表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/25

第二章-4 五分だけ、世界が変わる

 藤野さんが部屋を用意してくれている間、僕は談話室で一人、海を見ていた。


 窓から見えるのは、尾道の海のほんの一部だった。建物と建物の隙間に切り取られた、細い水面。そこを小さな船が横切るたび、光が揺れた。


 向島から戻ってきた時には、同じ海なのに違って見えた。


 今は、その理由が少し分かる気がした。


 景色が変わったのではない。

 僕の中に、余計なものが増えたのだ。


 相原澪。

 十年前、海で消えたことになった十六歳の少女。

 祖母が見捨てなかったという少女。

 ずぶ濡れで、この宿にいたかもしれない少女。


 そして、祖母の嘘。


 僕は膝の上の鞄に手を置いた。


 中には、青いノート、村上老人から受け取った古い上着、藤野さんから渡された封筒が入っている。尾道に着いた時より、鞄は明らかに重くなっていた。


 けれど、一番重いのは物ではなかった。


 祖母が、嘘をついた。


 その事実だった。


 もちろん、まだ全部が分かったわけではない。むしろ、分からないことばかりだ。澪は本当に海で死んだのか。祖母は澪を逃がしたのか。それとも、失踪を隠したのか。村上老人と藤野さんは、どこまで本当のことを話しているのか。


 それでも、はっきりしたことが一つある。


 僕の知っていた祖母は、祖母の全部ではなかった。


 優しくて、穏やかで、旅行好きで、昔のことをあまり話さなかった人。


 それは嘘ではない。


 でも、その人は同時に、誰かを帳簿から消し、上着を隠し、船の時間を封筒に残した人でもあった。


 優しいことと、嘘をつくことは、両立する。


 その当たり前のことが、僕にはまだうまく飲み込めなかった。


 スマホを取り出すと、母からメッセージが来ていた。


電話できそうなら、夜に少し話せる?


