそこで、公告写しの下へ昨日拾った改革冊子を置いた。
「ちょうどよい。昨夜拾った綺麗な言葉と、今朝並ぶ綺麗な顔。まとめて見てやろうではないか」
◇
公聴会は、町役場前の広場で開かれた。
昨日の説明会よりさらに大がかりだ。仮設壇、聴衆席、記録机、配布資料の山。役場の旗と監察局の旗、その横には執政代理府の協力章。
町の兵もいるが、威圧というより“秩序立った進行”を演出するための配置だった。
壇上には昨日の若い役人に加え、今日はもう一人、年配の文官がいた。
細身、銀縁眼鏡、白手袋。
地方へ話を落とす役目に慣れた顔だ。
「本日は、改革の理念を広く共有し、地方行政に寄与する建設的なご意見を賜りたく――」
その第一声から、ギンが小さく欠伸を噛み殺した。
「寝る?」
ハチが小声で聞く。
「まだ我慢するわ」
「えらい」
「褒めても何も出ないわよ」
シルヴィアは壇上の言葉を聞きながら、配布資料をめくっていた。
昨日の冊子よりさらに整っている。
濫用防止。
公正性。
予見可能性。
権限の明確化。
どれも間違っていないように見える。
だが、読めば読むほど、切り捨てられる側の顔が見えなくなる書き方だった。
壇上の若い役人が、聴衆へ向かって声を張る。
「改革の要は、例外の削減です! 特定の権威や個人判断に頼らず、誰が担っても同じ結果へ到達する統治こそ、今後の王国に必要なのです!」
そこで拍手が起こる。
商会筋。役場筋。神殿会計補佐。
結果さえ出ればよい側の拍手だった。
その時、ミツクニが一歩前へ出た。
「ひとつ、よろしいかの」
ざわめきが起きる。
壇上の年配文官が、いかにも柔和な笑みを浮かべた。
「もちろんです。本日は地方の声を伺うための場ですので」
「そうか。それは結構じゃ」
ミツクニは、壇の前に立った。
旅装の若者。
だが、その立ち方だけで場が少し静まる。
もうこの辺りでは、ただの旅人に見えぬ者も増えてきていた。
「今申された“誰が担っても同じ結果へ到達する統治”じゃが」
「はい」
「その“結果”とは、誰にとっての結果じゃ」
壇上の若い役人が、一瞬だけ言葉を止める。
「もちろん、国全体にとって――」
「便利な言い方じゃのう。では、橋の通行税で干上がる商いも、徴発で潰れる若者も、薬が届かず死ぬ病人も、“国全体”にとっては必要な損失ということか」
「……極端な例を」
「極端ではない。わしらが見てきた話じゃよ」
広場が静まり返る。
壇上の年配文官が、慌てずに口を挟んだ。
「痛ましい事例があることは承知しております。だからこそ、属人的な例外運用に頼らぬ仕組みが必要なのです」
「属人的、とな」
「ええ。個人の情や怒りに左右されず、制度として持続する行政を――」
「怒りはともかく、情を捨てた統治が、誰のために続くのかと聞いておる」
ミツクニの声は穏やかだった。
だが、その穏やかさがむしろ相手の逃げ道を狭める。
「法は、誰のためにある」
「民のためです」
「ならば、その法が民の顔を見なくなった時、何が残る」
「……手続きが残ります」
「そうじゃな。手続きは残る」
ミツクニは頷いた。
「で、その手続きに間に合わなかった者は、誰が拾う」
「それは地方行政の――」
「地方が拾おうとした時に、“執政代理府管轄につき照会不要”と蓋をしてきたのは誰じゃ」
そこで初めて、壇上の二人が本当に顔を変えた。
シルヴィアは、横でその変化を見ていた。
言葉を崩していない。
だが逃げた。
今の一言で、確実に逃げた。
ミツクニは続ける。
「橋の徴税も、若者の徴発も、神殿の薬も、すべて正しい手続きの顔をしておった。だが中身はどうじゃ。誰かを助けるための法ではなく、誰かを切り捨てるための仕組みに成り果てておったではないか」
「若君、そのような――」
「若君、とな。ようやくそう呼ぶか」
小さな笑いが、広場の後ろでひとつ漏れた。
ハチだ。
慌てて口を押さえたが、遅い。
ミツクニはちらりとも振り向かず、言葉を続けた。
「権威とは、従わせるためにあるのではない。安心して暮らさせるためにある。法も同じじゃ。守るべき者を守れぬ仕組みは、整っておっても立派とは呼ばぬ」
「……」
「そして、民の痛みを“個別の不運”として帳簿の外へ追いやる者に、公正を語る資格はない」
年配文官が、ようやく口を開いた。
「若君は感情を重視しすぎておられる」
「当然じゃ」
ミツクニはあっさり答えた。
「死ぬ者が感情を持ち、残される者が感情を持ち、生きていく者も感情を持つ。統治がそれを最初から勘定に入れぬなら、何を重視するのか逆に聞きたいわ」
「制度です」
「制度は人のためにある」
「ええ」
「ならば人を見よ」
短い言葉だった。
だが、広場の空気が変わるには十分だった。
商会筋の何人かが目を伏せる。
町役場の若い書記が、配布資料を見下ろす。
広場の端にいた露店女が、じっと壇上を見ている。
シルヴィアは、その光景を見て思った。
この人はやはり、勇者ではない。
誰かを倒して終わる人ではなく、立っている言葉の意味ごと問い返す人だ。
だから強いのだ。
◇
公聴会そのものは、その後も続いた。
だがもう、最初の予定通りには進まなかった。
役人たちは綺麗な文句を並べる。
