第14話「狐と騎士は相容れない」
日が落ちる頃、宿の一室には、どう見ても旅装の一行が使うものではない衣服が広げられていた。
絹。薄手の手袋。飾り紐。真珠めいた留め具。
そして、シルヴィアが見ただけで眉間に皺を寄せた、胸元の開いた深い藍のドレス。
「却下です」
即答だった。
ギンは椅子に片足を乗せたまま、楽しそうに口元を上げる。
「まだ袖も通してないのに?」
「見れば分かります」
「何が?」
「布が少なすぎます」
「必要なところはあるじゃない」
「その必要の基準が信用ならないんです」
ハチが目をきらきらさせている。
「え、着るの!? 見たい!」
「見せません」
「ええー!」
「おぬしは黙っていなさい」
シルヴィアが一喝すると、ハチは素直に口を閉じた。
だが目だけはまるで閉じていない。
部屋の隅ではカクタスが肩を震わせ、スケイルは壁にもたれて目を閉じている。ミツクニだけが、卓上に肘をついて、面白そうに二人を眺めていた。
「堅いわねえ」
ギンがドレスをつまみ上げる。
「今夜行くのは、町役場の裏手にある議会倶楽部。貴族と役人と商人が、改革だの合理化だの、言葉だけ綺麗な話をする場所よ。そこへ騎士隊長の顔で乗り込んだら、入口で終わり」
「それは分かっています」
「だったら形を変えなさい」
「だからといって、これは」
「何が不満なの」
「全部です!」
カクタスがとうとう吹き出した。
「はっはっは! 隊長殿、今日は最初っから全力だな!」
「その呼び方をやめなさい!」
「やめろって言いながら毎回反応するの、もう半分受け入れてるだろ」
「受け入れていません!」
ギンはため息をつき、別の包みを放った。
「じゃあ、こっち」
「……」
シルヴィアが受け取って開く。
今度は、淡い銀灰色の上衣と深紺の長裙だった。胸元は先ほどより閉じているが、腰の線は綺麗に出る。袖は細く、背には動きやすいよう浅い切れ込みが入っていた。
派手ではない。
だが、目を引く。
「それなら、まあ、騎士さんでも死なないでしょ」
「さっきの基準がおかしかっただけです」
「厳しいわね」
「当然です」
ミツクニがそこで、ほっほっと笑った。
「よかったのう、ギン。おぬしの中でも死なずに済む装いが見つかって」
「坊ちゃん、そういう言い方すると、今度は坊ちゃんの服から決めるわよ」
「それは困る」
「でしょうね」
シルヴィアは銀灰の衣装を見つめた。
正直、落ち着かない。
鎧の重みも、剣帯の位置も、何もかも違う。
だが、今夜は騎士隊長シルヴィアとして立つ場ではない。そう理解はしている。
「……これで行きます」
「うむ。よく似合うと思うぞ」
「まだ着ていません」
「おぬしは何を着ても似合いそうじゃからの」
「今の褒め方、雑すぎませんか」
「本心じゃよ」
そう言われると、返しに困る。
ギンはにやりと笑って立ち上がった。
「じゃ、行く前に最低限叩き込むわよ」
「何をです」
「歩き方、目線、杯の持ち方、笑い方、断り方、触られた時の逃がし方、近づく時の角度」
「多すぎます」
「今さらよ。騎士って面倒ねえ。寝間着で戦場に行くわけじゃないでしょう?」
「潜入と戦場を同列にしないでください」
「私にとっては大差ないわ」
その言い方に、シルヴィアは一瞬だけ黙った。
冗談めいている。
だが、嘘は混じっていなかった。
◇
支度が済むまで、思っていたより時間がかかった。
ギンは鏡の前で、シルヴィアの髪を解き、結い直し、銀の飾りをひとつだけ留めた。普段の高い位置の結い上げではなく、低くまとめて横へ流す。
鋭さは少し残しつつ、夜会向きの線にする。
「そんなに睨まない」
「睨んでいません」
「その顔で?」
「これが普通です」
「困るわねえ」
鏡の中の自分は、自分なのに少しだけ知らない女に見える。
鎧ではなく布。
剣帯ではなく飾り紐。
けれど、腰の芯だけは崩していない。崩せないとも言う。
「ほら、肩」
「何です」
「上がりすぎ。喧嘩売ってるように見える」
「売っていません」
「見えるのよ。もっと抜いて」
「……こうですか」
「違う」
「なら、どうしろと」
「こう」
ギンが後ろから軽く肩に触れ、力の抜き方を示す。
あまりに自然な手つきに、シルヴィアはわずかに目を見開いた。
「……慣れているんですね」
「仕事だもの」
「仕事、ですか」
「ええ。相手に“自分が見たいもの”を見せるのが」
鏡越しに、ギンの目が合った。
