第二章-1 五分だけ、世界が変わる
帰りの船は、来る時よりも短く感じた。
同じ五分のはずだった。
同じ桟橋から乗り、同じように小銭を払い、同じ海を渡る。向島から尾道へ。たったそれだけの移動だ。さっき来た道を、反対向きに戻るだけ。
それなのに、船に足を踏み入れた瞬間、僕は同じ場所を通っていない気がした。
行きの船では、振り返らないことばかり考えていた。祖母のノートの通りに、駅から三分で桟橋に着いたこと。小銭を用意していたこと。海を渡るという言葉が、現実の足元に変わっていくこと。
帰りの船では、鞄の中の上着が気になって仕方なかった。
古い紺色の上着。
村上老人が、祖母から預かっていたもの。
相原澪という、十年前に海で消えたことになっている少女が着ていたかもしれないもの。
僕の鞄は、来た時より明らかに重くなっていた。
布一枚の重さなんて、たかが知れている。けれど、あの上着は物としての重さ以上のものを持っている。祖母が何かをした証拠。誰かが本当にこの道を通った痕跡。僕の想像ではなく、現実に十年前の誰かの手を渡ってきたもの。
船が桟橋を離れた。
今度は、僕は振り返った。
向島側を見る。
さっきまでいた古い商店は、ここからは見えない。桟橋の向こうに、建物と道と、ゆるい斜面が重なっているだけだ。あの店も、村上老人も、何事もなかったみたいに風景の中へ溶けている。
本当にあの人と話したのだろうか。
そう思うくらい、向島は静かだった。
でも、鞄の中には上着がある。
話は、夢ではない。
水面が船の横を流れていく。細かな波が光を砕き、尾道側の町並みが少しずつ近づいてくる。行きでは尾道が背中にあった。帰りは正面にある。駅前の建物、海沿いの道、桟橋、山の斜面に広がる家々。
同じ景色なのに、意味が変わっていた。
祖母のノートに、そんな言葉があった。
尾道へ戻る時は、同じ海を渡る。
同じ海でも、帰りは違って見える。
その違いを忘れないこと。
祖母は、このことを言っていたのだろうか。
最初は、旅情の話だと思った。
行きと帰りでは気分が違う。旅行でよくある感傷。来る時には知らなかった町を、帰る時には少しだけ知っている。だから同じ景色も違って見える。そういう意味だと思えば、分かりやすい。
でも、今は違う。
同じ海の向こうにある尾道が、もう観光地には見えなかった。
祖母が泊まった宿がある町。
澪という少女をかくまったかもしれない町。
十年前の誰かが、逃げ込んだかもしれない町。
そして、何かを隠すには明るすぎる町。
僕は手すりにもたれ、風を受けた。
海の匂いは、行きよりも濃かった。
いや、濃くなったのではない。僕が気づくようになっただけかもしれない。改札を出た時には、曖昧だった匂いが、今ははっきりと分かる。水、潮、油、船、古い木。町と海が混ざった匂い。
旅行者としてなら、これをいい匂いだと思ったかもしれない。
けれど今の僕には、何かを隠している匂いにも思えた。
船の中には、行きと同じように数人の乗客がいた。自転車を押した学生。買い物帰りらしい女性。帽子をかぶった観光客。誰も、僕の鞄の中身を知らない。誰も、僕がさっき聞いた話を知らない。
いや、本当に知らないのだろうか。
村上老人は言った。
千代さんだけが嘘をついたわけじゃない。
ということは、他にも嘘をついた人がいる。
そしてその嘘は、十年前から今まで、どこかに残っている。
この船に乗っている誰かが、その嘘を知っている可能性だって、ゼロではない。
僕は自分の考えに、少し嫌気がさした。
疑い始めると、景色は一気に狭くなる。
ただの乗客が、何かを知っている人に見える。普通の会話が、隠し事のように聞こえる。海を見ている人が、本当は過去を見ているのではないかと思ってしまう。
