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第二章-3 五分だけ、世界が変わる

 封筒を受け取る時、指先が少し震えた。


 表に書かれているのは、祖母の字だった。丸くて、少し右に傾いた字。お年玉の封筒にも、年賀状にもあった、僕の知っている字。


 けれど、そこに書かれている言葉は、僕の知っている祖母とは結びつかなかった。


十二時四十分。

海から行くこと。

陸路を選んではいけない。


「開けても、いいですか」


 僕が聞くと、藤野さんは頷いた。


「あなたに渡すために、残っていたものだと思います」


「祖母が、そう言ったんですか」


「直接は。ただ、千代さんはここを出る時、こう言いました。『もし、いつか私の家族が来たら、これを渡してください』と」


 家族。


 その言葉が、胸に引っかかった。


 祖母は、僕が来ることを考えていたのだろうか。

 それとも、母でも、伯父でも、誰でもよかったのだろうか。


 僕は封筒の口を開けた。


 中には、古い半券と、折りたたまれた紙が入っていた。


 半券は色褪せていて、文字の一部が読みにくい。けれど、船に関係するものだということは分かった。港名らしき文字。時刻らしき数字。薄い印字。


 紙の方には、短いメモがあった。


重井東で、降りたことにする。

瀬戸田で、待つ。

灯台は、港から見えない。

十七時の船を見送ること。


 僕は、その一文を何度も読み返した。


 降りる、ではない。


 降りたことにする。


 それだけで、旅行メモではないと分かった。


「これ、何なんですか」


 僕は藤野さんを見た。


「祖母は、何をしていたんですか」


 藤野さんは、すぐには答えなかった。


 窓の外から、遠く船の音が聞こえた。尾道の海は、昼の光を受けて明るい。こんな話をするには、明るすぎるくらいだった。


「湊さんは、相原澪さんのことをどこまで聞きましたか」


「名前だけです。十年前に、海で消えたことになっている、と」


「村上さんらしいですね」


「どういう意味ですか」


「肝心なところだけを残して、人に続きを渡すんです」


 藤野さんは、少しだけ苦笑した。


「澪さんは、当時十六歳でした」


「十六……」


 僕と、ほとんど同じ年だ。


 写真の中の少女が、急に現実の人間になった気がした。


「瀬戸田の子です。ご両親を早くに亡くして、親戚の家に引き取られていました」


「親戚?」


「相原誠一さん。澪さんの伯父です」


 その名前を口にした時だけ、藤野さんの声が少し硬くなった。


「その人が、澪さんを?」


「何かをした、と言い切るのは簡単です。でも、そう言うと少し違ってしまう」


「違う?」


「澪さんの家では、何もかもが少しずつ厳しかったんです。進学先。友達。携帯電話。外出する時間。誰と会うか。どこへ行くか。外から見れば、心配性な保護者に見えなくもありませんでした」


「でも、澪さんにとっては違った」


「ええ」


 藤野さんは湯呑みに目を落とした。


「澪さんは、島から出たがっていました」


 島から出たい。


 その言葉は、明るい談話室の中で、ひどく重く響いた。


「進学ですか」


「それもあります。けれど一番は、自分の行き先を自分で決めたかったんだと思います」


 普通の願いだ。


 でも、その普通が許されなかった。


「祖母は、どうやって澪さんと知り合ったんですか」


「瀬戸田の喫茶店だったと聞いています。観光客と、地元の女の子。最初はそれだけでした」


「どうして祖母に助けを求めたんでしょう」


「旅行者だったからでしょうね」


 藤野さんは静かに言った。


「地元の人には言えないことを、通りすがりの人には言えることがあります。もう会わない相手だから。自分の家や島のことを知らない相手だから。遠くから来て、また遠くへ帰る人だから」


 祖母は、旅行者だった。


 だから、澪は話した。


 でも祖母は、ただ聞いて帰ることを選ばなかった。


「祖母は、澪さんを助けようとしたんですね」


「そうです」


 藤野さんは、はっきり言った。


「でも、助けようとしてついた嘘が、全部正しかったかどうかは分かりません」


 僕は黙った。


 藤野さんは続けた。


「十年前、澪さんは海で消えたことになりました。島では、今でもそう語られています」


「本当は違うんですか」


 聞いた瞬間、踏み込んではいけないところに足を置いた気がした。


 藤野さんは答えなかった。


 ただ、窓の外の海を見た。


「私は、あの夜ここで見た澪さんを忘れていません」


「あの夜?」


「千代さんは、夜になってからこの宿へ戻ってきました。帳簿には、一人、と書きました。けれど、実際にはもう一人いました」


「澪さん」


 藤野さんは否定しなかった。


「その子は、ずぶ濡れでした」


 胸の奥が冷えた。


「海に、入ったんですか」


「そう見えるようにしたのだと思います」


「誰が」


「分かりません。千代さんかもしれない。澪さん自身かもしれない。村上さんかもしれない。誰か一人が決めたのではなく、その場にいた人間たちが、少しずつ決めていったのかもしれません」


