第4話:不器用なヒーローと泥水の記憶
四度目の今日。
朝の教室に入ると、時任くんが通路側を向いてノートに何か書いていた。私が席に近づくと、顔を上げないまま、ぼそっと言った。
「昨日の図書室の本、返したか?」
私は少し笑いそうになるのを堪えながら、鞄を椅子に引っ掛けた。
「まだ」
それだけで十分だった。
お互いに自分がループしているかを確認するための簡単な合言葉を決めたのだ。
私は普段図書室で本なんて借りないから、何も知らなければ、きっと「何の話?」って答えるから。昨日の事実を知っているからこそ、あえて、「まだ」って答えられるのだ。
時任くんは小さく頷いて、またノートに目を落とした。周りには何でもない朝の風景に見えるはずだ。実際、隣の席の子は欠伸をしながらスマホを見ている。
二人だけの合言葉。
我ながら、ちょっとだけ特別な気分になった。
◇◆◇◆◇
昼休み、学食で合流した。
昨日……正確には三日前のループから数えて初めて……時任くんと向かい合って座ると、なんとなく状況の異常さを実感する。一週間前の私に「あの地味な時任くんと二人で飯食べるようになるよ」と言っても絶対信じなかった。
「今日から検証を始めるぞ」
うどんをすすりながら、時任くんが言った。
「検証って、ループを抜ける方法?」
「そうだ。まず情報を整理する。俺がループを認識してから今日で三桁を超えている。その間、19時の暗転を回避しようと試みたことが何度かある」
「結果は?」
「全部ループした。19時前に気絶しても、県外に出ても、ループする」
「なるほど~。じゃあ物理的な回避は無理なんだ」
「少なくとも俺一人では無理だった」
一人では、という部分を聞き流さなかったけど、今は黙っておいた。
「お前がループに巻き込まれたことで、今まで起きなかった変化が生まれているかもしれない。それが突破口になる可能性がある」
「私がいることで、何か変わった?」
「今のところ、雨のパターンが微妙に違う。あとは……」
少し間があった。
「お前がいると、時間が経つのが早い」
さらっと言った。本当にさらっと。私は聞き流すふりをしながら、おにぎりを齧った。耳が少し熱かった。
「放課後、図書室で続きを話す」
「うん」
◇◆◇◆◇
3時間目終わりのチャイムが鳴って、移動教室への廊下を歩いていたとき。
前を歩く誰かの鞄から、プリントが滑り落ちた。
人の流れに踏まれそうになって、私は反射的に屈んだ。袖が床についた。拾い上げると、理科のプリントだった。持ち主を探したけど、人ごみに紛れてわからない。
「乾かせば読めるよ」
独り言みたいに言いながら、後で先生に渡そうと鞄に入れた。それだけのことだった。
廊下の端に、時任くんが立っていた。
人の流れから少し外れた壁際で、こちらを見ていた。何かを確認するような目で、でもすぐに視線を外した。
なんだろう、と思ったけど、移動教室の時間が迫っていたので考えるのは後回しにした。
◇◆◇◆◇
放課後、図書室を出たのは17時ちょうどだった。
司書の先生に追い出されて、二人で昇降口へ向かう。外はまだ雨が降っていた。梅雨だから当たり前なんだけど、この雨がずっと続いているせいで、なんとなく世界ごと止まっているみたいな気がしてくる。
「ファミレス、行く? 19時まで時間あるし」
「……まあ」
素直じゃないけど否定もしない。これが時任くんの「行く」だと、もう学習していた。
昇降口を出て、傘を差す。雨は本降りだった。
並んで歩き始めてすぐ、前から車が来た。スピードが出ていた。道路脇の水たまりが、嫌な予感がするくらい大きかった。
あ、と思った瞬間には、視界が遮られていた。
時任くんが、私の前に出ていた。
盛大な水音がした。泥混じりの水が、彼の制服の側面を直撃した。
沈黙。
私は呆然と彼の背中を見ていた。制服の右半分が、はっきりわかるくらい濡れている。
「……え、大丈夫?」
「問題ない」
振り返った顔は、特に何でもない顔だった。眉一つ動いていない。
「なんで庇ったの?」
「お前が濡れると、明日の体調が読めなくなる。検証に支障が出る」
「……え、それだけ?」
「それだけだ」
嘘くさい、と思ったけど、追及しなかった。時任くんはもう歩き出していて、濡れた制服を気にする様子が全くなかった。
私は少し遅れてついていきながら、その背中を見ていた。
見返りを求めない、という言葉がぼんやり浮かんだ。お礼を言う隙も与えない庇い方だった。
◇◆◇◆◇
ファミレスに入って、ドリンクバーのコーヒーを二つ持ってくると、時任くんはすでに窓際の席でノートを開いていた。濡れた制服は、座ってしまえばそんなに目立たなかった。
「着替えとか、ないの?」
「問題ない。ループしたらリセットされる」
「そういう問題じゃないんだけど……」
「合理的だろ?」
合理的、ね。私はコーヒーを置いて向かいに座った。
「ねえ、聞いていいか?」
「なに?」
「3時間目の後、プリントを拾っただろ?」
あー、そんなことあったな。
「……あったね。それが何?」
「俺のだった」
「あ、そうなんだ」
それだけだった。特に何かが繋がった感じもしなかった。今日あった小さな出来事のひとつ、という程度だ。
「乾かせば読めるよって言ってたな」
「言ったっけ。まあ、汚れてなかったし」
「ああ」
時任くんはそれ以上何も言わなかった。コーヒーカップを両手で包むようにして、窓の外の雨を見ていた。
なんだろう、と思った。それだけのことを、わざわざ。
でも彼の顔が、ほんの少しだけ、さっきより穏やかに見えた気がした。
窓の外で、雨が少し強くなった。19時まで、あと少しだった。




