第一章-3 尾道駅、午前十時十七分
外で話すことじゃない。
老人のその言葉は、店先の古い看板よりも、閉まりかけたシャッターよりも、ずっとはっきりと僕をその場に引き留めた。
僕は一度、海の方を見た。
さっき降りたばかりの桟橋が、道の向こうに見える。尾道の町は、海を挟んだ向こう側にあった。電車で着いて、駅前から歩いて、船に乗って、五分で渡ってきた場所。近い。あまりにも近い。
けれど、今すぐ引き返すには、少しだけ遠かった。
老人は店の奥からガラス戸を開けた。
がらがら、と乾いた音がした。戸の滑りが悪いのか、老人は途中で一度力を入れ直した。細い腕なのに、その動きだけは慣れている。
「怖がらんでええ。取って食いやせん」
「あ、いえ」
怖がっていたわけではない。
たぶん。
ただ、知らない土地で、祖母の名前を知っている知らない老人に、外で話すことじゃないと言われたら、普通は少し身構える。
僕は店の中を覗いた。
薄暗い。
けれど、廃墟のような感じではなかった。古いだけだ。棚には缶詰や乾麺、洗剤、電池、軍手、菓子の袋が少しずつ並んでいる。商品は多くない。商店というより、生活に最低限必要なものを、惰性と意地で置き続けている場所に見えた。
入口近くには、色褪せたアイスのポスターが貼られていた。何年前のものか分からない。レジの横には、小さな招き猫と、古い卓上カレンダー。奥には丸椅子が二つと、低いテーブルがある。
「すみません」
僕は小さく言って、店の中へ入った。
ガラス戸をくぐった瞬間、外の海風が少し遠ざかった。代わりに、店の中の匂いがした。段ボール、古い木、日なたに置かれた菓子袋、かすかな湿気。祖母の家の押し入れを開けた時の匂いに、少し似ていた。
老人は奥の丸椅子を顎で示した。
「座りんさい」
「はい」
僕は鞄を膝の上に置いて座った。
老人はもう一つの椅子に腰を下ろす。膝に手を置き、少し背を丸めた姿勢で僕を見る。近くで見ると、顔には深い皺があった。日に焼けた肌。細い目。口元は厳しいが、不思議と怖くはなかった。
「名前は」
「高坂湊です」
「湊」
老人はその名前を繰り返した。
僕の名前を確認するというより、別の誰かの名前と重ならないか確かめるような言い方だった。
「千代さんの、娘さんの子か」
「はい。母の母です」
「そうか」
老人はそこで、少しだけ遠くを見た。
店の奥では、古い冷蔵庫が低く唸っている。外を車が通る音がして、その後に海鳥の声らしいものが聞こえた。
僕は何から聞けばいいのか分からなかった。
祖母を知っているのか。
なぜ忘れられないのか。
祖母はここで何をしたのか。
ノートに書かれていた「古い店」は、この店なのか。
上着とは何なのか。
名前を呼ばれても返事をしないとは、どういう意味なのか。
聞きたいことは一度に浮かんだのに、言葉にしようとすると全部が絡まった。
先に口を開いたのは、老人だった。
「あんた、千代さんから何を聞いて来た」
「何も」
僕はすぐに答えた。
老人の眉が少し動いた。
「何も?」
「祖母は、亡くなりました。先日」
老人は瞬きをした。
それから、ゆっくりと息を吸い、吐いた。
「……そうか」
その声には、驚きよりも、どこか諦めに近いものがあった。
祖母が高齢だったから、いつかそうなると分かっていた。そういう反応ではない。もっと長い間、何かの知らせを待っていて、ようやく来てしまった、というような響き。
「お悔やみを言わんといけんのじゃろうな」
「いえ」
「言わせてくれ。千代さんには、借りがある」
借り。
僕はその言葉を心の中で繰り返した。
祖母とこの老人の間に、借りがある。
僕の知っている祖母からは、どうしても想像しにくい言葉だった。祖母は誰かに借りを作ったり、作らせたりするような人には見えなかった。盆にみかんを剥いてくれる人。年賀状に丸い字を書く人。電話で「普通が一番ええよ」と笑う人。
