第二章-2 五分だけ、世界が変わる
村上老人に教えられた宿は、海沿いから少し坂を上がったところにあった。
地図アプリで確認すると、駅からは歩けない距離ではない。むしろ、尾道の町を少し回りながら行くにはちょうどいいくらいだった。けれど、画面上の距離と、実際に歩く坂道の距離は少し違う。
海沿いの平らな道から一本入ると、町の角度が変わった。
さっきまで横に広がっていた海が、建物の隙間に細く切り取られる。道は緩く上り始め、足元の感覚が変わる。車が通る大きな道ではなく、人の生活が染み込んだような細い道。軒先に鉢植えが並び、古い家の窓からテレビの音が少し漏れていた。
観光地、という言葉だけでは足りない町だった。
もちろん、観光客はいる。カメラを持った人、地図を見ながら歩く人、坂道の途中で写真を撮る人。けれど、それと同じ道を、買い物袋を提げた地元の人や、制服姿の高校生や、ゆっくり歩く老人が通る。
旅と生活が、同じ道を使っている。
祖母は、その中を歩いたのだろう。
旅行者の顔をして。
僕は鞄の肩紐を握り直した。
村上老人の言葉が、さっきから頭を離れなかった。
旅行者の顔をしていたけれど、旅行者ではなかった。
それは、どういう状態なのだろう。
例えば、僕は今、観光客に見えるだろうか。鞄を持ち、スマホで地図を見て、坂道をきょろきょろしながら歩いている。誰が見ても、尾道に来た高校生の旅行者だ。
でも、僕は観光をしているわけではない。
祖母の残したノートを辿っている。十年前に海で消えたことになっている少女の名前を聞いた。鞄には、その少女が着ていたかもしれない上着がある。
外から見える顔と、内側にある目的は、簡単にずれる。
祖母も、そうだったのかもしれない。
坂道を上がる途中、僕は一度立ち止まった。
振り返ると、海が見えた。
尾道水道。その向こうに向島。さっきまでいた場所。渡船が小さく動いている。距離にすればすぐそこなのに、もう別の時間の中にあるように見えた。
五分だけ、世界が変わる。
その言葉は、やっぱり正しかった。
ただし、変わったのは向島へ渡った五分だけではない。あの五分の後、戻ってきた尾道まで変わってしまった。
祖母の写真に写っていた町。
祖母が最後まで行きたがっていた町。
母が詳しく知らなかった町。
今の僕には、それが全部同じ尾道なのかどうかも分からない。
地図アプリの示す細い道を上がっていくと、目的地の近くに出た。
宿は、派手な旅館ではなかった。
木造二階建ての古い建物で、玄関の上に小さな看板が出ている。看板の文字は少し掠れていたが、村上老人がレシートの裏に書いてくれた名前と同じだった。玄関の脇には、古い郵便受けと、手入れされた鉢植え。入口のガラスには、内側から白い暖簾がかかっている。
僕が昨夜予約したビジネスホテルとは、まるで違う。
こちらは、人の家に近かった。
そのぶん、足を踏み入れるのに少し勇気が要った。
宿泊予約をしているわけではない。突然訪ねて、十年前に祖母が泊まっていませんでしたか、と聞く。冷静に考えれば、かなり迷惑な客だ。
引き返すなら今だ。
そう思った時、鞄の中の上着が背中に触れた。
ここまで来て引き返すなら、僕は何のために尾道まで来たのか分からない。
僕は玄関の引き戸に手をかけた。
開けると、小さな鈴が鳴った。
ちりん、と澄んだ音がした。
「すみません」
中は、外から見た印象よりも明るかった。
磨かれた木の床。古い下駄箱。壁にかかった尾道の写真。棚には小さな招き猫と、観光パンフレットが数冊。旅館というより、長く続いている民宿のような雰囲気だった。
奥から足音がした。
「はい」
出てきたのは、六十代くらいの女性だった。背筋が伸びていて、髪を後ろでまとめている。着物ではなく、落ち着いた色のカーディガンを羽織っていた。目元に皺があるが、その目は鋭い。