「でも勘違いしないで。媚びてるわけじゃない。握らせるの。主導権を」
「その違いが、私にはまだよく分かりません」
「でしょうね」
ギンは笑ったが、馬鹿にする響きはなかった。
「あなたは正面から立つ人だもの。真正面で受け止めて、真正面で返す。それは強いわ」
「……」
「でも、真正面だけじゃ切れない喉もあるのよ」
その言葉は、少しだけ刺さった。
シルヴィアは鏡の中のギンを見る。
いつもは妖艶だとか、気ままだとか、そういう印象が先に立つ。だが今は違った。彼女は女を使っているのではない。
使えるものを、武器にしている。
「あなたは」
言いかけて、シルヴィアは口をつぐんだ。
「何?」
「……いえ」
「気になることは最後まで言いなさい」
「嫌です」
「堅い」
「あなたが近いんです」
ギンはくすりと笑い、シルヴィアの耳元にそっと髪を落とした。
「じゃあ覚えておいて。今夜もし誰かに近づかれても、肩で拒むな。角度で外すの」
「角度」
「ええ。拒絶を見せると意地になる男がいる。だから、自然に届かなかったと思わせる」
「面倒ですね」
「男ってそういうものよ」
「まとめないでください」
「坊ちゃんまで巻き込みそうだから、それ以上はやめとくわ」
シルヴィアは思わず、ほんの少しだけ口元を緩めた。
◇
議会倶楽部は、町役場の裏手に建つ二階建ての石造りだった。
表向きは、有志の政策勉強会。
中身は、改革案に賛同する役人、商人、地方貴族が顔を揃える、上等な根回しの場だ。
玄関前には灯りが並び、馬車が静かに止まっている。
香水と煙草と葡萄酒の匂い。
笑い声はあるが、下品ではない。むしろ洗練されていて、それがなお嫌らしい。
ミツクニたちは少し離れた路地から様子を見ていた。
ヤッシュは影の中。
スケイルは周囲の警備を見ている。
カクタスは、この手の場所には全く向かないので裏通りで待機。
ハチは当然ながら宿へ置いてきた。
「改めて言うけど」
ギンが扉の明かりを見つめながら言う。
「今夜の目的は喧嘩じゃないわ。会合の参加者、話題、叔父派の次の予定。その三つを拾うこと」
「分かっています」
「あなたは表の会話を拾って。私は奥の部屋を探る」
「勝手に消えないでください」
「潜入してるのよ?」
「せめて合図を」
「合図ならするわ」
ギンは自分の胸元を軽く叩いた。
「二度、杯を鳴らす。聞こえたら、会話を切り上げて移動しろ、の合図」
「……分かりました」
シルヴィアが答えると、ギンは少し意外そうに目を細めた。
「素直じゃない」
「今夜は私情を挟む場面ではありません」
「そういうとこ、嫌いじゃないわ」
その言葉に、シルヴィアは返さない。
だが、前ほど拒絶も湧かなかった。
「行くわよ」
「ええ」
二人は揃って、明るい玄関へ向かった。
◇
中は、想像以上に上品だった。
絨毯は厚く、壁には風景画、卓には細い脚のグラスと小皿料理。役人たちは笑いながらも声を張らない。貴族たちは偉ぶるより、互いの顔色を柔らかく読む。
地方の悪党たちの露骨さとは、まるで違う。
だが、だからこそ分かることもあった。
誰が誰に近づくか。
誰がどの言葉で笑うか。
そして、誰の名前が出た時に声が少しだけ落ちるか。
「見えてきた?」
ギンがグラスを受け取りながら囁く。
「少しだけ」
「十分よ。顔を上げすぎない。視線は流して」
「分かっています」
「ほんとに?」
「……努力します」
ギンはそこで笑い、自然な足取りで人垣へ消えていった。
残されたシルヴィアは、壁際に置かれた冊子机の近くへ移動する。
そこには改革説明資料が積まれ、役人崩れの男たちが立ち話をしていた。会話を聞くには悪くない位置だ。
「失礼」
細身の男が一礼する。
年の頃は四十手前。文官らしい手だ。
「お見かけしないお顔ですね。どなたのご紹介で?」
「地方から参りました。勉強のために、と」
「それは結構」
男は笑う。
「若い方がこうした改革に興味をお持ちなのは喜ばしいことです。地方にはまだ古い感情に引きずられる方も多いですから」
「古い感情、ですか」
「ええ。恩義、情緒、象徴への執着。いずれも美徳ではありますが、行政に持ち込めば毒にもなる」
シルヴィアの胸の奥が、少しだけ冷えた。
この男たちは、本気でそう信じている。
ただ悪いのではない。
正しそうな言葉で、人を切ることに慣れている。
「では、困窮した民へ急いで手を差し伸べることも、毒になるのでしょうか」
