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逢馬ヶ刻〜陰陽師奮闘譚  作者: 静ヶ崎 顯
術師翻弄
21/44

第4話

昨日に引き続き。


 この小伝馬牢は明治の初頭まで実際に稼働していた。

 江戸の処刑場たる土壇場(どたんば)はこの場所のみ。

 世界の都市部で比較的、治安のよかった首都だが、人口は群を抜いている。

 その数、100万人。

 そして、徳川家が主導した幕府の終末期、いわゆる幕末に黒船つまり異国船が開国を求めてやって来てから国中が荒れに荒れた。

 その頃に幕府によって国家騒乱の罪に問われ捕縛された者のうち、江戸に連れて来られて処刑された思想犯や異国人を日本から追い払うべく殺しまわった攘夷派の志士、打倒幕府を掲げ国家騒乱の罪で処断された志士たちがここに埋葬されている。

 やがて幕府が廃藩置県によって解体され、直後には鳥羽戦争も起きた。旧幕府を支持しつづけた者たちと新たな幕府を建て、これまでの世と差別化を図るため名称を政府とした者たちが争い、新政府の勝利で終わったが明治になって尚、未だに攘夷の心を捨てきれず異国人の打ち払いや処刑・見せしめの声を挙げ続けた志士たちは明治政府によって国家騒乱罪を問われてここに骨を埋めた。


 攘夷を生涯掲げ続けた志士たちはその保守的かつ手段を問わない排他思想と本人たちの実行力を警戒され、処刑されたあとは陰陽寮で墓所に魂を封印された。

 これらの現在、志士と呼ばれる侍たちは特に危険な集団である。まず本人の技量が高く、一本条の通った意思が固く曲がらない。

 その思想と行動力は幕末の当時から問題視されていた。佐幕派にも、倒幕派からも。


 ソーシャルネットワークによって国際社会や各国家間がより身近になった現代日本で一時的にでも封印を解かれ、現代に舞い戻って来ようものなら騒動どころか死者の山を築きあげることが容易であることは想像に固くない。

 なにせ、藩に仕える研究者や学者たちを並み居る警固の(つわもの)どもを掻い潜り、ものともせず暗殺を成し遂げてきた。暗殺の目標(ターゲット)たる外国人と道中ですれ違おうものなら問答無用で斬り捨てる。あるいは自身の用事を投げ棄て、尾行し、後日用意を揃えて踏み込む。

 その魔の手は外国人のみならず取引を行っていた出入りの貿易商人やその家族など非戦闘員ですら手に掛けてきた非情の(やから)である。 


 その意思は死んでも消えなかった。

 十思公園は怨霊と無念の篭った骨がある場所 特に幕末の攘夷志士の魂がどこにも行かないように封印も行っている 



 しかし、彼ら以上に陰陽寮が警戒を敷いていた集団がある。


 それは幕末の思想家たちだ。


 ◆

 

 その多くは安政の大獄と呼ばれた日本の粛清事件で捕らえられた者たちだが、彼らの多くが鎖国で単一民族に馴れた国家が海外に進出する変化を恐れ、幕府の党首たる徳川幕府に対抗できる勢力へ、則ち日ノ本國の首都、京都の御所で異国人が踏み入ることの悪点をあること無いこと言い募った。

 黒船が来航した当初、当代の天皇は幕府に好意的だった。

 無論、当初からして天皇家は外国(とこく)の者が日本の地を闊歩することに我慢ならず、反対の姿勢は取っていた。

 だが、幕府から派遣された(きょう)(みやこ)を守護する任を負った会津藩主の松平容保が幕府からの全権を得て、京で御所や他の公家との窓口に立っていた。御門(みかど)を立て、御所へ自藩、ひいては幕府の分を(わきま)えた上で慎重に妥協点を探った。

 この態度が時の御門、孝明天皇の幕府への対応を軟化させる。

 その後、孝明天皇が35歳で崩御(ほうぎょ)するまで公家の住む平安京は幕府の意向を多少なりとも汲んで開国や新しい技術文明に寛容だった。

 短い期間ではあったが江戸と平安京は同じ方向を向き、手を携えていた。


 次の明治天皇に御代(みよ)替わりしたとき、平安京は幕府の側を離れ、徳川を朝敵とした。

 幕府は変わらず開国に向かっていたが、平安京は別の勢力と手を組んだ。それが(のち)の明治政府の首脳陣である。攘夷の意味するところが異国の打ち払いから開国論派に姿を変えた瞬間である。このとき平安京に乗り込み、朝廷の公卿たちを翻意させたの者たちこそ、ここに眠る思想犯たちの弟子である。

