第10話:梅雨の晴れ間の下で
目が覚めた瞬間、何かが違うとわかった。
光だ。
カーテンの隙間から差し込む光が、今までと全然違う色をしていた。白くて、眩しくて、部屋の中まであたたかかった。
スマホを手探りで掴む。
「6月15日(火) 6:51」
六月十五日。
今日は、昨日の続きだ。
私はベッドの上で天井を見たまま、しばらく動けなかった。動けなかったというより、この瞬間をちゃんと味わいたかった。六月十四日じゃない朝が来た。蒼真と一緒に、ちゃんと明日に来た。
カーテンを開けた。
雨が、降っていなかった。
空は厚い雲に覆われていたけど、その隙間から光が差していた。梅雨の晴れ間だ。湿った空気の中に、昨日まではなかった明るさがあった。
◇◆◇◆◇
着替えながら、気づいた。
あれ? 数値が、見えない。
いつもなら、朝起きた瞬間から薄ぼんやりと視界の端に数値が浮かんでいる。でも今日は何もない。階下からお母さんの声がして、ご飯よー、と聞こえて……昨日まであれだけループの合図に聞こえていた声が、ただの朝の声に聞こえた。
能力が、消えている?
でも、不思議と、怖くなかった。
ずっとそこにあったものがなくなったのに、怖くなかった。むしろ、視界がすっきりしている。数値のない世界が、こんなに静かだとは思わなかった。
朝ご飯を食べながら、窓の外の空を見た。
今日から、自分の感覚だけで生きていく。数値じゃなくて、自分の目で、自分の心で。
怖いけど。
でも、やっと始まった気がした。
◇◆◇◆◇
玄関を出ると、蒼真が道の角に立っていた。
制服姿で、鞄を持って、少し眩しそうに空を見上げていた。
「……待ってたの?」
声をかけると、こちらを向いた。
「通りかかっただけだ」
「私の家の前で?」
「……偶然だ」
嘘くさい。でも追及しなかった。
並んで歩き始めた。通学路に、雲の隙間から光が差していた。昨日まであんなに憂鬱だった道が、全然違う景色に見えた。水たまりが光を反射して、木の葉が風に揺れて、どこかで鳥が鳴いていた。
「ねえ、梅雨明けたね」
思わず言った。
「6月15日に梅雨は明けない」
即答だった。
「……そういうこと言う?」
「事実だ。梅雨明けは例年七月上旬から中旬だ。最近は特に遅い」
「わかってるけど、気分的に」
「気分で気象は変わらない」
「蒼真!」
「なんだ?」
「こんなに晴れてるじゃない!?」
少し間があった。
「……晴れ間だ」
「晴れ間でも晴れてる」
「でも梅雨明けとは言わない」
「じゃあ、梅雨の晴れ間、おめでとう」
「意味がわからないぞ……」
でも蒼真は、空を見上げた。雲の隙間の青を、少し眩しそうに見た。
「……まあ、悪くない空だ」
「それでいいのよ!」
私は笑いながら歩いた。数値のない世界で、隣に蒼真がいた。それだけで、十分だった。
◇◆◇◆◇
教室に入った瞬間、空気が変わった。
正確には、クラスメイトたちの視線が変わった。
一拍遅れて、理由がわかった。私と蒼真が、並んで登校してきたからだ。今まで接点があるように見えなかった二人が、なぜか一緒に現れた。
「……え、瀬名さんと時任くん?」
「なんで一緒に?」
「知らなかった、仲良かったの?」
ひそひそ声が聞こえた。蒼真は気にする様子もなく自分の席へ向かった。私も自分の席につこうとした。
そのとき、蒼真が通りがかりに、ぼそっと言った。
「昨日の図書室の本、返したか?」
私は止まった。
この言葉を、私は知っている。何度も聞いた。何度も「まだ」と答えた。
でも今日の私は……本当は、知らない。昨日の記憶を持っていない、かもしれない。
だけど、蒼真も、そんなことがないのは知っているはずだ。朝から私の家の前で待っていたくらいなんだから、ループが終わったことはわかっている。なのに、体が勝手に動いてしまったんだろう。何百回も繰り返してきたルーティンが。
一瞬だけ、蒼真の顔を見た。
彼は前を向いていた。でもその耳が、じわっと赤くなっていた。自分でも気づいた、という顔だった。
私はにやっとした。
「何の話?」
蒼真が、ぴたっと止まった。
周りのざわめきが、少し遠くなった気がした。
蒼真がゆっくりこちらを向いた。表情が、一瞬だけ、何かに耐えるみたいに歪んだ。
「……嘘、わかってるよ」
私は笑った。
蒼真はしばらく私を見ていた。それから、小さく息を吐いた。
「……性格が悪い」
「蒼真に言われたくないよ」
「そうかもしれない」
クラスメイトが、また何かひそひそ言っていた。でも今日は、数値がないから、気にならなかった。
◇◆◇◆◇
放課後。
昇降口を出ると、雲の隙間から西日が差していた。湿った空気の中に、橙色の光が混じっていた。
「綺麗だね」
思わず言った。
「ああ」
蒼真が隣に立って、同じ空を見ていた。
しばらく二人とも黙っていた。黙っていても、気まずくなかった。同じ空を、同じ時間に、並んで見ていた。
何百回も繰り返した一日のことを思った。雨の図書室、雨のファミレス、雨の街角。全部、蒼真と過ごした時間だった。
今日は雨じゃない。
今日は、晴れ間だ。
「ねえ、蒼真」
「なんだ?」
「これから、ちゃんと明日が来るね」
「来るな」
「怖い?」
少し間があった。
「……少し」
「私も、だよ」
「そうか」
「でも……」
私は空を見たまま、続けた。
「怖くても行きたいって思うのが、好きってことだから」
自分で言った言葉を、また言った。でも今日は、昨日より少しだけ、確かな気持ちで言えた。
蒼真が、私を見た。
「陽葵」
今度は、すんなり呼んだ。言い訳もなく、絞り出すでもなく、ただ静かに。
「なに?」
「明日も、隣にいていいか」
雲の隙間の光が、空一面に広がっていた。
私は蒼真を見た。数値のない、ただの彼の顔を見た。数値じゃなくて、ちゃんと自分の目で見た。
「当たり前じゃない!」
蒼真が、小さく笑った。
初めて見た、ちゃんとした笑顔だった。
雲の隙間の光の中で、本当の明日が、始まった。
完
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