けれど、この老人の中の祖母は違う。
僕の知らない祖母が、ここにもいる。
「祖母のことを、知っているんですか」
ようやく、それだけ聞けた。
老人は僕を見た。
「知っとる。……いや、知っとると言うほど、よう知っとったわけじゃない。千代さんは、ここに何度か来ただけじゃ」
「旅行で?」
老人は答えなかった。
その沈黙が、僕には答えに思えた。
「旅行じゃ、なかったんですか」
自分の声が少し低くなった。
老人は指先で膝を一度だけ叩いた。考えているのか、迷っているのか、あるいは苛立っているのか分からない。
「旅行者の顔はしとった」
「顔?」
「帽子をかぶって、鞄を持って、写真を撮って。道を聞いて、船の時間を気にして。どこから見ても、尾道に来た旅行者じゃった」
「じゃあ、旅行じゃないですか」
「旅行者の顔をしとることと、旅行者であることは、同じじゃない」
老人は淡々と言った。
僕は返す言葉を失った。
それは、祖母のノートに書かれていた一文と同じ匂いがした。
急ぐと、旅に見えなくなる。
旅に見える必要があった。
老人はそれを、知っているのだろうか。
僕は鞄の中のノートを意識した。出すべきか迷った。見せれば話は早いかもしれない。でも、祖母のノートを知らない人に見せるのが、なぜか少し怖かった。
この老人は、祖母を知っている。
だからこそ、簡単に見せてはいけない気がした。
「僕は、祖母の遺品を整理していて、尾道の写真を見つけました」
僕は言葉を選びながら言った。
「それで、ノートも出てきて。尾道駅から、駅前の桟橋に行って、向島へ渡るようなことが書いてあって」
老人の目が、ほんのわずかに細くなった。
「ノート」
「はい」
「青い表紙か」
今度は、僕が黙る番だった。
なぜ知っている。
そう聞く前に、顔に出てしまったのだろう。老人は小さく頷いた。
「やっぱり、残しとったか」
「そのノートを、見たことがあるんですか」
「中までは見とらん。見せてもらったことはない。ただ、千代さんはいつも持っとった。青い表紙の、小さいノートを」
僕は鞄の口に手をかけた。
でも、まだ出さなかった。
「祖母は、ここで何をしていたんですか」
「……あんたは、どこまで知っとる」
「何も知りません」
同じ答えだった。
けれど、今度は少し違う響きになった気がした。
何も知らない。
だから教えてほしい。
そう言ったつもりだった。
老人はしばらく僕を見ていた。
その目は、僕が嘘をついていないかを確かめているようだった。僕は視線を逸らさなかった。逸らしたら、祖母のことを聞く資格がなくなるような気がした。
やがて老人は、店の奥を見た。
「わしは村上いう。昔はここで、もう少しまともに店をしとった」
「村上さん」
「今は見ての通りじゃ。半分開けとるだけ。地元の年寄りが、たまに電池やら線香やら買いに来る」
村上老人は、自嘲するでもなく言った。
「千代さんが最初に来たんは、十年……いや、もう少し前かもしれん。はっきりとは覚えとらん」
「十年前」
僕は思わず繰り返した。
写真の裏に書かれていた言葉。
ノートの古さ。
母が知らなかった祖母の旅。
十年、という数字が、妙に重なった。
村上老人は僕の反応を見て、少しだけ眉を上げた。
「その頃のことも、何か書いてあったんか」
「日付は、ありません」
「そうか」
「でも、古い写真があって。若い頃の祖母と、知らない女の子が写っていました。灯台の下で」
言った瞬間、店の空気が変わった。
冷蔵庫の低い音も、外の車の音も、急に遠くなる。
村上老人の表情はほとんど変わらなかった。けれど、膝の上に置かれていた手が、わずかに強く握られた。
「女の子」
「はい。僕と同じくらいの年に見えました」
「写真の裏に、何か書いとったか」
僕は答えるべきか迷った。
でも、ここまで来たら、隠しても意味がない。
