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第15話「行き遅れ騎士、夜会に立つ」



 白梟亭は、貴族街の外れにひっそりと建っていた。


 ひっそり、とはいっても、あくまで王都近郊の基準での話だ。石造りの三階建て。白い壁に、黒い屋根。門柱には梟を象った銀の意匠が飾られている。


 通りに面して大きく看板を出してはいない。


 だが、知らぬ者が見ても分かる。


 ここは、金のかかっている場所だ。


 表向きは、慈善晩餐会と文化交流のための私邸サロン。


 実際には、役人、商人、地方貴族、神殿筋の人間が、表では言いにくい話をするための場所らしい。


「ずいぶんと、趣味の良い悪事の匂いじゃのう」


 少し離れた路地から建物を見上げ、ミツクニが呟いた。


 今夜、ハチは宿待機だ。


 カクタスも外で待機している。こういう場にねじ込むと、建物の品格が泣く。あるいは建物そのものが泣く。


 表で動くのは、ギンとシルヴィア。


 周囲にはスケイルとヤッシュが散り、ミツクニは少し離れた位置から全体を見る。


「中は、さすがに静かそうですね」


 スケイルが言う。


「静かな場所ほど、喋る声の値段は高いものじゃ」


「今夜は、その高い声を拾うと」


「うむ」


 ミツクニは頷き、それから二人を見た。


 ギンは、あくまでギンらしく仕上がっていた。


 深い紫の衣装は露出こそ抑えめだが、歩くたびに生地が揺れ、目が自然に追ってしまう線を作る。色気を前へ出しているのではない。視線の流れごと設計している。


 一方のシルヴィアは、前夜よりさらに夜会寄りの装いだった。


 銀灰の上衣に、濃紺の長裙。胸元は閉じているが、首筋と肩の線が綺麗に見える。髪は片側へ流し、飾りは少なめ。騎士の鋭さを完全には殺していないのに、場へ馴染む程度には柔らかい。