「場合によります」
男は即答した。
「個別の痛みに引きずられて制度を歪めれば、より多くが困る」
「ですが、間に合わなかった者は」
「お気の毒です」
その言い方があまりに滑らかで、シルヴィアの指先に力が入った。
「お気の毒、ですか」
「ええ。ですが統治とは、気の毒をすべて救う技術ではない」
昔、似た声を聞いた。
いや、正確には、こういう言葉を正しいものとして受け取っていた自分がいた。
その時だった。
奥の方で、乾いた音が二度鳴る。
グラスの脚が卓を叩く、控えめな合図。
ギンだ。
シルヴィアは顔色ひとつ変えず、男へ軽く笑みを返した。
「勉強になります」
「またぜひ」
角度で、会話を外す。
拒絶せず、離れる。
さっき練習した通りだ。
男はそれを自然な離脱と受け取ったらしく、追ってこない。
少しだけ、腹が立つほど有効だった。
◇
奥の回廊は、人が少なかった。
倶楽部の本館と小会議室を繋ぐ細い廊下。壁には装飾鏡、足元には絨毯。
ギンはその途中の窓辺に立っていた。グラスを片手に、まるで夜風を楽しんでいるだけの女に見える。
「来た」
「何があったんです」
「楽しい話が聞けたわ」
ギンの目が、いつもの艶を少し引っ込めていた。
仕事の顔だ。
「叔父派の官僚が今夜ここに三人。監察局から二人。商会筋が二人。で、明後日、貴族街の白梟亭で極秘会合」
「白梟亭……」
「会員制の私邸サロン。表向きは慈善晩餐、実際は根回しの巣ね」
シルヴィアは息を呑む。
王都の近くまで来て、ようやく見えた。
地方の徴税も、徴発も、薬の横流しも、こういう場所で整理されているのだ。
「誰が出ると?」
「叔父派の財務官、監察局副局長補佐、金鶸商会の番頭格、あと……」
ギンが少しだけ笑う。
「叔父様の側近筆頭」
「……それは大きい」
「ええ。かなりね」
その時、回廊の向こうで足音がした。
役人ではない。
もっと重い。
貴族の靴音だ。
ギンは一瞬で距離を詰め、シルヴィアの肩へ手を置いた。
「笑って」
「は?」
「今すぐ」
「な、何を」
戸惑う間もなく、角を曲がってきたのは若い貴族だった。
酒の入った顔で、目だけがねっとりしている。
「おや。こんなところに月が二つ」
「最悪」
ギンは笑顔のまま囁いた。
「そういう時も顔に出さない」
「無茶を言わないでください」
貴族は二人の前で立ち止まった。
「会場にこれほど美しい花があったとは。失礼、私はローディス卿の甥で――」
「存じ上げません」
シルヴィアが即答した。
ギンがこめかみを押さえる。
貴族の笑顔が引きつった。
「……つれない方だ」
「仕事中ですので」
「仕事?」
「ええ。無駄話を切り上げる仕事です」
「あなた、喧嘩を売っているのですか」
「いいえ」
「売ってるわよ、それ」
ギンが小声で刺してくる。
貴族は不機嫌そうに一歩近づいた。
その視線がシルヴィアの肩口を撫でるように滑る。
「田舎の気位は嫌いではない。ですが、この場では少し柔らかい方が得をする」
「近い」
また即答。
とうとうギンがシルヴィアの肘を軽くつねった。
「痛っ」
「笑う」
「今つねりましたよね」
「笑う」
ギンはそのまま、するりと二人の間へ入る。
「ごめんなさいね、この子、堅くって」
「あなたは話が分かりそうだ」
「ええ、たぶん。でも今夜は別件で来てるの」
「別件?」
「今夜いちばん面白い話をしてる部屋、どっち?」
甘く囁きながら、ギンは貴族の袖口に指を添えた。
相手の視線がぶれる。
「……面白い話、ですか」
「そう。退屈な改革説明は聞き飽きたの。もっと先のことを話してる部屋があるんでしょう?」
男は完全に気をよくした顔になる。
「耳が早い方だ。東側の小会議室だよ。ただし、招かれた者しか入れない」
「じゃあ、招かれてる人の名前だけ教えて」
「それは――」
男が迷う。
そこへ、今度はシルヴィアが一歩だけ前へ出た。
「行きましょう」
貴族とギンが同時に彼女を見る。
「この方の相手をしていると、こちらの時間がなくなります」
「っ」
「無礼な……!」
「事実です」
だが、その瞬間にギンは理解した。
シルヴィアはただ喧嘩を売っているのではない。
相手の自尊心を刺激し、あえて見下された側を演じて、会話の主導権をこちらへ戻そうとしている。
ギンはすぐに乗った。
「そうね。つまらない人に使う時間はないわ」
「な……!」
「東の小会議室。鍵番は監察局の副局長補佐。これで満足?」
