表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/25

第一章-3 尾道駅、午前十時十七分

 外で話すことじゃない。


 老人のその言葉は、店先の古い看板よりも、閉まりかけたシャッターよりも、ずっとはっきりと僕をその場に引き留めた。


 僕は一度、海の方を見た。


 さっき降りたばかりの桟橋が、道の向こうに見える。尾道の町は、海を挟んだ向こう側にあった。電車で着いて、駅前から歩いて、船に乗って、五分で渡ってきた場所。近い。あまりにも近い。


 けれど、今すぐ引き返すには、少しだけ遠かった。


 老人は店の奥からガラス戸を開けた。


 がらがら、と乾いた音がした。戸の滑りが悪いのか、老人は途中で一度力を入れ直した。細い腕なのに、その動きだけは慣れている。


「怖がらんでええ。取って食いやせん」


「あ、いえ」


 怖がっていたわけではない。


 たぶん。


 ただ、知らない土地で、祖母の名前を知っている知らない老人に、外で話すことじゃないと言われたら、普通は少し身構える。


 僕は店の中を覗いた。


 薄暗い。


 けれど、廃墟のような感じではなかった。古いだけだ。棚には缶詰や乾麺、洗剤、電池、軍手、菓子の袋が少しずつ並んでいる。商品は多くない。商店というより、生活に最低限必要なものを、惰性と意地で置き続けている場所に見えた。


 入口近くには、色褪せたアイスのポスターが貼られていた。何年前のものか分からない。レジの横には、小さな招き猫と、古い卓上カレンダー。奥には丸椅子が二つと、低いテーブルがある。


「すみません」


 僕は小さく言って、店の中へ入った。


 ガラス戸をくぐった瞬間、外の海風が少し遠ざかった。代わりに、店の中の匂いがした。段ボール、古い木、日なたに置かれた菓子袋、かすかな湿気。祖母の家の押し入れを開けた時の匂いに、少し似ていた。


 老人は奥の丸椅子を顎で示した。


「座りんさい」


「はい」


 僕は鞄を膝の上に置いて座った。


 老人はもう一つの椅子に腰を下ろす。膝に手を置き、少し背を丸めた姿勢で僕を見る。近くで見ると、顔には深い皺があった。日に焼けた肌。細い目。口元は厳しいが、不思議と怖くはなかった。


「名前は」


「高坂湊です」


「湊」


 老人はその名前を繰り返した。


 僕の名前を確認するというより、別の誰かの名前と重ならないか確かめるような言い方だった。


「千代さんの、娘さんの子か」


「はい。母の母です」


「そうか」


 老人はそこで、少しだけ遠くを見た。


 店の奥では、古い冷蔵庫が低く唸っている。外を車が通る音がして、その後に海鳥の声らしいものが聞こえた。


 僕は何から聞けばいいのか分からなかった。


 祖母を知っているのか。

 なぜ忘れられないのか。

 祖母はここで何をしたのか。

 ノートに書かれていた「古い店」は、この店なのか。

 上着とは何なのか。

 名前を呼ばれても返事をしないとは、どういう意味なのか。


 聞きたいことは一度に浮かんだのに、言葉にしようとすると全部が絡まった。


 先に口を開いたのは、老人だった。


「あんた、千代さんから何を聞いて来た」


「何も」


 僕はすぐに答えた。


 老人の眉が少し動いた。


「何も?」


「祖母は、亡くなりました。先日」


 老人は瞬きをした。


 それから、ゆっくりと息を吸い、吐いた。


「……そうか」


 その声には、驚きよりも、どこか諦めに近いものがあった。


 祖母が高齢だったから、いつかそうなると分かっていた。そういう反応ではない。もっと長い間、何かの知らせを待っていて、ようやく来てしまった、というような響き。


「お悔やみを言わんといけんのじゃろうな」


「いえ」


「言わせてくれ。千代さんには、借りがある」


 借り。


 僕はその言葉を心の中で繰り返した。


 祖母とこの老人の間に、借りがある。


 僕の知っている祖母からは、どうしても想像しにくい言葉だった。祖母は誰かに借りを作ったり、作らせたりするような人には見えなかった。盆にみかんを剥いてくれる人。年賀状に丸い字を書く人。電話で「普通が一番ええよ」と笑う人。