「『あの子を、海に返さないこと』と」
村上老人は目を閉じた。
それは、知らない言葉を聞いた反応ではなかった。
知っている言葉が、時間を越えて戻ってきた時の反応だった。
「……千代さんらしい」
しばらくして、老人はそう言った。
「どういう意味ですか」
「そのままの意味じゃろう」
「そのままって」
「あの子を、海に返さんかった」
「海って、何ですか。死なせなかったって意味ですか」
老人は答えなかった。
僕の喉が乾いた。
店の中に、古いペットボトルのお茶が並んでいるのが見えた。ラベルの色が褪せている。買って飲みたいと思ったが、今立ち上がると、この話も一緒に消えてしまいそうだった。
「その女の子は、誰なんですか」
僕は聞いた。
村上老人は目を開けた。
「その名前を、千代さんはノートに書いとらんかったか」
「まだ全部は読んでいません。少なくとも、見たページには」
「なら、わしから言うてええのか分からん」
「どうしてですか」
「名前というのは、呼んだら振り返るものじゃけえ」
僕は息を止めた。
名前を呼ばれても、返事をしない。
ノートの一文が頭に浮かぶ。
村上老人は、やはり何かを知っている。
それも、祖母のノートの言葉と同じ場所にいる。
「祖母のノートにも、似たようなことが書いてありました」
僕は鞄からノートを取り出した。
青い表紙を見た瞬間、村上老人の表情が固まった。
本当に、知っているのだ。
僕はページをめくった。
向島のページ。
古い店の前で、上着を受け取る。
名前を呼ばれても、返事をしない。
そのページを見せると、老人はしばらく黙って文字を見ていた。
ノートに手を伸ばそうとして、途中で止める。
触れてはいけないものみたいに。
「これ、この店のことですか」
僕が聞くと、老人は窓の外へ目を向けた。
海の方ではなく、店の前の道を見るように。
「昔はな、もう少し店らしかった。朝はパンも置いとったし、子供らが菓子を買いに来た。渡船を降りた人間が、ようここで煙草やら飲み物やら買うた」
「祖母も?」
「千代さんは、買い物をするふりがうまかった」
「ふり?」
「観光客は、店の人間に道を聞く。飲み物を買う。小銭を崩す。写真を撮ってええかと聞く。そういうことをしても、不思議に思われん」
老人の言葉は静かだった。
けれど、一つ一つが僕の中の仮定を現実に変えていく。
祖母は、旅行者のふりをしていた。
それは、僕が勝手に作った物語ではなかった。
少なくとも、この老人はそう見ていた。
「祖母は、誰かを連れていたんですか」
僕は聞いた。
老人はすぐには答えなかった。
代わりに、立ち上がった。
「茶でええか」
「あ、いえ、大丈夫です」
「喉、乾いとる顔しとる」
そう言って、老人は店の冷蔵庫からペットボトルのお茶を一本取った。僕に渡す。受け取る時、少しだけひんやりしていた。
「お代は」
「ええ」
「でも」
「千代さんの孫から金は取れん」
その言い方に、また借りの匂いがした。
僕は小さく頭を下げて、キャップを開けた。お茶を飲む。思っていたよりも、ずっと喉が渇いていた。
村上老人は椅子に戻ると、古いタオルで手を拭いた。
「あんた、今日はどこまで行くつもりじゃ」
「まだ決めてません。祖母のノートに従って、行けるところまで」
「泊まりは」
「尾道に宿を取りました」
「そうか」
老人は少し考えるように、目を伏せた。
「なら、今日ぜんぶ聞かん方がええ」
「どうしてですか」
「旅に見えんようになる」
僕は、思わずノートを見た。
急ぐと、旅に見えなくなる。
同じ言葉。
偶然ではない。
「村上さん、それを祖母から聞いたんですか」
「聞いた」
「何のために?」
「わしも、そうせんといけんかったからじゃ」
老人は僕を見た。
「千代さんだけが嘘をついたわけじゃない」
心臓が一度、強く鳴った。
嘘。