僕を見て、少しだけ不思議そうな顔をした。
「ご宿泊の方?」
「あ、いえ。急にすみません。泊まりではなくて」
「道に迷った?」
「そういうわけでもないんですが」
自分でも、かなり頼りない答えだと思った。
女性は僕の顔を見たまま、黙って次の言葉を待っている。急かすわけでもなく、追い返すわけでもない。その沈黙が、逆に話しにくかった。
僕は鞄からレシートを取り出した。
「向島の村上さんに、ここを教えてもらいました」
その名前を出した瞬間、女性の表情が変わった。
ほんのわずかだった。
知らない人なら気づかないくらいの変化。けれど、僕は今日だけで何度も、人が何かを思い出す瞬間の顔を見ていた。
村上老人が、祖母の名前を聞いた時。
青いノートを見た時。
相原澪の写真の話をした時。
目の前の女性も、同じ顔をした。
「村上さんが」
「はい」
「あなた、どちらの」
「高坂湊です」
そう名乗ると、女性の顔から、さらに一段表情が抜けた。
驚きというより、確認だった。
まるで、いつか来ると聞かされていた人が、本当に来た時の顔。
「高坂……」
「高坂千代の孫です」
玄関の空気が、少し冷えた気がした。
女性はすぐには答えなかった。
僕を見て、僕の鞄を見て、それからもう一度、僕の顔を見た。
「千代さんは」
「亡くなりました。先日」
言葉にすると、やっぱり少し変だった。
今日だけで何度、祖母の死を知らない人に伝えているのだろう。葬儀の時よりも、尾道に来てからの方が、祖母が死んだことを実感している。
女性は静かに目を伏せた。
「そうでしたか」
それだけ言って、少し頭を下げた。
「ご愁傷さまです」
「ありがとうございます」
「……上がってください。玄関で話すことではないでしょう」
まただ。
外で話すことじゃない。
玄関で話すことではない。
祖母の周りには、どうしてこんな言葉ばかりが残っているのだろう。
僕は促されるまま靴を脱いだ。
廊下を進むと、小さな談話室のような部屋へ通された。窓からは、建物の隙間越しに海が見えた。大きく開けた眺めではない。けれど、白く光る水面が確かにそこにある。
女性は、お茶を淹れると言って奥へ下がった。
一人になった途端、体の力が抜けた。
椅子に座り、鞄を膝の上に置く。ノートと上着が入っている。僕は鞄の口を開けかけて、やめた。
まだ出すタイミングではない気がした。
部屋の壁には、古い写真がいくつか飾られていた。尾道の坂道。海。渡船。夕方の港。どれも観光写真として成立している。けれど、今日の僕には、写真を見るだけで裏の意味を探してしまう。
これは、ただ綺麗だから撮られたのか。
それとも、何かを隠すための角度なのか。
そんな見方しかできなくなっている自分に、少し疲れた。
女性がお茶を持って戻ってきた。
「女将の藤野です」
「高坂湊です。突然すみません」
「いいえ。村上さんがここを教えたということは、あなたはもう少し聞いているんでしょう」
女将、藤野さんは僕の向かいに座った。
「十年前、相原澪という女の子が海で消えたことになっている、と聞きました」
僕は慎重に言った。
「祖母が、その子を見捨てなかったとも」
藤野さんは、湯呑みに目を落とした。
湯気が細く上がっている。
「村上さんは、そこまで話しましたか」
「全部ではないと思います」
「でしょうね。あの人は、肝心なところで口が重いから」
その言い方には、古い知り合いへの苦笑が混じっていた。
藤野さんは湯呑みを両手で包むように持った。
「千代さんが亡くなったことは、知りませんでした。でも、いつか誰かが来るような気はしていました」
「祖母が、そう言っていたんですか」
「言ったわけではありません。ただ、千代さんはそういう人でした。自分で全部を終わらせたような顔をして、本当はどこかに続きを残していく」
