第二章-4 五分だけ、世界が変わる
藤野さんが部屋を用意してくれている間、僕は談話室で一人、海を見ていた。
窓から見えるのは、尾道の海のほんの一部だった。建物と建物の隙間に切り取られた、細い水面。そこを小さな船が横切るたび、光が揺れた。
向島から戻ってきた時には、同じ海なのに違って見えた。
今は、その理由が少し分かる気がした。
景色が変わったのではない。
僕の中に、余計なものが増えたのだ。
相原澪。
十年前、海で消えたことになった十六歳の少女。
祖母が見捨てなかったという少女。
ずぶ濡れで、この宿にいたかもしれない少女。
そして、祖母の嘘。
僕は膝の上の鞄に手を置いた。
中には、青いノート、村上老人から受け取った古い上着、藤野さんから渡された封筒が入っている。尾道に着いた時より、鞄は明らかに重くなっていた。
けれど、一番重いのは物ではなかった。
祖母が、嘘をついた。
その事実だった。
もちろん、まだ全部が分かったわけではない。むしろ、分からないことばかりだ。澪は本当に海で死んだのか。祖母は澪を逃がしたのか。それとも、失踪を隠したのか。村上老人と藤野さんは、どこまで本当のことを話しているのか。
それでも、はっきりしたことが一つある。
僕の知っていた祖母は、祖母の全部ではなかった。
優しくて、穏やかで、旅行好きで、昔のことをあまり話さなかった人。
それは嘘ではない。
でも、その人は同時に、誰かを帳簿から消し、上着を隠し、船の時間を封筒に残した人でもあった。
優しいことと、嘘をつくことは、両立する。
その当たり前のことが、僕にはまだうまく飲み込めなかった。
スマホを取り出すと、母からメッセージが来ていた。
電話できそうなら、夜に少し話せる?
僕は画面を見つめた。
話せることはある。
でも、話せる形になっていない。
祖母を知っている人に会った。
十年前に女の子が海で消えたらしい。
祖母はその子と関わっていた。
宿の帳簿には、一人と書かれていたけれど、実際には一人ではなかった。
そんなことを、どう母に伝えればいいのだろう。
母は言っていた。
祖母の昔を知るのが、少し怖いと。
僕はその怖さを、今なら少し分かる。
知る前には戻れない。
一度知った祖母を、知らなかった頃の祖母には戻せない。
僕は少し迷ってから、短く返信した。
夜なら大丈夫。まだ整理できてないけど、少し話す。
送信して、スマホを伏せた。
その時、廊下の奥から足音が聞こえた。
藤野さんが戻ってきた。
「お待たせしました。部屋、使えます」
「ありがとうございます。あの、僕が元々取っていた宿は」
「連絡しておきなさい。キャンセル料がかかるなら、無理にとは言いません」
「いえ。まだ当日キャンセルできると思います」
そう答えながら、自分でも少し不思議だった。
僕はもう、この宿に泊まることを決めていた。
澪が眠れなかった部屋。
その言葉を聞いた時点で、他の宿へ行く選択肢は消えていた。
藤野さんは、僕の鞄に目を落とした。
「村上さんから、何か預かりましたね」
「上着を」
「そうですか」
彼女は、少しだけ目を伏せた。
「あの人も、ようやく手放せたんですね」
「手放す?」
「十年持っているというのは、簡単ではありません。物は軽くても、意味が重い」
僕は鞄の肩紐を握った。
さっき自分が考えていたことと同じだった。
「藤野さんも、ずっと持っていたんですか。封筒を」
「ええ」
「どうして、捨てなかったんですか」
藤野さんは、少しだけ考えた。
「捨てたら、なかったことにできてしまうから」
静かな答えだった。
「私は、帳簿に嘘を書きました。でも、嘘を書いたことまで消してしまったら、本当に澪さんがいなかったことになる」
「澪さんを隠したのに?」
「隠すことと、消すことは違います」
藤野さんは言った。
「少なくとも、そう信じたかったんです」
その言葉は、弁解にも聞こえた。
けれど、責めることはできなかった。
村上老人も、藤野さんも、十年間それぞれの形で何かを持っていた。上着。封筒。帳簿の一行。誰にも話せない夜の記憶。
それが正しかったのかは分からない。
でも、軽く扱えるものではなかった。
「部屋は二階です」
藤野さんは廊下へ歩き出した。
僕は鞄を持って立ち上がった。
廊下を進むと、古い木の床が小さく鳴った。ぎし、という音が足元から伝わる。壁には昔の尾道の写真が飾られている。港、坂道、渡船、桟橋。どれも今の景色と少しずつ違うが、根っこにあるものは同じに見えた。
階段を上がる途中で、藤野さんが振り返らずに言った。
「湊さん」
「はい」
「今夜見る部屋で、全部が分かるわけではありません」
「分かっています」
「でも、千代さんがどういう嘘をついたのかは、少し分かると思います」
どういう嘘。
いい嘘。悪い嘘。守るための嘘。隠すための嘘。
僕はまだ、その違いを知らない。
二階の廊下は、一階より静かだった。
窓の外には、尾道の町と、海の端が見える。夕方にはまだ早いが、光は少し斜めになっていた。昼間の明るさが、少しずつ夜へ向かう準備を始めている。
藤野さんは、一番奥の部屋の前で足を止めた。
「ここです」
古い木の扉。
小さな部屋番号。
何の変哲もない宿の一室。
それでも、僕はすぐに手を伸ばせなかった。
十年前、澪が眠れなかった部屋。
祖母が一人ではなかった夜。
帳簿には存在しない少女が、ここにいたかもしれない。
藤野さんが鍵を開けた。
扉が、ゆっくり開く。
部屋の中には、夕方前の薄い光が差し込んでいた。
畳の部屋だった。
低い机。座布団。押し入れ。小さな窓。どこにでもありそうな、古い宿の和室。
明るい時に見ても、ただの古い部屋です。
藤野さんの言葉通りだった。
でも、僕にはもう、ただの部屋には見えなかった。
「夜になったら、また来ます」
藤野さんは言った。
「その時に、あの夜のことを話します」
「今じゃ駄目ですか」
思わず聞いていた。
藤野さんは、少しだけ寂しそうに笑った。
「急ぐと、旅に見えなくなるでしょう」
その言葉に、僕は何も返せなかった。
藤野さんが部屋を出ていく。
廊下の足音が遠ざかる。
僕は一人、部屋の入口に立っていた。
畳の匂いがする。古い木の匂いがする。窓の外から、かすかに船の音が聞こえる。
鞄を畳の上に置いた。
青いノートと、上着と、封筒。
祖母が残したものたちが、この部屋に集まっている。
僕は窓際へ歩き、外を見た。
建物の隙間から、海が見えた。
尾道の海。
明るい海。
何もかも知っているようで、何も答えない海。
今日、僕は五分だけ海を渡った。
その五分で、世界が変わった。
でも本当に変わったのは、向島へ行った時ではない。
帰ってきてからだった。
祖母を疑い始めた時。
優しい祖母だけを信じられなくなった時。
それでも、祖母のことをもっと知りたいと思ってしまった時。
僕は畳に座り、鞄からノートを取り出した。
向島のページの最後には、短くこう書かれていた。
夜は、嘘を隠すには明るすぎる。
窓の外では、まだ昼の名残が海を照らしていた。
夜は、もうすぐ来る。