祖母のノートに書かれていない言葉が、初めてはっきりと外へ出た。
「嘘って、何ですか」
「十年前のことじゃ」
村上老人は言った。
「このへんで、女の子が一人、海で消えた」
僕はお茶のボトルを握ったまま固まった。
海で消えた。
あの子を、海に返さないこと。
言葉がつながりかけて、でもまだ形にならない。
「その子が、写真の女の子ですか」
声がかすれた。
村上老人は、今度は頷かなかった。
否定もしなかった。
「名前は、相原澪」
初めて聞く名前だった。
けれど、その名前はなぜか、ノートのどこかに最初から隠れていたような気がした。
「澪……」
「水の道、と書く」
「その子は、本当に海で?」
死んだんですか、と聞きそうになって、言葉が止まった。
村上老人は僕を見ていた。
「島では、そういうことになっとる」
「島では?」
「そういうことに、なっとる」
同じ言い方だった。
それは答えではなく、壁だった。
僕はその壁の前で、これ以上進んでいいのか分からなくなった。
店の外では、誰かが自転車で通り過ぎた。ベルの音が一度だけ鳴る。何気ない生活の音なのに、店の中には届ききらなかった。
「祖母は、その相原澪さんと何を」
「今日は、ここまでにしとき」
「でも」
「あんたはまだ、千代さんの歩いた道を歩き始めたばかりじゃ。向島に渡っただけで、全部分かった気になると、見落とす」
短いからこそ、誰かは見落とす。
僕はまたノートの言葉を思い出した。
老人は立ち上がり、店の奥へ向かった。
古い棚を開け、中をごそごそ探る。何か布のようなものを取り出した。戻ってきた時、その手には薄い紺色の上着があった。
古いが、洗濯されている。学生服ではない。作業着でもない。地味で、誰が着ていても目立たないような上着。
老人はそれを、テーブルの上に置いた。
「これは?」
「千代さんが、ここに置いていった」
「祖母が?」
「正確には、返していった」
僕は上着を見た。
ノートの言葉が、今度は目の前の物になった。
古い店の前で、上着を受け取る。
「これを、相原澪さんが?」
老人は何も言わなかった。
でも、沈黙が肯定だった。
僕は上着に触れようとして、やめた。
布一枚にすぎないはずなのに、そこには十年前の誰かの体温が残っているような気がした。
「持っていきんさい」
「え?」
「千代さんの孫が来たら、渡すことになっとった」
「祖母が、そう言ったんですか」
「言うた。いつになるか分からんけど、そのうち来るかもしれん、と」
いつになるか分からない。
そのうち来るかもしれない。
祖母は、僕が来ることを考えていたのだろうか。
それとも、僕ではない誰かでもよかったのか。
分からない。
けれど、祖母はこの上着を、ここに残していた。
旅ノートを、家に残して。
写真を、箱に残して。
そして、十年前の上着を、この古い店に残していた。
まるで、誰かがいつか同じ道を辿ることを待っていたみたいに。
「どうして今まで」
「約束じゃけえ」
「祖母が亡くなったことも知らなかったのに?」
「知らんでも、待つことはできる」
老人は、それ以上説明しなかった。
僕は上着を見つめた。
受け取るべきなのか分からなかった。けれど、ここで受け取らなければ、僕は何かを見なかったことにして帰ることになる。
それだけは、もうできなかった。
「預かります」
僕はそう言った。
老人は小さく頷いた。
「鞄に入れとき。外で広げん方がええ」
「どうしてですか」
「まだ、旅の途中じゃろ」
その言い方は、さっきまでより少しだけ柔らかかった。
僕は上着を畳み、鞄に入れた。ノートの隣に収める。鞄がまた少し重くなる。
村上老人は店の戸口へ歩いた。
話は終わり、ということなのだろう。
僕も立ち上がった。
「村上さん」
「何じゃ」
「相原澪さんは、どうして海で消えたことになってるんですか」
老人は戸に手をかけたまま止まった。