 けれど、この老人の中の祖母は違う。


 僕の知らない祖母が、ここにもいる。


「祖母のことを、知っているんですか」


 ようやく、それだけ聞けた。


 老人は僕を見た。


「知っとる。……いや、知っとると言うほど、よう知っとったわけじゃない。千代さんは、ここに何度か来ただけじゃ」


「旅行で?」


 老人は答えなかった。


 その沈黙が、僕には答えに思えた。


「旅行じゃ、なかったんですか」


 自分の声が少し低くなった。


 老人は指先で膝を一度だけ叩いた。考えているのか、迷っているのか、あるいは苛立っているのか分からない。


「旅行者の顔はしとった」


「顔?」


「帽子をかぶって、鞄を持って、写真を撮って。道を聞いて、船の時間を気にして。どこから見ても、尾道に来た旅行者じゃった」


「じゃあ、旅行じゃないですか」


「旅行者の顔をしとることと、旅行者であることは、同じじゃない」


 老人は淡々と言った。


 僕は返す言葉を失った。


 それは、祖母のノートに書かれていた一文と同じ匂いがした。


 急ぐと、旅に見えなくなる。


 旅に見える必要があった。


 老人はそれを、知っているのだろうか。


 僕は鞄の中のノートを意識した。出すべきか迷った。見せれば話は早いかもしれない。でも、祖母のノートを知らない人に見せるのが、なぜか少し怖かった。


 この老人は、祖母を知っている。


 だからこそ、簡単に見せてはいけない気がした。


「僕は、祖母の遺品を整理していて、尾道の写真を見つけました」


 僕は言葉を選びながら言った。


「それで、ノートも出てきて。尾道駅から、駅前の桟橋に行って、向島へ渡るようなことが書いてあって」


 老人の目が、ほんのわずかに細くなった。


「ノート」


「はい」


「青い表紙か」


 今度は、僕が黙る番だった。


 なぜ知っている。


 そう聞く前に、顔に出てしまったのだろう。老人は小さく頷いた。


「やっぱり、残しとったか」


「そのノートを、見たことがあるんですか」


「中までは見とらん。見せてもらったことはない。ただ、千代さんはいつも持っとった。青い表紙の、小さいノートを」


 僕は鞄の口に手をかけた。


 でも、まだ出さなかった。


「祖母は、ここで何をしていたんですか」


「……あんたは、どこまで知っとる」


「何も知りません」


 同じ答えだった。


 けれど、今度は少し違う響きになった気がした。


 何も知らない。


 だから教えてほしい。


 そう言ったつもりだった。


 老人はしばらく僕を見ていた。


 その目は、僕が嘘をついていないかを確かめているようだった。僕は視線を逸らさなかった。逸らしたら、祖母のことを聞く資格がなくなるような気がした。


 やがて老人は、店の奥を見た。


「わしは村上いう。昔はここで、もう少しまともに店をしとった」


「村上さん」


「今は見ての通りじゃ。半分開けとるだけ。地元の年寄りが、たまに電池やら線香やら買いに来る」


 村上老人は、自嘲するでもなく言った。


「千代さんが最初に来たんは、十年……いや、もう少し前かもしれん。はっきりとは覚えとらん」


「十年前」


 僕は思わず繰り返した。


 写真の裏に書かれていた言葉。


 ノートの古さ。


 母が知らなかった祖母の旅。


 十年、という数字が、妙に重なった。


 村上老人は僕の反応を見て、少しだけ眉を上げた。


「その頃のことも、何か書いてあったんか」


「日付は、ありません」


「そうか」


「でも、古い写真があって。若い頃の祖母と、知らない女の子が写っていました。灯台の下で」


 言った瞬間、店の空気が変わった。


 冷蔵庫の低い音も、外の車の音も、急に遠くなる。


 村上老人の表情はほとんど変わらなかった。けれど、膝の上に置かれていた手が、わずかに強く握られた。


「女の子」


「はい。僕と同じくらいの年に見えました」


「写真の裏に、何か書いとったか」


 僕は答えるべきか迷った。


 でも、ここまで来たら、隠しても意味がない。


「『あの子を、海に返さないこと』と」


 村上老人は目を閉じた。