ミステリ小説の読みすぎだ。
そう自分に言い聞かせた。
けれど、僕が今いるのは小説ではなく、現実の尾道だった。現実の渡船で、現実の海を渡っている。そして現実の鞄の中に、十年前の上着が入っている。
現実だからといって、都合よく分かりやすいとは限らない。
むしろ現実の方が、ずっと曖昧なのかもしれない。
船が尾道側へ近づく。
桟橋に立つ人たちの顔が見えてきた。さっきとは違う人たちだ。向島へ行く人、尾道へ戻ってきた誰かを待つ人、ただ海を見ている人。
その中に、祖母がいた時もあったのだろう。
若い祖母。
年老いた祖母。
澪を連れた祖母。
一人でノートを持っていた祖母。
僕はその姿を想像しようとした。
けれど、どうしても棺の中の祖母と、写真の中の若い祖母と、僕の記憶の中でみかんを剥いてくれた祖母が、うまく重ならなかった。
同じ人のはずなのに、ばらばらに見える。
もしかしたら、人はみんなそうなのかもしれない。
誰かにとっての母で、誰かにとっての祖母で、誰かにとっての旅行者で、誰かにとっての嘘つきで、誰かにとっての恩人になる。どれか一つが本当なのではなく、全部少しずつ本当なのだ。
僕は、祖母のどれを知りに来たのだろう。
船が桟橋に着いた。
接岸の音がして、乗客が動き出す。
僕も流れに従って降りた。
足が尾道側の桟橋に戻る。
来た時と同じ場所。
けれど、僕はもう尾道駅に着いたばかりの自分ではなかった。
桟橋を出て、駅前の道へ戻る。
午後にはまだ早い。空は高く、海は明るい。観光客の声がする。道路を走る車の音。自転車のブレーキ音。船の低いエンジン音。すべてが、さっきより少しだけ鮮明に聞こえた。
母に何か送るべきだろうか。
スマホを取り出し、メッセージ画面を開く。
さっきの返信はまだしていない。
おばあちゃんのこと、少しでも分かったら教えて。
母の言葉。
少しでも分かったこと。
僕は入力欄に指を置いた。
向島で、おばあちゃんを知っている人に会った。
そこまで打って、止まった。
続きが書けない。
十年前、女の子が海で消えた。
おばあちゃんはその子を見捨てなかったらしい。
その子が着ていたかもしれない上着を預かった。
おばあちゃんは旅行者のふりをしていた。
どれも、メッセージで送るには重すぎた。
母は、祖母の昔を知るのが怖いと言っていた。僕だって怖い。でも、僕はもう聞いてしまった。上着を受け取ってしまった。知らないままには戻れない。
僕は打ちかけた文章を消し、別の文を打った。
向島で、おばあちゃんを知ってる人に会った。あとで電話する。
送信。
すぐ既読がついた。
返信は来なかった。
それでよかった。
今すぐ母に説明しようとしても、僕自身がまだ何も説明できない。
僕は村上老人にもらったレシートの裏を取り出した。
そこには宿の名前が書かれている。
海沿いから少し坂を上がった場所らしい。昨夜僕が予約したビジネスホテルとは違う。祖母が泊まった宿。十年前、祖母が一人ではなかったかもしれない宿。
そこへ行けば、次の話が聞ける。
ただし、村上老人は「今日ぜんぶ聞かん方がええ」と言った。
旅に見えなくなるから。
僕はその言葉をどう受け取ればいいのか分からなかった。
急ぐな、という忠告なのか。
これ以上踏み込むな、という警告なのか。
それとも、祖母の歩いた順番を守れ、という指示なのか。
ノートを開く。
尾道へ戻る時は、同じ海を渡る。
同じ海でも、帰りは違って見える。
その違いを忘れないこと。
その下に、小さく、もう一行あった。
夜になるまで、答えを急がない。
僕はしばらく、その一文を見つめた。
昨日は気づかなかった。
