第9話:観測の終わり、明日への予約
九度目の今日。
「昨日の図書室の本、返したか?」
「まだ」
いつも通りの確認。でも今日の蒼真は、頷いて席に戻ったあと、一度だけこちらを振り返った。
すぐに前を向いた。
それだけだったけど、私は朝からずっとその一瞬を引きずっていた。
◇◆◇◆◇
1時間目から3時間目まで、蒼真は授業中に一度も窓の外を見なかった。
今まで必ずチャイムのたびにため息をついていたのに、今日はしなかった。ノートに何かを書き続けていた。授業の内容じゃないと思う。あの角度は、検証ノートを広げているときの角度だ。
3時間目終わり、廊下でプリントを拾った。
今日も先生に渡した。今日も蒼真が廊下の端から見ていた。今日も目が合って、今日も両方すぐに逸らした。
でも今日は、逸らす前に……蒼真が、小さく頷いた。
何に頷いたのかわからない。でも何かを、確認したみたいな頷きだった。
◇◆◇◆◇
昼休み、学食。
向かい合って座ると、蒼真がいつもより早くうどんを頼んでいた。準備がいい。何かを話す気でいる、という雰囲気があった。
でも私が先に口を開いた。
「ねえ、蒼真」
「なんだよ、今度は」
「私のこと、なんで名前で呼んでくれないの?」
蒼真が顔を上げた。
「……お前はお前だ」
「私は蒼真って呼んでるじゃない?」
「俺が呼び捨てを頼んだ覚えはないが!?」
「私が気づいたら自然にそうなってただけ。だからそっちも呼んでくれてもいいじゃん」
「……」
「不公平じゃない!? 私たち秘密を共有する仲だよ!」
「呼び方は関係ない」
「大いに関係ある。呼び方って、距離だから!」
蒼真はうどんの汁を飲んだ。少し間があった。
「……検討する」
「じゃぁ、今すぐ検討して」
「検討には時間がかかる、んだ、よ……」
「じゃぁ、猶予を与えてあげる。どのくらい?」
「わからない」
「じゃあ、呼ぶまで帰らない、から」
蒼真が少し眉を上げた。
「19時になれば強制的にリセットされる」
「うっ」
完璧な反論だった。私は悔しくてうどんを睨んだ。蒼真がかすかに、本当にかすかに、口の端を上げた。
「……検討はする」
「絶対呼んでよ!!」
「検討する、と言った」
素直じゃない。でも否定もしなかった。
頭上の999が、穏やかに揺れていた。
◇◆◇◆◇
昼休みの終わりに、蒼真がぽつりと言った。
「放課後、話がある」
「ループのこと?」
「ああ」
「怖いこと?」
少し間があった。
「……俺にとっては、怖いことだ」
初めて、そう言った。言い訳じゃなく、正直に。
私は頷いた。
「わかった、聞くわ」
◇◆◇◆◇
図書室。
向かい合って座って、蒼真はしばらくノートを見ていた。何かを読み返しているみたいに。
「昨日、お前に言われたことを考えた」
「うん」
「臆病だ、と言われた」
「言ったね」
「否定できない」
私は黙って続きを待った。
「俺がループを終わらせられない理由を、ずっと『原因がわからないから』だと思っていた。でも本当は……わかっていた。自分が手放せないだけだと、わかっていた」
「……うん」
「お前が巻き込まれる前から、うっすらわかっていた。でも認めたら、終わらせなきゃいけなくなる。だから考えないようにしていた」
雨が窓を叩いた。
「三桁を超えるループの中で、お前が毎回同じようにプリントを拾うのを見ていた。毎回同じように笑うのを見ていた。それが積み重なって……手放せなくなった」
「……蒼真」
「わかってる。お前が言いたいことはわかってるよ」
「わかってて、それでも怖い?」
「…………怖い」
まっすぐ言った。
私はテーブルの上の蒼真の手を見た。昨日みたいに、触れるか触れないかの距離に、自分の手を置こうとした。
でも今日は、蒼真のほうが先に、指先だけ、重ねてきた。
一瞬だけ。すぐに離した。
「……決める」
「うん」
「終わらせる。ちゃんと、明日に行く」
声が少し震えていた。
私は何も言わなかった。言葉より先に、目が熱くなった。
◇◆◇◆◇
17時、図書室を追い出された。
ファミレスへ向かう道に出ると、雨が強くなっていた。蒼真が傘を差し出してくれたけど、今日は断った。
「濡れるぞ」
「いい。少しくらい」
並んで歩いた。傘一本分の距離で。雨が肩を濡らした。
ファミレスに入って、ドリンクバーから戻ると、蒼真はいつもの窓際の席に座っていた。でもノートを出していなかった。