 それは、知らない言葉を聞いた反応ではなかった。


 知っている言葉が、時間を越えて戻ってきた時の反応だった。


「……千代さんらしい」


 しばらくして、老人はそう言った。


「どういう意味ですか」


「そのままの意味じゃろう」


「そのままって」


「あの子を、海に返さんかった」


「海って、何ですか。死なせなかったって意味ですか」


 老人は答えなかった。


 僕の喉が乾いた。


 店の中に、古いペットボトルのお茶が並んでいるのが見えた。ラベルの色が褪せている。買って飲みたいと思ったが、今立ち上がると、この話も一緒に消えてしまいそうだった。


「その女の子は、誰なんですか」


 僕は聞いた。


 村上老人は目を開けた。


「その名前を、千代さんはノートに書いとらんかったか」


「まだ全部は読んでいません。少なくとも、見たページには」


「なら、わしから言うてええのか分からん」


「どうしてですか」


「名前というのは、呼んだら振り返るものじゃけえ」


 僕は息を止めた。


名前を呼ばれても、返事をしない。


 ノートの一文が頭に浮かぶ。


 村上老人は、やはり何かを知っている。


 それも、祖母のノートの言葉と同じ場所にいる。


「祖母のノートにも、似たようなことが書いてありました」


 僕は鞄からノートを取り出した。


 青い表紙を見た瞬間、村上老人の表情が固まった。


 本当に、知っているのだ。


 僕はページをめくった。


 向島のページ。


古い店の前で、上着を受け取る。

名前を呼ばれても、返事をしない。


 そのページを見せると、老人はしばらく黙って文字を見ていた。


 ノートに手を伸ばそうとして、途中で止める。


 触れてはいけないものみたいに。


「これ、この店のことですか」


 僕が聞くと、老人は窓の外へ目を向けた。


 海の方ではなく、店の前の道を見るように。


「昔はな、もう少し店らしかった。朝はパンも置いとったし、子供らが菓子を買いに来た。渡船を降りた人間が、ようここで煙草やら飲み物やら買うた」


「祖母も?」


「千代さんは、買い物をするふりがうまかった」


「ふり?」


「観光客は、店の人間に道を聞く。飲み物を買う。小銭を崩す。写真を撮ってええかと聞く。そういうことをしても、不思議に思われん」


 老人の言葉は静かだった。


 けれど、一つ一つが僕の中の仮定を現実に変えていく。


 祖母は、旅行者のふりをしていた。


 それは、僕が勝手に作った物語ではなかった。


 少なくとも、この老人はそう見ていた。


「祖母は、誰かを連れていたんですか」


 僕は聞いた。


 老人はすぐには答えなかった。


 代わりに、立ち上がった。


「茶でええか」


「あ、いえ、大丈夫です」


「喉、乾いとる顔しとる」


 そう言って、老人は店の冷蔵庫からペットボトルのお茶を一本取った。僕に渡す。受け取る時、少しだけひんやりしていた。


「お代は」


「ええ」


「でも」


「千代さんの孫から金は取れん」


 その言い方に、また借りの匂いがした。


 僕は小さく頭を下げて、キャップを開けた。お茶を飲む。思っていたよりも、ずっと喉が渇いていた。


 村上老人は椅子に戻ると、古いタオルで手を拭いた。


「あんた、今日はどこまで行くつもりじゃ」


「まだ決めてません。祖母のノートに従って、行けるところまで」


「泊まりは」


「尾道に宿を取りました」


「そうか」


 老人は少し考えるように、目を伏せた。


「なら、今日ぜんぶ聞かん方がええ」


「どうしてですか」


「旅に見えんようになる」


 僕は、思わずノートを見た。


 急ぐと、旅に見えなくなる。


 同じ言葉。


 偶然ではない。


「村上さん、それを祖母から聞いたんですか」


「聞いた」


「何のために?」


「わしも、そうせんといけんかったからじゃ」


 老人は僕を見た。


「千代さんだけが嘘をついたわけじゃない」


 心臓が一度、強く鳴った。


 嘘。


 祖母のノートに書かれていない言葉が、初めてはっきりと外へ出た。


「嘘って、何ですか」


「十年前のことじゃ」