 そして何より、姿勢が違った。


 昨日までのぎこちなさが、少し抜けている。


 まだ慣れてはいない。


 だが、鎧を脱いで立つことを、自分なりに受け入れ始めている。


「どうじゃ、シルヴィア殿」


「落ち着きません」


「正直でよろしい」


「ですが、逃げるつもりはありません」


「うむ。それでよい」


 ギンが横から、くすりと笑った。


「昨日よりずっとましよ。少なくとも、この布が少なすぎます、って顔はしてない」


「思っていても言わないだけです」


「進歩じゃない」


「あなた基準で進歩を測らないでください」


 そのやり取りに、ミツクニは少しだけ目を細めた。


「今夜は、拾えるものを拾うのが先じゃ。張り合うのは後にせい」


「張り合っていません」


「張り合ってないわよ、まだ」


「その“まだ”が気になります」


「気にしといて」


 ヤッシュが路地の奥から短く言った。


「時間だ」


 白梟亭の門前に、黒塗りの馬車が一台、また一台と入っていく。


 招かれた者たちが揃い始めた合図だった。


「では、参ろうかの」


「はい」


「ええ」


 ギンとシルヴィアは視線を交わし、並んで灯りの方へ歩き出した。


     ◇


 白梟亭の中は、過剰でない上品さに満ちていた。


 大広間には弦楽器の静かな音。長卓には酒と軽食。壁には穏やかな風景画。給仕たちは足音を立てず、客たちは声を張らない。


 それでいて、場はきちんと賑わっている。


 地方の酒場と違うのは、誰も本音を顔に出さないことだった。


 笑顔はある。


 親しげな声もある。


 だが、それらは全部、出してもよい範囲のものだ。


「吐きそう」


 入ってすぐ、シルヴィアが小さく言った。


 ギンは表情ひとつ変えずに囁き返す。


「大丈夫。吐くなら裏庭。今は笑って」


「簡単に言わないでください」


「簡単じゃないから、言ってるの」


 その時、給仕が二人へ杯を差し出した。


 シルヴィアの指先が一瞬止まる。


 ギンはすぐに気づいた。


「水でいいわ」


「助かります」


「顔に出てたわよ。私は酒を飲むと死にます、って」


「そこまで出ていません」


「半分くらいは」


「最悪です」


 ギンは笑いながら、自分は薄い葡萄酒を受け取る。


 シルヴィアは水だ。


 その選び方ひとつで、この女がどれだけ場慣れしているかが分かる。


 無理をせず、しかし浮きもしない。


「ほら、右の一団」


 ギンが杯を揺らしながら、視線だけで示す。


 暖炉近く。


 恰幅のよい男が三人。細身の文官が二人。商会筋らしい男がひとり。話している内容までは届かないが、相槌の打ち方が似ている。


 利害で繋がる者たちの距離感だ。


「監察局副局長補佐がいる」


「どれです」


「銀縁眼鏡。背が高い方」


「……いました」


 その時、別方向から声がかかった。


「おや」


 二人が振り向く。


 そこにいたのは、四十代半ばほどの貴族だった。


 髪を綺麗に撫でつけ、頬には年相応のたるみがある。だが目はよく動き、酔っているようで酔っていない。


「今夜はずいぶん華やかな客人がいる」


 言いながら、その男の視線はギンをひとまず舐め、次いでシルヴィアの顔で止まった。


 ほんの一拍。


 その一拍で、シルヴィアは悟る。


 この男は、自分のことを知っている。


「失礼。どこかで……」


「気のせいではありません」


 シルヴィアが先に言った。


 男は、今度こそはっきり目を細めた。


「なるほど。やはり、シュタイン卿の」


「フォン・シュタインです」


「そうだった。これは失礼」


 口では謝る。


 だが、その声には、覚えている、という確信があった。


 ギンが横目でシルヴィアを見る。


「知り合い?」


「知り合いではありません」


「顔見知り、かしら」


「そういうものでも……」


 そこまで言って、シルヴィアは口をつぐんだ。


 違う。


 これは顔見知りではない。


 あの頃、自分がまだ王都側の命令に疑いを持ちきれず、真面目に従っていた時期に、一度だけ見たことのある顔だ。


 村への救援が遅れた件。


 その時、上から来た説明役のひとり。


 男の方は、こちらの沈黙でほぼ察したらしい。


「お久しぶりですな」


「……」


「地方で苦労されていると聞いておりましたが、まさかこのような場で再会するとは」


「私もです」


 声音は平静を保てた。


 だが、内側はかなり冷えていた。


 男はにこやかに続ける。


「昔から真面目なお嬢さんでした。命令はきっちり守るし、余計な色気もない。上としては使いやすい」


「……」


「いや、褒めているのですよ?」


 ギンの目が、すっと細くなった。


「それ、褒めてるつもりなんだ」


「おや」


「少なくとも、今の私にはそうは聞こえないわね」