 (あたか)も、幕府が鎖国を続け國を亡国へと導いていたかのように、自分達が元々開国を謳っていたように持っていた論調をすり替えた、鮮やかな手腕。

 簡易な瓦版や人伝でしか情報が広がらない。

 そんな侍たちが生きた旧時代でさえ、諸藩の結び付きが瓦解したように偽装し、幕府の治安の悪化を促進した。組織だって放火、略奪を行い、民を煽動し印象を操作して回った。そんな男たちがSNSの存在する現代に復活を遂げたならば、どれほどの混乱が引き起こされるか。

 考えるだに恐ろしい。


 逢馬たちが阻止しなければならないのは頭脳たる思想者と手足となり働いた実行者たち、双方の復活である。

 ここに眠る攘夷志士たちは無縁仏(むえんぼとけ)、首落とされたあとは大穴に一緒くたに投げ落とされて、どの遺体が誰とは特定できない。

 残された骨で半減期やら何やらを調べ、持ち去られている遺体がどこまでの年代の者たちであるかを、おおよそでも掴む必要に迫られている。

 そのため、手柄を取らず雑務など面倒な仕事を引き受けることを対価に捜査の端に加えてもらい、土行系の探査術で今現在の時点で地表に一番近い遺体をこっそり持ち帰ろうと考えている。

 それが明治に入ってからの人物であることを願って。


 ◆ 

 

 この公園が史跡であることを逢馬に確認した宮古が話し出す。

「そっちの爺さんが言ってたが、この公園は史跡だ。使われなくなって約100年、使われ始めたのが約450年前ってなくらい古い遺跡で、留置所と処刑場を兼ねてた場所だ。それだけに鎮魂の石碑や、まあ少なく見積もっても樹齢80年クラスの大木が其処ら中に植わってる」

 せっかく説明してくれているが陰陽師たちもそれくらいは分かって来ている。

 一番の疑問かつ重要点は、歴史ある物品が盗難されていないかどうかだ。

 地面が掘り返されていないか、木々が持って行かれていないかどうか。

 宮古の説明に割り入った竹林が疑問を呈した。

「どういう計算じゃな?ここの木々は樹齢80年くらいではすまんじゃろ」

「そう言われてもな。基本的に人間より樹木の方が長寿だからな。切り倒してみないと樹齢はわからんし、ここは一応太平洋戦争でアメリカが焼き払った東京の下町に区分けされてるからな。それで少なくとも80年だ、長い方は調べようがない」

「そうじゃったか?」

 竹林が首を傾げた。

「一番、年嵩(としかさ)の樹は公園の(ゆかり)とおおよそ近い程の樹齢があったはずじゃ。案内板にも書いてあるじゃろ」

「どれのことだ?」

「なに言っとる。ほれ、あそこの」


 向いた竹林の顔が驚愕し、眼を見開いたまま動きを止めた。

「なんだ、無いじゃないか。爺さんが若い頃はあったのか?」

 陰陽寮から派遣されたチーム逢馬の五人組は動かない。

 竹林が持っていた公園のパノラマ写真にはあった公園の由来を記した看板が無くなっている。

 樹齢400年とも言われた大木とともに。


「惑わしの呪じゃ」

 竹林が口のなかで呟く。



 ようやく再起動した逢馬が宮古に尋ねた。

「あぉ、あそこには樹木があったはずなんですが。何か聞いてませんか」

「それは、本当にあったのか?」

 逢馬の質問に質問で返す宮古。

 その顔は訝しげながらも、何かを期待している。


 逢馬たちはそれが何かわからなかったが、あの大木が行方不明なのは問題なためしっかりと肯定する。

「そうですね。そこには大木があったはずで、無いのは非常に困ります。最後にこちらで確認したのは去年。それが何月頃だったか、ですが」

 そこで切って、竹林に顔を向ける。

「8月じゃ。盆の時期に来ての。写真データを確認したければ後で送る」

 

 宮古が深呼吸をした。

「そうか。良かった」

 聞きながら下を向いていた顔を上げ、逢馬と竹林に眼を合わせる。

「いや、実害があったことが確認されたんだから良くはないんだが」

「そちらも、何か無くなって?」

「そうだ。しかも実体のないものだったからな。確実にあったはず、という根拠に欠ける」

「それは?」

「さっきの竹林さんの質問への答えだ。監視カメラのデータ。録画されて、あった筈の映像が無くなっている」


お読み頂きありがとうございます。

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