いや、気づかなかったのではない。読んでも意味が分からず、目の上を滑っていたのだ。尾道へ来て、向島へ渡って、村上老人に会って、上着を受け取った今だから、その言葉が引っかかる。
夜になるまで、答えを急がない。
祖母は、誰に向けてこれを書いたのだろう。
自分自身か。
澪か。
それとも、いつかノートを読む誰かか。
僕はノートを閉じた。
今すぐ宿へ行きたい気持ちはあった。けれど、祖母のノートも、村上老人の言葉も、僕を少し立ち止まらせようとしている。
急ぐと、旅に見えなくなる。
答えを急ぐな。
僕は一度、尾道の町を歩くことにした。
観光のためではない。
祖母が見たかもしれない景色を、同じ速度で見るために。
駅前の道から、商店街の方へ歩く。通りには、観光客向けの店もあれば、地元の人が使うような店もあった。古い看板。軒先に並ぶ土産物。坂へ続く細い道。猫の置物。開け放たれた店先から聞こえる店員の声。
祖母の写真の中にも、似たような道があった気がする。
鞄から写真を出すのはやめた。歩きながら写真を確認すると、景色を探すことに意識が寄りすぎる。今はまず、町の速度に自分を合わせたかった。
でも、そう思って歩いていると、逆に祖母の写真が頭の中に浮かんでくる。
海沿いの道。
斜めに撮られた駅前。
誰もいない桟橋。
そして、灯台の下の少女。
相原澪。
水の道、と書く。
名前を思い出した瞬間、町の中の水音が急に近くなった気がした。実際には、海は通りの向こう側だ。けれど尾道では、どこにいても海がすぐそばにあるように感じる。見えなくても、音がする。音がしなくても、匂いがする。
海は、いろんなものを隠すのに都合がええ。
村上老人の声。
死んだことにするにも、生きとることにするにも。
僕は立ち止まった。
その言葉は、おかしい。
死んだことにするなら分かる。海で消えた。遺体が見つからない。そういう話は、ニュースや小説で見たことがある。海は、死を隠すことができる。
でも、生きていることにする、とはどういう意味だろう。
誰かが死んだと思われているのに、本当は生きている。
あるいは、死んでいる人を、生きていることにした。
村上老人は、どちらを言ったのか。
分からない。
分からないことが、増えていく。
僕は近くの自販機で水を買った。さっきお茶をもらったばかりなのに、また喉が渇いていた。ペットボトルのキャップを開け、ひと口飲む。
冷たい水が喉を通る。
その時、通りの向こうで、観光客の女性が笑いながら写真を撮っていた。スマホを少し高く掲げ、海の方へ向けている。明るい声。明るい顔。尾道に来た旅行者の顔。
祖母も、同じ顔をしていたのだろうか。
旅行者の顔。
でも、旅行者ではなかった。
僕はその言葉を、まだうまく飲み込めないでいた。
祖母は何をしていたのか。
誰を守っていたのか。
誰に嘘をついたのか。
そして、その嘘は今も続いているのか。
歩いているうちに、少し坂の入口に近づいていた。尾道の町は、海沿いの平らな道からすぐに坂へつながる。細い道が上へ伸び、家々が斜面に重なっている。階段の先には、どこかの寺か、民家か、観光地か分からないものが見えた。
祖母の写真にも、坂道があった。
母は、祖母が尾道の話をあまりしなかったと言っていた。
これだけ何度も来て、これだけ写真を残して、それでも話さなかった。
話せなかったのか。
話したくなかったのか。
僕は鞄の中の上着を思い出す。
もしかすると、祖母にとって尾道は、好きな場所であると同時に、思い出すのが苦しい場所だったのかもしれない。
そう考えると、少しだけ分かる気がした。
好きなものと、苦しいものは、同じ場所にあることがある。
祖母は、この町を愛していたのかもしれない。