 村上老人は言った。


「このへんで、女の子が一人、海で消えた」


 僕はお茶のボトルを握ったまま固まった。


 海で消えた。


 あの子を、海に返さないこと。


 言葉がつながりかけて、でもまだ形にならない。


「その子が、写真の女の子ですか」


 声がかすれた。


 村上老人は、今度は頷かなかった。


 否定もしなかった。


「名前は、相原澪」


 初めて聞く名前だった。


 けれど、その名前はなぜか、ノートのどこかに最初から隠れていたような気がした。


「澪……」


「水の道、と書く」


「その子は、本当に海で?」


 死んだんですか、と聞きそうになって、言葉が止まった。


 村上老人は僕を見ていた。


「島では、そういうことになっとる」


「島では?」


「そういうことに、なっとる」


 同じ言い方だった。


 それは答えではなく、壁だった。


 僕はその壁の前で、これ以上進んでいいのか分からなくなった。


 店の外では、誰かが自転車で通り過ぎた。ベルの音が一度だけ鳴る。何気ない生活の音なのに、店の中には届ききらなかった。


「祖母は、その相原澪さんと何を」


「今日は、ここまでにしとき」


「でも」


「あんたはまだ、千代さんの歩いた道を歩き始めたばかりじゃ。向島に渡っただけで、全部分かった気になると、見落とす」


 短いからこそ、誰かは見落とす。


 僕はまたノートの言葉を思い出した。


 老人は立ち上がり、店の奥へ向かった。


 古い棚を開け、中をごそごそ探る。何か布のようなものを取り出した。戻ってきた時、その手には薄い紺色の上着があった。


 古いが、洗濯されている。学生服ではない。作業着でもない。地味で、誰が着ていても目立たないような上着。


 老人はそれを、テーブルの上に置いた。


「これは?」


「千代さんが、ここに置いていった」


「祖母が?」


「正確には、返していった」


 僕は上着を見た。


 ノートの言葉が、今度は目の前の物になった。


古い店の前で、上着を受け取る。


「これを、相原澪さんが?」


 老人は何も言わなかった。


 でも、沈黙が肯定だった。


 僕は上着に触れようとして、やめた。


 布一枚にすぎないはずなのに、そこには十年前の誰かの体温が残っているような気がした。


「持っていきんさい」


「え?」


「千代さんの孫が来たら、渡すことになっとった」


「祖母が、そう言ったんですか」


「言うた。いつになるか分からんけど、そのうち来るかもしれん、と」


 いつになるか分からない。


 そのうち来るかもしれない。


 祖母は、僕が来ることを考えていたのだろうか。


 それとも、僕ではない誰かでもよかったのか。


 分からない。


 けれど、祖母はこの上着を、ここに残していた。


 旅ノートを、家に残して。


 写真を、箱に残して。


 そして、十年前の上着を、この古い店に残していた。


 まるで、誰かがいつか同じ道を辿ることを待っていたみたいに。


「どうして今まで」


「約束じゃけえ」


「祖母が亡くなったことも知らなかったのに?」


「知らんでも、待つことはできる」


 老人は、それ以上説明しなかった。


 僕は上着を見つめた。


 受け取るべきなのか分からなかった。けれど、ここで受け取らなければ、僕は何かを見なかったことにして帰ることになる。


 それだけは、もうできなかった。


「預かります」


 僕はそう言った。


 老人は小さく頷いた。


「鞄に入れとき。外で広げん方がええ」


「どうしてですか」


「まだ、旅の途中じゃろ」


 その言い方は、さっきまでより少しだけ柔らかかった。


 僕は上着を畳み、鞄に入れた。ノートの隣に収める。鞄がまた少し重くなる。


 村上老人は店の戸口へ歩いた。


 話は終わり、ということなのだろう。


 僕も立ち上がった。


「村上さん」


「何じゃ」


「相原澪さんは、どうして海で消えたことになってるんですか」


 老人は戸に手をかけたまま止まった。


 その背中は、さっきより少し小さく見えた。


「海はな」


 ゆっくりと、老人が言った。