 ずぶ濡れの少女。


 帳簿にはいない宿泊者。


 海で消えたことになった十六歳。


 僕は封筒のメモを見た。


重井東で、降りたことにする。

瀬戸田で、待つ。

灯台は、港から見えない。

十七時の船を見送ること。


 これは、逃げ道なのだろうか。


 それとも、何かを隠すための道なのだろうか。


「祖母は、事件を隠したんですか」


 言ってしまってから、胸が痛くなった。


 藤野さんは、すぐには答えなかった。


 でも、否定もしなかった。


「千代さんは、澪さんを守ろうとしました」


「帳簿には、一人と書いたんですよね」


「ええ」


「澪さんがここにいたことを、隠した」


「ええ」


「それは……」


 犯罪ではないのか。


 そう言いかけて、止まった。


 僕には、そこまで言う資格があるのだろうか。

 十年前の夜に何があったのか、僕はまだ知らない。


「守ることと隠すことは、時々とても似ています」


 藤野さんは言った。


「私たちは、その違いを分かっていたつもりでした。でも、十年経っても、まだ分からないことがあります」


「私たち?」


 藤野さんは、そこで口を閉じた。


 その沈黙で、僕は察した。


 祖母だけではない。


 村上老人だけでもない。


 この人も、あの夜の嘘に関わっている。


「藤野さんも、祖母の嘘に関わったんですか」


「私は、宿の帳簿に一人と書きました」


 それは、肯定だった。


 僕は、急に祖母が遠くなった気がした。


 優しかった祖母。

 旅行好きだった祖母。

 その祖母が、誰かを隠し、嘘をついた。


 でも、封筒にはもう一枚、折りたたまれた紙が残っていた。


 僕はそれを開いた。


 簡単な地図だった。


 尾道駅前。

 重井東。

 瀬戸田。

 港。

 喫茶店。

 灯台。


 その中の、瀬戸田の喫茶店の横に短い一文があった。


この店で、あの子は一度だけ笑った。


 僕は、その文字から目を離せなかった。


 事件を隠したかもしれない人。

 少女が一度だけ笑ったことを、十年経っても地図に残した人。


 その二つが、同じ祖母だった。


 僕はまだ、それを受け入れられなかった。


「明日、行きなさい」


 藤野さんが言った。


「瀬戸田へ」


「明日?」


「十二時四十分。千代さんがそう残したなら、その時間に行くのがいいでしょう」


「今からでは駄目なんですか」


「急ぐと、旅に見えなくなる」


 僕は顔を上げた。


 祖母のノートにも、村上老人も言っていた言葉。


「それは、祖母が言ったんですか」


「ええ。澪さんを守るために」


「本当に?」


 思ったより鋭い声が出た。


 藤野さんは怒らなかった。


「疑うのは悪いことではありません」


 静かに言った。


「千代さんのことも、村上さんのことも、私のことも疑ってください。私は嘘をついた人間です。嘘をついた人間の言葉を、そのまま信じてはいけません」


 僕は、封筒を見下ろした。


 十二時四十分。

 海から行くこと。

 陸路を選んではいけない。


 明日の行き先は決まった。


 でも、進めば進むほど、祖母のことを信じていいのか分からなくなる。


「今夜は、ここに泊まりなさい」


 藤野さんが言った。


「え?」


「千代さんのことを聞きに来たなら、この宿に泊まった方がいい」


「どうしてですか」


「十年前、澪さんが眠れなかった部屋が、まだあります」


 澪が眠れなかった部屋。


 その言葉だけで、僕は立ち上がれなくなった。


「その部屋を、見られるんですか」


「ええ。ただし、夜になってからの方がいい」


「夜?」


「明るい時に見ても、ただの古い部屋です。でも夜になると、千代さんがなぜここを選んだのか、少し分かるかもしれません」


 窓の外の海は、まだ明るかった。


 明るくて、穏やかで、観光客の写真に収まるにはちょうどいい海だった。


 でも、その明るさの下で、祖母は嘘をついた。


 澪は、海で消えたことになった。


 僕は封筒と半券と地図を、鞄の中へ戻した。

 青いノートと、古い上着の隣に。


 祖母が残したものが、また一つ増えた。


 同時に、祖母への疑いも増えた。


 それが、少し悲しかった。


 藤野さんは立ち上がった。


「部屋を用意します。少し待っていてください」


「はい」


 談話室に一人残される。


 窓の外で、船の音がした。


 僕は鞄に手を置いたまま、祖母の字を思い出していた。


 明日、十二時四十分。


 海から行くこと。


 陸路を選んではいけない。

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