その背中は、さっきより少し小さく見えた。
「海はな」
ゆっくりと、老人が言った。
「いろんなものを隠すのに、都合がええ」
「隠す?」
「死んだことにするにも、生きとることにするにも」
僕は言葉の意味を考えた。
死んだことにする。
生きていることにする。
相反する二つの言葉が、同じ海の中に沈んでいる。
「それって、どういう」
「続きは、尾道で聞きんさい」
「尾道?」
「千代さんが泊まっとった宿がある。まだ残っとるはずじゃ。あそこの女将なら、わしより話せることがある」
「宿の名前は」
老人は古いレシートの裏に、短く名前を書いた。
僕に渡す。
読める。
昨夜、僕が予約した宿とは違う。けれど、尾道側に戻れば行ける距離のようだった。
「そこへ行けば、分かりますか」
「分かることもある。分からんままのこともある」
「村上さんは、全部知っているんじゃないんですか」
「全部知っとる人間なんか、おらん」
老人は戸を開けた。
外の光が店の中へ流れ込む。海風が戻ってくる。
「千代さんも、全部は知らんかった」
それは意外だった。
祖母は、この謎の中心にいるのだと思っていた。旅ノートを書き、写真を残し、上着を返し、この老人と約束をした。祖母なら全てを知っていたのだろうと、どこかで思い始めていた。
でも、村上老人は違うと言う。
祖母も全部は知らなかった。
じゃあ、祖母は何を知って、何を知らないまま、嘘をついたのだろう。
「あの」
僕は店を出る前に振り返った。
今度は、振り返ってしまった。
老人は店の奥に立っている。
「祖母は、悪いことをしたんですか」
聞いてから、後悔した。
でも、一番聞きたかったのはそれだった。
祖母は、事件を隠したのか。
誰かを傷つけたのか。
僕が知らなかっただけで、責められるべきことをした人だったのか。
村上老人は、すぐには答えなかった。
そして、答える代わりに、ゆっくり首を横に振った。
「悪いことかどうかは、わしには分からん」
「分からない?」
「でも、あの人は、あの子を見捨てんかった」
あの子。
相原澪。
写真の中の少女。
海に返さないこと、と書かれた少女。
村上老人は続けた。
「それだけは、間違いない」
僕は何も言えなかった。
店を出ると、外は明るかった。
海はさっきと同じ場所にあった。桟橋も、向こう岸の尾道も、何も変わっていない。観光客が写真を撮り、自転車が通り、船がまた桟橋へ近づいてくる。
生活は続いている。
その普通さが、少し怖かった。
僕は鞄の中の上着を意識した。
古い布の重み。
青いノートの重み。
祖母の名前の重み。
向島に渡る前と後で、世界は確かに変わっていた。
五分だけではない。
たぶん、もう戻れないくらいに。
スマホが震えた。
母からの返信だった。
ノートの通りだったんだね。
無理はしないで。
おばあちゃんのこと、少しでも分かったら教えて。
僕は画面を見つめた。
少しでも分かったら。
分かったことはある。
祖母は旅行者の顔をしていた。
でも、旅行者ではなかった。
十年前、相原澪という少女が海で消えたことになっている。
祖母はその少女を見捨てなかった。
そして、僕の鞄には今、その少女が着ていたかもしれない上着が入っている。
でも、それをどう母に送ればいいのか分からなかった。
僕は返信を打たず、スマホをしまった。
まずは尾道へ戻る。
村上老人が教えてくれた宿へ行く。
祖母が一人ではなかった夜のことを、聞かなければならない。
渡船乗り場へ向かって歩き出すと、さっき乗ってきた船がちょうど着いたところだった。
向こうから来た人たちが降りてくる。
尾道へ戻る人たちが乗り込む。
僕はその流れに混じりながら、ふと、来た時には見なかった尾道側を見た。
海の向こうに、駅前の町がある。
来た時と同じ景色のはずだった。
でも、もう同じには見えなかった。