「今日は検証しないの?」
「必要ない」
「なんで?」
「もう答えが出たから」
私はミルクティーを置いて、向かいに座った。
「怖くなくなった?」
「なってない。ただ……」
「ただ?」
「お前に言われた。怖いのは俺だけじゃない、と」
「言ったわ」
「それを思い出したら、少しだけ……」
そこで蒼真は止まった。窓の外を見た。
「少しだけ、なに?」
「歩けそうな気がした」
私は何も言えなかった。
言えなくて、ミルクティーを一口飲んで、窓の外を見た。雨がガラスを流れていた。
「ねえ、蒼真」
「なんだよ?」
「私の能力、自分への好感度しか見えないって言ったじゃない?」
「言った。俺の気持ちは筒抜けって話だろ?」
「うん。でも、その話じゃないの。で、今ならわかる」
「?? ……どういう意味だ?」
「数値じゃなくて、ちゃんとわかる。今の私が、あなたをどのくらい好きか」
蒼真が、こちらを見た。
「明日、私があなたの数値をカンストさせてみせる。だからさっさと明日に行きなさい」
強引に、言い切った。
蒼真はしばらく私を見ていた。何か言おうとして、止まった。止まって、また私を見た。
それから、立ち上がった。
「……外に出る」
「え、今? 19時まであと……」
「すぐ戻る」
そう言って、ファミレスを出た。
私は窓越しに蒼真の背中を見た。雨の中に、傘も差さずに出ていく背中。
……また傘を差さない。
私はコートを掴んで、立ち上がった。
◇◆◇◆◇
雨の中に出ると、蒼真は店の前で立ち止まっていた。空を見上げていた。
びしょ濡れだった。
「蒼真!」
声をかけると、振り返った。
私は走った。雨の中を、傘もなしに。
髪が濡れて、制服が濡れて、靴の中まで水が入ってきたけど、どうでもよかった。
蒼真の胸ぐらを、両手で掴んだ。
「な!?」
「行くって言ったじゃないのよ!」
「……行くと言った」
「なのになんで雨の中で一人で突っ立ってるの!?」
「……少し、覚悟を決めていた」
「そんな大切なこと、一人でしないでよ!!」
蒼真が、私を見た。雨粒が顔を伝っていた。
「……怖い」
「知ってる」
「本当に、終わるのか」
「終わる。でも終わらない!」
「……どういう意味だ?」
「今日が終わっても、私たちは終わらない。明日も続く。ちゃんと続く。ちゃんと続けるからね!!」
蒼真は少し目を細めた。
それから、ゆっくり、私の背中に腕を回した。
強く、抱きしめた。
雨の音が、大きくなった。いや、雨の音しか聞こえなくなった。蒼真の心臓の音が、すぐ近くで聞こえた。速かった。私のも速かった。
「……陽葵」
耳元で、低い声がした。
私は息を呑んだ。
初めて、名前を呼ばれた。
「ちゃんと、また好きにさせてくれ」
「……うん」
声が少し震えた。でも、ちゃんと答えた。
しばらくそのままでいた。
雨の音だけが続いていた。
やがて蒼真が、少し身を引いて言った。
「お前も、怖かっただろ」
私はにやっとした。
「今、なんて言った?」
「……お前も、怖かっただろ、と言った」
「最初の二文字」
「……」
「最初の二文字が違うよ!」
蒼真が黙った。雨が降り続けた。
「陽葵も、怖かっただろ」
絞り出すみたいに、言った。
「よろしい」
私はまた蒼真のコートに顔を埋めた。にやにやしているのを、見られたくなかった。
「……にやけてるだろ?」
「にやけてない!」
「声でわかる」
「にやけてる権利があるの!」
蒼真は何も言わなかった。でも、背中に回った腕が、少しだけ強くなった。
雨が、さらに強くなった。
19時の鐘が、遠くで鳴った。
視界が……
暗転、しなかった。
◇◆◇◆◇
雨の音が、続いていた。
蒼真の腕も、続いていた。
19時を過ぎても、世界はそこにあった。
「……終わった?」
私が聞くと、蒼真が少し間を置いてから答えた。
「……終わった、と思う」
「ループが?」
「ああ」
私たちはしばらく、雨の中で抱き合ったままだった。
どちらも離れなかった。
19時1分。2分。3分。
世界は、暗転しなかった。
やがて蒼真が、ぽつりと言った。
「……濡れたな」
「蒼真が雨の中なんかに出るから」
「お前も、陽葵も、出てきた」
「ほっとけなかったんだよ」
少し間があって、蒼真が言った。
「……ありがとう」
今度は、言い訳がなかった。




