第7話:雨の檻の正体
七度目の今日。
「昨日の図書室の本、返したか?」
「まだ」
いつも通りの確認。でも今日は、蒼真が頷いて席に戻る背中を、少し長く見てしまった。
……なんで今日はあの横顔がちょっと気になるんだろう。
◇◆◇◆◇
これは恋じゃない。
断言できる。だって私、時任蒼真のことをちゃんと知ったのつい最近だし、そもそも出会い方が「タイムループに巻き込まれた」というSF小説みたいな状況だし、恋愛感情が芽生える余白がどこにあったというんだ。
ない! ない、ない!!
……ただ、気になる、というのは認める。
どのくらい気になるかというと、朝のホームルームで先生の話を聞きながら、昨日の廊下での出来事を三回くらい反芻してしまうくらいには気になる。あの、腕を掴まれた感触。耳が赤かったこと。「俺が近くにいれば対処できる」という発言。
……うん、普通に気になる。
でも恋じゃない。
絶対に、恋じゃないんだから!!
◇◆◇◆◇
2時間目。
板書を写しながら、なんとなく考えてしまう。
蒼真の良いところを、最近よく認識している気がする。これは客観的な観察であって、好意とは関係ない。単なる人物評価だ。
一。見返りを求めない。泥水を被っても「検証に支障が出る」と言い訳するし、ミルクティーを差し出しても恩着せがましいことを一切言わない。損得で動いていない。
二。嘘をつかない。言いにくいことでも、はっきり言う。「好きにしろ」とか「嘘くさい」とか。オブラートという概念がたぶんない。それが却って、信用できる。
三。私の愛想笑いを見抜いた。数値もなく、ただの観察で。何百回も見てきたから、と言っていたけど……何百回も、私を見ていたということだ。
四。999なのに、何もしてこない。
……これは良いところなのか? と一瞬思ったけど、よく考えると良いところだ。好感度が筒抜けだとわかっていて、それでも言葉にしない。押しつけない。私のペースを、勝手に尊重している。
五……
チャイムが鳴った。
私はノートを見た。やばい、板書が三行しか写せていなかった。
あと、これは恋じゃない。そうだ、ただの分析なんだから!
◇◆◇◆◇
昼休み、学食で向かい合う。
今日の蒼真はいつもより少し口数が少なかった。昨日、私を遠ざけようとして失敗した気まずさがあるのか、うどんに集中している。
「昨日のこと」
私が切り出すと、箸が一瞬止まった。
「なんだよ」
「遠ざけようとしたこと。まだ思ってる?」
「……思ってる」
「でも止めないからね」
「止めても、どうせお前から来るだろ?」
「そうよ! 好きにしろって言ったじゃない?」
「ああ、言ったさ」
短いやり取りが続いた。蒼真はうどんに視線を戻した。私はおにぎりを齧った。
しばらく間があって、私は聞いた。
「ねえ、蒼真はさ」
「なんだ」
「ループを、終わらせたいと思ってる?」
箸が、止まった。今度は長く。
「……当たり前だろ」
「本当に?」
「何が言いたいんだよ」
「昨日から考えてたんだけど……」
私はおにぎりをトレーに置いた。
「ループが続いてる理由って、本当に原因不明なの? あなた、何百回も繰り返してきたんでしょ。その間に、仮説のひとつも立てなかった?」
蒼真は黙った。
「立てたでしょ、絶対」
「……立てた」
「教えてくれなかったのは、なんで?」
「確証がなかったから」
「今もない?」
また沈黙。雨が窓を叩いた。
「……放課後に話す」
それだけ言って、うどんを再開した。
やっぱり、ある。何かを知っている。
頭上の999が、今日は揺れ方が違った。炎みたいな揺れじゃなくて、もっとゆっくりした、重たい揺れ方だった。
◇◆◇◆◇
ファミレスに入って、ドリンクバーから戻ると、蒼真はノートを開かずに座っていた。
珍しい。いつもはもうペンを走らせているのに。
「話してよ」
向かいに座って言うと、彼は窓の外を見たまま口を開いた。
「ループのアンカーって考え方について、知ってるか?」
「アンカー?」
「ループを維持している原因のことだ。タイムループものでよく使われる概念で、ループしている当事者の中にある『未練』や『執着』がアンカーになって、世界が同じ日を繰り返し続けるという考え方がある」
「SF小説の話?」
「俺が仮説として考えた話だ」
私は少し考えた。
「それって、ループしてる人間の気持ちがトリガー、ってこと」
「そうだ」
「じゃあ蒼真の場合、何が未練なの?」
窓の外で雨が強くなった。
蒼真は答えなかった。でも、答えないことが答えだった。
「……もしかして、私のこと、じゃないの?」
「……」
「明日になったら終わる、っていうのが怖いんでしょ。私との、この時間が」
長い沈黙だった。
蒼真はずっと窓を見ていた。雨が、ガラスを流れていた。
「……馬鹿げてる」
ようやく言った。
「何がよ!?」
「俺が怖がってるのは、明日お前がただのクラスメイトに戻ることだ。ループが終われば、この会話も、この時間も、お前の記憶には残らない。俺だけが覚えていて、お前は何も知らないまま、普通の朝を迎える」
「……蒼真」
「わかってる。馬鹿げてる。だから言わなかった」
私はミルクティーを持ったまま、彼の横顔を見た。
999の奥にあった黒いもや。ずっと気になっていたあれが、今日は初めてはっきり見えた。数値を縁取るように揺れている黒は、恐怖の色だった。終わりへの、未来への、恐怖。
この人はずっと、ここに閉じこもっていた。
私との時間が終わるのが怖くて、終わらない今日の中に。
「……ねえ」
「なんだ」
「私が覚えてなくても、蒼真が覚えてるなら、それでよくない?」
「よくない」
「なんで?」
「一方的だから」
即答だった。
私は少し黙った。この人が怖がっているのは、記憶が消えることじゃなくて……一人になることだ。また、一人で抱えることだ。
「……じゃあ、覚えてるように私がすればいいじゃん」
「どういう意味だ?」
「ループを終わらせて、明日に行けばいい。明日の私に、あなたが教えればいい。全部」
「……そんな簡単な話じゃ……」
「簡単じゃなくても、それ以外に方法ないじゃないの?」
蒼真はようやく窓から視線を外して、私を見た。
何か言いかけて、止まった。
私も何か言いかけて、止まった。
19時まで、あと少しだった。
◇◆◇◆◇
視界が暗転する直前、蒼真がぼそっと言った。
「……お前は、怖くないのか?」
「何が?」
「ループが終わったら、お前は何も覚えていない。俺のことを、最初から知らない他人として見るだろ?」
私は少し考えた。
「怖いけど」
「だろ」
「でも、怖いのはあなただけじゃないから」
視界が、暗転した。
◇◆◇◆◇
「6月14日(月) 6:48」
八度目の朝。
目が覚めて、すぐに蒼真のことを考えた。
これは、恋じゃないとは……もう言えない気がした。