 僕は画面を見つめた。


 話せることはある。


 でも、話せる形になっていない。


 祖母を知っている人に会った。

 十年前に女の子が海で消えたらしい。

 祖母はその子と関わっていた。

 宿の帳簿には、一人と書かれていたけれど、実際には一人ではなかった。


 そんなことを、どう母に伝えればいいのだろう。


 母は言っていた。


 祖母の昔を知るのが、少し怖いと。


 僕はその怖さを、今なら少し分かる。


 知る前には戻れない。

 一度知った祖母を、知らなかった頃の祖母には戻せない。


 僕は少し迷ってから、短く返信した。


夜なら大丈夫。まだ整理できてないけど、少し話す。


 送信して、スマホを伏せた。


 その時、廊下の奥から足音が聞こえた。


 藤野さんが戻ってきた。


「お待たせしました。部屋、使えます」


「ありがとうございます。あの、僕が元々取っていた宿は」


「連絡しておきなさい。キャンセル料がかかるなら、無理にとは言いません」


「いえ。まだ当日キャンセルできると思います」


 そう答えながら、自分でも少し不思議だった。


 僕はもう、この宿に泊まることを決めていた。


 澪が眠れなかった部屋。


 その言葉を聞いた時点で、他の宿へ行く選択肢は消えていた。


 藤野さんは、僕の鞄に目を落とした。


「村上さんから、何か預かりましたね」


「上着を」


「そうですか」


 彼女は、少しだけ目を伏せた。


「あの人も、ようやく手放せたんですね」


「手放す?」


「十年持っているというのは、簡単ではありません。物は軽くても、意味が重い」


 僕は鞄の肩紐を握った。


 さっき自分が考えていたことと同じだった。


「藤野さんも、ずっと持っていたんですか。封筒を」


「ええ」


「どうして、捨てなかったんですか」


 藤野さんは、少しだけ考えた。


「捨てたら、なかったことにできてしまうから」


 静かな答えだった。


「私は、帳簿に嘘を書きました。でも、嘘を書いたことまで消してしまったら、本当に澪さんがいなかったことになる」


「澪さんを隠したのに?」


「隠すことと、消すことは違います」


 藤野さんは言った。


「少なくとも、そう信じたかったんです」


 その言葉は、弁解にも聞こえた。


 けれど、責めることはできなかった。


 村上老人も、藤野さんも、十年間それぞれの形で何かを持っていた。上着。封筒。帳簿の一行。誰にも話せない夜の記憶。


 それが正しかったのかは分からない。


 でも、軽く扱えるものではなかった。


「部屋は二階です」


 藤野さんは廊下へ歩き出した。


 僕は鞄を持って立ち上がった。


 廊下を進むと、古い木の床が小さく鳴った。ぎし、という音が足元から伝わる。壁には昔の尾道の写真が飾られている。港、坂道、渡船、桟橋。どれも今の景色と少しずつ違うが、根っこにあるものは同じに見えた。


 階段を上がる途中で、藤野さんが振り返らずに言った。


「湊さん」


「はい」


「今夜見る部屋で、全部が分かるわけではありません」


「分かっています」


「でも、千代さんがどういう嘘をついたのかは、少し分かると思います」


 どういう嘘。


 いい嘘。悪い嘘。守るための嘘。隠すための嘘。


 僕はまだ、その違いを知らない。


 二階の廊下は、一階より静かだった。


 窓の外には、尾道の町と、海の端が見える。夕方にはまだ早いが、光は少し斜めになっていた。昼間の明るさが、少しずつ夜へ向かう準備を始めている。


 藤野さんは、一番奥の部屋の前で足を止めた。


「ここです」


 古い木の扉。


 小さな部屋番号。


 何の変哲もない宿の一室。


 それでも、僕はすぐに手を伸ばせなかった。


 十年前、澪が眠れなかった部屋。


 祖母が一人ではなかった夜。


 帳簿には存在しない少女が、ここにいたかもしれない。


 藤野さんが鍵を開けた。


 扉が、ゆっくり開く。


 部屋の中には、夕方前の薄い光が差し込んでいた。


 畳の部屋だった。


 低い机。座布団。押し入れ。小さな窓。どこにでもありそうな、古い宿の和室。


 明るい時に見ても、ただの古い部屋です。


 藤野さんの言葉通りだった。


 でも、僕にはもう、ただの部屋には見えなかった。


「夜になったら、また来ます」


 藤野さんは言った。


「その時に、あの夜のことを話します」


「今じゃ駄目ですか」


 思わず聞いていた。


 藤野さんは、少しだけ寂しそうに笑った。


「急ぐと、旅に見えなくなるでしょう」


 その言葉に、僕は何も返せなかった。


 藤野さんが部屋を出ていく。


 廊下の足音が遠ざかる。


 僕は一人、部屋の入口に立っていた。


 畳の匂いがする。古い木の匂いがする。窓の外から、かすかに船の音が聞こえる。


 鞄を畳の上に置いた。


 青いノートと、上着と、封筒。


 祖母が残したものたちが、この部屋に集まっている。


 僕は窓際へ歩き、外を見た。


 建物の隙間から、海が見えた。


 尾道の海。


 明るい海。


 何もかも知っているようで、何も答えない海。


 今日、僕は五分だけ海を渡った。


 その五分で、世界が変わった。


 でも本当に変わったのは、向島へ行った時ではない。


 帰ってきてからだった。


 祖母を疑い始めた時。


 優しい祖母だけを信じられなくなった時。


 それでも、祖母のことをもっと知りたいと思ってしまった時。


 僕は畳に座り、鞄からノートを取り出した。


 向島のページの最後には、短くこう書かれていた。


夜は、嘘を隠すには明るすぎる。


 窓の外では、まだ昼の名残が海を照らしていた。


 夜は、もうすぐ来る。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