 男はギンへ目を移し、軽く肩をすくめた。


「連れの方ですか。これは失礼」


「失礼だらけね、あなた」


「手厳しい」


 だが男は、余裕を崩さない。


 こういう相手だ。何を言われても、社交の範囲で受け流せる。だから厄介だった。


「今はどちらのお立場で?」


「旅の者です」


「旅、ですか」


 男は笑う。


「ずいぶんと贅沢な旅だ」


「ええ。おかげで、昔見えなかったものも少しずつ見えてきました」


「ほう」


 その時だった。


 広間の奥、階段脇に新しい人影が現れた。


 黒の礼装。無駄のない身のこなし。周囲が自然に道を開ける。


 ギンが小さく言う。


「いた」


「誰です」


「叔父派の側近筆頭。名前はローデル」


 男は広間の中心には入らず、暖炉脇の一団へまっすぐ向かう。商会筋、監察局、財務官補佐。その全員が、ほんの少しだけ姿勢を正した。


「見えたわね」


「ええ」


 シルヴィアが頷く。


 あれが、地方の腐敗のもっと近い上流だ。


 目の前の中年貴族が、二人の視線の先を追って笑った。


「おや。気になりますか」


「ええ」


「地方の方には少し縁遠いかもしれませんな。王都の先の話をする方々です」


「先、とは」


「改革の先です。古い権威が退き、きちんと整理された国になる」


 シルヴィアはその言葉を聞いて、胸の奥が妙に冷静になるのを感じた。


 昔なら、こういう言い回しに押し切られていたかもしれない。


 整理された国。


 先の話。


 感情ではなく制度。


 だが今は違う。


 橋の町の乾いた顔。


 徴発された若者たち。


 神殿の薬。


 帰れなかった村。


 その全部を見た後なら、こういう言葉が何を隠すか、もう分かる。


「整理、ですか」


 シルヴィアは男を見た。


「誰にとって都合よく、です?」


 男の笑みが、わずかに固まった。


「おや、手厳しい」


「答えになっていません」


「では逆に伺いたい。何でも救い、何でも拾い、何でも感情で動かして、国が回ると?」


「私はそんなことは言っていません」


「では何を」


「切り捨てた者の数を、最初から勘定に入れて回す国を信用しないと言っているだけです」


 ギンが、横で少しだけ目を見開いた。


 シルヴィアは、そのまま続ける。


「間に合わなかった者を“やむを得ない”と片づけるのは簡単です。ですが、その簡単さを積み上げた先に何が残るのか、私はもう知っています」


「……」


「綺麗な言葉で済む話ではありません」


 男は、しばらくシルヴィアを見つめていた。


 やがて、口元だけで笑う。


「なるほど。地方は人を変える」


「ええ。痛いほどに」


「では、今日はこれ以上やめておきましょう。こういう場で傷の話は似合わない」


「そうですね」


「血も涙も、杯に落とすと味が悪い」


 最後まで、嫌な言い方をする男だった。


 彼は一礼し、そのまま暖炉脇の方へ去っていく。


 ギンはその背を見送ってから、ぼそりと呟いた。


「最低」


「ええ」


「でも、拾えたわね」


「かなり」


 その時、奥の小会議室の扉が開いた。


 ローデルが一団を連れて、そちらへ入っていく。監察局副局長補佐、財務官補佐、金鶸商会の男。さっきの中年貴族も後に続いた。


「行く?」


「見送るだけでは足りません」


 シルヴィアが言うと、ギンがにやりとした。


「やっといい顔してきたじゃない」


「あなたの好みに合わせたつもりはありません」


「そこがいいのよ」


     ◇


 小会議室の横には、給仕用の細い控え通路があった。


 ギンが迷いなくそこへ入り、シルヴィアも続く。壁の向こうから低い話し声がする。


 扉の前には見張りがひとり立っているが、通路の角度がよく、ここなら耳を寄せずともある程度は拾えた。


 まず聞こえたのは、監察局の男の声だった。


「地方の臨時監察は、もう少しで完全に整理がつきます。聖印対応の暫定手順も浸透してきた」


「結構」


 低く返したのは、ローデルだろう。


「問題は若君本人だ。地方で妙な拾い物をしすぎている」


「今夜の監察官も戻ってきていませんが」


「その件は後でよい。どうせ口を割るほど柔くはない」


 ギンとシルヴィアの視線がぶつかる。


 柔くはない。


 つまり、まだ回収を諦めていないということだ。


 別の声が重なる。金鶸商会の男だ。


「白梟亭以降の会合は、王都でまとめた方がよろしいかと。地方では目立ちます」


「そうしろ」


「では、次は王都本区、貴族院裏手の会合室で」


「叔父殿にも、そのように伝えておけ」


 シルヴィアの背筋に、冷たいものが走る。


 叔父。


 ここまで来て、ようやくその呼称が、遠い黒幕ではなく、この部屋の会話の中心として響いた。


「改革試案は予定通り提出されます」


「異論は?」