だが一度、“誰が拾うのか”と問われた後では、その言葉の軽さが目につく。
聴衆の反応も変わった。
素直に拍手する者ばかりではない。冊子を読み直す者、隣と小声で話す者、眉をひそめる者が増えていく。
ハチがこそこそ言う。
「ねえ、何か空気変わった?」
「うむ」
「勝ってる?」
「だいぶ勝っておる」
「やった」
「だから何でおぬしが誇らしげなんですか」
「仲間だから!」
シルヴィアは小さく息を漏らした。
笑いに近い吐息だった。
その時、壇の脇に控えていた役場書記長が、誰かへ急いで何かを耳打ちするのが見えた。
次いで、神殿会計補佐が席を立ち、裏手へ消える。
ギンの目が細くなる。
「逃げた」
「うむ。書類か、人か、どちらかを動かしに行ったな」
「追う?」
「今はまだよい」
ミツクニは視線だけで制した。
「ここで慌てて追えば、こちらが掴んだと知らせるだけじゃ。今は揺らしただけで十分よ」
「珍しく慎重」
「いつも慎重じゃよ」
「坊ちゃん基準は信用してないわ」
「辛辣じゃのう」
そこで、シルヴィアが口を開く。
「ですが、今の動きで確信しました」
「何をじゃ」
「改革案の説明そのものが目的ではありません。彼らはもう、反応を見ています。誰が乗り、誰が躊躇い、誰が邪魔になるか」
「うむ」
「つまり、法案ではなく選別です」
「見事じゃ」
ミツクニは頷いた。
「法は整えるために使う。だが、整えるふりをして切る相手も選べる。おぬし、だいぶ分かってきたのう」
「嬉しくない理解ですが」
「じゃが必要な理解じゃ」
「……はい」
その時、広場の奥から馬のいななきが響いた。
白い馬を曳いた紋付きの従者が、役場前へ来ている。誰か上の使いだろう。
ヤッシュが低く言う。
「王都から早馬だ」
「反応が早いのう」
「つまり、それだけ気にしてるってことだろ」
スケイルの目が細くなる。
ミツクニは、広場の喧騒の中で静かに冊子を閉じた。
「では、そろそろ引くかのう」
「いいの?」
ハチが聞く。
「うむ。今日の目的は、ここで結論を出すことではない」
「揺らすこと、ですか」
「それもある」
ミツクニはシルヴィアを見る。
「それと、おぬしに見せたかった」
「私に?」
「法が誰のために使われ、誰のために歪められるのかをな」
「……」
シルヴィアは少しだけ、目を伏せた。
昔の自分なら、今日の壇上の言葉にも頷いたかもしれない。
制度のため。
国全体のため。
例外の削減。
整って聞こえる言葉は、真面目な人間ほど飲み込みやすい。
だが今は、その言葉の下へ埋められる顔が見える。
橋の町の商人。
徴発された若者。
薬の届かなかった村。
帰れなかった人々。
「……見えました」
ぽつりと、彼女は言った。
「昔は、正しい言葉の形だけを見ていました。今は、その言葉の下に潰れるものも見えます」
「うむ」
「だから、もう同じ聞き方はしません」
「十分じゃ」
ミツクニは穏やかに頷いた。
◇
宿へ戻る頃には、夕方の風が少し強くなっていた。
通りの端では、今日の公聴会で配られた冊子が一枚、風に煽られて転がっていく。
ハチがそれを拾い上げ、しげしげと見た。
「ねえ、これさ」
「何じゃ」
「読めば読むほど、困った人は順番待ってね、ってことしか書いてなくない?」
「雑ですが、だいたいそうです」
「雑って言うけど合ってるよね!?」
「ええ。残念ながら」
ギンがふっと笑う。
「でも、今日はその“順番待ち”にされる側の顔を、広場の連中もちょっとは思い浮かべたんじゃない?」
「うむ。それでよい」
ミツクニは、拾った冊子をハチから受け取った。
「敵の言葉は、こちらが全部潰す必要はない。綺麗な顔のままでは立てぬよう、少し揺らしてやれば十分な時もある」
「怖い言い方するわねえ」
「優しい言い方に聞こえんか?」
「全然」
「そうか」
カクタスが肩を鳴らす。
「次はどうする」
「次は――」
ミツクニが言いかけた時、宿の裏手から赤い布を巻いた苦無が一本、壁へ突き立った。
全員がそちらを見る。
ヤッシュの印だ。
スケイルが近づき、紙片を外して渡す。
ミツクニは目を走らせ、わずかに口元を引き締めた。
白梟亭。予定繰上げ。今夜、内輪の顔合わせあり。側近筆頭も来る。
「ほう」
「何て?」
「向こうも、今日の揺れを見て少し急いだらしいのう」
ギンが面白そうに目を細める。
「なら、ちょうどいいじゃない」
「ええ。表で揺らして、裏で焦る。分かりやすいです」
「おぬしも言うようになったのう、シルヴィア殿」
「誰の影響だと思ってるんですか」
「半分くらいは坊ちゃんでしょ」
「残り半分は誰です」
「狐じゃな」
「否定しません」
その返答に、ギンが一瞬だけ目を丸くし、それから笑った。
「ほんと、変わったわね」
「変わらされたんです」
「他人事みたいに言うなよ」
「半分くらいは自分の意志です」
「十分じゃ」
ミツクニは赤布苦無を指で回しながら、静かに言った。
「では、今夜は白梟亭へ行くとしようかの」
綺麗な法の話は、もう聞いた。
次は、その法をどこでどう料理しているのかを見に行く番だ。
夕暮れの町はまだ整っている。
だが、その整い方の裏で、確かに何かが慌て始めていた。