「いろんなものを隠すのに、都合がええ」


「隠す?」


「死んだことにするにも、生きとることにするにも」


 僕は言葉の意味を考えた。


 死んだことにする。

 生きていることにする。


 相反する二つの言葉が、同じ海の中に沈んでいる。


「それって、どういう」


「続きは、尾道で聞きんさい」


「尾道?」


「千代さんが泊まっとった宿がある。まだ残っとるはずじゃ。あそこの女将なら、わしより話せることがある」


「宿の名前は」


 老人は古いレシートの裏に、短く名前を書いた。


 僕に渡す。


 読める。


 昨夜、僕が予約した宿とは違う。けれど、尾道側に戻れば行ける距離のようだった。


「そこへ行けば、分かりますか」


「分かることもある。分からんままのこともある」


「村上さんは、全部知っているんじゃないんですか」


「全部知っとる人間なんか、おらん」


 老人は戸を開けた。


 外の光が店の中へ流れ込む。海風が戻ってくる。


「千代さんも、全部は知らんかった」


 それは意外だった。


 祖母は、この謎の中心にいるのだと思っていた。旅ノートを書き、写真を残し、上着を返し、この老人と約束をした。祖母なら全てを知っていたのだろうと、どこかで思い始めていた。


 でも、村上老人は違うと言う。


 祖母も全部は知らなかった。


 じゃあ、祖母は何を知って、何を知らないまま、嘘をついたのだろう。


「あの」


 僕は店を出る前に振り返った。


 今度は、振り返ってしまった。


 老人は店の奥に立っている。


「祖母は、悪いことをしたんですか」


 聞いてから、後悔した。


 でも、一番聞きたかったのはそれだった。


 祖母は、事件を隠したのか。


 誰かを傷つけたのか。


 僕が知らなかっただけで、責められるべきことをした人だったのか。


 村上老人は、すぐには答えなかった。


 そして、答える代わりに、ゆっくり首を横に振った。


「悪いことかどうかは、わしには分からん」


「分からない?」


「でも、あの人は、あの子を見捨てんかった」


 あの子。


 相原澪。


 写真の中の少女。


 海に返さないこと、と書かれた少女。


 村上老人は続けた。


「それだけは、間違いない」


 僕は何も言えなかった。


 店を出ると、外は明るかった。


 海はさっきと同じ場所にあった。桟橋も、向こう岸の尾道も、何も変わっていない。観光客が写真を撮り、自転車が通り、船がまた桟橋へ近づいてくる。


 生活は続いている。


 その普通さが、少し怖かった。


 僕は鞄の中の上着を意識した。


 古い布の重み。


 青いノートの重み。


 祖母の名前の重み。


 向島に渡る前と後で、世界は確かに変わっていた。


 五分だけではない。


 たぶん、もう戻れないくらいに。


 スマホが震えた。


 母からの返信だった。


ノートの通りだったんだね。

無理はしないで。

おばあちゃんのこと、少しでも分かったら教えて。


 僕は画面を見つめた。


 少しでも分かったら。


 分かったことはある。


 祖母は旅行者の顔をしていた。

 でも、旅行者ではなかった。

 十年前、相原澪という少女が海で消えたことになっている。

 祖母はその少女を見捨てなかった。

 そして、僕の鞄には今、その少女が着ていたかもしれない上着が入っている。


 でも、それをどう母に送ればいいのか分からなかった。


 僕は返信を打たず、スマホをしまった。


 まずは尾道へ戻る。


 村上老人が教えてくれた宿へ行く。


 祖母が一人ではなかった夜のことを、聞かなければならない。


 渡船乗り場へ向かって歩き出すと、さっき乗ってきた船がちょうど着いたところだった。


 向こうから来た人たちが降りてくる。


 尾道へ戻る人たちが乗り込む。


 僕はその流れに混じりながら、ふと、来た時には見なかった尾道側を見た。


 海の向こうに、駅前の町がある。


 来た時と同じ景色のはずだった。


 でも、もう同じには見えなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