僕は鞄の中のノートを思い出した。
確かに、祖母は続きを残していた。
それも、かなり厄介な形で。
「祖母は、ここに泊まっていたんですか」
「ええ。何度か」
「一人で?」
聞いた瞬間、藤野さんの手が止まった。
湯呑みの中の茶が、ほんの少し揺れた。
「最初は、そう見えました」
「最初は?」
「千代さんは、一人旅の客として泊まりました。尾道が好きで、写真を撮りに来たと言っていました。帽子をかぶって、古いカメラを持って、よく笑う方でした」
僕の知っている祖母に近い。
でも、その「よく笑う」という言葉が、逆に引っかかった。
藤野さんは続けた。
「けれど、十年前のある夜だけは違いました」
喉が鳴った。
僕はお茶に手を伸ばせなかった。
「祖母は、その夜、ここに来たんですか」
「来ました」
「一人で?」
藤野さんは、今度はすぐに答えなかった。
窓の外を見る。
建物の隙間から見える海は、昼の光を受けて明るい。けれど、その明るさが部屋の中までは届ききらない。
「湊さん」
「はい」
「あなたは、千代さんのことをどれくらい知っていますか」
今日、何度も自分に問うたことを、今度は他人から聞かれた。
「ほとんど、知りません」
僕は正直に答えた。
「優しい祖母でした。でも、昔のことは何も。尾道に何度も来ていたことも、葬儀の日に初めて知りました」
「そうですか」
「だから、知りに来ました」
言ってから、自分でも少し驚いた。
そんなにまっすぐな理由で来たわけではなかった。最初はただ、ノートが気になったから。写真の裏の言葉が不気味だったから。葬儀で泣けなかった自分に、何かを探す口実が欲しかったから。
でも、今は違う。
祖母のことを知りたい。
そう思っている。
たとえ、知った後で、僕の中の祖母が変わってしまうとしても。
藤野さんは、僕の答えを聞いて、小さく頷いた。
「なら、一つだけ先に言っておきます」
「何ですか」
「千代さんは、ここで嘘をつきました」
息が止まりそうになった。
「嘘」
「ええ。でも、その嘘は、自分のためではありませんでした」
藤野さんは湯呑みを置いた。
静かな音がした。
「十年前の夜、千代さんはこの宿に泊まりました。帳簿には、一人、と書いてあります」
「帳簿には?」
「ええ」
藤野さんは僕を見る。
その目は、村上老人のものとは違った。村上老人の目には、長く守ってきたものの重さがあった。藤野さんの目には、それに加えて、まだ迷いが残っているように見えた。
「でも、実際には一人ではありませんでした」
祖母は一人ではなかった。
村上老人が匂わせ、母が知らなかったこと。
その言葉が、ここではっきり形になった。
「相原澪さんと一緒だったんですか」
僕は聞いた。
藤野さんは答えなかった。
答えないまま、立ち上がった。
「見せたいものがあります」
「見せたいもの?」
「千代さんが、ここに残していったものです」
藤野さんは部屋を出て、奥へ向かった。
僕は一人、談話室に残された。
窓の外の海が、光っている。
明るすぎるくらいに。
けれどこの町の明るさは、何もかもを照らすわけではないらしい。
むしろ、明るいからこそ、影がどこにあるのか分からなくなる。
僕は鞄の上に手を置いた。
中には祖母のノートと、古い上着がある。
そして今、この宿にも、祖母が残したものがあるという。
祖母は、どれだけの場所に嘘の欠片を置いていったのだろう。
廊下の奥から、藤野さんの足音が戻ってくる。
僕は顔を上げた。
彼女の手には、古い封筒があった。
表には、祖母の字で短く書かれている。
十二時四十分。
海から行くこと。
陸路を選んではいけない。
その文字を見た瞬間、僕はまだ尾道の一日目にいるのに、明日の海へ引きずり出されたような気がした。