「表向きには少々。ですが、聖印を儀礼化する方向は受けがいい。古い遺物を行政から切り離す、という言い回しが効いています」


「結構だ」


 ローデルの声は、驚くほど平板だった。


 人の生活を削る話も、権威を骨抜きにする話も、同じ調子で言う。


 ギンが小さく唇を噛んだ。


 シルヴィアは、その横顔を初めて見た気がした。普段の軽さの下にある、本気の嫌悪の顔を。


 その時だった。


 通路の向こうから、給仕が来る足音。


 ギンが即座にシルヴィアの手首を掴み、壁際の物置へ引き込んだ。


 狭い。


 近い。


 呼吸がぶつかる距離だ。


「じっとして」


「……」


「文句は後」


「言っていません」


「顔が言ってる」


 給仕が前を通る。


 盆の上のグラスが鳴る。


 足音が遠ざかる。


 ギンは少しだけ力を抜いたが、手はまだ離さない。


「……今の」


「助かりました」


「素直」


「状況判断です」


「そういうとこ、ほんと好き」


 シルヴィアは小さく息を吐いた。


「あなたも、さっき怒っていましたね」


「見えた?」


「少しだけ」


「見せるつもりはなかったんだけど」


 ギンは、珍しく視線を逸らした。


「嫌いなのよ。ああいう、綺麗な顔で人の痛みを数字にする連中」


「……意外です」


「何が」


「もっと、割り切っているのかと」


「割り切ってたら、坊ちゃんのところにはいないわよ」


 その一言は、静かだった。


 シルヴィアはそこで、ようやく少し腑に落ちた気がした。


 この女は、軽く見えるし、軽く振る舞える。


 だが、根っこのところで腹を立てる場所はちゃんとある。


 だからこそ、ミツクニの側にいるのだ。


「……あなた」


「何」


「やっぱり、好みではありません」


「知ってる」


「ですが」


「うん」


「もう、相容れないとは思っていません」


 ギンが瞬きをひとつして、それからふっと笑った。


「進歩したじゃない」


「評価です」


「やっぱり堅い」


「それも知っているでしょう」


「ええ。そこも含めて、嫌いじゃないわ」


 狭い物置の中で、二人はほんの少しだけ笑った。


     ◇


 夜更け、宿へ戻ると、ミツクニたちはまだ起きていた。


 ハチが真っ先に飛びついてくる。


「どうだった!?」


「うるさい」


「だって気になるもん!」


「十分な収穫があったわ」


 ギンが上着を脱ぎながら言う。


「明後日の白梟亭は前座。王都本区の会合室で、本番をやるつもりみたい」


「王都本区……」


「貴族院裏手の会合室。叔父様の側近筆頭がそう言ってた」


 ヤッシュが低く唸る。


「やっと王都の中枢に手がかかるな」


「ええ。それと」


 シルヴィアが続ける。


「改革試案は予定通り進んでいます。聖印を儀礼化し、実務から切り離す方向で、かなり固めに入っているようです」


「ほう」


 ミツクニは静かに頷いた。


「つまり叔父上は、わしを黙らせたいのではない。聖印そのものを、喋れぬ飾りへ戻したいわけじゃ」


「その方が後腐れなく地方を回せるからね」


「笑って首を切るには、ちょうどいいわけだ」


 カクタスが不機嫌そうに腕を組む。


「気に食わねえな」


「うむ。わしもじゃ」


 ミツクニは、それからギンとシルヴィアを見た。


「二人とも、よう働いた」


「当然よ」


「……はい」


「それと」


「何?」


「何ですか」


「背中を預けられる顔になってきたのう」


 シルヴィアは少しだけ目を逸らし、ギンは肩をすくめた。


「坊ちゃん、たまにそういうことをさらっと言うから質が悪いのよ」


「本心じゃからの」


「それが悪いって言ってるの」


「褒めてるんですか、けなしてるんですか」


「両方」


 ハチが笑い、カクタスも笑い、スケイルだけが静かに視線を伏せる。


 だが、その空気は悪くなかった。


 真面目な騎士と、裏稼業の狐。


 水と油ほど違う二人だ。


 それでも今夜、少なくとも同じ方向を見ていることだけは確かだった。


 ミツクニは机の上へ、新しい紙を一枚置いた。


「では次じゃな」


「王都本区の会合室?」


「いや」


 彼は首を横に振る。


「その前に、叔父上の改革とやらが、どれだけ綺麗な言葉で塗られておるか、もう少し表から確かめておきたい」


「表、ですか」


「うむ。次は法と仕組みの話になる。なら、正面から聞きに行くのがいちばん早い」


 外では、もう夜も深い。


 だが眠るには、拾った話が多すぎた。


 王都は近い。


 そしてそこへ至る道の上には、まだいくつもの綺麗な嘘が並んでいる。


 旅は続く。


 今度は、その嘘の文章を一枚ずつ剥がしながら。

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