でも、この町でついた嘘も、ずっと抱えていたのかもしれない。
僕は坂を上がるのをやめ、海沿いへ戻った。
まだ、祖母の泊まった宿へ行くには早い。
夜になるまで、答えを急がない。
ノートの言葉に従うことにした、というより、従うことで少し時間を稼ぎたかった。僕自身が、次の話を聞く準備をできていなかった。
海沿いのベンチに座る。
駅前から少し離れただけで、人の流れが変わった。観光客はまだいるが、さっきよりも落ち着いている。向こう岸には向島。さっきまでいた場所。五分で行ける場所。けれど今は、そこに村上老人の店と、上着と、相原澪の名前が重なっている。
僕は鞄を開け、ノートを取り出した。
今度は、向島のページの続きを探す。
ページの端に、薄く折り目がついているところがあった。開くと、短い文章が並んでいた。
向島では、長くいないこと。
受け取ったら、海を戻る。
聞かれても、急がない。
知らないふりは、嘘ではない。
守るために黙ることもある。
僕は最後の一文で手を止めた。
守るために黙ることもある。
祖母の字は、静かだった。
言い訳ではなく、自分に言い聞かせるような字だった。
守るために黙る。
それは、正しいことなのだろうか。
誰かを守るためなら、嘘をついてもいいのか。
村上老人は、千代さんだけが嘘をついたわけじゃないと言った。つまり、祖母だけではなく、村上老人も、もしかすると尾道の宿の女将も、他の誰かも、みんな何かを黙っていた。
十年前から。
それは、守るためだったのか。
それとも、隠すためだったのか。
その違いが、僕にはまだ分からない。
スマホが震えた。
今度は母ではなく、友人からだった。
課題やった?
てか今どこ?
僕は画面を見て、少し笑った。
あまりにも普通のメッセージだった。
今どこ。
尾道。
祖母のノートを持って、十年前に海で消えた少女の話を追っている。
そんな返事をしたら、たぶん冗談だと思われる。
僕は短く返信した。
旅行中。課題はまだ。
すぐに返事が来た。
は? 旅行? どこ?
尾道。
渋いな。誰と?
誰と。
僕は入力欄で指を止めた。
一人。
そう返せばいい。
けれど、本当に一人だろうか。
祖母のノート。
写真の少女。
村上老人の言葉。
鞄の中の上着。
僕は、一人で歩いているのに、一人ではないものを持ちすぎている。
一人。
結局、そう返した。
それは嘘ではない。
でも、全部ではない。
知らないふりは、嘘ではない。
祖母のノートの言葉が、嫌なタイミングで頭に浮かんだ。
僕も、もう何かを隠し始めているのかもしれない。
太陽が少し傾き始めていた。
まだ夕方というほどではないが、午前の明るさとは違う。海の色が少し深くなり、向島の影が濃くなっている。
僕はレシートの裏をもう一度見た。
宿の名前。
村上老人が教えてくれた、祖母が泊まっていた場所。
そこへ行けば、祖母が一人ではなかった夜のことが分かるかもしれない。
あるいは、分かりたくないことまで分かるかもしれない。
僕は立ち上がった。
これ以上、ここで海を見ていても、答えは出ない。
夜になるまで答えを急がない。
なら、夜が来る場所へ行こう。
祖母が泊まった宿へ。
僕は鞄を肩にかけ直した。
上着の重みが、背中に寄る。
海沿いの道を歩き出す前に、もう一度だけ向島を見た。
たった五分の向こう岸。
でも、あちら側で僕は、祖母が旅行者ではなかったことを知った。
五分だけ、世界が変わる。
祖母のノートにあった言葉は、少し違っていたのかもしれない。
世界が変わるのは、船に乗っている五分だけではない。
その五分を渡ってしまった後、戻ってきた世界の方が、もう元には戻らないのだ。