思った通りだった。
捨て台詞のつもりで、相手は必要な名前を吐いた。
ギンはにこりと微笑む。
「ええ。十分」
そう言ってシルヴィアの腕を取ると、そのまま回廊を離れる。
曲がり角を抜けた瞬間、二人は同時に息を吐いた。
「あなた」
「あなた」
声が重なる。
「さっきのは何です」
「さっきのは何よ」
シルヴィアが先に言う。
「あなた、いつもああやって……」
「いつもじゃないわよ。必要な時だけ」
「必要の判断が雑です」
「あなたの方が雑だったでしょうが! 何、存じ上げませんって」
「本当に存じ上げなかったので」
「そういう問題じゃないの!」
だが次の瞬間、ギンはふっと笑った。
「……でも、助かった」
「え?」
「いまの、わざとでしょう。あいつの気をこっちに戻すために」
「……半分は」
「残り半分は?」
「本気で鬱陶しかったです」
「素敵」
ギンは肩を震わせる。
シルヴィアは呆れた。
だが、その呆れ方は以前よりずっと柔らかい。
「あなたこそ。さっきの、完全に利用していましたね」
「当然よ」
「ためらいがない」
「勝てる手を使うの」
「……」
「でも、あなたがいなかったら、もう少し面倒になってたかもね」
その一言は、案外まっすぐだった。
「堅いけど、嫌いじゃないわ」
「……それはどうも」
「何その顔」
「返事に困るんです」
「正直ね」
「あなたほどではありません」
二人は顔を見合わせ、ほんの少しだけ笑った。
◇
宿へ戻った頃には、夜もだいぶ更けていた。
ミツクニたちはすでに二階の部屋で待っていた。ヤッシュは窓辺、スケイルは扉脇、カクタスは椅子に座って眠そうにしている。
ハチだけは机に突っ伏していたが、扉が開いた音でぱっと顔を上げた。
「どうだった!?」
「騒ぐな」
「だって気になるもん!」
ギンはグラスを借りる代わりに水差しを手に取り、喉を潤してから言った。
「釣れたわよ。明後日、貴族街の白梟亭。叔父派の極秘会合」
「ほう」
ミツクニの目が細くなる。
「面子は」
「財務官、監察局副局長補佐、金鶸商会の番頭格、それから叔父様の側近筆頭」
「十分じゃな」
ヤッシュが低く言う。
「そこを押さえりゃ、一段深く潜れる」
「そうね。やっと地方の汚れを、王都寄りの顔と結べる」
シルヴィアはその言葉を聞きながら、静かに息を吐いた。
今夜、はっきり分かったことがある。
ギンは軽い女ではない。
軽く見えるように動ける女だ。
そしてその軽さの裏で、誰よりも冷静に仕事を拾っている。
ギンもまた、こちらを見た。
「何?」
「……いえ」
「言いたいことがある顔してる」
「言ってもいいなら」
「どうぞ」
「あなたのやり方は、今でも好みではありません」
「知ってる」
「ですが、有効なのは認めます」
「へえ」
ギンが目を丸くする。
「それ、騎士さんにしてはかなりの譲歩じゃない?」
「譲歩ではありません。評価です」
「もっといい」
「ただし」
「ただし?」
「次にああいう相手へ近づくなら、せめて事前に一言ください」
「心配してるの?」
「連携の話です」
「ふふ」
ギンは笑った。
「そういうところ、ほんと堅い。でも嫌いじゃない」
ミツクニがそのやり取りを見て、静かに頷いた。
「よいことじゃ」
「何がです」
「表の騎士と裏の狐が、ようやく同じ方を向き始めた」
「同じではありません」
「全部同じではないわよ」
「うむ。全部同じである必要もない」
「……」
「……」
ミツクニはそこで、楽しそうに目を細めた。
「じゃが、背中は預けられそうじゃ」
「それは」
「そうかもしれません」
「悪くないわね」
答えたのは、ほとんど同時だった。
ハチが身を乗り出す。
「ねえねえ、それって仲良くなったってこと!?」
「違います」
「違わないわよ、たぶん」
「どっちなの!?」
「うるさい」
シルヴィアとギンの声が揃い、カクタスが吹き出した。
笑いの中で、ミツクニは机の上の白紙へ指を落とす。
「では、次は白梟亭じゃな」
王都の近く。
貴族街。
上品な笑顔と上質な酒の中で、どんな話が交わされているのか。
地方の痛みを、どの言葉で切り分け、どの帳簿で利益へ変えているのか。
そこへ、ようやく手が届く。
夜はまだ深い。
だが、追うべき背中は少しずつはっきりしてきた。
そしてシルヴィアもまた、ギンという相容れないはずの女の中に、自分とは違う形の覚悟を見つけ始めていた。




